浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2020-12-31 00:11:41 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

             子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

神様に不満の思いを抱き、文句を言っている時の自分の心は、
鬼の心同様です。
子が帰ってくれば、頭からどなりつけ、殴ったりしました。
しかし、神様に「私のもとに子供をどうぞ返してください」と、
自分からお願いした時、
子供が帰ってきて、顔を見せてくれた時は、神様に対して、
「よく私のもとへ返していただきました。感謝いたします」と言って、
心から神様にお礼を申し上げました。

そして、子供に対しては、「よう帰って来てくれた」という言葉を
かけるようになります。
幾晩か、家を明ける時もありました。
それでも、帰ってきたら、「よう帰ってくれたなあ」と言い、
いくら遅くても、風呂を沸かしてちゃんと入れるようにしておいて、
「早くお風呂にお入り。こんな無理をして体をこわしたらいけないから、
少しでも休まないといけない。早く寝なさいよ」と
言うように変わってきました。
それまでの鬼のような心はまったく消えてしまいました。

感謝と喜びの心になっていきました。
夜も寝ないで神様に文句を言っていた頃をふりかえりますと、
「なぜ家を出て行くのか。
なぜ帰って来ないのか。こんな子に育てたはずはないのに、
なぜこのように私のもとから離れようとするのか」という心でした。
この心を反省していきますと、これは自己中心的な心で地球上の全人類、
いや人間ならずとも動物、植物すべてが持っている心なのです。
それは、「自分にとって都合に悪いものはみな嫌い。

自分にとって都合のいいものはみんな好き」という心です。
私にとって自分の言うことを聞かない子供の行状が都合のわるいものだったように、
子供の立場に立った時、自分のことを思って言ってくれる言葉でも、何回も言われると
子供にとって都合がわるいことになります。
うるさいことでしょう。
まして、怒鳴ったり暴力をふるわれたら、最悪と思うでしょう。
都合のわるいところから逃げ出すのは当然のことでした。


明来闇去

2020-12-30 00:17:55 | 明来闇去

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

          子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

「しまった。うえらいことをした。お尻を叩かれ、
お尻をかばった手の指は折れてはいないだろうか。
お尻は切れていないだろうか」と思うと、
もういてもたってもおれず、

子供の部屋に上がっていきました。
「怪我はしていないか。指は大丈夫か」と言って、
体を見ますと、有難いことに指も折れていません。
「もう二度とこんな思いをさせないでほしい。

もうこんなことは二度としたくないから」
と、頼むように話しました。
しかし、聞いてはくれません。
やはりまた、朝まで我が子の帰りを待つ時もありました。
どこへ行っているのだろうか。

わるい男とつきあっているのではないだろうか。
男女の間違いを起こすのではないだろうか。
それこそ取越し苦労から、心配、不安、苛立ちと、
これほど思っているのに、
いったい何を考えているのだろうかと
怒りの心をどうすることもできない自分の思いを神に訴えました。
「神様、私をどこまで苦しめたら気が御済みになるんですか。
私に与えられる苦しみは、どんな苦しみでもお受けします。
子供を通して私を苦しめないでください」
神様に抗議し、文句を言って、時間を過ごしました。
しかし、そんな頼みごとを神様も聞いてくださいません。

何カ月かそういう生活が続きますと、
神様に文句を言うのもあきらめてしまい、
今度は頼みに変わってきます。
まさに苦しい時の神頼みです。

「神様、どうぞ子供がどこにいてくれるかはわかりませんが、
あの子に事故がないように、
過ちがないように、守ってください。
どうぞ、あの子に間違いがないように守ってください」と、
もう必死でお願いしました。

そして、「もし、許していただけるのでしたら、
一時も早く私のもとに子供を返してください」と言って、
泣いて夜を明かしたことも幾度かありました。


明来闇去

2020-12-29 00:20:52 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

         子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

今から数年前に家内をくも膜出血で亡くしました。
ある日突然、子供二人を残して他界してしまいました。
その時、下の子は中学三年生、上の子は高校三年生でした。
子供たちにしてみれば、突然母親を失ってしまい、
特に下の子は中学三年ですから一番心の揺れやすい年ごろでもあり、
心の不安定な日が続いたのです。

ちょうど次の年は上の子の大学入試、
下の子は高校入学という時期でした。
下の子は寂しいのでつい友達の所へ遊びに行き、
しだいに夜遅くなるまで帰らないということが続きました。
家内がいてくれたら、「お前、留守番していてくれ、
わしが探してくる」とか、

あるいは「お前のしつけがわるいから、
こんなことになったんだ」とか言って、
喧嘩もできるわけですが、一人ぼっちになってしまうと、
喧嘩相手もいません。
そうこうするうち、上の子は大学に合格し、寮に入りました。

下の子と私と二人きりになりますと、
夜、十時になっても十一時になっても午前零時になっても、
いっこうに家の玄関の戸はコトリともしません。
しいんと静まりかえる家の中で、

深夜まんじりともせずに何時間でも子の帰りを待っている
男寡の親の気持ちといったら、
言い表しようもありません。
自分自身に与えられる苦しみで自分さえ
耐えればいいというのならともかく、
我が子を通しての苦しみになりますと、

子供が立ち直ってくれない限りはどうにもなりません。
外出の時に下駄を履いていっていないのは知りながらも、
表で下駄の音がしたり、かすかな足音でもすると、
つい我が子が帰ってきたのではないかなどと思い、
外に飛び出してみたり、

どこへ行ったかわからない子を探してあてもなく出歩いたりと、
本当にいろいろと辛く悲しい体験をさせてもらいました。

最初のうちは、夜遅くでも帰ってきた子を、
「何をしてたのか」とまるで鬼みたいな剣幕で叱りつけていました。
「言うことを聞かないなら、髪の毛をつかんで引きずり回すぞ」と、
おどしてみても、

いっこうに聞きいれてはくれないのです。
「これだけ言ってもお前が聞いてくれず、口で言ってもわからないなら、
牛や馬のように体罰によるしかない。

もし今後、こういうことをしたら、姉さんの竹刀でお尻を叩くから」と
言いましても、
「ハイ」と言うだけです。
それでまた相変らず夜遅く帰宅します。

約束した以上は私も約束を破った子に体罰を
加えないわけにはまいりませんで、
「来い」と言って、竹刀を持って家の外へ出ると黙ってついて来ます。
「ごめん、今度からはしなから」と謝ってくれれば、
「もうしないでな」と言って済むことなのに、

黙ってついて来るので、やめるわけにはいきません。
「じゃ、向こうをむけ」と言い、竹刀でお尻を叩いてしまいました。
「痛い」と言って、本能的に尻をかばいます。
私は鬼みたいな心になっているので、一回では済まず、何回も叩きました。
「もういいから、お休み」と言うと、子供の部屋は二階にありますから、
泣きながら上に上がっていきました。


明来闇去

2020-12-28 00:37:55 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

           子供の問題はまず親の反省から


人生航路を航海し彼岸に到達するまでにはいろいろな
出来事を体験します。
浪一つない鏡のような海面を旅する日があるかと思えば、
暴風雨に遭い、今にも沈没しそうな日もあり、
深い霧に立ち込められて見動きのとれない日や、
やっと港にたどりつく寸前に暗礁に舟の底を割られて
沈没してしまう場合もあります。

人生とはまさに自然の姿そのままです。
魂を輝かせるには反省を通して己の心の癖、
欠点を正していかなくてはなりませんが、
その反省における気付きも、格好の材料となる苦しい
体験があってこそ可能になります。

ただ苦労だけして反省もしないのでは、
せっかくの体験も魂の向上のために生かせないと
いうことになってしまいます。
そもそも私たちが生まれてきた目的は、一人の例外もなく、
魂の進化向上のためですから、
いろいろな苦しいこと、辛いこと、悲しいことも、
反省と悔い改めの好材料として有難く受けていくと、
人生が好転していきます。

反省で最も難しいのは自己中心的な見方を離れ、
相手の立場に立ち、
さらには第三者の視点から自分と相手の双方を
見ていくということでしょう。
特にこれが難しいのは相手が他人ではなく、
自分の身内や家族の場合です。

今から十七年前、私の最も親しい心の友が
体験された厳しい修行を通して、
自己を発見され、喜びと感謝の心境に到達された記録です。
以下はその友の手記です。


明来闇去

2020-12-27 00:07:54 | 明来闇去
  
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

             なぜ毎日の反省が必要なのか


先の続き・・・

翌日の晩にまた、一日過ごさせてもらってから寝る前に
自分を見つめてください。
こうしていますと夜もたいへんよく眠れるようになり、
翌朝も素晴らしい目覚めがいただけるようになってきます。
それは心の荷物を捨て、心が軽くなっていけるとともに、
神様の光が差し込み、それに満たされてくるからです。
二十数年、毎日同じことを繰り返しています。

「真の神への感謝を今日一日忘れなかったか、
肉体をこの世に持たれ、
神と一体となられた光の天使に感謝することができたか、
先祖代々の諸霊の皆様に感謝し、供養する心を忘れなかったか、

両親に対して心配をかけたり、親不孝することはなかったか、
今日一日夫婦仲良くできたか、子供には豊かな
愛を平等に与えられたか、
自分の良心を裏切らなかったか」と、
毎晩、自分の心にチェック項目にしたがって見つめておりました。

このような心の掃除を毎日毎日休むことなく積み重ねますと、
心の苦しみの原因をつくることがなくなるにつれ、
知らない間に心が安らいでいきました。
毎晩毎晩同じことをして、「今日一日腹を立てなかったか」と
やっておりますと、私のようものでも、
もう腹を立てるのはアホらしくなってきます。


明来闇去

2020-12-26 00:10:57 | 明来闇去
  
      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

              なぜ毎日の反省が必要なのか


先の続き・・・

言ってみれば、雑草がはびこるようにどんどん心の中に
煩わしい思いが増殖していくのです。
たとえ、表面の意識からは忘れられたと思っても、
潜在意識の中でまだ生き続けていれば、
また何かの縁にふれて、表面の意識に顔を出してくることになります。
そこで、早いうちに根絶やしにするつもりで草取りをする必要が
出て来るわけです。

想念の法則によって、自分の発した思いは自分に返ってきて、
自分の運命を形づくりますから、
自らの人生をよくしたければ、
自らの発する想念に責任を持たなくてはなりません。
一例をあげると、反省するのにいい時間は寝る前です。
寝る前の最後の思考が、次の朝起きた際の最初の思考として
蘇ってくることはやってみればわかります。
死ぬ際でも同じことです。

どんな思いを持って死ぬかは重要です。
寝ている間も心の活動は続いています。
常に眠っている間中まったく夢も見ないで安らかな
状態であるというのは、ニルヴァーナ
つまり涅槃に達した方に近い心ともいえるでしょう。
とにかく寝る前に自らの心を顧みて、
安らかな心で眠りに入るのはいいことです。

夜寝る前に、今日一日の生活はどうであったかをふりかえり、
苦しみの原因である心の作用、
そして喜びの原因となる心の在り方に関する
何十項目かについて調べていくのです。

◆今日一日、腹を立てることはなかったか
◆愚痴を言わなかったか 
◆人を謗らなかったか
◆要らぬ不安恐怖に振り回されなかったか
◆両親の恩を感じ、その恩に対して万分の一でもお返しができたか
◆人々に心から慈悲を愛を与えたか
◆明日に我が身に死が訪れようとも、後悔のない一日を過ごせたか
◆明日に家族の誰かに死が訪れても、後悔のないように接することができたか

このように一つ一つ点検していきます。
もし何か反するものがあれば、「明日の生活に繰り返さないようにします。
神様、どうぞ私をお導きください。
明日からの生活を正してまいります」と誓って悔い改めることです。


明来闇去

2020-12-25 00:41:17 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

        第五章 心の曇りをとるための反省

        なぜ毎日の反省が必要なのか


かつては私独りでも禅定に入り反省するという時間を毎日とっていました。
いわば反省を日課としていたわけです。
そのうち、現在は私の癒しの仕事に助手をしてくれている方たちと、
「さあ、あなたたちの心の掃除をしましょう」と言って、
夕方の六時十五分から約一時間、反省と祈りの時間をとるようになりました。
それから、だんだんと集う人が増え、
何十人かで反省会をする日も多くなっていきました。
私自身はこの反省を一日も欠かさずに七年間のあいだ坐り続けました。
その間には第二章に書いたような不思議な現象も起きてまいりました。

今では毎週決まった曜日に誰でも自由に参加していただき、
六時十五分から「禅定」と称する反省会を行っております。
浄心庵には近くの方も遠くから見える方も合わせて大勢の方々が見えます。
後述する反省の項目をひとつひとつ言わせてもらい、
各人でご自分の心を見つめ反省していただくのです。
反省会は現在では毎日はやっていませんが、
ご自宅ででも毎日やられたほうがいいのです。
どうして、反省を毎日したほうがいいのかと言いますと、
日々の生活で私たちは今日どんなことに出くわすか予期もできないままに
新たな出来事に邁進しています。
人との間に生ずる出来事、自分が見聞きする様々な出来事に出会い、
身辺に何も起きないという人はいないはずです。

そうすると、その都度なんらかの思いが出ます。
何が起きようと私は何も思わない、無念無想だという人はおられないでしょう。
そこで、数え切れないくらいたくさんの思いを出します。
その中には当然ながら嫌な感情や人には見せられない邪(よこしま)な思いや
自分でも恥ずかしい考えなどもずいぶん含まれるはずです。
それを処理せずに放っておきますととうなるか、想像してみてください。
やがて、怒りなら怒りが増大し、執着なら執着が募りますし、
嫌な思いの種類も増えていきます。


明来闇去

2020-12-24 00:12:43 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第五章 心の曇りをとるための反省

先の続き・・・

実際、自らの心の中を見つめ、
奥の方にまでしまいこまれている心の重荷を整理し、
取り除いていったなら、必ず心は本来の軽さと明るさを
とり戻さずにはおれません。
なぜならば、本来は心というものはなんの塵も埃もない
光り輝く存在だからです。

だから、もし今目を閉じてご自分の心をよく見つめた時に、
不満や悲しみや苛々や不安や怒りなどがあれば、
それは本来の心ではないということです。
むしろ、そういうものは、心の上をよぎっていく想念です。

ちょうど、広大な空を流れていく雲のごときものです。
雲がよぎることによって空そのものは少しも乱れるものでも、
変わるものでもありません。
やがて時間とともに、暗雲は流れ去り、
再び広大な空が姿を見せ始めるでしょう。

心に何かのひっかかりや解決していない事柄や
心配の種などがあったら、即刻とは言わないまでも、
せめてその一日が終わる頃に反省をして、
すっかり取り除いておくことです。


明来闇去

2020-12-23 00:41:10 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


         第五章 心の曇りをとるための反省

先の続き・・・

反省の必要なんかないと言われる方は、
ただ気が付いていないだけのことです。
心がさわやかで澄みきった青空のようであったり、
反対に重苦しく不快だったりするのは、毎日毎瞬、
自分自身の思うことや行うことに原因があります。
過去、現在、未来とその時々で変化変滅していく心の状態が、
毎日の心の生活のしかたにかかっているということに気づかない方は、
天気のようにたまたま晴れたり雨が降ったりするだけなんだから
どうしようもないと堅く信じていらっしゃるかもしれません。
あるいは、
あの人が私の平安な心を乱してくれたと思うこともあるかもしれません。
しかし、責任はすべて自分自身にあります。
自分の運命も自分でつくっているのです。

なぜ、気が晴れないのか。
よく反省してみると、必ず自分が原因をつくっているはずです。
自分の言動、自分の思い方・・・。
たまにこんな人がいます。
誰に対してもよく気配りができ、
ニコニコした明るい雰囲気で思いやりが深く寛容な人です。
そんな人に出会った時にどう感じるか。
まるで、自分みたいと感じるか。
あるいは、素敵だな、私もあんな人になりたい―――そう感じるか。
それとも、「自分もあんなふうになれたらいいけど、
とてもじゃないけど無理だ。

実行は難しいな」などとあきらめてしまうか。
人格の素晴らし方に出会って、その人に憧れるだけでなく、
その人の生き方や態度を手本にして、
自分の魂を高めようと努力することに喜びを見出だせるか方は
なかなかいらっしゃらないと思います。
たいていは自分とはまったく違う他人と見てしまい、
自分がそのように立派で魅力的になろうとはしていないでしょう。
しかし、
実は誰でもそんなふうになれるのだと知ることが反省に向かう第一歩です。
反省に心を向けられる方は、
それによって自らの心を磨き高めることができるはずだと
いう希望と自信の持てる方です。


明来闇去

2020-12-22 01:28:15 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


          第五章 心の曇りをとるための反省

先の続き・・・

赤ちゃんの顔を見るとかわいくて安らかです。
心に曇りがないからです。
オギャーと生まれた時には私たちの誰もがあのようなきれいな顔、
安らかな心だったのです。
それがいつしか世の中の風に当たり、
様々な人との出会いや色々な出来事の中で苦しみを
経験して心を曇らせ、顔の表情を曇らせ、
顔つきまでも変えていってしまうのです。

そして、
ついには元来の自分というものの心がどれほど綺麗で平安に満ちていたかも
忘れてしまうのが、多くの人間のこの世の生活のならいです。
自分に不都合な出来事が起きるや、清らかな心は汚され始め、
顔も苦しみを表現し出します。
しかし、あくまでも心の本性は明るさであり、光だったのです。
なぜなら、心は神様から分け与えられたものですし、
これ以外に心はないからです。
闇の心というものは本来実在しないものです。
どういう運命や状況の中にあっても、この真実は変わりありません。
私たちが心から苦悩を取り除く方法を素直に実践していけば、
わるい運命や状況さえも好転してまいります。

私たちはもっと自由な存在なのです。
これは体験してきたことですから、嘘はありません。
では、どんな方法によって、心の本来の姿を現すことができるのでしょう。
毎日の反省ということによって、私たちは心の曇りを掃除することができます。
では、なぜ反省の必要があるのでしょう。
それは、
知らないうちに心にたまっていく塵や埃がだんだんと積もることによって、
いつの間にか心が重く、暗くなってしまうことのないように
反省を行なわなくてはならないからです。
不眠症の方が今日一日の反省をすると、よく眠れると言われます。


明来闇去

2020-12-21 01:16:57 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第五章 心の曇りをとるための反省

         心は本来、明るく光り輝くもの


最初に一番大事なことを言いますと、
世の中ではこれまで間違った常識がまかり通ってきました。
それは、人間は生きている以上、
心に苦悩があるのが当たり前という考えです。
これが今迄の人生観をつくってきたのです。
そして、心というものと苦悩というものが
いっしょくたにされたまま、
苦悩にまみれた心というイメージがありました。

晴れてもすぐに曇り、時にはドシャ降りというイメージが優先し、
本来の心がいかに清浄なものか、
もともと心はあたりを照らす明るい満月のような
存在だったということは、
ほとんど忘れられていました。
満月は雲に関係なく夜空に煌々と輝きます。
雲がその光を遮っているだけです。
心と肉体もこれと同じことです。


明来闇去

2020-12-20 00:17:36 | 明来闇去

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆心ここにあらざれば◆


先の続き・・・

そうすると、実際に嫌な事が現れてこなくなります。
それでも時々、怒りを発したくなる状況が襲ってきたりして、
試されます。

しかし、怒りたくなっても、算盤を置いて損得勘定をし、
損だと思ったらすぐやめることです。
自分の心を苦しめる結果となるとわかったなら、
その苦しみの原因となる怒りや憎しみなどの感情を
発するべきではありません。

それに、人のことを非難したり、人の悪口を言っている暇など
本来はないはずです。
自分の心を汚さず、苦しめないための努力を続けることです。
一瞬一瞬を大切に生きることです。

道を歩いていて何か急ぎの用があるとか、
目的の場所に一刻も早くたどり着こうとあせっている時は、
周囲の景色が目に入りません。
その用事さえ済ませると、心にゆとりが出て、
ああ綺麗な花が咲いているなあと気がついたりします。

長い人生の中で常に心にゆとりのある日々の生活が、
自然や人間やあらゆる物事と心の交流を楽しみながら、
潤いのある心の旅路であるためにも、大切であるといえます。


明来闇去

2020-12-19 00:30:30 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

    第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

         ◆心ここにあらざれば◆


先の続き・・・

今がよければ、次の瞬間もいいはずです。
実際には今しかありませんから、
いつも今の自分の心の状態を感謝と喜びと安らぎに
満たしていれば、これからもその状態であり続けます。
過去は二度と再び戻らないし、

未来というのはいまだ来ていません。
それらに心を煩わすのは愚かなことです。
幸せと喜びの種を一瞬毎に蒔いていくと、
やがては必ず自分のもとに返ってきますが、
これは人は盗むことができません。

いい事でも悪い事でも、自分で蒔いた種は、
結果として自分で引き受けなくてはなりません。
自分が蒔いた悪い種の結果を人のせいにはできません。
しかも、一粒万倍の法則といって、
稲が籾一粒に対してたくさんの株ができるのと同様に、
自分のつくった原因はいいわるいにかかわらず、

必ず利子がたくさんついて返って来ることになっています。
常に今に全力投球すべきです。
今どのような心の調和度のレベルに自らの心があるのかが、
いちばん大切なことです。

もし、怒りをいだいてしまったとしても、
それは次の瞬間にはすでに過去になっています。
怒りを一刻も早く捨てることです。
不要な感情を捨てる練習をしてゆくと、
最初は三日かかったのが、二日、一日とだんだん短縮されて、
ついには出でた瞬間に捨て去ることができるようになります。
すると、ほとんど感謝と喜びと安らぎの心の状態ばかりと
なってまいります。


明来闇去

2020-12-18 00:18:20 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

            ◆心ここにあらざれば・・・◆


先の続き・・・

契約にこぎつけるまで、その方の心は一つの目的に向かいすぎるあまり、
その場のことがいっさい目に入らなかったのです。
いいえ、もっと正確に言えば、心がそこにないので、
たとえ目で見ていてもいっこうに意識には
のぼらなかったということでしょう。

これと似たようなことは、私たちの日常生活の中で常に起こっています。
交通事故を起こした方は、
ぶつかった時の状態がどうだったのかをほとんど覚えていないと言います。
なぜならば、心がそこにないからです。

だから、前に止まっている車が見えないで当たってしまうのです。
考え事をしながら運転していれば、信号にも気がつきません。
赤信号で前進したり、対向車とぶつかったりします。

満開の花の中に座っていてさえ花が見えないのなら、
赤信号が見えなくて当たり前です。
極端な場合は、広い道の真ん中で正面衝突をしている場合さえあります。
これは心が不在だからです。

いかに心が大切かということです。
朝の出勤前に夫不喧嘩をして、腹を立てながら車を走らせ、
ドーンとぶつかったりします。
心が夫婦喧嘩の中に行っているからです。

朝の出がけには、どうか気持ちよく送り出してあげてください。
現在の結果は、必ず過去の原因から来ています。
災厄から身を守るためにも、
喧嘩によって心の調和を乱すことはよくありません。


明来闇去

2020-12-16 01:48:59 | 明来闇去

   恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第四章 「思い変え」こそ幸せの扉を開ける鍵

          ◆心ここにあらざれば◆


「目に見て見えず、耳にして聞こえず」という言葉があります。
以前、車にセールスマンが訪ねてきました。
軽四輪トラックを購入した時のことです。
一年間、一生懸命に手入れをし、
我が子のごとくかわいがっていたさつきの、満開の時期でした。
見事に咲いてくれましたから、

もう玄関から庭から座敷からいっぱいにさつきを取り込んでいました。
私が花の前で瞑想をしていますと、花の精が出て来てくれます。
花の精とお話をしたものです。
もう花が愛おしくて愛おしくてしかたがありませんでした。
そこへセールスマンの方がやってきました。

車をなんとか買ってもらおうと、一生懸命に勧めてくれました。
そして、書類に書き入れている間、
その方のお尻やひじがさつきに触れるので、花が落ちないか、
枝が折れないかと、その度に私は冷や冷やしておりました。
それで、書類ができて、それでは買いましょうということで判を押したら、
やっとその方が自分の心に帰られたのでしょう。

「ほう。きれいな花咲いてまんなあ」とおっしゃいました。
念のために聞いてみました。
「あなたは今までこの花が見えなかったんですか」と。
すると、「全然見えませんでした」と答えられました。
この出会いによって、私たちは花の中にあっても心がそこにないと
花が見えないのだということがわかりまた。