浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-04-30 00:15:53 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より

            思いの中に生きる


先の続き・・・

そして、一週間たってお見えになりました。
よく言うのですが、一回お会いしますと大慨の方を私は覚えているのです。
「ア、 この前お見えになりましたね」とか、「○○が悪かったですね」とか、
本当にコンピューターほど顔をよく覚えています。
名前は知りませんけど、顔は知っているのです。
ところが全く見覚えがのない方、きれいな明るい方がお見えになっておられます。
「いつ見えたのですか」と尋ねましたら、
えらく嬉しそうな顔をして笑っておられるのです。
それで、「どなたでしたかな」と言って聞きましたら、「あの泣いていた者です」
と言われて、全く別人になっておられました。
ものすごく明るい顔で。

やっぱり別嬪さんでも泣いていたら顔も歪んできます。
嬉しいお顔をされていたらものすごくきれいなお顔の方です。
で、「あんたでしたんか」と言うと、
「お陰さまで本当に助けてもらいました」と言って、嬉しいお顔で、
もう全然想像つかないような顔になってしまっておられました。
その姿を見せてもらって、
その方の目が直ったからその人がそんなに幸せになってくれたのかというと、
やっぱり目は見えないままです。
肉体に何の変化もないのですね。
片方は見えないし、片方は見える。

その中で、四年間朝から晩まで泣き続けていた方が、
その方の心が潰れた目の方へ向いていたから泣いておられただけで、
その方の心がある方の目に向けられて感謝に変わると、
今度は喜びの毎日に変わってしまったのです。
といいますのは、
環境、片目が潰れたという環境の中に私たちは生きているのではなく、
その思いの方の中に生きているという証拠ですね。
そして、人は苦しみの毎日を送る。
悲しみの毎日を送る。

ところが、同じような環境の中にあっても喜びの方に心を向けた時、
その人は極楽の生活をします。
そして、感謝。
目が片方なくても感謝と喜びと、そして片目は見えるという希望、
そういう思いでその方が一生を送ってくださったら、その人は片方の目が
なくても、間違いなしに極楽へ行かれます。
しかし、もし私とお会いできなかったら、
あの人は死んだら地獄へ行かれます。
悲しみと苦しみの世界に入っていかれます。

ですから、これは一つのたとえとして現実にあった方の
話しですけれども、
そのように環境の中に生きているのではなく、
思いの中に生きているのだということのいい証しになると思います。
どんな苦しみの中にあっても、どんな辛い中にあっても、
その思い方を変えていけばいいのです。
そのとき、苦しみが喜びに変わります。

この見方の方法をうまいこと応用して下さい。
そうすれば、喜べば喜びごとが必ず続きます。
喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び集めて 喜びに来てくれます。
また逆も真なりですね。
悲しめば 悲しみごとが 悲しんで 悲しみ集めて 
悲しみに来ます。

ですから、苦しんだり悲しんだりしたら、
「泣き面に蜂」と言う言葉、これも
真理です。
大きな声で泣いていようものなら、蜂が飛んできて刺して、
また泣かしてくれます。
それといっしょで常に明るい光を自分の心にいただいているんだと思います。
それは自分の思い方でどうにもなるのですから。


明来闇去

2021-04-29 01:58:20 | 明来闇去

       恩師のご著書「思いの中に生きる」より


            思いの中に生きる

先の続き・・・

そりゃもう、顔を見たら、
演歌を絶唱中の森進一さんと同じ顔をされています。
「この世の中の悲しみを私が一人背負っています」
という顔をしてね。
もう笑っても泣かれますね。

ああいう人はもう顔がそうなってしまうのです。
毎日毎日泣いてましたからね。
私の二番目の弟は小さい時泣き虫でした。
で、渾名も「泣き」でした。「泣き、泣き」と言われ、
これは中学へ行くまで泣き虫だったのです。

中学に行くと同時に心の中に転換が起きたのです。
急にパッと明るく切り替ってしまいましたけれど、
よく両親が言ってました。

「こいつは笑うてても泣き顔しとるなあ」。
顔が泣き顔になってしまうんです。
毎日毎日泣いていましたからね。
で、この人もまさにその通りでして、
ものを言ったら泣いておられます。

その方に、その人の悲しい辛いその悲しみを
一通り聞かせてもらって―――
「まあ、苦しんでもそれは当然です。
あなたがそのような悲しみ苦しみの毎日を
過ごしておられるのも、
これも一つの現実の生き方です。しかし、
まあ考えてみなさい。

この五体の中で、
こんな小さい目玉にロープが突き刺さるというのは、
これは奇跡です。
全身の面積がものすごく広いのにこんなところに。

じゃあ、もう十センチ程伸びたら、
これは両眼とも見えなくなるところでした。
今、片目見えていますから、恰好が悪いとか、
ちょっと不便だという嘆きですけれど、
両眼とも見えなかったら大変です。

それを一回思ってみなさい。
そして悲しい辛いと思ったら、どうぞ手を合わせて、
神さまに『ありがとうございました』
と言って感謝しなさい」と最初言ったら、
「こんな悲しいのにどうして感謝しなければなりませんか」
と泣かれるのです。

それで、「もし両目潰れていたら、
それこそ全面的な失明になってもうどうにも
できません。しかし、
無事にのこった片目だけでもちゃんと見えます。だから、
『あの時よくこっちの目を助けてくれました。

もし両目潰れていたら今のような不自由さではないのに、
この片方をよく助けてくれました』と言って、
神様に感謝して下さい。
こっちの潰れた方にばっかりとらわれて嘆き、
悲しい毎日を送るのも、これも人生。

しかし、今現実に見える目に感謝の心を
向けるのも一つの現実の生き方です。
選ぶのはご自身です」と言いましたら、
その方は頭のいい方ですから、
「よくわかりました。
今までは私はとんでもない間違った生き方を
しておりました」と
納得してくださったのです。



明来闇去

2021-04-28 00:41:45 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              思いの中に生きる

思いによってこの世は現れているのです。
そして、人は環境の中に生きていると錯覚を起こしているのです。
本当は自分の思いの中に生きているのです。
これはちょっと難しいように思いますけれど、たとえば、
これも思いの中に生きているという一つの証拠ですね。
ある四十そこそこの女性の方がワイヤロープの工場に勤めておられて、
ワイヤがポンと弾いて片目を失明されました。
その人はもう本当に朝から晩まで泣き通しの毎日を送っておられたのです。
「私は何と不幸だ」と。

あれは難儀です。
目が潰れましたら目が萎んでしまってだんだん落ち込んでくるのです。
また、義眼(ガラスの目玉ですね)を入れますとちゃんと目が
閉じられないようになるのです。
夜休んでも目が開いたまま寝なければなりません。
これも難儀だし、目玉を出したらグッとへっこんで落ち込んでしまう。
「そういうのを主人に見られるのは辛い。
うまれもつかない片輪になってしまった」と、
泣いて泣いて暮しておられたのです。

四年間、「そんな辛い悲しい私は不幸だ」とばかり思っているから、
本当にそのようになってくるのです。
今度動脈瘤ができて、お医者さんに診てもらいましたら、
「あなたのはもう手術できません」。

「それじゃあどうなるのですか」と聞きますと、
「この動脈瘤が腫れたら、あなたは一巻の終わりだから、
もうそこまで大事に生きないと仕方がない」と言われて、
その人の嘆きがまた大きくなったのです。
これはまさに「泣き面に蜂」です。

「あの石原裕次郎のあんなのでも治すのに、
どうして私のを治してくれないのか」と言って、
泣いて泣いて暮しておられたのです。
で、その人のお姉さんが私にご縁がありまして、
連れて来て下さったのです。
「妹がこんなにして四年間、毎日毎日泣き明かしています。
何と助けやってほしいのです」といって見えたんです。



明来闇去

2021-04-27 00:31:24 | 明来闇去
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          調和と中道

先の続き・・・

お釈迦様の悟りのきっかけになったのは、

弦の音は 強く締めれば糸は切れ
弦の音は 弱くては音色が悪い
弦の音は 中ほどに締めて音色がよい
音に合わせて歌えや 歌え
歌に合わせて踊れや 踊れ

という、チュダリア・スダータという少女の歌声でした。
そういうインド民謡があったのですね。
お釈迦様が、厳しい厳しい、もう今まさに肉体の命が絶えんとするほどの
厳しい行をなさって、ある日ネランジャ川に顔を洗いに行かれましてフト
水面をのぞかれましたら、九十、百のお年寄りもなお衰えた自分の姿を
見られたのです。

そのとき、「あっ、これだったらもう自分は死んでしまう。
しかし、死んだらもう自分は悟ることができない」と思われたのです。
『仏陀苦行像』という像がありますけれども、それを見せていただいたら、
もう本当に涙が出ますね。
後光はきれいに出ていますけれども、肋骨の一本一本、そして、その肋骨の
上を這っている血管まで出ています。
顔でも全くもう骸骨の顔になっています。
目は落ち窪み骸骨みたいですね。

ところがまた、あの彫刻を作られた方も名工だと思います。
骸骨が座っているようなのに、
何とも言えない慈愛、慈悲に溢れたお顔に見えますね。
あれを見せてもらいますと、どうしても涙が止まらなくなります。
それほど厳しい行をなさって、そして、「このままいっては死ぬ。
死んでは悟れない」と思われた時、
川上の方からその歌声が流れて来たのです。
その時、お釈迦様の気持ちの中では、
もう本当にこれは天女の教えだと聞かれたのです。

そして、「私は今までお城の中の王子としてあった時、穴蔵の中へ入って
千度禅定・瞑想したけれどなお悟れなかった。弦の糸が強ければ切れる。
今まさに自分は厳しく締めすぎた糸が切れる寸前だ」ということを悟られた。
それでお釈迦様は、苦行を一切放棄され、
中道の道を歩むことをお悟りになったのです。




明来闇去

2021-04-26 01:10:39 | 明来闇去
 
      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


               調和と中道

先の続き・・・

お釈迦様は、
あの優雅で栄耀栄華な王子様の生活の中に
悟ることはできませんでした。
また、
自分の命が擦り切れてしまうほどの厳しい肉体行を通しても
悟ることはできませんでした。

だから、両極端を離れて、まず自分自身の肉体を健全にされ、
安らかな環境において自分自身の心を徹底的に追求されて、
あの偉大なる悟りに到達されたのですね。
肉体行では悟ることはできなかったお釈迦様は、

「この世が始まって以来、
私ほど厳しい行をした者はないであろう。
そして、この世が終わるまで、
私が行ったほどの行をする者は現れないであろう」と言われた。
それほど厳しい肉体行をなさったのですね。

しかし、悟ることはできませんでした。
それは、人間の肉体は火の中に手を突っ込めば熱いし、
水の中へ入れば冷たい、
この感覚から逃れることはできないのですね。
冷たい中へ入れば冷たい。

「冷たい」その思いにとらわれるはずです。
もし、大きな護摩を焚いて、
その中でどんなに九字を切っていましても、
肉体をもっていれば熱くて当たり前です。
「熱い、熱い」と思っていて、
そんなことで悟れるはずがありません。
また栄耀栄華・安楽に陥っても、これも悟れません。
中道をいくことですね。



明来闇去

2021-04-25 02:04:34 | 明来闇去
 
       恩師のご著書「思いの中に生きる」より


              調和と中道

調和とはバランスですね。
両方のバランスがとれたら落ちない。
弥次郎兵衛」(短い立棒に湾曲した細長い横棒をつけ、
その両端に重しを取り付けたもの)、
あれはもうこんな所でもあんな所でも立ちます。
落ちません。

あれはバランスがとれているから落ちないんですね。
あの姿こそ調和です。
そして、自然はすべてそのバランスを保っています。
このバランスこそ神の御意志だったのです。

ですから、私たちも日々の生活でどれだけ
自分の心のバランスをとるかです。
苦しみにとらわれていないか。

苦しみの方へ片寄れば落ちますし、
喜びに有頂天になれば足元をすくわれます。
まあ昔から「勝って兜の緒を締めよ」という
言葉もありますけれど、
勝って「うまいこといった、うまいこといった」と
有頂天になりますと、
これもバランスが崩れますし、

あるいは苦しみの方にとらわれてしまいますと、
これもバランスが崩れます。
常に足ることを知って中道の道を歩くことこそ、
バランスだったのですね。

片寄ることのない弥次郎兵衛を思っていたら
間違いありません。
さもないと、どちらに片寄っても、
バランスが崩れてしまいます。

明来闇去

2021-04-24 00:36:53 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          神の御心の中で

先の続き・・・

もう一つ、無報酬。
求めないで与えさせていただくことですね。
太陽は、これだけ熱・光を下さいましても、
「わしゃ、お前らに光やってんやで」と言われたことがない。
また請求書を持って来て、
「ちょっと払てんか」と言われたらえらいことです。
もう地球の財産は一日でなくなります。
一秒間に石炭二百万トンを燃焼させるだけの
熱カロリーを地球だけでいただいているそうですね。

一秒間に二百万トン。
石炭一トンいくらか知りませんが、
そんな、一日分の請求書でもいただいたら
地球は破産ですね。
それをいただいています。

だったら、私たちも少しでも人様にいただいてもらうことです。
私たちの肉体一つ見ましても、
「入れんの好き、出すの嫌いや」と言って小便も
大便も出さなかったら、必ず身体が悪くなります。
三日も生きていられません。

これをうまいこと出してもらうから、
また上から「おいしいな」と言っていただけるんですね。
それといっしょで、目には見ることができませんが、
私たちがその良き行いを出させてもらうことによって、
上からまた喜びが入ってきます。

これは自然界の法則です。
出せば入る法則です。
出さなかったら、やがて糞詰まりになります。
それと、その方その方の心の器がございます。
出すことによって器が広がります。

もらうことによって器が小さくなります。
もらえばだんだん器が小さくなる。
そしてそういう方は心も小さくなります。
やがて死んだらカチカチの一次元の世界に入ります。

ですからこれも自然の摂理・法則だということを知ったときに、
私たちは、できる限り、自分に許される限り、
人様に大いに出させてもらう。
仏教で言う布施行ですね。
これも大事なことだと思います。
自分の心が豊かになります。


明来闇去

2021-04-23 00:18:31 | 明来闇去

   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


      神の御心の中で

先の続き・・・

太陽は自らを燃え上がらせ、自らを燃焼し、自らを犠牲にし、
そしてその結果として現れた熱と光、
この熱と光こそが慈悲と愛である。
この熱と光を他に与え給う。
自分が自分のこの肉体を燃焼させ、
そしてこの肉体を燃え上がらせて、
命を燃え上がらせ、自分を犠牲にして、

その結果として現れる
慈悲と愛を他に与えることです。
これが神様の心を自分がこの地上に示す現わすことです。
太陽の熱・光は万生万物一切のものに差別をなさいません。
人間の尊い・卑しい、病気・健康、金持、貧乏人、
一切関係ありません。
人間だけではありません。

動物にも植物にも、生きとし生けるもの、
ありとしあらゆるものすべてに一切の差別をなさいません。
じゃあ、私たちも、それが神の御心であるならば、
せめてその真似でもさせてもらわなくてはいけません。
そして罰をおあてになりません。

先程も言いました太陽の熱・光。
太陽は、私たちがどれほどの罪を犯しても、
どれほどの過ちを犯しても、
あり余る太陽の熱と光、慈悲と愛を与え給い、
なお燦々と許しの光を与え給います。
これが神の御心であれば私たちもすべての方を
許さなければいけません。
しかし、口で言うのはやさしいです。

憎い人を許すということは大変な大事業です。
都合の悪い人を許すとき、憎しみの大きい人を許すときほど、
これは難しくなりますね。
大事業です。
しかし、許させていただいたときに、
自分自身がその人に対する怒りとか憎しみとか
恨みとかそしりとか、
そのような自分の苦しみから自ら許されるのです。
心から許させてもらったとき、自らが許されます。
神は絶対なる許しということを知ったときに、
私たちはもうできるだけ許させていただくように
努力をしていかなくてはならないと思います。
そのとき、私たち自分自身がその苦しみから
許されることを知って下さい。
難しいことです。
そして憎しみ許さない度合いの大きい人を許させてもらうほど、
自分の心の喜びが大きくなります。
安らぎが大きくなります。

明来闇去

2021-04-22 00:34:12 | 明来闇去

 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             神の御心の中で

私たちは神の御心の中に住まわしていただいき、
神の大いなる愛の胸の中に生きさせてもらっています。
そして神様と全く同質同根です。
これをはっきり自覚することです。

この指が私たちなら、肉体が神様です。
親指は親指の使命を果たし、人差し指は人差し指の、
小指は小指の使命を果たします。
全部与えられたその場所に於いてその使命を果たしております。
目は目、耳は耳、鼻は鼻の使命ですね。

それと同じように私たちも、神様のある一部分を
果たさせてもらっています。
「私はこういうことはできません。
できないから神様に申し訳ない」とおっしゃる方があります。
しかし、例えば私は目の役をさせてもらっているとします。
ある方は耳の役をしているとします。
耳の役をしている方が、
「私はよう聞こえるんやけど、見ることはできない。

私は申し訳ない」と言って、
自分を責めては何もならない。
そのかわり目の役をしている人は聞くことができません。
そのように私たちは神様のご意志の何か一つを
ご用させてもらっているのです。
じゃあ、その目的は何か、です。

見る、聞く、嗅ぐ、この使命は違いましても、
そのなすべきことは愛です。
人様へのご奉仕、喜んでいただく愛の行為が指によって
一本一本違いましても、
その目的は全部それに費やされるのです。
それはこの肉体を運営するためにすべてが
協力してくれているのと同じことです。

そして、太平洋の水を一滴汲みまして、
その一滴の水をここに持って来ましても、
太平洋の水とこの一滴の水は何ら変わりません。
全く同質同根、同じものですね。

神様は太平洋であり、私たちは一滴の水です。
ならば、神様と私たちは何ら変わらない全く
同質同根であるということを知った時に、
私たちが何をしなければならないか、
そして何をしたときに神様と
一緒に同じようになれるかです。

そのためにまず知らなければならないのは神様の心です。
その神様の心を知るために、高橋信次先生は、
「神の心を知りたければあの太陽を見なさい」と言われました。
あまりにも有名な言葉でしたね。



明来闇去

2021-04-21 00:50:39 | 明来闇去
 
   恩師のご著書「思いの中に生きる」より

           亡くなった方に対する思い方


先の続き・・・

私は四十五歳の時に家内を亡くしまして、
子供を二人残されました。
下は中学一年生、上は高校でした。
その時、もう本当に忽然として亡くなりましたから
途方に暮れまして、これは
一体どうしたものか思い悩み苦しんでいた時に、
ある先生が私に教えて下さったのです。

これはその先生を通して神仏から教えていただいたんだと思います。
その教えが、「あなたは悲しんではいけません。
しかし、その人生の中で最も悲しいでき事であれば、
耐えて、無理して耐えて我慢することもないんです。
思いっきり泣きなさい。思いっきて泣いて、
そしていつまでも囚われないようにしなさい。
いつまでも囚われてはいけません。

そして本当に亡くなった奥さんのことを思うなら、
どっちが悲しいか考えてみなさい。
それは亡くなられた奥さんの方が悲しいはずです。
あなたにはこうして私ら大勢の者が付いています。
亡くなって行く者は一人です。

その人を本当に思うなら、その人のためを思うてあげなさい」と
いうことでした。
まあ、生きている時は本当に不調和な夫婦生活をしまして、
顔を見たら喧嘩していました。
本当にもう夫婦としては最失格者でした。

しかし、そのような中で、そのような試練を与えていただいて、
しかもその人を本当に思うなら、
その人の幸せ、死んでから幸せにするというのは申し訳ないのですが、
せめて死んでからでも幸せになってもらわなければならないと思って、
「安心して下さい」そして、「私はこの子供たちを責任をもって育て、
責任をもって独立させますから、あなたは安心して極楽の世界へ旅しなさい」
と言い聞かせました。
まあ、お陰様で二人の子供は無事に学校も出させてもらいまして、
いい所へお嫁にもらっていただきました。
幸せに暮らさせてもらっています。


明来闇去

2021-04-20 01:46:36 | 明来闇去

恩師のご著書「思いの中に生きる」より

   亡くなった方に対する思い方


先の続き・・・

生き残った者はまだ親しいお方、
兄弟とかあるいは子供とかあるいは
お友達とか親しい人が「お気の毒ですなあ。
辛いけどがんばって下さい」と、
慰めもいただけたら、励ましもいただけます。
死んで行く人、その人は自分が全く忘れている世界へ
帰っていくのです。

しかも、ただ一人で帰らなければいけません。
誰も付き合いしてくれないですね。
この間、飛行機事故で五百人亡くなられましたが、
あの方たちがいっぺんに同じ所へ行けるかというと違うのです。

その人の心によって全部別々になっているのです。
一緒に居ようと思っても、
その人の心によって一緒に居れないのです。
そのように、一人一人,一人ぼっちで帰るのが定めです。
では、本当はあの世に帰って行く人と
この世に残った人とどっちが寂しいだろうか。

どっちが辛いだろうか。
どっちが悲しいだろうか。
それは大勢居てもらう方が楽なはずですね。
少なくなったらなるほど寂しいはずです。
一人ぼっちになったらなお寂しい。

じゃあ、辛い、悲しい、本当に悲しい辛い思いを
されているのは死んだ人です。
その人に対して、生き残った者がワンワン泣き叫んだり、
自分を取り乱して我を忘れるようなことをしますと、
悲しい人に余計悲しみを与える結果になっているのです。

だから、亡くなった方のことを本当に思うなら、
自分をしっかりして、
亡くなった方に「今生こうして夫婦として
親子としてご縁をいただきました。
本当にいろいろありがとうございました」と、
まずお礼を申し上げるべきです。

そして、「私たちは寂しいし辛いです。
しかし、今まで以上に頑張って、
(たとえば子供さんが幼い場合なら)
私はこの子供たちと精一杯頑張って、
あなたの分もこの子たちを大事にして
一人前に育ててみせます。

だから、どうぞ安心して下さい。
後のことは心配ありません。
私が頑張ります。
ですから、安心して、極楽の世界へ旅して下さい」と
言って送り出すのが、
亡くなった方への本当の思いやりですね。


明来闇去

2021-04-19 03:43:30 | 明来闇去
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より

         亡くなった方に対する思い方


先の続き・・・

本当に亡くなった方のことを思い、その方を愛しているのであれば、
その人のためを思ってあげるべきですね。
亡くなった方のためを思って尽くすのが本当の愛です。
では、どのようにすればよいのか。
それは、自分も寂しいです。

しかし、亡くなった方の方がもっと寂しい。
それは考え方をちょっと変えればすぐわかります。
この世の中で、夫婦として親子として縁をいただけるということは、
最も縁が深いということです。

最も縁の深い者しか夫婦になれないし、親子になれません。
この世で最も縁の深い親しい者がこの世とあの世へ別れていくことは、
私たちの人生の中で最も悲しいできごとの一つです。
最も親しい人と別れなければならない。

これはお釈迦様もおっしゃっていますね。
いとしい者と別れる苦しみ。
憎い人と別れるのは、これはやれやれと思います。
いとしければいとしいほど、その別れは辛いものです。


明来闇去

2021-04-17 11:30:22 | 明来闇去

 恩師のご著書「思いの中に生きる」より

          亡くなった方に対する思い方


私たちが亡くなったお方に対してどういう思い方をするかですね。
これをよく思い違いをするのです。
もう年も九十、百近くになって、
「もう、あんた、ええかげんに死んどくなはれな」
「いやあ、そんなこと言うても、わしゃ、まだ死なれんわ」と言える、
そんなところまで生きた人は別ですけれども、

まだ所帯盛りの連れ添う方の亡くなった場合、特に女の方、
まあ男の方も一緒ですけれども、
「お父ちゃん、私らに付いて下さい。そして、
私らを守っといて下さい。
どこも行かんとこの仏壇の中におって下さい」と言って、
よく拝まれるのですね。

これはとんでもない間違いです。
そのように祈っていたいのは人情ですけれど、そういう祈りをしますと、
亡くなった人の邪魔をすることになるのです。
私らは亡くなったら、物質の世界(仏教では「色の世界」といっています)、
この現れた世界から、今度は目に見えない世界へ帰らなければなりません。
実在の世界、あの世の世界へ帰らなければなりません。

ところが、あの世へ帰ろうと思って旅立とうとするのですけれども、
生き残った者が、「おって欲しいんや。付いていて欲しいんや。
私ら守って欲しいんや」
というような願いをしますと、

行こうと思っている人の足を引っ張る結果になっているのです。
旅立ちの邪魔をしているのですね。
側に居て欲しいのは人情ですけれども、言ってみれば自分の我欲です。
守って欲しい。付いていて欲しい。寂しいから側に居て欲しい。しかし、
自分の我欲のために、亡くなった方が迷ってもいいということは言えません。
自分のために大事な人を迷わしたら大変です。



明来闇去

2021-04-16 19:07:47 | 明来闇去

※プロバイダー(google) のシステム・トラブルが本日現在回復しました。
具体的な理由は不明ですが、比国のインターネット・プロバイダーに何らかのトラブルが
あり、当ブログにアクセスできませんでした。
プロバイダーサイドのトラブルですので、利用者側では何の対策もとれません。
将来再び同じトラブルが発生するかもしれませんが、取り敢えず今、現在は投稿できますので、
当ブログの投稿を継続します。
当ブログに訪問していただく皆様にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
下記‘のURLはLivedoorでの恩師「長尾弘」先生の現在までに投稿しました全てのブログを
掲載してあります。
◆こちらのブログでは開設初日から現在まで投稿しました恩師の全てのブルグがご覧いただけます。
 万が一の時の為にお知らせしておきます。
http://hiromuneeikawa.livedoor.blog/


  恩師のご著書「思いの中に生きる」より

            見えないものの存在


先の続き・・・

人間の私たちは、この世に今生きさせていただいて、
この肉体あるいはこういう物質の中で、
ただこの世だけがすべてだと思って暮らしてきました。
けれども、この世だけではないということです。
目に見えない世界。
目には見えないから、
「ここに何かあるんですよ」と言いますと、
「この空間には何もない」と普通は言います。

しかし、目に見えないこの空間の中にも、ラジオの電波、
テレビの電波、いろんな電波が飛び交っています。
私たちの目には見えないだけで、現実にあるのですね。
もっとわかりやすいのは、部屋を閉めまして、
夏クーラーをかけますと、
どんどん水が出てきます。
何もないと思っているこの空間には、水がいっぱいあるのです。
水といえば語弊があります。

水の原子である水素と酸素がいっぱい充満しているのです。
熱作用によって水が分散して軽くなってこの空中にいっぱいあるのです。
ところが見ることはできません。
だから、それと同じように見えない世界に、
私たちのこの肉体がなくなった後の意識、
その人がもっている心があるのです。
本当なら「成仏」と言いまして、生まれてくる前に住んでいた世界に
帰らなければならないのです。
そこは極楽あるいは天上の世界と言います。

ところが、そこへ帰れないでこの世に残しているその思いが、
見ることはできないけれども霊として現実にいっぱいおられるのです。
病院なんか行きますと、霊視
もし自分の心ができていないのにそういう世界が見えますと、
もう恐ろしくていられない世界です。
死んで迷っている人はいっぱいおられます。
病院は自分を助けてくれる所、ここにいれば病気を治してくれる、
そう思ってその場所で死んだ人の思いが、
「ここにおったら助かるんや、治してくれるんや」

と思ってウロウロしているのです。
ところが普通は見えません。
触れることもできません。
だから、どこの病院へ行きましても必ず怪奇現象の起きる部屋が
二つ三つあるはずです。
部屋へ入ったら誰か枕元に立っちにくるとか、ドアを開けに来るとか、
そういうことはどこにでもあるのです。
それは皆、なくなった人の意識が残っているのです。


明来闇去

2021-04-05 00:18:16 | 明来闇去

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


         見えないものの存在

死んでから、蛇の姿になりあるいは狐の姿になって、
迷っている方がいっぱいあります。
本当は、蛇とか狐とかあるいは狸とか、
そういうものは人を化かしたり祟ったりしないのです。
そういう意識になり下がった人の意識が禍を起こします。

そういうことがわからないものですから、
「これはえらいことだ。祀れ。
供養せなあかん」ということになるのです。
地神さんというのは大体蛇の姿を見せます。
それは「人の執念」です。

これをゴミにたとえてみますと、
拝み屋さんが来て「ここ祀んなはれ」と言って
地祀りあるいは棚祀りをすることは
ゴミを掃除してゴミ箱に入れて屋敷の側へ
置いているのと同じことです。
うまいこと管理しないとまた出てきます。
神主さんが来て「祓い給え、浄め給え」とやったら、
チリ叩きでゴミを払っているようなものです。

その時はなるほどきれいになるけれど、
またそのゴミはそこへ落ちます。
一番いいのは掃除機を持って来てバーッとゴミを
皆吸ってしまって然るべく処置をしてしまうことです。
もう出てきません。
私の場合は掃除機でそういうゴミを
全部吸い上げてしまいますから、
後がうまくいきます。