浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-03-29 00:29:17 | 明来闇去

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より

        「先祖供養」について(その1)


先の続き・・・

      「戒名」について

今日はお坊さんはお見えになっておられませんね。
お坊さんの営業妨害になったら叱られますので。
夕べですが、「戒名」についてテレビで言っていましたね。
お寺さんが戒名いくら、お布施いくらと決めるのは、宗教上ちょっとおかしい。
だから、宗教法人への税金を考えないといかんということがニ
ュースに出ていましたね。

まるで商売。
或る方は言われました。
お寺さんに行きますとメニューみなたいに、「この戒名やったらいくら、
これやったらいくら、どれにしますか」言うて、
見せてくれはるそうですね。
「戒名のメニュー」です。

しかし、いくらいい戒名をつけても、
それは亡くなった方には何の関係もないそうです。
わからないからです。
その証拠に、あの世の霊の方と数え切れないほどお会いさせてもらって
お救いさせていただきましたが、
そういう方は皆、戒名は何にもならんとおっしゃいます。
そして、呼び出す場合に戒名を呼んだら出てきません。
自分のこととわからないんですね。

俗名を呼んだらすぐに出てきます。
「おい、はっつぁん」と言ったらすぐ出てきます。
「おい、熊さん」と呼んだらすぐ出てきます。
常に一番親しい自分の呼び名を覚えているんですね。
だから、戒名なんか呼んでも出てこられません。
そのようになっております。


明来闇去

2021-03-28 00:43:13 | 明来闇去

   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


         「先祖供養」について(その1)

先の続き・・・

というのは、私には私のお父さんそしてお母さんがいてくれました。
そのお父さん・お母さんにはまたそれぞれお父さん・お母さんが
おられるはずですね。
そのお父さん・お母さんにもまたそれぞれお父さん・お母さんがおられます。
そのようにして、三代、四代、五代、六代、七代、八代・・・
三十代溯りますと十憶のご先祖様(2の30乗=1,073,741,824)、
わずか三十代前で十憶を

超えるご先祖様のご縁をいただいているということです。
じゃあ、十憶以上の数え切れないご先祖様になんぼ大きな丼茶碗を
もってきましても、そりゃ足りません。
また、どれだけ大きな丼茶碗に御飯を装ってお供えしても、
一粒ずつもあたらないのです。
そして、そんなもので成仏はできないのです。

以前に、地獄に八百年も迷うておられる方が出てきました。
その方に、「八百年の間にあなたの子孫の方はあなたに
どれほどの経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほど経文の供養を受けましたか。
それによって救われましたか」と聞きますと、その霊が言われましたね。
「あれは何もならんのう」。「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しゅうて訳がわからんわい」お経の意味が
わからんとおっしゃった。

だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
また、お茶も聞きました。
「あなたが所望されたら、子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」とおっしゃった。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。

その時、「ああ供えてくれたなァ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、いつまでたっても
満足を得ることはできません。
また供え物についても聞いてみました。

「今日までに、どれほどの供え物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、それによっても満足は得られなかった。
戒名なんかはけっさくです。
「よき戒名を付けられたでしょう」と聞きますと、
「あれは何もなっておらん」。
「どうしてですか」と聞いたら、「わしが死んだ後のこと、わしゃ知らん」
こう言われました。

だから、ご先祖様にお茶を供え、炊きたての御飯を供えるのは、
「ご先祖様の
お陰さまで、こうして今日も熱いお米の御飯を頂戴できます」と言って、
感謝の気持ちを形として表したものです。
それが本当のお供えです。

そうでなくて、「ご先祖様に食べて下さい」と言って供えたらいけませんよ。
ご先祖様も難儀されます。
取り合いして、「俺の飯もうないわ」必ずそうなると思います。
お茶もそうです。
しかし、極楽へ行くと「御飯、お茶」と言えばすぐに出てきて、
何も不自由しないのです。
本当の帰るべき世界・正しい教えというものを知っておりますと、
そんな供物はいりません。


明来闇去

2021-03-27 00:30:54 | 明来闇去
 
  恩師のご著書「思いの中に生きる」より

            「先祖供養」について(その1)


ある宗教はご先祖様を大事にすることを強調しています。
これはいいことですね。
ところが、仏壇の中へご先祖様のとまっていただく位牌、
先祖様のとまり木を作らなければならないといっています。
これはご先祖供養の本当の意味が理解されていないのです。
もし、私たちがこの世を去りまして、

仏壇の中の位牌のような所へとまってしまいますと、
成仏はできません。
とまり木、そんな所へとまらされたら大変です。
私たちは素晴らしい光輝く天上の世界、
光明燦然と輝く喜びと安らぎと調和に満たされた世界へ
帰ってこそ本当の成仏ができます。
それはこの三次元の世界とは全く質の違う世界ですね。

私たちはその世界からこの地上の世界へ自分の魂の
修行に出させてもらっています。
ですから、実践といいましても、ご先祖供養というと、
拝みなさい、ものを供えなさい、
護摩を焚きなさい、あるいはいい戒名を付けなさいと
いうことになりますが、

これらはあくまでも供養の手段でしかないのです。
では、目的は何かです。
極楽の世界へ帰ってもらうことこそ本当の目的のはずですね。
この世界に思いを残しますと、その思いによって
自分の心がその場所にとどまります。

私は死んだら仏壇の中に祀ってもらう、あるいは、
このお墓の中に入れてもらうと思っておりますと、
必ずその場所に行ってしまいます。
その場所は極楽とはほど遠い場所です。
極楽は素晴らしい世界です。

その極楽へ帰っていただくことが、
私たちが先祖供養させていただく究極の目的のはずですね。
また、「慰霊(霊を慰める)」あるいは「鎮魂(魂を鎮める)」
「除霊」とかいろいろありますけれども、
「救霊(霊を救い上げる)」という言葉はあまり聞きません。
どの宗教もあまり説いておられませんね。

「救霊」すなわち霊を救い上げてしまうのが本当の供養の目的です。
それを知らなかったから、供えなさい、祀りなさい、
拝みなさい、ということになるのです。
ひどい所になりますと、あるお宅へ寄せていただきましたら、
お仏壇に、大きなお仏壇ですけど、
湯呑みが四十個も供えてあるんですね。
それにお茶を入れて、毎日お茶湯されています。

また、あるお宅へ行きますと、
大きな丼茶碗に何杯もお茶を供えてあるんです。
丼茶碗です。
「これ、何しているんですか」と聞きますと、
「これ、ご先祖さんにお茶を飲んでもろてますんや」とのこと。
なるほど大きな丼茶碗あるいは四十個の湯呑みをずーっと並べまして、
お茶をなみなみとついで供えていますけれども、
私たちのご先祖様はそんなに少なくないんです。


明来闇去

2021-03-26 00:07:58 | 明来闇去

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「結構の源やん」

思い替えの方法で一番参考になるのが、この『結構の源やん』の話しです。
今の東大阪に、名前は「源やん」、
渾名は「結構」という方がおられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不足を言われなかった。
何が起きても「アア、結構やないか、結構やないか」と
おっしゃったそうです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という名前です。

で、ある年、毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一カ月ほども降ったそうです。
その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。
雨の三日も降ればよい」といって、
三日間仕事ができなければ、
もう日雇いの人は食べられないような状態だったのです。
源やんの友だちの人たちが、
「さすがにあの結構の源やんもこれだけ雨が降ったら、
もう結構ってよう言わんやろなァ。

一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、
源やんの家に行ったそうです。
「源やん居てるかーッ」と言って行ったら、
「ハーイ」と出て来られたそうです。
「かなわんなァ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。

「結構、結構やないか」というのは、
「有難いやないか」ということです。
「ああ結構やないか」。
「これだけ雨が降るのに何が結構や」と聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天で受けてくれはって、
そしていっぱいたまった三十日分をバーッと
一遍にぶっちゃけてくれはったら、
家も畑も田圃もみな流れてしまう。

こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と
言って喜ばれたそうです。
世間の人は皆「かなわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な結構な、まあ大金持ちになられたそうです。
大阪で有名な話です。



明来闇去

2021-03-25 00:11:47 | 明来闇去

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「感謝する」とは

先の続き・・・

腹立つことも人間の心の苦しみですね。
いつもお話しします『心の砂袋』、私たちの心の砂袋、
その砂袋の材料です。
怒りとか、妬みとか、そしりとか、愚痴とか、あるいは恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労したり、また不安とか恐怖。不安・恐怖は
あまり楽しくないでしょう。
あれは砂袋の材料です。

そして、そういうものを心の中へいっぱい詰めてしまいますと、
心が重くなります。
ところが感謝しておりますと、そういう砂が入ってこないのです、
自分の中へ。
感謝で心を満たしている限り、二つを同時に思えませんから、
ただ感謝だけですから、他のものが入れないのです。
ということは、自分の心が曇る量が少なくなるのです。
「有難い」「結構や」「何と幸せや」、
そういう思いを常に持ち続けたら
他の想念が入れませんから、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が
与えられるということですね。

そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって
結構に満たされておりますと、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が与えられるということですね。
そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって
結構に満たされておりますと、
こんどは肉体も結構になっていくのです。
肉体が結構になるということは健康になることです。
病気が消えていきます。

何故かと言いますと、「肉体の支配者は己の意識なり」と
説いていただいています。
自分の肉体を支配するのは、自分の心だということですね。
肉体の支配者は己の心。
その心が「結構や、結構や」と言っておりますと、支配者が
「結構や」と言っているから、
その家来である肉体も結構になっていくのです。
また同時に、今度は環境が結構になります。
環境が結構になるということは、商売は繁盛する、家の中はうまくいく、
そして人からかわいがってもらえる等です。

感謝ということはものすごい功徳があるということですね。
この功徳を説きますと、「ア、そりゃ現世利益や」と、
言われるかも知れませんが、
まあ何と言われようと構いません。
要は幸せになることです。
幸せになれない信仰、幸せになれない教えでしたらしない方がましですね。
そんな簡単なところに幸せになる「法」がちゃんと与えられていたのです。
それに気付くことができなかった。

この「法」とは、そういう真理、隠された真理が現象に現れるのです。
ですから、思いはこのように持たなくてはならない。
常に他を生かす、あるいは喜び・感謝の心を持つこと。
これを今様の言い方をしますと、プラス・マイナス、
プラス思考あるいはマイナス思考。
常に心はプラス思考、プラスの考えの方に向けておけばいいのですね。
マイナスの方に向けますと、やがてすべてがマイナスになってしまいます。


明来闇去

2021-03-24 00:23:24 | 明来闇去
  
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             「感謝する」とは

「感謝」は自分の心を一切の魔から守っていただけます。
それはどういうことかといいますと、人間の心は二つの思いを同時に思う
ことはできません。
どんなに器用な方でも心は二つを同時に思えないように
神様がお作りになったのでしょう。
心を分析しましたら、心というものは必ず一つずつしか
思えないようになっています。
瞑想又は精神統一されたらよくわかるでしょう。
「一度、心を統一しよう」と思って坐ってみて下さい。
心はたちまちコロコロと転げ回ります。
まるで山野の猿の如く飛び回るものです。

ところがよく考えてみますと、必ず一つ、一つずつを思っています。
禅定して、「今日は心を統一して禅定三昧に入ってみたい」と思っている時、
誰かが下駄の足音をカタカタと鳴らして通ったとします。
「ああうるさいなあ」「今の下駄の音は重そうだからたぶん男だろう」
「あれは大分よく肥えた人にちがいない」「どこの人かなあ」
「今頃、何をしに来たのだろう」・・・・もう次から次へと休むことを知らず
思いが飛び回りますが、必ず一つずつだけ思っています。
「ああ悲しい、ワッ嬉しい」この思いを同時に思うことはできません。
また、怒り狂いながら心に安らぎを持つこともできません。
必ず一つずつだけを思っています。

ということは、「ああ有難いなあ」、「有難いなあ、結構やなあ」と
思っておりますと、
その思いだけしかできないはずです。
それでは、もし一日のうちの十分間「ああ有難いなあ、結構やなあ」
「ああ有難いよ」と持続できますと、
この十分間は、他の考えは入れないです。

ということは、今日という日の一日の中で十分間が
心安らかだったのです。
では、一時間「ああ結構やなあ、結構やなあ」と言って
感謝の念を持ち続けたら、
今日という日の一時間は幸せな時間が保つわけですね。
じゃあ、もう一日中「結構や、結構や」と言って暮らしたら、
今日という日が、
幸せ以外の思いが入らないから、幸せだったはずですね。
して、その積み重ね、今日一日「結構結構」と言って暮らし、
また明日も
「結構結構」と言って暮らしますと、また明日も幸せな一日。
二つを同時に思えないのですから。
この積み重ねが幸せな人生になるはずです。


明来闇去

2021-03-23 00:17:06 | 明来闇去

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


           許しについて

先の続き・・・

許すことのできない人を許したときほど、
自らの心の喜びが大きくなります。
許せないから、私たちはよう許さなかったのですね。
しかし、許さない限り自分自身が許されないんです。
相手を許すのではない。
許させていただくんです。
心の底から許させていただいたとき、その人を見ても、
その人のことを思い出しても、
縁に触れても、もう腹は立ちませんが、許しておりませんと、
普段は忘れております。

しかし、その人のことを聞いたり、
あるいはその人のことを思い出すと、また
顔を見たりしますと、
「あの人はあの時えらいめにあわせやがった」いって、
その時の苦しみがそのまま再現されるんです。
即そのままその苦しみが自分の心の中に蘇ってきます。
だから、死んでももっていかなければなりません。
人は誰でも過ちを犯します。
自分も犯したはずです。

その犯した自分が許していただいて生きさせてもらっています。
では、人の過ちも許させてもらって当然です。
それは相手を許すと思うから許せないのです。
「許すことによって自らが許していただける」ということを知った時、
恨めしい方・憎い方・腹立つ方を許すことによって、
自らがその怒り・憎しみから
解放されます。
だから許すのではない。
許させていただくことです。

許さない限り、その苦しみは死んでも、
もっていくことになります。
出来事は今を境としてすべて過去へ過去へと
過ぎていくものですね。
今日のこのお話も明日になれば、
もう昨日という過去へ過ぎ去っていきます。
喜びとか、あるいはこういう場所で心安らいだ時間は、
自分の心の中に大切に
しまっておいても結構ですけど、

怒りや憎しみや恨みのそういう苦しみはもう過去へ
過ぎ去っていったものですから、
一時も早く自分の心から離すこと、
嫌なものはできるだけ早く捨てることですね。
その時、荷物が少なくなります。

たくさんの荷物を背負うておりますと、
やがて絶対私たちが避けることのできないあの世への旅ですね、
その時にその荷物の重さによって、まず、
三途の川で沈没を起こします。
荷物は軽い方が結構です。
今こうして健康に生きさせていただいている間に、
できるだけ荷物を軽くしていきたいと思います。


明来闇去

2021-03-22 00:14:15 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


                 許しについて


皆さんが、縁ある方はすべて幸せになってほしい。
また幸せにならなくてはならないのです。
すべての人は幸せになる権利をもっているはずです。
神から平等に与えられ、
しかも神は「幸せになれ、健やかに生きよ」と言われます。
もし自らの心を自ら苦しめますと、それは神を冒瀆し、
神に背いた行為だと思ってください。
自分の心を苦しめてはいけません。
自分の心を大事にすることです。

そして、自分を大事にするが如く、
自分がいとしいように他の方も自らをいとしいのです。
ですから、自分を大事にする如く他を大事にしなさい。
自分を大事にするといっても、
何もしないで「アア、かわいい、かわいい」と
自分のことばかり考えて人のことを思わないのであれば、
これは大事にしていないのです。
「かわいいなあ」こんなことをしていたら自分を甘やかし、
自分を本当に愛していない。

自分の心を苦しめることは、
怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・取越し苦労・
不安とか恐怖とか貪欲。
これこそ私たちの心の苦しみ、自ら苦しむ原因で
あることがわかりますと、
万難を排してでもこれらの想念を捨てることですね。
その時、幸せが約束されるはずです。
そしてご奉仕、隣人にたださせていただくだけの愛の実践、
そして過去の許し難い人を許すことです。



明来闇去

2021-03-21 01:00:27 | 明来闇去

~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


         恩師のオリジナル
               「神の御心」 


   いとしきわが子よ いとしきわが子よ
   そなた達は 幸せに生きよ 健やかに生きよ
   己れ自身を 苦しむることなかれ
   己れを愛し 己れを愛するが如く 他を愛せよ
   汝らの 喜びは 我が喜びなり
   汝らの 苦しみは 我が苦しみなり

   いとし子よ 自らを苦しむることなかれ
   汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
   自らの神我に目覚めよ
   我は愛ゆえにそなた達を 形として現せし
   厳しき現象界に旅立たせし者なり
   いとおしきが故に 旅立たせし者なり
   いとし子よ そなた達が この地上に 
   肉の身を持ち旅立ちし日より
   今日までをよく振り返り見よ

   我が心と 汝らの心と想念行為を照らし合わせよ
   もし我が心と離れし箇所に気付かば それを悔い改めよ
   その時 汝らの魂は清まれり
   我が与えし その肉の身を持ち
   我が思いを この地上に示し現せよ
   我が心を地上に具現せよ
   汝らは 我がいとし子なるが故に
   我は汝らの父なり 父は唯 子の幸せを願う
   自らを浄め 自らを高め 自らの神我に目覚め
   我が胸の中に帰るべし
   我は唯 汝らの帰りを 待ち望むものなり




明来闇去

2021-03-20 01:59:16 | 明来闇去
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より


           神の御姿

   私は形あって形なし
    形あっては天地自然に現わせし姿これなり
    形なくては汝らを生かさん力これなり
    汝らを形あるものとしてこの地上に生じせしめ
    形なき汝らの良心の囁きとなって
    我は証しせん



明来闇去

2021-03-19 00:17:41 | 明来闇去

~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


愛は光なり
光は道なり
道は人を歩ます
偉大なる光の大王に導かれ
我が身は動き 口は語らん
日々に神の御胸に抱かれて
光の国に住める嬉しさ


明来闇去

2021-03-18 00:59:04 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


あとがき

この書の出版に至るきっかけとして、私を知る方々から、
どうしても長尾弘の生きざまを世に著わしてほしいという強い希望がありました。
しかし、私は自分の人生を人に知られず生える野の雑草の一本として、
世に知られぬままに、人々の下僕として生き抜こうと思っておりました。
この実践を守り通して、この世を静かに去れたなら、大満足の人生であったと
思っていたからです。
何回もお断りしました。
今の世に受け容れられにくいであろう法を世に訴えても、労多くして益少なき
ことではないかと思っておりました。

しかし、たとえ一人でもいい、まことの心を求める求道者があるならば、
その方の参考としていただけるかもしれない。
こういう望みを託して、とうとう出版社との契約に踏み切ることになりました。
この書はあくまで一個人の人生における体験談です。
人に説法したり、人に聞かせるような意志はまったくありません。
自分に与えられた人生に悔いなき花を咲かせよう、人生の終末に喜びの果実を
収穫しようと、一生懸命に生きてきました。
私の生活実践は完全に自分を捨てて(不惜身命)、己を忘れて他を利する
(忘己利他)を理想としてきました。

この世の肉体の五官煩悩におおわれ、自己保存、自我我欲にとらわれ、地位、
名誉、名声、財産、金銭の追求に明け暮れる方々にとっては、まことに愚かな、
哀れな生活実践であると思います。
この生活実践を通してこそ、煩悩の炎が消え去った心の状態を味わうことができます。
涅槃寂静の心境かもしれません。
涅槃はどれだけの知識を得ても、座しても、悟れるものではなく、
生活実践の中に悟るものだと思います。
しかし、第三者に強要はしません。
それは言うに易く、行うにあまりにも難しいからです。
また、弟子、後継者は、敢えて望みません。

それは自然にまかせます。
故高橋信次先生との出会いによって、私の人生は大きく変わりました。
もし、先生との出会いがなかったならば、今の私はありえないと思っています。
それは心に目覚めをいただいたからです。
心の目覚めがなかったならば、おそらく苦悩の中をさまよって人生を終わっていたでしょう。
私が先生との出会いによって目覚めたように、この書との縁にふれた方々が、
結果として一人でも多く目覚めていただいたならば、幸甚であり、喜びであります。
また、このことによって、私個人の人生がはじめて存在する意義を持つことに、
心から感謝いたします。
この書の出版にあたり、ご尽力、ご協力をいただきました方々に対して、
心から感謝を申し上げます。

平成十年 十月吉日
                             長尾 弘 識す



明来闇去

2021-03-17 00:12:00 | 明来闇去

恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      心の教えを正しく行うと証がついて回る


             気づきと癒し

先の続き・・・

外見によって人間を判断し、
こうあるべきだという固定観念に縛られ、
あらゆる権威に目を欺かれていれば、
本質を見誤るという愚を犯してしまいます。
魂を少しでも向上させて、魂のふるさとに帰り着くまでの、
この世にいる間の修業です。
そのための警鐘が病気です。
ふつうは病気になったと言っては嘆き悲しみ、運命を呪い、
ついには心を重くしていきます。

ところが、同じように病気になっても、この方は、
「肉体を救ってくださいとは
いいません。どうぞ心を救ってください」と言えたため、
心が浄化されたのです。
そして、これこそが本当の癒しです。

自己の過ちへの気づきが起こり、その結果として、
心の浄化が起き、
そして肺癌が消えるという快癒につながったのです。
病気が心を見直し、自らの心の誤りに気づいてこれを
改めるきっかけとなりました。
私たちが神のいとし子であり、
もともと光から来ている神の分け御霊でもあり、
たとえ病気になっても自己治癒能力を与えられているからです。
誰かに癒してもらって、病気が治ったからもういいのだというのではなく、

病気になるには、それだけの原因があり、これに気づくことによって、
本当に心身ともに癒されます。

この気づきは結局、一人一人がその原因に心を向けて
修正すべき事柄であり、
誰かに頼って行われるものではありません。
癒されてありがたくて心を入れ替えるか、
心を見つめて今までの過ちに気づいて心を変えるとともに
心身が癒されていくか。
まさに「病気は神が与え給うた反省のチャンスである」と思います。
常に自己反省を心がけ、自らを正し、
幸せな人生を送りたいと願っています。
人は、よく話せばよく喋ると言われ、
話さなければものを言わないと言われ、
中程に喋ればうるさいと言われます。

この書を読んで人は又いろいろと言ってくれると思います。
治っていても、私は治らなかったとか、
私は悪くなったとか言う人もあると
思います。
しかし本書は真実のみを伝えたものです。
全ての方々よ、自らの心に目覚めましょう。
健康で幸せに生きましょう。
これが神の御心であり法であり、私の日々のお祈りであります。

                              合掌


明来闇去

2021-03-16 00:27:38 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

      第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

      心の教えを正しく行うと証がついて回る


              気づきと癒し

神戸のあるクリスチャンの婦人がヨーロッパからの帰り飛行機の中で、
山口での講演からテープ起こしして作っていただいた文章を読み、
ここに聖書そのものの世界が書かれていると感じられたそうです。
洗礼を受けて以来三十年も経つという方ですから、聖書については赤線が
たくさん引かれてほとんど赤くなるくらいに詳しいのです。
ひょっとしたらこれはイエス様が日本にご出現になったのではないか、
日本に戻ったらすぐに会いに行こうと思われたそうです。
ところが、このハイカラな婦人が実際に訪ねて見えられると、ステテコと
ランニングシャツ一枚でうろうろしている私の姿を見て、最初は人違いだと
思ったようです。

そのうちお目当ての人物とわかると、腰を抜かすほどにびっくりされました。
もっと威風堂々として、
立派な出で立ちの方がカーテンの奥から静々と出て来られるのかなと
思っていたと言われます。
この方にお話をさせていただきました。
宗教の法王様なら、大勢の人々にかしずかれ、壮麗な長衣をまとい、
頭にはきらびやかな冠を頂き、黄金の錫杖を手にして威厳を保たれておられる
姿を彷彿とさせるでしょう。
そういう方が立派であるとあなたは思っておられるかもしれません。
しかし、古の聖者イエスはその生涯において、
いつあのように着飾られたでしょう。
そのように身を飾ることなどなさったことは一度もありませんでした。
キリスト教徒といえば、イエスの生きざまを生きなくてはいけないのです。
後の世の法王のように生きるのではないのです。

イエスは一般の者となんら変わりはない格好をされていたはずです。
しかも、イエスはこのように言われています。
「私は人々に仕えられるために来た者ではなく、
仕えるために来た者である。
そして、多くの人々の贖いのために私の命を与えに来た者である」と。
教会の偉い方々は、大勢の人々に仕えられています。
イエスはそうではなく、人々に仕えています。
今の在り方が元の教えから隔たってしまったことに目覚めなさい、
と言うと、本当にそうですとおっしゃいます。
その方が、肺癌ですぐにも入院して抗癌剤で治療をしないといけないと、
医者から宣告を受けました。

すると、肉体を救ってくださいとは言いません。
このまま自分の魂が汚れたままあの世に帰ると大変です、
せめて私の心を救ってください、
と頼まれました。
そこで、反省をしていただきました。
泣いて泣いて、本当に泣き叫んで、ご自分の過ちに目覚められました。
それから、まもなくお医者さんで検査を受けると、
まったく癌がなくなっていたそうです。
反省により心によって癌が消えた事例です。
もう十数年も過ぎますが、元気に生きておられます。
自分の心の誤りに気づくということが、
限りある人生においていかに大切であるか。
このことをわからせてもらえる好例だと思います。


明来闇去

2021-03-15 00:15:44 | 明来闇去
 
恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より

       第六章 人類滅亡を救う奇跡と癒しの秘密

       心の教えを正しく行うと証がついて回る


          個我の力ではない癒しのパワー

先の続き・・・

なぜ、そのようなものを受けるのか。
人の病気を治させていただきたいですが、
相手の病気をもたったら大変です。
これは嫌いです。

怖いです。
これも自己保存の心です。
病気には何とも言えない恐ろしいものまでいろいろとあります。
そんな病気を自分が受けたらたいへんです。
そういうわけで、一時はとても悩みました。
そこで、その当時はまだ正法に御縁はありませんから、
どこに神様がいらっしゃるかもわかりませんが、
もし神様がいらしゃったらということで祈りました。

「今いただいた力で少しでも多くの方を救わせていただきたいです。
しかし、相手の業をもらうのは嫌でございます。
だから、治させていただいて、相手の病気を受けない方法があるなら、
是非教えてください」と、あつかましい祈りですが、
毎晩一時間、二時間、三時間と真剣に祈りました。
或る時は朝まで祈りました。

百日も過ぎた頃に、「汝の癒しを他にゆだねよ」という言葉が、
自分の心の中から湧き上がってまいりました。
この短い言葉ですべての謎が解けたのでした。

病気治しをする人で相手の病気をもらっているのは、
「自分が治してやった」という「自分が 自分が」の「我」の中に
相手の業を受けてしまうのだということがわかったのです。

すべての謎が解けて以来、癒しの成果を自分以外の方の力に帰しました。
その結果、あまりにも多くの方が救われてくれましたが、
そのかわりに私自身の肉体のほうはなんともないという
有難い結果が出ております。
それは、人々の業が神様のほうへ行ってしまい、
その光の中で消されるからです。

「偉大なる光の王に導かれ 我が身は動き口は語らん」当時の歌です。

私以外の力であるということは、神様の力であり、目に見えない世界の
ご協力をいただいているお陰ということを誰よりも
よく理解しているつもりです。

その代わり、自慢することができません。
自分の力でないとわかっていますから、どんな奇跡を現わしていただいても、
自慢することはできません。
これは神様のお陰であって、私には関係のないことです。
神に感謝しましょう。