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根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑨こりん(小りん)さん

2012-12-30 | 根木勢介 さんの記事
根木勢介 さんの記事・・・吉田茂:その⑨こりん(小りん)さん
 
 先週のNHKの吉田茂ドラマで「服部卓四郎」なる人物が、出てきました。
吉田茂も、また服部卓四郎も、双方が嫌っている「人物」として、ドラマでは
描かれていましたね。
 
 
吉田茂と服部卓四郎が、対面したときに「拳銃らしいもの」が見えていましたが、
服部が、吉田を暗殺をしようと思っていたのは、間違いないようですね。
 もと軍人の服部たちは、「再軍備」を考えていたようですが、吉田茂は、日本の
再軍備ついて、どのような意見を持っていたのでしょうか。
 
■父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫208pより
 
・再軍備を迫られて
  終戦の翌年に大急ぎで制定された新憲法のもとに、とにもかも復興を第一の
 目的に据えて日本の戦後がスタートしたわけですが、その後の数年間のあいだに
 日本を取り巻く世界の情勢はずいぶんと変化していました。
 もっとも大きな変化といえば、アメリカとソ連のあいだにいわゆる冷戦が
 はじまったことでしょうか。近い所でアジアでは、中国で共産主義革命が
 起こり、昭和二十五年には朝鮮戦争が勃発しています。
 日本が復興に向かってひた走っているあいだに、世界の情勢はずいぶんと
 きな臭いものになっていたわけです。
 アメリカからダレス国務長官外交政策顧問がみえたのは、ちょうどこうした時期
 でした。日本に来てあらためてあたりを見回してみると、自由主義圏を防衛して
 いくうえで日本が重要な位置にあることに気付かざるをえなかったのでしょう。
 つい数年前にどうみてもアメリカ主導で制定された平和憲法があったにも
 かかわらず、ダレスは日本に再軍備を要請しました。
 ダレスにしてみれば、日本に再軍備をさせれば朝鮮半島への守りも強化できます
 し、派兵もできるのですからこんなに都合のいいことはありません。
 ところが困ったのは父の方でした。この時期、再軍備については、父はそれこそ
 断固として「するべきでない」と考えていたのです。
 『回想10年』のなかで、父は、
 「再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり」
 といっていますが、その理由として三つの事柄をあげています。
 第一に、軍備を整えるにはお金がかかりすぎること。
  とりわけアメリカに匹敵するほどの武装を実現することなど、敗戦国日本に
  とっては到底望み得べきことではないと父はいっていますが、軍備をもつなら
  アメリカに匹敵しなくては意味がないと思うところがいかにも父らしいところ
  です。
 第二に、再軍備の背景となるべき国民の心理的基盤がまったく失われていること。
  たしかに長い戦争から敗戦にいたる過程で、国民の誰もが心身ともにへとへと
  にくたびれ切ってしまっていましたから、これは、父の言うとおりでは
  なかったかと 思います。
 第三として父があげたのは、理由のない戦争に駆り立てられた国民にとって、
  敗戦の傷跡がいくつも残っていて、その処理がまだ残っているのだということ
  でした。
 ・・・。
 
◆父吉田茂:麻生和子著・光文社知恵の森文庫183pより
 
・こりん
  料亭で人さまから接待を受けるというのが、父はきらいでした。
 料亭に行きたいときには、父はひとりで行っていました。戦争まえには、
 ひとりで料亭に行って、あとで娘を迎えに来させたりしていたのですから
 ちょっと変わっています。
 ・・・。
 総理大臣になると、父は以前にもまして宴会によばれることが多くなりました。
 けれども父は宴会というものが嫌いです。
 「自由党総裁として顔だけ出していただければけっこうですから」
 などとたのまれると、
 「ばかなやつだ、顔には身体がくっついている」
 と腹をたてます。
 それでも何回に一度はいやいや「顔を出して」いたようですが、そういうとき
 でも十分ぐらい宴席にいてあとは階下におりて女将さんの部屋でくつろぎます。
 ところが父がそうすると、芸者衆もみんなぞろぞろくっついておりてきて
 しまいます。
 「おまえたちは、あっちのお座敷に呼ばれてるんだろう、帰れよ」
 と父がいうと、芸者衆は、
 「いいわよ、お線香代はあちらでいただくから」
 とすましたものです。
 あいかわらず芸者衆にはもてていたわけですが、どんなにもてても、母は
 亡くなっていましたし、私は飯塚に嫁いでいましたから、父のそばにいて日常の
 めんどうを見る人がいません。
 だれかいい人はいないかしらとかんがえたとき、思いついたのが新橋の
 こりんでした。
 この人は、踊りがとても上手で、父の座敷にはむかしから出入りしていました。
 踊りの師匠をしていた母親の置家から出ていましたから、はじめから一本の芸者
 でした。
 戦争まえにはじめてこりんに会ったとき、私は十五、六歳で、こりんはわたし
 より七つ、八つ年上ですからそのとき二十三、四になっていたのでしょうか。
 こりんの踊りは花柳流で、私も同じ花柳流でしたから、その点でもわりに親しく
 していたのです。
 こりんが父を好きだったのは知っていましたし、父のほうも頭の回転が速くて
 よく気がつくこりんを気に入っていました。
 あれこれ考えると、結局こりんがいちばん身近に思えます。
 けれども、あくまで私がよんだことにしておかなくてはあとあとの押さえが
 ききません。
 「こりんに来てもらうのはどうかしら」
 と父にいうと、
 「やっぱりおまえは頭がいいね」
 などとまんざらでもなさそうな顔をしていました。
 このとき来てもらってから、父が亡くなる日まで、こりんはずっと大磯で
 父のそばにいてくれました。
 父が亡くなってからは、不自由のないようにと主人が用意した大磯の
 小さな家に暮らしています。
 父の亡きあと、新聞記者をはじめいろいろな人たちが吉田茂について
 話すよう押しかけたそうですが、こりんは玄関払いを通しました。
 新橋の芸者気質というのでしょうか。昔気質というのでしょうか。
 偉い人だと思います。
 
◎次回は、「白洲次郎、正子」についてでも。
 
根木勢介  携帯:090-2825-2069
 
 
 

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