浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-01-31 00:13:03 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

           自分を赦すことの難しさ


先程の私の幼少時の反省の話しに戻りますが、
わるいのは親に嘘をついて怪我をしたことばかりでなく、
その嘘のために友達の家で勉強してくると名前を利用された友達のほうも、
もしこの事実を知れば迷惑したであろうと思います。
自己を追及した時、本当に数々の罪、過ちを犯してきたことが
浮かび上がってきます。

嘘、盗み、人の悪口、非難、中傷、恨み、憎しみ、数えてみれば
きりがありません。
幼い頃につくった数々の過ちが私の人生を大きく
支配していたことが
よくわかってきました。
幼い頃から常に「自分に厳しく、他に寛大に生きなさい」と、
父母から教えられてきました。
また、学校の先生からも教えられました。
これが正しいことであると信じてきました。

その後、道を説く書物の中にも、道を説く方々の教えの中にも、
よく出て来る言葉です。
ですから、このことは自分の人生の一つの目的でもあり、
指針でもありました。
常に己に厳しく生きてきたつもりです。
それだけに、私の人生も厳しいものでした。
また、人にできるだけ寛大に生きる努力をしてきました。
それがある意味では、人に甘え心を与えていたかもしれません。
とにかく、己に厳しく生き、
己れを甘やかせてはならないという思いが、
私の信条でもありました。

この思いにより、どうしても自分を赦すことができませんでした。
自分を赦すことは、自分に寛大にならなければできません。
しかし、そうすることで、
かえって自分を甘やかすことになると思っていました。
これでは教えにそむくことになってしまいます。
このような思想を持っていましたから、
どうしても自分を赦せなかったのです。

赦せない結果、自分に対して責め裁くこと以外、できません。
どう考えても、どう思っても赦せないのです。
何回、何十回と反省しても、堂々巡りの繰返しです。
これから先へ進むことができませんでした。


明来闇去

2021-01-30 00:29:29 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

        父母の恩を知り孝養を尽くすべき


先の続き・・・

親の自愛は、自分を捨ててでも子を守ろうとし、
自分は食べなくても子に食べさせようとし、
自己を犠牲にして子を育てようとしてくださいます。
これこそが「神の御心」です。
「あなたの父と母は私があなたに与えたあなたの父と母である。
ゆえに、あなたの父と母を敬い、尊び、その言葉にしたがう者は、
私を敬い、尊び、私の言葉にしたがうものである」と、
神様はおっしゃっているそうです。

親に逆らうことは神に逆らうことになりますから、
それでは当然ながらうまく行きません。
常に両親は神様であると思わせていただくのがいいのです。

私が反省させていただき、幼い頃のことを思い出しますと、
やはり三歳以前の私にとっては、お父さんは男の神様、
お母さんは女の神様でした。
これはみなさんもそうです。

反省して三歳頃までさかのぼりますと、
幼い心でそのことを知っているのがよくわかります。
だんだん成長していくにつれ、自我が働き、
親の言うことを聞かくなります。
ところが、親に背いて幸せになった人には、
あまりお目にかかれません。

ある時期は幸せのように見えても、
心や環境に苦しみを味わっておられるのは、
神様に背いてきたからです。

たとえ親が「烏は白い」というふうに、
黒いものを指して白いと言われたとしても、
「ああ、白いですねえ」と、子は受けるべきなのです。
無茶苦茶を言っている親を子が受け容れた時、
親は必ず反省してくださいます。
親に背くから親子の喧嘩が起きるのです。

両親は神様だと思わさせていただいたら、間違いないと思います。
「ああ、そうですか」と、受け容れた時、親は改めてくれますから、
親の値打ちを上げるのも下げるのも子供の言葉、想念、
行為、生き方の中にあります。
親に喜んでいただくように生きた時、
「親バカ」という昔からある言葉のように
もう自分のことのように親は喜んでくれます。


明来闇去

2021-01-29 00:14:45 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

     第五章 心の曇りをとるための反省

     父母の恩を知り孝養を尽くすべき


先の続き・・・

次に揚げる「父母恩重経」には、
親の無条件の愛がどういうものかが説かれております。

吾が腹から心せよ。
山より高き父の恩。海より深き母の恩。
知るこそ道の始めなり。
子を守る母のまめやかに、吾がふところを寝床とし、
かよわき腕を枕とし、骨身をけずる哀れさよ。

美しかりし若妻も、幼な子一人育つれば、
花の芳せいつしかに、衰えゆくこそ悲しけれ。
身を切る如き冬の夜も、骨さす霜の暁も、
乾ける処に子を廻し、濡れたる処に己れ臥す。
幼き者の頑ぜなく、懐汚し背を濡らす。

不浄を厭う色もなく、洗うも日に日に幾度かや。
己は寒さに凍えても、着たるを脱ぎて子を包み、
甘きは吐きて子に与え、苦きは自ら食らうなり。
幼な子乳を含むこと、百八十石を越すとかや。
まことに父母の恵みこそ、天の極まり無きが如し。

父母は吾が子のためならば、悪行作り、罪重ね、
よしや地獄に落ちるとも、少しの悔いも無きぞかし。
もし、子遠くに行くあらば、帰りてその面見るまでは、
入りても出ても子を想い、寝ても醒めても子を想う。
髪くしけずり、顔ぬぐい、衣を求め帯を買う。

美しきは皆子に与え、父母は古きを選ぶなり。
己れ生あるそのうちは、子の身に変わらんこと思い、
己れ死に行くそのあとは、子の身を守らんこと思う。
寄る年波の重なりて、いつしか頭の霜白く、
衰えませる父・母を、仰げば落つる涙かな。
ああ、有り難き父の恩。子はいかにして報ゆべき。
ああ、有り難き母の恩。子はいかにして報ずべし。


明来闇去

2021-01-28 00:23:05 | 明来闇去
 
   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          父母の恩を知り孝養を尽くすき


人生航路はなかなか厳しいもので、晴れた穏やかな日もあれば嵐の日もあり、
それにともない凪いだ海もあれば、荒れ狂う海もあります。
私たちはそうした海を航海していかなくてはならないわけですが、その際に
必要な人生の進むべき方向を示す指針を与えてくれるのが航海で言えば
羅針盤にたとえられると思います。

何をするにつけても、親が喜んでくれ、
その親の喜びの大きいほうを取っていきますと、
人生は間違いなく進むことができます。
長い人生では右か左かと迷い悩む局面も多々あります。
その時に親の喜ぶ道を選ぶという羅針盤を持っていない方は、人に頼ります。
つまり、拝み屋さんに頼ったり、自分の崇拝者に依存してしまったり、
あらゆる宗教の門を叩くうちに変な教団にひっかかってしまったりします。
何もそんなものに頼らなくても、両親の喜ぶほうへ進めば、間違いはないし
不幸になることもありません。

なぜかと言いますと、この世の中で誰よりも父母は常に子の幸せを思ってくださり、
その後ろには神がおいでになるからです。
私の父はよく「八人の子の中でお前の所に来た時がいちばん心が安らぐ」と
言ってくれたものです。
父が何度も同じことを私に話しても、
今はじめて聞かせてもらったかのような顔をしてそのまま受け容れていたので、
父としては居心地がよかったのではないかと思います。
しかし、実際に常に新しい気持ちで聞いたのです。

こちらが耳にタコができるほど聞かされても嫌な顔はいっさいしないで、
何回でも気持ちよく聞くものですから、きっと心が休まるのでしょう。
何回同じことを聞いても損をするわけでもありませんから、
逆らわないようにさせてもらっていますと、親はすごく喜んでくれました。
朝までしゃべってくれて、私は寝ながら「さようか」「さようか」と
聞かせてもらったことがありました。

「そうですか」と父の相手をするべき母も、「ようあれだけ話しがあったものだ」
とあきれていました。
親に対してはそのように尽くすべきだと思います。
私たちは、お父さんお母さんのご縁をいただかなかったら、
この世の存在は許されませんが、
両親は生まれた時からずっとそばにいてくださり、あまりにも親しすぎて、
親のありがたさが認識できないのです。


明来闇去

2021-01-27 00:57:39 | 明来闇去
  
    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

     反省してはじめてわからせていただいた母親の愛


先の続き・・・

もし、羽があれば鳥のように飛んでいって、
土下座してでも母にお詫びをしたいという気持ちが湧き上がってきました。
しかし、そうもまいりませんから、山を下り家に帰り着くと、
すぐに電話させてもらいました。
電話の向こうで「もしもし」という母のなつかしい声を聞いたとたんに、
心は幼な子に帰っていました。

私は子供の頃、母を「おかちゃん」と呼んでいたのですが、
電話で母の声を聞くと、
「おかちゃん、堪忍してや、堪忍してや」と言ったまま、受話器を持って
ワンワン泣いてお詫びしていました。
母親の愛とはありがたいものです。

突然の電話からの私のただならぬ声を耳にして、「お前、頭は大丈夫か。
頭がどうかなったのと違うか」と気遣ってくれるのです。
「僕は幼い頃から親不孝ばかりしてきました。
どうか赦してください」と言うと、「頭は大丈夫か」と尋ねられたのです。
「私の言っていることは頭がおかしいように聞こえますか」と聞くと、

「いや、別におかしゅうはないけどな、いい年をしてそんなに泣くな」と言われました。
子は親の心配をありがた迷惑に感じたりして、
親の生きている間はなかなか親の愛の本当のありがたみはわからないものですが、
まことに親というのは、子の身に何か一つでもあれは心配してくださいます。
取越し苦労という面はあったとしても、

そこまでこまやかに愛を注いでくださるのはこの世では親だけです。
そして、その無私の愛は神様の愛に通ずることを知りました。
父母への感謝ができなかったならば、どうして神様への感謝ができましょうか。
しかし、この尊さを知るには、私たちにとって親の存在はあまりにも近すぎて、
改めて意識することはありません。

これは空気や太陽や水によって生かされながら、
その有難みをつい忘れ、当然のごとくに毎日を送っているのに匹敵すると思います。
では、どうしたらこの「慣れ」を克服して、感謝と報恩の心に目覚めさせて
いただけるのでしょうか。
そこで、反省が必要となってきます。
魂の自覚によって、人は神の分け御霊の名に恥じないように立派に生きていけます。


明来闇去

2021-01-26 00:17:36 | 明来闇去
 
     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第五章 心の曇りをとるための反省

        反省してはじめてわからせていただいた母親の愛


先の続き・・・

この母の大きな愛に対して幼い私が大きな嘘をついてだましている。
そして母の愛を裏切っているこの姿を見た時、
「ああ、痛かったやろうなあ。
かわいそうになあ。つらかったやろう」
「友達のお母ちゃんはなんであんばいしてくれんじゃったろう」と
言ってくれたそのことを、ずっと反省させていただきました。

不思議なもので、三日も四日も一つのことを追求し続けていくと、
その時の場面が本当にそのまま出て来るのです。
足の肉が裂けた時の感覚がはっきりと再現されます。
真剣に反省に取り組めば、その当時の状況が詳しく思い出され、
肉体の感覚までありありとよみがえってきます。

相手の立場に立つということは、
この場合、母の立場に立って自分の行為を反省してみることですが、
まず母は幼い我が子に対してどのように思ってくださったか追求します。
母は足の怪我を見た時、すぐに友達の家で怪我をしたのでは
ないことくらいはわかったはずです。

血止めの草をすりつけた足の傷をボロ布で巻いているのですから、
これはおかしいなと思ったことでしょう。
にもかかわらず、
そんなことよりも「ああ痛かったやろうな。かわいそうになあ」と
いう思いのほうが強いのです。

私のついた嘘を取り沙汰して善悪の理非を正すより、
母親の愛のほうが偉大であったとわかりました。
間違いを犯した時に叱って云い聞かせる厳しい父性愛とは違って、
お母さんの愛というのは、たとえ口では小言を言ったとしても、
赦しの心でやさしく包んでくれます。
煩悩を戒め、降魔の剣で厳しく断ち切ってくださる忿怒相
(怒りの表情)の不動明王に対して、
衆生の悩み苦しみの声を聞いて救ってくださるご慈愛深い
観世音菩薩のような役割です。

その神様のような観音様のような愛を持ったこの世でたった一人の母に対して、
私は嘘をついて畑に行かず遊びに行ってしまったうえに、
粗相をしでかして大怪我をし、親に心配をかけている。
七歳の当時のその自己の心と行いの姿をよく見つめ直した時に、
「ああ、本当に申し訳ないことをした。
お母さんの愛を裏切って幼い頃から嘘をついてきた私を
どうぞ赦してください!」と、
泣いて泣いてお詫びさせていただきました。


明来闇去

2021-01-25 00:14:37 | 明来闇去

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

    反省してはじめてわからせていただいた母親の愛


先の続き・・・

たいへんなことをしてしまったと思った私は、
田舎育ちで薬草や血止めの草の知識があったので、
傷口に血止めの草をぐっとしぼってつけました。
そして、その上から血止めの葉で押さえて急斜面を下の道まで降りて来て、
道端に落ちていたボロ布をひろい、それで患部を縛りました。
「えらいことをしたなあ。なんと言って言い訳しようかなあ」と、
七歳の幼い頭で一生懸命に考えたのですが、いい考えは浮かびません。

もし、嘘などつかずに畑にいつもどおりに出て仕事をしていて怪我をしたなら、
「お母ちゃん、えらいことした。なんとかして」と言えるのですが、
嘘をついて隠れてわることをしたのですから、本当のことを言うこともできません。
そこでまず、血が出ないように応急処置をしました。
私の家と隣家との間が一メートルほど空いていて、
冬の間は田の稲を干す長い木が使わないでかこってあるのですが、
その隙間に入って、「どうしようか。そうしようか。

どう言って親に言い訳しようか」と思いあぐねていました。
他人様の山に竹を取りに行って、自分の足を切ったと言えば怒られますから、
なんとか逃れる方法はないものかと考えているうちに、
だんだんと時間が過ぎて外が暗くなってきました。
そこで、勇気をふるって家の入口から「ただいま」と言って入ったのです。

「遅かったなあ。今迄何してたのや」と母が聞くので、
「友達の所で勉強していて怪我をした」と、私は言いました。
その時、母は「ちょっと見せてごらん」と言って、」「こんな汚い布でどうして
向こうのおばちゃんに言ってあんばいしてもらわなかったのや。
こんなえらいことになってるのに。痛かったやろう」と薬を塗り、
新しい包帯をしてくれたのです。
その時の母の手の温もりがあたたかい感触として、
私の足にありありとよみがえってきたのです。


明来闇去

2021-01-24 00:34:36 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

     反省してはじめてわからせていただいた母親の愛


それでは私の場合を紹介します。
小学校一年生ですから七歳の時のことです。
友達に百姓の子もあれば、サラリーマンの子もあり、商店の子もありました。
私は水呑み百姓の子ですから、みんなのように学校から帰って遊べません。
帰宅して鞄を置くと、今日はどこどこの畑に行きなさいと言われて、
すぐさま鎌か鍬を持って畑に行かなくてはなりませんでした。
「ああ、僕もいっしょに遊びたいなあ」と、
畑のそばで遊んでいる友達を見ては、羨ましく思っていました。
そして、どうして自分だけがみんなと遊べずに畑で手伝いを
しなくてはならないんだろうと、
自らの運命を思ったのでした。

ところが、ある日とうとうそんな思いが募ったあげくに、
嘘をついて畑に出るのをさぼってしまったのです。
「今日は友達とどうしても勉強しなくてはいけないから」と親に嘘をついて、
竹トンボを作るために他人の竹藪に行きました。
そこは急斜面でしたが、そこをよじ登るのは当時の幼い私には冒険でした。
手頃な竹を見付けると、用意してあった鉈をだしました。
斜面の上のほうに左足を踏み出して、その竹めがけて鉈を振り下ろしたのですが、
不覚にも自分の足をスパッと切ってしまったのです。
足の外くるぶしの上十センチ当たりに刃が当たり、
骨まで見えるほどパカッと深く裂けて白い骨が見えていました。


明来闇去

2021-01-22 00:41:48 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


           反省研修会のこと

先の続き・・・

これだけのことを自宅で一人でやろうとしたら、たいへんです。
それどころか、研修会場に参加しても、一人で部屋にこもって何時間もかけて
取り組んでも、最も核心にある記憶の扉を開くというのは、なかなか容易では
ありません。
反省会に集まったみなさんは、幼い頃の最も重要な出来事を思い出そうとしても、
もう七転八倒の苦しみを味わいます。

しかし、なかには今迄まったく忘れていた記憶をよみがえらせ、
反省と悔い改めの過程でワンワンと大声をあげて泣かれる方もおられます。
涙で顔中グショグショになり、鼻からは鼻水が長く垂れ下がり、たいへんなありさまですが、
この時、法雨により心が綺麗に洗われています。

生まれて以来、今日まで知らずに積もらせてきて、
掃除もされることがなかった心の塵や埃や垢が一挙に流されるわけですから、
とても有難い心の浄化となりなます。
反省が終われば、また一つ薄皮がはがれるように心の曇りが除かれ、光ってまいります。
そして、明日からの生活を明るく軽い心で過ごさせていただけるようになります。
これが反省の成果の一つです。



明来闇去

2021-01-21 00:54:00 | 明来闇去

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

           反省研修会のこと


先の続き・・・

研修会での反省の課題は大きく分けて、次の段階があります。

1. 先ずは、「心の癖」です。
     自分のわるい癖、欠点などを思い出してノートに書いていきます。
     いくつでもかまいません。
     ただし、ノートは自分だけの記録です。
     次に、今日までに犯してきた「過ち」です。
     あの時にあんなことさえしなければよかった、あるいは人に見られて
     恥ずかしいという出来事があるはずです。
     それを思い出します。

2. 後悔するというのは、自分がいけないとわかっていても、
     つい繰り返して業(カルマ)のゆえですが、必ずその根(ルーツ)に
     なっている幼い頃の出来事があるはずです。
     0歳から十歳までの間に起きたそういう出来事を思い出します。
     この時。できるだけ詳しく出来事を再現します。

3. そのうち、いちばん心の重荷になっていた出来事を一つ選び出し、
     その時の、相手の人はどんな気持ちだったであろうかと、相手の立場に
     立ってみて自分の犯した過ちの行為を反省します。

4. また、その出来事についてお母さんはどのように思われただろうか。
     今度はお母さんの立場に立って反省します。
     幼い自分に対してどのように思ってくださったか。
       この点について徹底的に反省します。

5. 最後に、この反省で反省の対象となった幼い頃の自分自身に慰めと励ましを与え、
     その出来事に関して自分自身を赦させていただきます。
     自分を正当化するのではなく、神の愛に包まれた自分に生まれ変わり、
     二度と同じ過ちをしない自分になるためです。


明来闇去

2021-01-20 00:16:29 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

            反省研修会のこと


先の続き・・・

反省は心の無智やカルマの思いのスモッグがつくる闇を照らしてくれる
偉大な法の光でもあります。
原因結果の法則の中に生かされている自己を理解する智慧の光とも言えます。
神様の愛を頼りに、自らが自らを救っていくのです。
けっして神様以外の力や、それを使う迷わせ人に惑わされてはなりません。
自分の心が理解でき、自分の誤りに気付いていけば、
自分も他人も同じ人間だったんだということがわかり、
すべてを赦させてもらえる心境になっていきます。

謙虚さ、やさしさ、そして強さなどがだんだんと育まれ、
その結果、魂が成長していきます。
愛は赦しです。
思いやりと同時に寛容な心が愛の中にはあります。
この世の中で最もいとしい自分を赦せない人が、
どうして他人を赦せるでしょうか。

相手の立場も心も我が事のようにわからないといけません。
それが苦労であれば、思いやりとして現れますし、
過ちを犯してしまったなら、
寛容の心として現れます。
自分と相手とを分け隔てる思いは、神の御心ではありません。
何事が起きても、
常に自他の分離観を超えた大きな愛の心で包んでいくようになることです。
そのための反省なのです。
自己を見詰め、深く自己を知るためです。


明来闇去

2021-01-19 00:15:50 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

         反省研修会のこと


先の続き・・・

別にそんなことしなくても自分は間違ったことなどしていないし、
困ってもいないと思う人は、まだ心の奥を探ってみたことのない人です。
誰にとっても、心の奥深くに人に言えないような秘密を隠し持っているという
ことはあります。

それは恥ずかしいことかもしれないし、
二度と思いだしたくないような悲しいこと、忌まわしいことかもしれません。
自分自身に対してさえ、もう記憶の彼方に忘れ去られてしまって、心の奥底に
眠っていることがあるものです。
それを反省によって知った時、

「ああそうだったか。私はなんと罪深い人間だったのか」と思い知り、
また人もそうだったのだと思えてきます。
しかし、それに気付いて、間違っていたと反省できている自分は、
もうそれまでの自分ではないことを知るべきです。
良心はすでに神の御心の中にある神我に属するものだからです。
パアッと光がさすごとく、

それまでの何もわからず、誤った行いをさせていた心の闇は消え去り、
変わって神の子の本質を具現できる自分の心が開発されてきます。
無明の迷っている心も、自分が反省して正直に心の誤りを悔い改めたなら、
すぐに苦しみから救われて楽になっていきます。
明かりがあるところに闇はありません。




明来闇去

2021-01-18 00:12:12 | 明来闇去

         恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

          反省研修会のこと


一日の終わりにする反省とはまた異なり、
生まれてから今日までの自己をよく内省するという
深い反省のしかたがあります。
これには正しい方法があります。

その方法を学びましたのは、高橋信次先生との出会いによってです。
そして、昭和五十二年四月に、幼い頃からの記憶をさかのぼり、
我が心の奥を徹底的にみつめることを決心して、
奈良県の或る山の中へ入りました。

そして、山中にちょうどいい浅い横穴を見つけ、
七日間ほとんど食わず寝ずの反省をしました。
その結果、自分自身のことを深く知るとともに、
自分を赦させてもらうこともできました。

自分も自然も一体であり、自分自身が光そのものだということを体験しました。
自分の体験したことを多くのみなさんにも体験していただこうと、
反省研修会を今迄に和歌山県の白浜や静岡県の富士宮などでも催しております。
これは、三泊四日でスケジュールを組み、
参加者の方にそれぞれ個室に入っていただき、
そこで何度かにわたり、幼い頃にまでさかのぼり、ふだんできない
ような深い反省をしていただくものです。

毎回、百五十名ほど参加されます。
人間の潜在意識にはちょうどゴミためのように、
たくさんの記憶がつまっています。
まず、いちばん上のほうには思いだしてもそれほどさしつかえのない
記憶が積み重なっています。

自分にとって思い出すのが不都合な記憶は、その下にしまい込まれています。
そして、最も自分にとって思い出したくない記憶が誰にでもあるでしょう。
忌まわしい出来事、悲しい出来事、恥ずかしい出来事などです。

できれば、永久に忘れ去りたい。
でも、どうしても完全には記憶から消し去ることができない。
そういう記憶は幾重にもポリ袋に詰め込まれ、念入りに栓をして、
絶対にゴミための表面のほうへ出て来ないように念入りに重石をして、
たくさん積み重なったゴミのいちばん底のほうに押し込められています。

なぜ、わざわざこういう記憶を掘り起こすことが必要かと言いますと、
幼い頃の心のつまずきや過ちの記憶とその時の強烈な感情は、
その後の人間の一生を支配するほど影響力のあるものだからです。
自分自身の心の全貌をつかまない限り、私たちは真の自己を知ることも、
本当の幸福と健康をつかむこともできません。


明来闇去

2021-01-17 00:17:04 | 明来闇去

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

            前世の親子が今生で嫁姑となる


先の続き・・・

この話をさせてもらうと、それを聞いた方は、
それからお姑さんとうまくやっていけるようになったそうです。
苦しみの中から心が開いたのでしょう。
前世の因縁が現在の謎を解く鍵になるというのは、よくあることです。
潜在意識にははかり知れない記憶が録音テープのごとく記録されています。
嫁と姑の問題はなかなかたいへんで、いいお嫁さんほど夫に尽くしますから、
それを息子を取られたように思って、お姑さんの方ではお嫁さんを憎く、
また、妬ましく思います。

そうかと思えばまた、できのわるいお嫁さんであれば、
お姑さんは今度は息子を大切にしないと言って怒り、
お嫁さんに不満を持ちます。

こういう因縁を消滅させるのに、
過去世を知ることが助けになることもありますが、
決して過去世にとらわれないようにしたいと思います。
なぜかといえば、過去は過ぎ去ったものだからです。
又、過去世のために現在を破壊してはならないからです。
そこで、いろいろな角度から相手と自分との関係について思い変えをしてみて、
自分の心をよく反省してみるといいのです。
シミュレーションのようなものです。

ただし、未来に起こりうる場合を想定するのではなく、
過去にきっとこうだったに違いないと、想像力を駆使してみるわけです。
相手と調和する方向に思いを変えればいいのです。
とにかく、自分の心を苦しめることは神の御心に添わないので、
幸せになれないことを忘れないことです。

潜在意識の深くへと降りていきますと、今生だけでなく前世、前々世と
ずっと過去の記憶が幾層にもわたって保存されています。
それをさらに突き抜けていけば、神我に到達します。
昔から神道の行法にも鎮魂帰神というのがあります。
魂鎮(たましず)めという言葉もあります。

毎日忙しく頭脳を駆け巡る想念感情や思考からしばし意識を離して心の内奥に
向け、呼吸も心身もくつろがせます。
心静かに反省していきますと、あたかも澄んだ湖面に空や雲や樹々や鳥が
映るように、ふだんは意識されないことまでが心に映ってまいります。

そうして心を見詰め直し、反省されることをお勧めします。
そうすると、これまでとは違った観点から相手と自分の関係を見直し、
また自分の想念や行為についても大いに反省する機会を自らに与えることに
なるでしょう。


明来闇去

2021-01-16 00:12:52 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

          前世の親子が今生で嫁姑となる


先の続き・・・

一人の息子への愛にとらわれた思いが執着となり、
自分の育てた子が嫁に取られたように思って嫁を憎く思い、
嫁のほうもついに耐えきれなくて、
姑と調和できずに何とか対立しがちな嫁姑の関係というのは
世の中ではよく聞く話ではあります。

このお嫁さんの場合も、ご他聞にもれずそんな
母親の業とでもいうべき問題を、
その息子の嫁が引き受けるという立場に立たされ、
彼女としては、

やはりお姑さんをなかなか好きになれず、そうかといって
同じ屋根の下で暮らしを共にしなくてはならないため、
その相手や状況から逃げるわけにもいかずに
心を苦しめていました。

このお嫁さんにしてみれば、なんで私はこんな境遇に
置かれているんでしょう。
なんて不幸な巡り合わせなんでしょう、
と嘆いていたはずだと思います。

「理不尽だわ、私だけこんな目に遭わなくては
ならないなんて」と言う思いがあれば、
当然、心は苦しいはずです。
しかし、こうした人間関係もすべてご縁があって、
偶然は何一つないということを知ったなら、

今現れている出来事だけを見て、自分の都合という物差しで
一概にいいわるい、幸不幸などと決めつけることもできません。
この二人の嫁姑も実は前世の深い因縁によって
必然的に出会っていたのでした。
母親が好きで好きでたまらない。
死ぬまでいっしょに暮らしたい。

今度生まれ変わったなら、母が死ぬまでいっしょに
暮らして面倒みたい。
そういう願いを抱いて亡くなったために、
その想念が今生でこういう形となって現れたのです。
いささか皮肉な結果と言えるかもしれませんが、
考えようによっては、お母さんの心の癖がとれ、

娘さんがどんな相手とも調和するという心の修行を
通じて魂を向上させるには、
絶好の機会であるとも言えましょう。
勿論、互いに過去世の記憶はすべて表面の意識からは
消されていますから、
肉体の五官の思いにどうしても翻弄されてしまい、
相手を憎く思ったり、恨んだりしています。
これはふつうのことです。

それがこのお嫁さんが苦しんで苦しんで苦しみ抜いた時、
自分自身の前世において、もし、また次の世で母親に巡り逢えたなら、
今度こそは終生尽くさせてもらいたいと誓っていたことがわかり、
本当に涙を流して今生の姑さんにお詫びすることになりました。
この心はお姑さんにも伝わりました。
この嫁姑は以前とは打って変わり、
とても仲のいい嫁姑になったということです。