浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-01-15 00:54:37 | 明来闇去

       恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          前世の親子が今生で嫁姑となる


また、こんな話もあります。
今度は世間によくある嫁と姑との確執ですが、
この二人の縁が実は今生だけではなくて、
過去世にまでさかのぼるような因縁浅からぬものであったのです。
反省すると言っても、本人が覚えていない前世のことまで思いだすのは、

たいへん難しいことですが、それでもそういう場合があることを知って、
何事も謙虚に自己を顧みることは大切なことです。
身に覚えがないと言ったところで、
どんな貸し借りや、自らに課した誓いや
約束事があるとも知れません。

この話しを、
或る時に当方に見えた嫁姑の争いで心を
苦しめている方にさせてもらいました。
その方は嫁の立場でした。
私はそれが問題解決のために思い変えをする際の
いいヒントになると思ったのです。
話というのはこうです。
嫁と姑が仲がよくないために、
苦悩をかかえるお嫁さんがいました。
お母さんがお嫁さんとぶつかる原因というのは、
一人息子がかわいいあまりに、

といういわば母親のエゴなのでした。
これはありがちなケースです。
もちろん、お嫁さんにしてみれば、
いやなお姑さんということになります。
しかし、本当のことがわかった時に、
このお嫁さんのお姑さんが嫌いという
気持ちは雲散霧消してしまいました。

というのは、
苦しんで苦しんで苦しみ抜いた時、
ふと前世のことを思い出したそうなのです。
この二人は前世においてなんと実の母と娘だったのです。
それも娘さんのほうは非常なお母さん子でして、
お母さんが好きで好きでしょうがなく、
一生、いっしょに暮らしたかったのです。
ところが、いよいよお嫁に行く時になりました。
どうしても母と別れて暮らさなくてはなりません。

この娘さんは今度生まれ変わったならば一生お母さんの
面倒を見たいという思いを残して、
後ろ髪を引かれる思いでお母さんと別れて、
嫁ぎ先に行かなくてはなりませんでした。
一生、お母さんといっしょに暮らしたいという、
その執拗なまでの愛が、

今生でまた再びこの深い因縁で結ばれた二人が
めぐり逢うという形で現れたと
いうわけです。
それも、此の度は親子ではなくて、
嫁と姑という間柄でのめぐり逢いでした。
しかも、憎しみ合う嫁姑としてです。


明来闇去

2021-01-14 00:58:29 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第五章 心の曇りをとるための反省

       親子の確執が消えた反省の功徳


先の続き・・・

あなたの幼い頃に抱いてあげることも遊んであげることもできず、
寂しい思いをさせてしまったのではないかと、
泣いて話されると、娘さんもワンワン泣きだしてこう言いました。
「私だけなんで上に姉さんのようにしてもらえんのかと思って、
ずーっと寂しかった、辛かった」
お母さんは「かわいそうなことをした。堪忍して」と詫びました。

娘さんも「今迄の親不孝を赦してください。
私は今迄言えなかったのです。
これからは本当の親孝行をさせて下さい」と言って、
親子で抱き合って泣いて詫び合ったそうです。

このことがあって、お母さんから電話がかかって来ました。
「心の中の芯が抜けてしまったようです。
しかし有難いです」とおっしゃっていました。
この子は嫌らしい子だ、敵の生まれ変わりだという一心だったのが、
自然に消えて、なんとも言えないと泣いておられました。

この母と娘の場合は、互いになぜ自分は親にそむいて親をいじめるのかとか、
なぜこの子にいじめられるのかとか、それぞれの自覚がなかったのでした。
ところが反省して、お母さんはこの子に上に思いをいたし、
この子は辛かっただろうと懺悔した時、

わるいことをしたという思いに目覚めてきたのです。
一方、娘さんのほうもお母さんに手をつかれ詫びられたら、
いっぺんに心が開かれ、
地獄の毎日がたちまち極楽の世界となってしまったのです。
これこそは反省の功徳と言えるものです。


明来闇去

2021-01-13 01:35:33 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

            第五章 心の曇りをとるための反省

            親子の確執が消えた反省の功徳


先の続き・・・

この苦しみから逃れるには、前に述べたように常に自分を離れ、
まず相手の立場に立って見ることです。
それから善意なる第三者の立場、
さらには私たちを守り生かしてくださる神様の立場に立って、
自己と相手とを観察していくことです。

自分を反省して相手の立場に立って見直してみると、
とんでもない迷惑を相手に対してかけていた自分が
自覚されてくることがあります。
自分よりも相手はどうだったかと思う癖を常につける訓練をした時に、
ものの見方は変わってきます。
そのような話しをさせていただきました。
その翌日のことです。

夕方雨が降ってきて、洗濯物が干しっ放しでした。
娘さんは宗教の教会に出かけていて、いませんでした。
お母さんは、ああこれを取り込んでおかないと
また娘に叱られると思い、
取り入れていました。

すると、ふと娘さんの幼少の頃のことが思い出されてきました。
お子さんは三人おられ、上の二人の娘さんはすでに他家へ嫁ぎ、
下の娘だけが養子をとって現在跡継ぎとして同居していたのでした。
この方が幼い時はちょうどお姑さんが病気で具合がわるくて
看病に明け暮れていました。
それで、この末の娘さんは女中さんにまかせっきりに
なっていたということです。

「ああ、あの子を抱いて育てることがなかったなあ」と
いう思いがしみじみと
お母さんの心の中から湧き出てきたというのです。
上に子二人は我が腕に抱いて育てた。
しかし、あの子は抱くこともできなかった。

それでも、自分は姑さんの看病精一杯尽くしたんだから、
これでいいのだと思っていたそうですけれど、
あの子の立場に立ってみれば、
どんな思いをしたことだろう。
母親に抱かれることもなく、さぞ寂しく辛かったであろう、
と気付きが訪れてきたそうです。

しまった!かわいそう、でかわいそうで、
涙があふれ出して止まらなかったそうです。
すると、そこへ娘さんが帰って見えたので、
お母さんは仲のわるい娘さんの前に手をついて詫びられたのです。


明来闇去

2021-01-12 00:48:46 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          親子の確執が消えた反省の功徳


一度入ったら今度は出口がわからないほどのお城のような大邸宅があります。
ふだん使うのは門から百メートルほど離れた所にある勝手門です。
お屋敷には土塀がはりめぐらせてあります。
そんな大きく立派なお宅ですが、
そこに住んでいる母と娘は敵同士のように仲がわるいのです。
60歳代ぐらいのお母さんと40前の三人姉妹の末娘さんですが、
その娘さんが養子をもらって住んでおられるのです。
お孫さんは小学生です。

お母さんが言うには、
この娘は前世の敵が自分の腹を借りて生まれて来たのかと思うほどに
親のことをいじめるのだそうです。
箸がこけたのまでお母さんの心がけがわるいからだと
言って責める始末です。

その娘さんは妙な信仰に凝って、
お母さんのすることなすことから出かけた先までを逐一、
その宗教の教会へ行き、報告するのだそうです。
すると、宗教の神様が「そりゃ、お母さんがわるい」と言うので、
それをまた家でお母さんを責める材料として使う。
お母さんにしたらたまらないでしょう。

よく相談に来られて嘆かれていましたので、
「その娘さんが信仰に行っていたら、
お母さんもいっしょに行ってあげなさい」といいますと、
「妙な霊に憑かれると怖い」とのことでした。
「娘さんを救ってあげるためにも、

自分を捨てて共に行ってあげるのが真の愛じゃないでしょうか」と、
お話させてもらったのです。
しかし、「そこまではようしません」とおっしゃいます。
そこで、自分はいつも正しいと思うから苦しみが生まれるのです。
という話をさせてもらいました。

自己を中心として見た時、必ず苦しみが生まれます。
見たり聞いたり触れたりという五感を通して何もかも見ることになるからです。
それらにはどうしても自己保存を第一とする働きがあります。
すると、内部と外部、自と他という分離が生じてしまい、

自分以外のいっさいは己の自我と対立するものになってくるのです。
これではもう正しい見方はできません。
必ず自己保存と自我我欲によって目が曇らされた「煩悩」にとらわれた
見方しかできなくなってしまうのです。



明来闇去

2021-01-11 00:08:33 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第五章 心の曇りをとるための反省

      反省とは自分を離れてものを見る訓練


先の続き・・・

なかなか感謝できないのは、いつも何か欲しいとか、
期待したことが起きることを望んでいたりするからで、
結局は自己中心的な思いの中にいて、
外側の現実を見ようとするからです。
自分の欲望のほうに合わせて現実を切り取ろうとすると、
必ず過不足が生じてしまい、常に不平不満、愚痴、
怒りで心が占められることになります。

そして、
ガラクタばかりが詰まった部屋のごとくに新しい物事を迎え入れ、
感動するための余地、空っぽなスペースがなくなってしまうのです。
こうしたことにならないためには、できるだけ自分から思いを離し、
できれば
神様の目から自分を含めた全体を眺めることが必要となります。
それには、反省の訓練によって日々瞬々刻々、
天地万物いっさいに感謝できる自分にならせていただくことが
大切であると思います。


明来闇去

2021-01-10 01:32:54 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

         第五章 心の曇りをとるための反省

       反省とは自分を離れてものを見る訓練


先の続き・・・

相手の立場に立ったら、奥さんはご主人より早く起きて弁当をつくり、
ご主人や子供を送り出し、今度は掃除、洗濯、買い物をして、
夕食を用意して、と、たいへんな一日のはずです。
女の人はその一日の間にこれだけのことをしてくれるのだなあ、
と奥さんの苦労や努力がわかったならば、
ご主人の口からは「ああ、女の人も御苦労さんだなあ。
あんた無理せずに、適当に一服しなさいよ」と、
いたわりの言葉も出て来るものです。

また、奥さんのほうも、
「私は家の用事をバタバタと精一杯しているのに、
帰ってきたら洗濯物くらいちょっと取り入れてください」と言って、
主人をこき使おうとしますが、これが御主人の身になって考えますと
変わってまいります。
「男が一歩家をでたら、外に七人の敵がありで、
ずいぶんと御苦労さんなことです。
毎日会社に通うてもらって、
そのおかげさんで私たちはこうして生活させてもらって
有難いことだなあ」と思えば、

ご主人が帰って見えたら、「ああ、御苦労さんでございました。
お疲れさまでございました」という言葉が出てくるはずです。
自分を中心にして見ると、お互いに不平不満ばかりを
言い合うことになります。

常に相手の立場に立って見させてもらう訓練を日々
怠らないことが大切です。
そうすると、感謝の思いが出て来るようになってまいります。

人間の心は一つのことを同時に思えぬ構造になっています。
喜びの思いと怒りの思いは同時に存在できません。
この法則を利用して自らの心を苦しめないようにするには、
常に感謝の心でいることです。

感謝している時は、自らを苦しめるあらゆる想念が
入ってこなくて済むのです。
感謝は光ですから、その中で心のスモッグである業の
思いも消されてしまいます。
何事にも感謝せよとは、すべての宗教の教えるところですが、
その理由は実はここにあったのです。


明来闇去

2021-01-09 00:23:28 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練


先の続き・・・

この時は自分の思いを離れて、第三者的な目から見て判断し、
神様に自分の想念をあずけて心静かに祈り、
その中から出て来る正しい直感にしたがうのが最もいいでしょう。
自分がなんとかしなくてはという焦りや力みがあれば、
必ず間違います。
そして、せっかく助けてあげたのに、
あの人はなんて恩知らずなんだなどと
不平不満や愚痴が出て来ます。

どうしても私たちは自分中心でものを考えがちですが、
肉体の五官にとらわれた見方から、
自己を離れた正しい見方に変えていく訓練を積むことが大事です。
常に「してあげる」とか「してやる」というにではなく、
「させていただく」とか「させてもらう」という心で行うことです。

「あげる」「やる」ではたとえ善いことをしても、
文字どおり徳を逃がしてしまいますが、
「いただく」「もらう」という心構えだと、
善い行いは自分自身の徳として積まれることになり、
それがまた自分の霊格を高め、
運命としてもいいことが万倍にもなり、
自分に返ってくることになります。

ですから、「させていただく」という態度を常に忘れなければ
大きな間違いはありません。
こうした謙虚さは、いつも感謝に満ちた心でいることにも
つながってきます。
ご夫婦の間でもそうです。

ご主人は一生懸命に働いて稼ぎ、奥さんは結構に暮らさせてもらって、
それでいながら、「私は嫁さんだから主人が養ってくれるのは当たり前」と、
感謝をしないでいると、ご主人がありがたい存在だということを
忘れてしまいます。
もちろん、ご主人にも同じことが言えます。

奥さんが家庭の中で掃除、洗濯などの家事、そして留守中のおつきあいなど
いっさいをやってくださり、ご主人はそれに大いに助けられているのに、
それを「おれが働いて不自由な目にも遭わせず養ってやっているのに、
毎日何をしているのか」などと奥さんに対して好き勝手な
言葉を吐いたらどうでしょうか。


明来闇去

2021-01-08 00:14:17 | 明来闇去
 
     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

         反省とは自分を離れてものを見る訓練


私たちがどれほど「私は間違っていない、
私は正しい」と主張したとしても、
肉体の五官を持って生活している以上、
最初から現実を見る目に色眼鏡がかかっているのは避けられません。
ということは、自己保存と自我我欲の目で見る為に、
ありのままには現実が見えてこないということです。

では、どうしたらこの自己中心的な視点をもたらす
色眼鏡を外せるのでしょうか。
それは相手の立場に立って見ることによってです。
そして、善意の第三者の立場から相手と
自己を客観的に公平に見ることです。

そらに、天の立場、神の目からあらゆる
物事を見られるところまで行くように、
練習を積み重ねていきます。

なぜ、ここまで行く必要があるかと言いますと、
たとえばあまり情けが深すぎて相手に感情移入しすぎても、
かえってその同情が仇となり、冷静な状況判断を誤り、
相手の人ともろともに滝壺の中へ、

などということになりかねないこともあるからです。
何しろこの世は厳しく危険な修行場ですから、
ちょっと油断したすきに波にさらわれかねません。
相手の言うに言われぬ悲しみや苦労を聞いてあげ、

受け止めてあげるやさしさは必要ですが、
どうにも簡単には脱することのできない
深い業因縁の渦中に相手の方が
いる場合などは、
自分までいっしょにその中に入ってしまってはなりません。
だいたいに神様がおやりになることを自分がしてあげるなどと思いあがり、
下手に手を差し延べる日には、とんでもないことになりかねません。

相手が一日も早くそこから脱して幸せになるのを心から祈り、
できることはさせていただくしかありません。


明来闇去

2021-01-07 00:10:15 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

この反省をしていくと、心の世界の無限なまでの広がり、
広大さというものがわかってまいります。
それとともに、己れがそれまで信じてきた自分というもののちっぽけさ、
狭さ、浅さ、未熟さもわかってまいります。

それらが自分、自分と思っていたけれど、
実は本当の自己はそんなものじゃなかったんだ、
ということまでわからせてもらえます。
反省というと、何か見たくない自分を無理に見せられるような
強制感を覚え、自己嫌悪に陥るのが関の山だと思い違いしている方が
案外おられるのではないでしょうか。

怖くて自分の内面なんか見られないと。
しかし、反省とは自分を知り、愛し、大切にすることです。
反省において発見の喜びのような感情がともないますと、
反省と悔い改めは何も自分を責め裁くためでも罪悪感を
自分に植え付けるためでもなく、
これまで気付かなかった自分を知り。

未来の自分を新たに創造していくたいへん楽しく希望の持てる
行為だと体験的にわかってまいります。
そこに反省が内的な旅であり、冒険であり、
自己創造であるとも言える所以があると思います。
我が子が鏡となってくれ、自己の欠点や思い癖を反省する
機会が与えられましたのを生かし、
古い自分から脱皮して、

もっと好ましい神様の御心によりかなった自己へと
成長していくことができたわけです。
なんと有難いことでしょうか。
お釈迦様が人類の遺産として遺してくださった真理のみ教えと、
それをまた私に伝えてくださった高橋信次先生との出会いと、
そしてその有難さが理解でき、実践させていただける自分自身の
魂に深い感謝の念を禁じえません。

これで手記は終わっています。
この心の友は、人間知ではどうすることもできない苦悩の中で、
誰にも相談できないでいたわけですが、
目に見えない神との対話を通して自らを反省することへと
導かれていったようです。


明来闇去

2021-01-06 00:19:21 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

             子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

しかし、これは反省をさせてもらうことのよってしかできないことです。
無自覚にいつもどおりに考え行動することを、ちょっとスットプしてみるのです。
いったん反省に入り、相手の立場に立ってみると、改めて相手の置かれた状況、
気持ちや心遣いがわかっていきます。
それと同時に、自分自身のそれまでの自己中心性にはじめて気付かされます。
たとえば、思いやりが足りなかった自分。
自分さえよければいいとか、自分のことで精一杯、
忙しく人のことなんかかまっていられないというのを正当化していた自分。
自分にとって嫌なことをすべて相手の欠点と決めてかかっていた自分。

相手に対するマイナスイメージを固定したままずっと変えないで、
歩み寄ることもしなかった自分。
自分が正しいと信じたこと以外には耳も貸さぬ頑迷な自分。
こうした自分というものに気づきます。
ここでまた反省が深まり、「自分がわるかった。
もう今までの自分を捨てて、新しい自分に生まれ変わろう」と、
悔い改めの心が育ってきます。
反省するごとに、これまで気付いていなかった部分に光が当てられ、
この領域がどんどん拡大していき、また深さも深まっていきます。


明来闇去

2021-01-05 00:40:41 | 明来闇去

          恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

              子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

ちょうど、
二月の凍てつくような寒空に冷たいお月様がこうこうと
照り冴え渡っていました。
もう家にじっとしていられなくなった私は、
子がどこへ行ったかもわからないのに、
駅まで迎えに行きました。
地域の役員をさせてもらい、顔が広かったので、
「○○さん、こんばんは」とか、
「何をしているのですか」とか、声をかけて来られる方がいます。
「いや、ちょっと」言ってごまかしているのも辛いので、
電車が来る度にホーム近くに駆けていって、
陰に隠れて電車から降りて来る人々の中に我が子がいないかと探し、
降りる人が一人もいなくなると、線路沿いに駅を離れます。

青少年指導員などもやっておりましたから、
夏休みの非行対策に学校の先生と連絡を取りつつ、
巡回するのです。
「泥棒を捕えてみれば我が子なり」となっては格好がつきません。
私はヒヤヒヤしながら巡回していました。
遮断機の音がチンチン鳴ると、駅のほうに走り寄る。
終電までそれを繰り返していました。

その時、お月様を見ながら、本当に辛いなあと、つくづく思いました。
しかし、この苦しい体験も今にして思えば、自分が反省することにより、
自らのわるい癖、
欠点に気づいてこれを修正するための貴重な試練の機会であり、
子供は私にとってはその意味で有難い恩人であったのでした。

私たちは都合のわるいことはすぐ人のせいにしてしまいがちです。
「自分は正しいのにあの人がわるいからこんなことになるのだ」と、
自分を正当化してしまいます。
そうやっている限りは、なんとかして相手の間違いを改めさせようとして、
抵抗する相手を力づくで自分のいいように変えさせようとしますから、
自分のわるいところには気付かないばかりか、

相手が変わらないと言って嘆き、またイライラしたり、怒ったりします。
結局、自分の心を苦しめることになります。
また、相手の心にも苦しみを与えていることになります。
それを今度は相手の立場になり、また両者を公平に見られれば、
お互いに救われます。


明来闇去

2021-01-04 00:20:27 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

             第五章 心の曇りをとるための反省

              子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

ちょうど、
二月の凍てつくような寒空に冷たいお月様がこうこうと
照り冴え渡っていました。
もう家にじっとしていられなくなった私は、
子がどこへ行ったかもわからないのに、
駅まで迎えに行きました。
地域の役員をさせてもらい、顔が広かったので、
「○○さん、こんばんは」とか、
「何をしているのですか」とか、声をかけて来られる方がいます。
「いや、ちょっと」言ってごまかしているのも辛いので、
電車が来る度にホーム近くに
駆けていって、陰に隠れて電車から降りて来る人々の中に
我が子がいないかと探し、
降りる人が一人もいなくなると、線路沿いに駅を離れます。

青少年指導員などもやっておりましたから、
夏休みの非行対策に学校の先生と連絡を取りつつ、
巡回するのです。
「泥棒を捕えてみれば我が子なり」となっては格好がつきません。
私はヒヤヒヤしながら巡回していました。
遮断機の音がチンチン鳴ると、駅のほうに走り寄る。
終電までそれを繰り返していました。

その時、お月様を見ながら、本当に辛いなあと、つくづく思いました。
しかし、この苦しい体験も今にして思えば、自分が反省することにより、
自らのわるい癖、
欠点に気づいてこれを修正するための貴重な試練の機会であり、
子供は私にとってはその意味で有難い恩人であったのでした。

私たちは都合のわるいことはすぐ人のせいにしてしまいがちです。
「自分は正しいのにあの人がわるいからこんなことになるのだ」と、
自分を正当化してしまいます。
そうやっている限りは、なんとかして相手の間違いを改めさせようとして、
抵抗する相手を力づくで自分のいいように変えさせようとしますから、
自分のわるいところには気付かないばかりか、

相手が変わらないと言って嘆き、またイライラしたり、怒ったりします。
結局、自分の心を苦しめることになります。
また、相手の心にも苦しみを与えていることになります。
それを今度は相手の立場になり、また両者を公平に見られれば、
お互いに救われます。



明来闇去

2021-01-03 00:22:24 | 明来闇去

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

           第五章 心の曇りをとるための反省

           子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

早く帰ってくると、自分も気持がいいですから、
「パパ、ただいま」と、元気な声で言ってくれます。
私も「ああ、よう帰ったな」と言って、
それまでの心配な状態はなくなっていきました。
この子もお陰様で大学に行かせてもらい、
もったいない所に嫁がせていただき、子供も授かり、
幸せに暮らしています。

上の子も幸せな結婚をして、やはり子供を授かり、
幸せにさせていただきました。
いい子であったからこそ、
このような結果が生まれたのです。
原因結果の法則から見ても、
もし子供が本当にわるい子であれば、
現在のように人の羨むような結構な生活が
送れるはずはないと思います。

それでは、私に苦しみが与えられたのは、
いったいなんだったのでしょうか。
それは、子供が親に心配をかけることによって、
私の持っているわるい癖や欠点を正してくれようと、
親不孝という子供としては最も深い罪を自ら
背負ってくれていたのです。

それによって、愚かな人間である私は
目覚めを与えられました。
つまり、子供にはなんの罪もなく、
わるいのは私のほうだったのです。
すぐに腹を立てる。

都合のわるい癖、欠点をなんとか直してやろうとして、
子は自らを犠牲にして、私に目覚めを与えてくれたのでした。
そのように思い、感謝の気持ちで子に手を
合わせられるようになったのは、
鬼のようだった心を自然のうちに反省して、
直していただいたからです。


明来闇去

2021-01-02 00:18:06 | 明来闇去

  恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

          子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

はじめは部屋で子供の帰りを待っていると、
ソーッと音をたてないようにして家に入ってきて、
或る時は。縁側から入り、泥棒のように抜き足、
差し足で自分の部屋に上がっていきます。
私は子供が帰ったことも知らないで、
朝まで待って腹を立てているのです。
朝になり、二階から子供が下りて来ると、
私はまたさらに腹が立ってきて、

「帰っているならいると言えば、
こんなに心配しないのに」怒ります。
それがだんだんと私のほうが変わってまいりますと、
今度は子供の方も変わってまいります。
そして、帰りが遅くなっても、私の部屋の戸を開けて、
「ただいま、パパ、ごめんなさい。
遅くなりました」と言ってくれるようになりました。
そのような生活を続けて、二年ほどはかかりましたが、
だんだんといい子になってくれました。



明来闇去

2021-01-01 00:31:07 | 明来闇去

 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

          第五章 心の曇りをとるための反省

           子供の問題はまず親の反省から


先の続き・・・

子供の為を思い、なんとか子供に幸せになってほしい、
間違いなく育ってほしいという
強い願いを持って、親の愛情ゆえに一生懸命に言うのですが、
言われる側にとっては、都合がわるいのです。
「盗人にも三分の理」と言いまして、盗人でも、
厳しく怒りますと文句を言います。

子供も同じことでして、あまり親がやかましく、
子供のためを思って叱ったり文句を言ったりして言い聞かせたなら、
やはり子供にとっては都合がわるいということになってきます。
後になってわかったことには、深夜喫茶とかいうのは
一晩中店を開けているそうです。
そういう所に友達どうしが集まっていろいろと話をしていたら、
すぐ夜は明けるそうです。
そういうことが続いていたようです。

友達どうしでたあいもないことをワイワイしゃべりながら遊んでいたら、
誰も文句は言いませんし、それはものすごく都合がいいはずです。
ところが、家に帰ってきたら、親は小言を言い、叱りつけ、
あるいは殴ったりします。
それはものすごく都合が悪いことに決まっています。

だから、都合のいいほうへ、いいほうへと流れていくのは当然です。
そして、文句を言っていたお思いが神様にすがるようになります。
「なんとかこの子が外にいるよりも親のそばにいるほうが、
都合がいいようにならなくてはいけない。
そのために叱ってはいけない。

叱るのはいいとしても、絶対に怒ってはいけない」ということがわかりました。
それから、いくら帰りが遅くなろうが、幾晩家を空けようが、帰ってきたら、
「ああ、よう帰ってきたな。よう帰ってくれた。早くお休み。
そして、できたらもうこんな心配はかけないでほしい。
まず、あんた自身を苦しめてはいけない」と言って、
これまでのように怒るのはいっさいできなくなってきました。

そうしますと、子供にとって都合がよくなってきたのです。
今迄気が狂ったようになって、我が子のために思って言っていたことを、
子供はよく知っています。
それが全然怒らなくなり、自分を大切にしてほしいということだけを頼んで、
早くお風呂に入りなさい、早くおやすみなさい、
と言っていますと、子にとってだんだんと親の存在は好都合になってきたのです。