あなろぐちっく

mintonのスナップと気まぐれつぶやきブログ。コメントは古い日記でもお気軽に。写真の無断利用は厳禁。

日野コンテッサ

2006年03月13日 11時18分16秒 | D100
先週末の研修旅行の帰り道に石川県の自動車博物館に寄った。
懐かしい車の数々を飽きることなく拝見させていただいた。

父が昔乗っていた車たちのいくつかを見ることができた。
ダイハツの三輪車、マツダの三輪車、日野ルノー、日野コンテッサ・・・・

日野コンテッサは空冷のリアエンジンリアドライブの車。リアエンジンであるために、走行中のエンジン音は案外少ない。これは初代のフォルクスワーゲンビートルも同様だった。

40年前のぼくの生家は車や蓄音機、テレビなど、まだ近所では珍しいものが揃っていたところを見ると、それなりに裕福だったのかもしれないが、父は家族旅行などをすることはほとんどなかった。母はそれ以上にどこにも出かけることがない人だった。

コンテッサに乗せてもらって、数十キロの距離にある諏訪湖に出かけたことがあったが、そのときはこのコンテッサが故障して大変な目に遭った。父は普段は日野ブリスカやルノーに乗っていたのでぼくがコンテッサに乗せてもらうことはほとんどなく、この故障の時と、工場のすぐ近くの家のお嬢さんを乗せた時と、コンテッサからコンテッサに乗り換えた時などほんの数回だけだと思う。
そのお嬢さんは母よりずっと若く綺麗な人だったように記憶している。母以外の女性というものがよくわからない少年だったが、母には言うまいと子供心に思った。父は普段絶対買ってくれない缶ジュースを買ってくれた。その当時長野県限定で発売されていたドクターペッパーというコーラのような飲み物で、缶の1/3も飲んだら胃の中がぱんぱんになった。助手席に座るお嬢さんの膝の上に座り無理してドクターペッパーを飲みながら、ぼくは爆竹を仕込んだ蛙を思い浮かべていた。
「かわいいね」と言われてなにも言えなかったことと、ぼくの体を抱えて「細いね」って耳元で言われたことが記憶に残っている。
もう一度の乗り換えの時は新車のコンテッサを運転し始めて10分ほど経った時に、父が止まっているダンプカーに突っ込んだ。このときの記憶は曖昧だが、家の近くの上松医院で頭に刺さったガラスを抜いてもらったと記憶している。今はダンプカーのバンパーに追突車が潜り込まないようにバーが入っているが、それがない時代だった。
父が怪我をしたという記憶もないし、謝られた記憶もない。自分が車嫌いになることもなかったし、父を嫌うこともなかった。

事故以降しばらく、ぼくは車に乗ることはなく、出歩くよりも一人でいることが増えたように思う。
一人で窓の外を眺めて、そこから見える風景を絵にすることが多くなったと記憶している。

コメント (6)
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