インターネットの世界では富田元宮内庁長官のメモの分析が行われています。
私も新聞に掲載されていた文の前後と、前後のページに何が書かれていたか興味がありました。
それで、今までに分かっている事から、私なりの考えを書いてみます。
メモの日付の翌日、昭和63年4月29日各新聞が昭和天皇の記者会見を掲載しています。
その中から毎日新聞の記事を掲載します。(天皇陛下の記者会見はどれも内容は同じと思っていたが、各紙少しずつ違いがありました。その中で毎日が一番詳しく書いていた。)一部省略
毎日新聞にはこの記者会見の裏事情も書いていました。
次に、富田元宮内庁長官の問題の文の前のページの解析したものを見てみます。
記者会見は4月25日に行われているが、富田メモは4月28日の日付になっている。
なぜ3日後の日付なのだろうか。普通なら当日に書くだろう。
もし4月25日付のメモが有れば何が書かれているか知りたい。25日付で書かれていたら28日になって書かれたこのメモは不自然です。
25日の一番大きな出来事は、天皇誕生日に発表する記者会見だからです。
記者会見記事を読んで気づくのは、徳川侍従長に対して他の質問にお答えになる前にも、侍従長について述べられるぐらいかなりの思いがあられたようです。
大戦についてのお考えのお答えは、富田メモに書かれた[2]と合いますし、この時期奥野発言で国会はもめていました。藤尾前文相の発言も出ています。
(1)の高松薨去ですが、これは昭和天皇も昭和62年4月21日の記者会見で使われています。
(3)4.29に吐瀉したが… 前年の昭和62年4月29日に宮中で吐瀉されています。
前のページに書かれていることは、記者会見の内容とほとんど合います。
問題のページの=奥野までと、最後の関連質問も記者会見の内容と合います。
問題の文は、誰の考えなのかは分かりません。
メモには通し番号が書いてます。しかし、①②④になっています。
③が抜けています。③に何が書かれてあるのか、②の続きが書いてあると思います。問題文の前のページは下までいっぱいに書かれてあります。
メモの貼り方も右開きに貼ってます。手帳は普通左開きです。左開きの手帳に右開きで貼れば開きにくくなります。
問題の文自体も不自然さが感じられます。
もし本当に所謂A級戦犯合祀で行幸されないのなら、宮司を出す事はないでしょう。この文は宮司まで批判していることになります。
1)メモの出所が日経の記事に書かれていない。重要な資料が見つかると普通は○○さん所有とか書いてあるのですが、報道発表の記事には日経新聞が入手したとしか書かれていません。これは富田氏の遺族から入手した事が書かなくても分かると判断したからなんでしょうか。(それとも出所を書かないこともあるのかな)AERAによると富田元長官の奥様からと書いてあった。
2)一番不思議に思えるのは文です。
自分の意に沿わない人間が祭神として祀られているからとしても、それ以外の300万以上もの英霊に対しても同じように御拝礼されないということが考えられるでしょうか。誰々が気に入らないから行かないと言われるでしょうか。
まして、靖国神社への行幸は戦後宮内庁が判断するはずです。
私は、今のところ徳川侍従長の発言を富田長官がメモに書かれたのではないかと思います。
じゃあ、徳川侍従長は自分の思いを言ったのか、他の人の言葉を言ったのか、それが不明です。
このメモは戦前の田中上奏文のようです。
今回、富田メモで一番批判されることは、たとえメモに書かれたことが昭和天皇の御発言だったとしても、記者会見でお述べになられた「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」とのお言葉を無にしたことです。
私も新聞に掲載されていた文の前後と、前後のページに何が書かれていたか興味がありました。
それで、今までに分かっている事から、私なりの考えを書いてみます。
メモの日付の翌日、昭和63年4月29日各新聞が昭和天皇の記者会見を掲載しています。
その中から毎日新聞の記事を掲載します。(天皇陛下の記者会見はどれも内容は同じと思っていたが、各紙少しずつ違いがありました。その中で毎日が一番詳しく書いていた。)一部省略
会見は二十五日午後、皇居、の休所「林鳥亭」で行われた。一問一答は次の通り。
―五十年以上、陛下にお仕えした徳川(義寛前侍従長)さんが退任しました。徳川さんをめぐる思い出を。
「徳川侍従長に対しては思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に録音盤をよく守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に、岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、ろっ骨を折ったことがあります。よく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。ヨーロッパやアメリカの親善紡問の準備のために語学力を利要して、それに準備をよくしてくれたので、親善訪間はだいたい成功したように思われます」
―陛下が即位(昭和三年十一月に即位式)されてから六十年日に当たります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。改めて大戦についてお考えを。
「なお、(前の質問に)付け加えておきたいことは、侍従長の年齢のために、このたび辞めることになりまして、私は非常に残念に思っています(このあたりで目をしばたたかせ、左目に光るものが見えた)。今の質問に対しては、なんと言っても大戦のことが一番いやな思い出であります。戦後、国民があい協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。今後も国民がそのことを忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」
―陛下は今、戦後四十数年を経て振り返られ、日本が戦争への道を突き進んでしまった最大の原因は何だったとお考えでしょうか。
「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」
―沖縄訪問について、お気持ちを。
「私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、その時に暫ったことですが、『健康が回復したならば、なるべく早い時に旅行したい』と考えを述べましたが、今日もその精神に関しましては何も変わっていません」
毎日新聞にはこの記者会見の裏事情も書いていました。
天皇陛下の記者会見を前に、宮内庁と宮内記者会の間で"綱引き"があった。
日本人記者が初めて陛下と会い、言葉を交わしたのは敗戦後間もない二十年末。その後、宮内記者会と陛下の会見は数回あり、三十六年からほぼ年一回が定例化、六十年からは誕生日前に約三十分間行われてきた。
今回は宮内庁側から、会見は十分間程度で、質問も五項目ぐらいに、と要望があり、関連質間も遠慮して欲しいと非公式に意向が紀者会に伝えられた。記者会では質問事項を取りまとめ、総意で六問を選んだ。手術、沖縄ほか、天皇陛下が米軍の沖縄占領継続を望んだのではないか、と国会でも取り上げられたいわゆる「天皇メッセージ」問題、戦争責任や広島への原爆投下についてもお考えをお尋ねしようという内容。二・二六事件についてなど五項目は、文書で回答を頂きたい、と申し入れた。
しかし、宮内庁は「これでは会見は実現できない」と、変更を求めた。記音会は論議を重ね、緒局、会見を実現するため質問を作り直すことを決めた。会員の一部には「会見実現のために譲歩した方がよい」との意見もあったが、表現を変え戦争についても質問することになった。
最終的に同庁もこれを受け入れ、会見が実現したが、手術の際のお気持ち、星后さまのご体調、戦争の最大の原因についての質問は文書提出していない関連質間だった。
会見で陛下は「先の大戦」について「いやな思い出」と述べられた。内部の事前打ち合わせでは「つらい思い出」とお答えになる予定だったという。会見は十七分間だった。
次に、富田元宮内庁長官の問題の文の前のページの解析したものを見てみます。
63.4.28 ●
☆Pressの会見
① 昨年は
(1) 高松薨去間もないときで心も重かった
(2)メモで返答したのでつくしていたと思う
(3) 4:29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった
それで長官に今年はの記者印象があったのであろう
=(2)については記者も申しておりました
② 戦争の感想を問われ嫌な気持を表現したがそれは後で云いたい
そして戦後国民が努力して平和の確立につとめてくれたことを云いたかった
"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて
<<次ページ>>
4.28 ④
前にあったね どうしたのだろう中曽根の靖国参拝もあったか
藤尾(文相)の発言.
=奧野は藤尾と違うと思うが
バランス感覚のことと思う単純な復古ではないとも.
私は 或る時に.A級が合祀され その上松岡.白取 までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考
えたのか 易々と松平は平和に強い考が
あったと思うのに 親の心子知らずと思っているだから 私あれ以来参拝
していない.それが私の心だ
・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意
※余り閣僚も知らずそうですかが多い
記者会見は4月25日に行われているが、富田メモは4月28日の日付になっている。
なぜ3日後の日付なのだろうか。普通なら当日に書くだろう。
もし4月25日付のメモが有れば何が書かれているか知りたい。25日付で書かれていたら28日になって書かれたこのメモは不自然です。
25日の一番大きな出来事は、天皇誕生日に発表する記者会見だからです。
記者会見記事を読んで気づくのは、徳川侍従長に対して他の質問にお答えになる前にも、侍従長について述べられるぐらいかなりの思いがあられたようです。
大戦についてのお考えのお答えは、富田メモに書かれた[2]と合いますし、この時期奥野発言で国会はもめていました。藤尾前文相の発言も出ています。
(1)の高松薨去ですが、これは昭和天皇も昭和62年4月21日の記者会見で使われています。
(3)4.29に吐瀉したが… 前年の昭和62年4月29日に宮中で吐瀉されています。
前のページに書かれていることは、記者会見の内容とほとんど合います。
問題のページの=奥野までと、最後の関連質問も記者会見の内容と合います。
問題の文は、誰の考えなのかは分かりません。
メモには通し番号が書いてます。しかし、①②④になっています。
③が抜けています。③に何が書かれてあるのか、②の続きが書いてあると思います。問題文の前のページは下までいっぱいに書かれてあります。
メモの貼り方も右開きに貼ってます。手帳は普通左開きです。左開きの手帳に右開きで貼れば開きにくくなります。
問題の文自体も不自然さが感じられます。
もし本当に所謂A級戦犯合祀で行幸されないのなら、宮司を出す事はないでしょう。この文は宮司まで批判していることになります。
1)メモの出所が日経の記事に書かれていない。重要な資料が見つかると普通は○○さん所有とか書いてあるのですが、報道発表の記事には日経新聞が入手したとしか書かれていません。これは富田氏の遺族から入手した事が書かなくても分かると判断したからなんでしょうか。(それとも出所を書かないこともあるのかな)AERAによると富田元長官の奥様からと書いてあった。
2)一番不思議に思えるのは文です。
自分の意に沿わない人間が祭神として祀られているからとしても、それ以外の300万以上もの英霊に対しても同じように御拝礼されないということが考えられるでしょうか。誰々が気に入らないから行かないと言われるでしょうか。
まして、靖国神社への行幸は戦後宮内庁が判断するはずです。
私は、今のところ徳川侍従長の発言を富田長官がメモに書かれたのではないかと思います。
じゃあ、徳川侍従長は自分の思いを言ったのか、他の人の言葉を言ったのか、それが不明です。
このメモは戦前の田中上奏文のようです。
今回、富田メモで一番批判されることは、たとえメモに書かれたことが昭和天皇の御発言だったとしても、記者会見でお述べになられた「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」とのお言葉を無にしたことです。
今回の騒ぎは、まさに
>ここで述べることは避けたいと思うています」
>とのお言葉を無にした
の通りですね。不敬・不忠の極みです。
こんな心無いことをして、支持を得られると思うのでしょうか。
私もBlogで富田メモについて検討しています。
お尋ねしたいことがあります。
>(1)の高松薨去ですが、これは昭和天皇も昭和62年4月21日の記者会見で使われています。
(3)4.29に吐瀉したが… 前年の昭和62年4月29日に宮中で吐瀉されています。<
と書かれていますが、上記2点の事実を伝える資料をお教え下さい。
よろしくお願いします。
マスコミは何も考えませんから。
困ったものです。
今後ともよろしくお願いいたします。
皇族方の間で使うかどうかは分かりませんが、一般の人に話されるときは使われるのだと思います。
辞書には皇族または三位(さんみ)以上の貴人の死去すること。薨逝(こうせい)。となっています。
昭和天皇に限ったとしても、その御意志が政治的指針となったのは、226事件のときの「陸軍が出来ぬというなら、朕自身が近衛師団を率いて反乱軍を鎮圧する」といわれたときと、昭和二十年のポツダム宣言受諾の御聖断のときだけです。
何れも日本という国家自体の危機的状況下でのやむを得ない事情の下でのことでした。
果たして、靖国参拝の是非という問題が日本国家の危機的状況にある問題でしょうか。
天皇は政治に干渉しない。これが日本という国を円滑に運営する政治システムであったのに、このタブーを嬉々として破ろうとするマスコミと媚中派の神経を疑います。
天皇陛下が政治に干渉されない事によって、天皇家を守ってきたとも言えるでしょう。
しかし、反日マスコミや媚中派議員がこれほど天皇陛下絶対だったとは。