~ 恩師の「心行の解説」より ~
調和のとれた日々の生活であるためには
「三つの幸せの根元」といえるものがあります。
一、 健康
二、 足ることを知った経済力
三、 心の安らぎ
つまり肉体の調和と、調和した経済と、心の調和です。
この中のどれが欠けても本当の幸せは掴めません。
これらが調和された時は心は穏やかですから
エネルギーが失われることもありません。
万生万物を含め、動物・植物・鉱物からは肉体の
エネルギーが与えられ、また、
神仏からは心のエネルギーを与えられます。
心が安らかで何の心配ごともなく、
腹を立てることもなく、恨む人もいない、
憎む人もいない、こういう時はとても楽に生きられます。
その楽な状態にあるから心に活力があり、
また次の喜びを得て、この喜びを人様に頒(わか)たなくてはいけない、
お伝えしなくてはいけないという気持ちも湧いてくるはずです。
それにはまず自分自身が救われることが先決です。
~ 感謝・合掌 ~
。。。恩師は書道をこよなく愛されました 。。。
●○●○● 「正法」と「書法」 ●○●○●
恩師はご講演会でよく説かれました・・・
正法と書法は大変よく似ているところがある・・・と、
正法も書法もその基本は「悪い癖・欠点」の修正であること、
恩師は書道の師範代の免状を得て後、浄心庵で書道を学ぶ方々を
指導されていました。
癒しで海外へ行かれる時も、書道の道具一式を持参され、
ホテルやその他、時間のある時は常に練習をされておられたことを
ご講演会の時によくお話をされておられていましたね。
小生は「正法」は勿論のこと「書道」のことも恥ずかしながら
何も知識がありませんが、師が「明来闇去」の作品で賞を
授与されたこともお聞きしております。
恩師が書かれた「字句」には光が出ていて、他の書道の先生が
書かれたものと比較してもどこか違うようですね。
正法のお話をしてくださる時、よく書道のお話を引用されて
お説きくださいました。
書道研究墨技会の「準師範」になられ「弘斎」の雅号を
拝命されましたことは皆様ご案内の通りです。
~ 感謝・合掌 ~
☆ 恩師に捧げる詩 ☆
我らの恩師
己が命を賭してまで
正法神理を説き給う
我三界に生を受け
父母に感謝の念も無く
自我我欲・自己保存に
過ぎし日々
尊き恩師に縁を得て
心の闇に光さす
ガンジス川の小舟の上で
昇る朝日を拝すが如し
大愚の我を
盲亀浮木の難き縁
導き給うた守護・指導霊
胸こみあげ涙とまらじ
正道を易しく衆生に説き給う
恩師の御姿 無上覚者と
唯一不二
ああ、ありがたきかな!
ありがたきかな!
~ 感謝・合掌 ~
~ 「恩師の真理を求める愚か者の独り言」より ~
不浄なる肉の身があってこそ悟らせてもらえる
古来、肉体は不浄なるものを詰め込んだ
皮袋にたとえられました。
目からは目糞、耳から耳糞、鼻から鼻糞、
歯から歯糞、皮膚から汗、アカ、
下からは大小の排泄物というふうに汚い
ものがこの皮袋に詰め込まれているのですが、
この不浄なる肉体があってこそ私たちは悟らさせていただけます。
肉体を持ちながら、その肉体や五感にとらわれないということは
心がそれだけ自由自在であり、
泥に汚れることのないあの蓮の花と同じだと思います。
そうして、はじめて本当の神に近づけます。
つまり、自分を犠牲にし、燃え上がらせ、
人様の喜びのために肉体を動かし、
しかも嫌いな人をつくらず、
平等に愛する心です。
太陽のような意識です。
~ 感謝・合掌 ~
~ 恩師のご講演会より ~
私のシャツには「おこったらあかん」と書いてあります。
何故「おこったらあかん」かと言いますと、それは
誰の心の中にも「鬼」と「仏」が住んでいて、
「おこったら」鬼が出てきて自分自身も苦しめますし、
周りの人々も苦しめるからです。
神様は自分自身を大事にしなさい、
そして自分自身を大事にするが如く
他を大事にしなさいと言われています。
ですから「おこったらあかん」!
そうすれば自分自身も幸せ(心に安寧を戴けます)になれますし、
周りの人々も幸せにすることができるからです。。。と、
我らの恩師はお説きくださっておられます。
~ 感謝・合掌 ~
◆ 恩師の御著書「真理を求める
愚か者の独り言」より ◆
◎ 作善止悪という簡単で難しい実践 ◎
この言葉の由来である古い時代の中国の故事を調べると、
こんな話があります。
白楽天という唐の時代の有名な詩人が、
かねてから気になっていた高名なふくろう和尚を訪ねます。
いつでも高い木の上で坐禅をしているので、
誰言うとなくふくろう和尚と呼ばれていました。
森の木の上にいるふくろう和尚に会うと、木の上の和尚に向かって、
白楽天はどうしたら人間は幸せになれるのかと質問をします。
すると、ただ一言 「作善止悪」 という単純な答えが返ってきました。
白楽天は思わず笑いました。
白楽天には教えのあまりのやさしさが意外に感じられ、
その言葉の幼稚さにあきれて帰ろうとした時、
うしろから 「三歳の童子これを知り、百歳の翁これを行えず」 と
痛烈な一言がひびきました。
私たちはものの善悪は三歳にして数えられていますが、
百歳になっても実践できないのが凡夫の姿です。
和尚は「三世の諸仏はことごとくこの法門を説き給う」と言われました。
三世は過去・現在・未来です。
いつの世にも変わらない真理として、
仏と言われる方はこの法門を説かれています。
~ 感謝・合掌 ~
※ 恩師がイエス様のアガペーの「博愛」について
ご講演をされていた際に恩師のお顔がお写真のように
変貌されました。
~ 恩師の「歌集」祈りより ~
私の身体は神のもの
私の身体は人々のもの
私の心は神のもの
私の心は人々のもの
私の時間は神のもの
私の時間は人々のもの
私の凡ては神のもの
私の凡ては人々のもの
~ 感謝・合掌 ~
~ 恩師の「御講演」より ~
我れ仏になれずとも
生きとし生けるものを皆、残らず救い助けんと
思う心ぞ 仏なる
この仏ならば思念・実践によって
誰でもなれます。
と、我らの恩師はお説きくださいました。
~ 感謝・合掌 ~
~ 恩師のオリジナル「神の御姿」より ~
私は形あって 形なし 形あっては
天地自然に現わせし 姿これなり
形なくては 汝らを生かさん
力これなり 汝らを 形あるものとして
この地上に生じせしめ 形なき
汝らの良心の囁きとなって我は証せん
~ 感謝・合掌 ~