可愛いということ
楽しいということ
たとえば、キタキツネは可愛い。蝦夷オオカミは家畜を襲うこともある。
だからオオカミは殺す。鹿とキツネは保護する。
たとえば、バス釣りは楽しい。
だから釣った時の感触がいい魚は身近な川に流すし
増えたら楽しい。次の人のために、またリリースする。
どちらもそれだけを聞けば、至極当たり前のことだ。
オオカミがいることで、キツネや鹿の異常繁殖が押さえられていた。
それが自然界のバランスだ。
オオカミがいなくなったので鹿の食害を止めることができない。
自然も破壊されていく。
釣りは楽しいのだし、リリースでその喜びを次の人に享受することは立派なこと。
でも食べられない外来魚のために、本来いたはずのフナも鯉もモロコもみんないなくなっちゃう。
もし自分が釣りが趣味じゃないとしたら、どういう判断をするんだろう。
よくテレビに出て、自然愛護派として話をする方と以前釣りについて話をしたことがある。
自然界のバランスなんて関係なく、楽しみとして釣りがあるんだから、リリースして楽しむのは当たり前だと言う。ぼくはそれ以来、その人が遠い人になった。
動物の側からの都合だけはなく、ぼくらの子孫たちの生活の場として考えても、本来そこにいてくれて、共存しながら食していたものが駆逐されていくことはとても悲しい。
都会に住んで、週末に田舎に行ってバスを釣ったりすることが自然と触れ合うと思っている人には、そこで捕れる小魚などを食べている人のことは理解できないのでしょう。
そうやって変化していくことも自然の摂理であると力説するのは簡単だけど、もうそんなことを言っていられる時代ではなくなってきてるってことに気付いてほしい。
人が生きていること自体が環境破壊だという極論もあるけど、そんな水掛け論もしたくない。だってぼくもこれを読んでいるみんなも地球に生きているのだから。
R-D1+CANON28mmF2.8