派手に噴出した後の缶ビールは、気が抜けていて、ちっとも美味しくなかった。
わたしの下半身を覆うものは薄いプリーツのスカートだけで、しかも、そのスカートは腰の部分を中心に冷たく濡れていた。
こんなはずじゃなかったと、前の座席の背もたれに干してある下着を眺めた。
~こうなった経緯は、「最低な1日」をご覧になってください~
「着信アリ Final」は、最終日だと言うのに、わたしを含めてたった3人の観客のために、200人は入ろうかという箱で上映されていた。
箱のほぼ中央に座っている若いカップルを除き、一番後方列の中央に座っているわたしの周囲には誰もいない。
スクリーンには、韓国へ修学旅行に出発した高校生たちが船室に集まって、「本当にあった怖い話」大会をしているシーンが映し出されている。
大して怖くもないシーンなのに、わたしの二の腕には鳥肌がたっていた。
この調子じゃ、最後まで観たら、それこそ身も凍るような寒い思いをさせて貰えそうだ。
☆学校の苛めはどうして起こるか
それについて、主人公である「松田明日香/堀北真希」は興味深いことを言っている。
鶏は狭いところに閉じ込められると、ストレスから弱いものを苛める習性があると言うのだ。つまり、嘴で突付く。突付かれた鶏は、さらに自分より弱いものを探して、それを突付く。そうやって、次々と突付いていくのだが、一番弱い鶏は、突付くものがなくて、地面を突付く。
この話を聞いて、わたしは救いようのない悲しみを感じた。
「狭いところ」とは「学校」を指し、「突付く」行為は、まさに「苛め」を指している。
「学校」が鶏を飼っている「檻」を暗示しているとしたら、教育現場の荒廃はここに極まったと感じた。仮に、この作品を観た中学生、高校生たちが、このように描かれている学校の状態を違和感なく受け入れているとしたら事態はより深刻なのであって、その延長線上にある日本の未来はどうなるのか、ますます不安になってくる。
現代社会は個人の幸福の追求が善とされ、それを可能にする成果至上主義が企業の利益至上主義に反目しないこともあって、瞬く間に日本全体に浸透してしまった。その結果、日本固有の優れた制度であった終身雇用制や年功序列制は排斥され、それこそ身も蓋もない能力給制が正義とされてしまった。言っておくが、日本人には欧米から輸入されたこれら制度が合うはずがない。そんなことを言っていたら、世界の中で取り残されてしまうなんていうのは、それこそ欧米の陰謀だ。戦後の日本の奇跡の復興は、成果至上主義でなかったからこそ成し得たと思うのだ。日本人には日本人のやり方がある。その独自性を放棄した今の日本に未来はない。なにより問題なのは、心の中で合っていないと判っていながら、理屈の上でやり込められて、無理矢理そういう制度に従わされている場合だ。ストレスが溜まり、弱い者を突付く。自分さえよければよいので、成果を得るためには方法を選ばなくなる。まさに、日本全体が「檻」と化しているのだ。かくて、教師でありながら、自分だけが助かったらそれでよい最低の男「木部義孝/板尾創路」みたいな人間が出来上がる。
彼もまた現在の日本社会が抱える暗黒面を体現しているに過ぎないのだ。
☆転送すれば死なない
しかも、転送された者は、誰にも転送できない。つまり、死が確定してしまうのだ。
このことを知った生徒たちは、半狂乱になる。
死の電話が着信した場合、相手が自分なら、まだ助かる余地がある。嫌いな奴に転送すればよいのだ。しかし、転送されたものならば、もはや助かる道はない。
日頃からろくな生き方をしていない者・・・わたしもそうなのだが・・・は、死刑を宣告されたも同然だ。
憎まれているのではないか。
妬まれているのではないか。
羨ましがられているのではないか。
もはや疑心暗鬼である。
「安全策を講じるのが、大人ってもんでしょ」
嫌がる生徒たちから、無理矢理、携帯電話を回収して回る教師の木部。
彼は、生徒たちから信頼もされていなければ、慕われてもいなかったに違いない。
何より彼は、自分が憎まれていることを知っていたに違いなかった。
このような人間が教える立場にいる。そして、多分、このことは、別に異常なことでも、稀なことでもなく、ごく一般的な事実として、日本全国の学校で起こっているのだ。
これこそが、真の恐怖ではないだろうか。
教師の質が低下していることへの懸念は、以前からあった。それは、学力、知識の面で囁かれていたことだが、本質はそんなことではなく、人間性の問題なのだということを忘れてはならない。
例えば、対処療法的に携帯電話を回収することよりも、日頃から、憎まれない、妬まれない、羨ましがられない生活をすることが大切なのだ。
「荒れた学校」は、「ゆとり教育」という幻想が生み出した悲惨な現実だが、今からでも遅くない、一刻も早く、精神面、道徳面の教育の充実を図るべきだ。
☆悲しいくらい無駄な努力
呪いの電話を発信するパソコンをフリーズさせるために、有志を募る。実際、多くの人間が、一斉にメールを送って、遂には、明日香のパソコンを破壊することに成功する。
しかし、覚えているだろうか。
水沼美々子は、携帯電話が壊れようが、どこかになくなっていようが、必ず狙った相手に死の予告電話を着信させることができるのである。
壊された携帯電話なら元の姿に戻して、なくなった携帯電話ならどこからか探し出して相手近くに送りつけて、そして、例の着信メロディを聞かせるのだ。
パソコンをフリーズさせても、効果がないのは明らかだ。
しかし、それでも、そうやって多くの人間が努力したことには意味がある。
死が逃れられないとしても、誰かを助けるために何か行動を起こすこと自体が、自分さえよければよいという誤った考えに対抗するものだからだ。そして、それが、効果のないことかもしれないと判っていても、それでも、一生懸命努力すること自体が、成果至上主義に対するアンチテーゼになり得るからだ。
☆苛められた理由
苛められるには苛められる側にも原因がある、などという者がいたら、殴り付けてやりたい。苛めに理由などない。あるとすれば、鶏の事例のような順送りなのだ。
「草間えみり/黒木メイサ」は、悲惨な苛めにあっていた。
えみりが苛めにあった理由は、作品の中では語られていない。恐らく、ほんの些細なことからだろう。えみりと明日香は親友で、仲が良かったというから、2人が仲良しだったことを妬まれたとか、えみりが可愛いことを嫉妬したとか、どうしてそんなことで、と思うようなことが理由だろう。
そして、苛められていたえみりを庇った明日香が、壮絶な苛めの次の標的となる。
えみりは、再び自分が苛められるのが怖くて、助けてくれた親友の明日香を見殺しにしてしまう。正直者が馬鹿をみた典型とも言える。
恐らく、現実には、こんな事例は枚挙にいとまがないほどだろう。
このような環境で育った若者たちが身につけることとは何か。
言うまでもない。自分さえ助かればそれでよい。それが、世間をうまく渡っていく術なのだと心に叩き込まれてしまうのである。
何故、こんなひどいことが起こるのか、どうすれば、みんなが気持ちよく学校生活が送れるのか、という本源的なことは考えもしない。
それはそうだろう。そうやって、上手く渡り歩いてきた連中が教師になっているからだ。苛めの対象になって、学校を恨んでいる者は、学校に戻ってなんか来ない。
そうでないというのなら、きちんと適切な対応をしてみせるべきだ。自殺者が出てからでは遅いのだ。否、自殺者が出ても、ロクな対応をしていないように思える。これからの日本を背負う若者が自殺するのは、何としても悲しい。彼らは、まだ人生を幾らも歩いていないのだ。
生活に疲れた中年の失業者が、思い余って自殺するのとは訳が違う。
人間、中年ともなれば、分別も思慮も備わっている。
しかし、日本の場合、自殺者がとても多い。
下表を見て頂きたい。
学校という檻、会社という檻、社会という檻、そして、日本国という檻。
日本国民全てが鶏のように、救いようのない閉塞感の中で、お互いに突付きあいをしている図が、わたしの頭の中を過ぎった。
恐ろしい光景だった。
そして、教師の位置には、時の首相。大義名分の下、国民から携帯電話を取り上げ、転送する自由を奪った。そして、自分だけは、安全な場所にいて、「安全策を講じるのが、大人ってもんでしょ」とうそぶく。
自殺者が少数ならば、首相の責任を追及するのも酷だろうが、日本は先進国の中で自殺者が断トツに多いのである。
分別も思慮もある大人が毎年、毎年、何万人も自殺しているのだ。
自殺者は、日本国に愛想を尽かして死んでいったとも言える。
それを首相の責任でなくて誰の責任というのか。一体、彼は、何を改革したのか。何の成果があったというのか。ほとんど何の成果もなかった。何もしなかった。財政改革然り、政治改革然り。残ったのは、自殺率が先進国で断トツの1位という不名誉な記録も含め、無残な荒涼たる廃墟だけだ。
☆ぞっとしたシーン
明日香は苛めを苦に、学校で首を吊って自殺しようとするが、発見が早かったために一命を取りとめる。しかし、意識は戻らない。昏睡状態で病室に横たわっている。
同級生たちの不可解な死が続き、明日香の呪いかも知れないという恐怖に怯えるえみりは、明日香に電話をする。すると、電話に出られる訳のない明日香が電話に出るのだ。
このシーンが一番印象的で、一番怖かった。
恨まれる理由のあるえみりは、恐らく、この時点で覚悟したのではないか。本当の標的は自分であると。だからこそ、復讐に燃える明日香を身を挺して止めようと必死になる。
☆死の連鎖は止めることができたのか
美々子の呪いであることが判り、明日香もえみりも自分の身を犠牲にして、その連鎖を止めようとする。しかし、同様の事件で恋人を失っていた「アン・ジヌ/ジャン・ダンソク」が全てを引き受けて死んでいく。
それを目の前で目撃したえみりも、精神に異常をきたし、廃人となってしまう。
アン・ジヌは恋人を助ける方法(恋人の代りに死の予告電話を聞く)を知っていたのに、見殺しにしてしまい、その後悔から、聴力と声を失っていた。彼は、やり直す機会を待っていたとも言える。そして、今回の事件に遭遇した。
一方、えみりは、自分を庇ったために苛められている明日香のことを、いつも辛そうに見ていた。
この2人が、美々子の手に落ちたことで、美々子は満足したように思える。
美々子は、人間の心の中の邪悪なもの、弱い心を嗅ぎつけて、復活するのだ。明日香の心の中にあった邪悪なもの、そして、えみりとアン・ジヌの心の中にあった後悔と弱い心がなくなった今、美々子が存在する理由はなくなった。
そう思いたい。
わたしは、これを観ている間、ずっと鳥肌がたっていたが、強がりではなく、あまり怖くはなかった。怖さの質が、怪談的な怖さと少しばかり異なっていたからだ。
それを、もう一度、検証するために、DVDが出たら、じっくりと観なおしてみたいと思った。
それにしても、下半身がスースーして弱った。
エンドロールの最中に、スカートを捲り上げて、辛うじて乾いたパンストを穿いたことは、一生忘れないだろう。他に、お客さんがいなくて、ホントに良かった。
なかなかおもしろかったし、ちょっと考えさせられたので、ハートは2つ差し上げたいと思う。
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わたしの下半身を覆うものは薄いプリーツのスカートだけで、しかも、そのスカートは腰の部分を中心に冷たく濡れていた。
こんなはずじゃなかったと、前の座席の背もたれに干してある下着を眺めた。
~こうなった経緯は、「最低な1日」をご覧になってください~
「着信アリ Final」は、最終日だと言うのに、わたしを含めてたった3人の観客のために、200人は入ろうかという箱で上映されていた。
箱のほぼ中央に座っている若いカップルを除き、一番後方列の中央に座っているわたしの周囲には誰もいない。
スクリーンには、韓国へ修学旅行に出発した高校生たちが船室に集まって、「本当にあった怖い話」大会をしているシーンが映し出されている。
大して怖くもないシーンなのに、わたしの二の腕には鳥肌がたっていた。
この調子じゃ、最後まで観たら、それこそ身も凍るような寒い思いをさせて貰えそうだ。
☆学校の苛めはどうして起こるか
それについて、主人公である「松田明日香/堀北真希」は興味深いことを言っている。
鶏は狭いところに閉じ込められると、ストレスから弱いものを苛める習性があると言うのだ。つまり、嘴で突付く。突付かれた鶏は、さらに自分より弱いものを探して、それを突付く。そうやって、次々と突付いていくのだが、一番弱い鶏は、突付くものがなくて、地面を突付く。
この話を聞いて、わたしは救いようのない悲しみを感じた。
「狭いところ」とは「学校」を指し、「突付く」行為は、まさに「苛め」を指している。
「学校」が鶏を飼っている「檻」を暗示しているとしたら、教育現場の荒廃はここに極まったと感じた。仮に、この作品を観た中学生、高校生たちが、このように描かれている学校の状態を違和感なく受け入れているとしたら事態はより深刻なのであって、その延長線上にある日本の未来はどうなるのか、ますます不安になってくる。
現代社会は個人の幸福の追求が善とされ、それを可能にする成果至上主義が企業の利益至上主義に反目しないこともあって、瞬く間に日本全体に浸透してしまった。その結果、日本固有の優れた制度であった終身雇用制や年功序列制は排斥され、それこそ身も蓋もない能力給制が正義とされてしまった。言っておくが、日本人には欧米から輸入されたこれら制度が合うはずがない。そんなことを言っていたら、世界の中で取り残されてしまうなんていうのは、それこそ欧米の陰謀だ。戦後の日本の奇跡の復興は、成果至上主義でなかったからこそ成し得たと思うのだ。日本人には日本人のやり方がある。その独自性を放棄した今の日本に未来はない。なにより問題なのは、心の中で合っていないと判っていながら、理屈の上でやり込められて、無理矢理そういう制度に従わされている場合だ。ストレスが溜まり、弱い者を突付く。自分さえよければよいので、成果を得るためには方法を選ばなくなる。まさに、日本全体が「檻」と化しているのだ。かくて、教師でありながら、自分だけが助かったらそれでよい最低の男「木部義孝/板尾創路」みたいな人間が出来上がる。
彼もまた現在の日本社会が抱える暗黒面を体現しているに過ぎないのだ。
☆転送すれば死なない
しかも、転送された者は、誰にも転送できない。つまり、死が確定してしまうのだ。
このことを知った生徒たちは、半狂乱になる。
死の電話が着信した場合、相手が自分なら、まだ助かる余地がある。嫌いな奴に転送すればよいのだ。しかし、転送されたものならば、もはや助かる道はない。
日頃からろくな生き方をしていない者・・・わたしもそうなのだが・・・は、死刑を宣告されたも同然だ。
憎まれているのではないか。
妬まれているのではないか。
羨ましがられているのではないか。
もはや疑心暗鬼である。
「安全策を講じるのが、大人ってもんでしょ」
嫌がる生徒たちから、無理矢理、携帯電話を回収して回る教師の木部。
彼は、生徒たちから信頼もされていなければ、慕われてもいなかったに違いない。
何より彼は、自分が憎まれていることを知っていたに違いなかった。
このような人間が教える立場にいる。そして、多分、このことは、別に異常なことでも、稀なことでもなく、ごく一般的な事実として、日本全国の学校で起こっているのだ。
これこそが、真の恐怖ではないだろうか。
教師の質が低下していることへの懸念は、以前からあった。それは、学力、知識の面で囁かれていたことだが、本質はそんなことではなく、人間性の問題なのだということを忘れてはならない。
例えば、対処療法的に携帯電話を回収することよりも、日頃から、憎まれない、妬まれない、羨ましがられない生活をすることが大切なのだ。
「荒れた学校」は、「ゆとり教育」という幻想が生み出した悲惨な現実だが、今からでも遅くない、一刻も早く、精神面、道徳面の教育の充実を図るべきだ。
☆悲しいくらい無駄な努力
呪いの電話を発信するパソコンをフリーズさせるために、有志を募る。実際、多くの人間が、一斉にメールを送って、遂には、明日香のパソコンを破壊することに成功する。
しかし、覚えているだろうか。
水沼美々子は、携帯電話が壊れようが、どこかになくなっていようが、必ず狙った相手に死の予告電話を着信させることができるのである。
壊された携帯電話なら元の姿に戻して、なくなった携帯電話ならどこからか探し出して相手近くに送りつけて、そして、例の着信メロディを聞かせるのだ。
パソコンをフリーズさせても、効果がないのは明らかだ。
しかし、それでも、そうやって多くの人間が努力したことには意味がある。
死が逃れられないとしても、誰かを助けるために何か行動を起こすこと自体が、自分さえよければよいという誤った考えに対抗するものだからだ。そして、それが、効果のないことかもしれないと判っていても、それでも、一生懸命努力すること自体が、成果至上主義に対するアンチテーゼになり得るからだ。
☆苛められた理由
苛められるには苛められる側にも原因がある、などという者がいたら、殴り付けてやりたい。苛めに理由などない。あるとすれば、鶏の事例のような順送りなのだ。
「草間えみり/黒木メイサ」は、悲惨な苛めにあっていた。
えみりが苛めにあった理由は、作品の中では語られていない。恐らく、ほんの些細なことからだろう。えみりと明日香は親友で、仲が良かったというから、2人が仲良しだったことを妬まれたとか、えみりが可愛いことを嫉妬したとか、どうしてそんなことで、と思うようなことが理由だろう。
そして、苛められていたえみりを庇った明日香が、壮絶な苛めの次の標的となる。
えみりは、再び自分が苛められるのが怖くて、助けてくれた親友の明日香を見殺しにしてしまう。正直者が馬鹿をみた典型とも言える。
恐らく、現実には、こんな事例は枚挙にいとまがないほどだろう。
このような環境で育った若者たちが身につけることとは何か。
言うまでもない。自分さえ助かればそれでよい。それが、世間をうまく渡っていく術なのだと心に叩き込まれてしまうのである。
何故、こんなひどいことが起こるのか、どうすれば、みんなが気持ちよく学校生活が送れるのか、という本源的なことは考えもしない。
それはそうだろう。そうやって、上手く渡り歩いてきた連中が教師になっているからだ。苛めの対象になって、学校を恨んでいる者は、学校に戻ってなんか来ない。
そうでないというのなら、きちんと適切な対応をしてみせるべきだ。自殺者が出てからでは遅いのだ。否、自殺者が出ても、ロクな対応をしていないように思える。これからの日本を背負う若者が自殺するのは、何としても悲しい。彼らは、まだ人生を幾らも歩いていないのだ。
生活に疲れた中年の失業者が、思い余って自殺するのとは訳が違う。
人間、中年ともなれば、分別も思慮も備わっている。
しかし、日本の場合、自殺者がとても多い。
下表を見て頂きたい。
学校という檻、会社という檻、社会という檻、そして、日本国という檻。
日本国民全てが鶏のように、救いようのない閉塞感の中で、お互いに突付きあいをしている図が、わたしの頭の中を過ぎった。
恐ろしい光景だった。
そして、教師の位置には、時の首相。大義名分の下、国民から携帯電話を取り上げ、転送する自由を奪った。そして、自分だけは、安全な場所にいて、「安全策を講じるのが、大人ってもんでしょ」とうそぶく。
自殺者が少数ならば、首相の責任を追及するのも酷だろうが、日本は先進国の中で自殺者が断トツに多いのである。
分別も思慮もある大人が毎年、毎年、何万人も自殺しているのだ。
自殺者は、日本国に愛想を尽かして死んでいったとも言える。
それを首相の責任でなくて誰の責任というのか。一体、彼は、何を改革したのか。何の成果があったというのか。ほとんど何の成果もなかった。何もしなかった。財政改革然り、政治改革然り。残ったのは、自殺率が先進国で断トツの1位という不名誉な記録も含め、無残な荒涼たる廃墟だけだ。
☆ぞっとしたシーン
明日香は苛めを苦に、学校で首を吊って自殺しようとするが、発見が早かったために一命を取りとめる。しかし、意識は戻らない。昏睡状態で病室に横たわっている。
同級生たちの不可解な死が続き、明日香の呪いかも知れないという恐怖に怯えるえみりは、明日香に電話をする。すると、電話に出られる訳のない明日香が電話に出るのだ。
このシーンが一番印象的で、一番怖かった。
恨まれる理由のあるえみりは、恐らく、この時点で覚悟したのではないか。本当の標的は自分であると。だからこそ、復讐に燃える明日香を身を挺して止めようと必死になる。
☆死の連鎖は止めることができたのか
美々子の呪いであることが判り、明日香もえみりも自分の身を犠牲にして、その連鎖を止めようとする。しかし、同様の事件で恋人を失っていた「アン・ジヌ/ジャン・ダンソク」が全てを引き受けて死んでいく。
それを目の前で目撃したえみりも、精神に異常をきたし、廃人となってしまう。
アン・ジヌは恋人を助ける方法(恋人の代りに死の予告電話を聞く)を知っていたのに、見殺しにしてしまい、その後悔から、聴力と声を失っていた。彼は、やり直す機会を待っていたとも言える。そして、今回の事件に遭遇した。
一方、えみりは、自分を庇ったために苛められている明日香のことを、いつも辛そうに見ていた。
この2人が、美々子の手に落ちたことで、美々子は満足したように思える。
美々子は、人間の心の中の邪悪なもの、弱い心を嗅ぎつけて、復活するのだ。明日香の心の中にあった邪悪なもの、そして、えみりとアン・ジヌの心の中にあった後悔と弱い心がなくなった今、美々子が存在する理由はなくなった。
そう思いたい。
わたしは、これを観ている間、ずっと鳥肌がたっていたが、強がりではなく、あまり怖くはなかった。怖さの質が、怪談的な怖さと少しばかり異なっていたからだ。
それを、もう一度、検証するために、DVDが出たら、じっくりと観なおしてみたいと思った。
それにしても、下半身がスースーして弱った。
エンドロールの最中に、スカートを捲り上げて、辛うじて乾いたパンストを穿いたことは、一生忘れないだろう。他に、お客さんがいなくて、ホントに良かった。
なかなかおもしろかったし、ちょっと考えさせられたので、ハートは2つ差し上げたいと思う。
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卑怯な苛めが現れてしまう現実が一番怖くて,
悲しい思いにさせられましたね。
友情で結ばれた主演の二人。
撃退し,命は助かったものの,
やっぱり最後こそはハッピーエンドにしてほしかった・・
確かにえみりが廃人になってしまうのは、悲しい結末でした。
美々子は、凄まじい恨みを現世に残したと思われます。もうこんな悲劇が起こらないように、夫婦は家庭円満に離婚などせず、愛情をもって子供に接して欲しいものです。
現在、世間を騒がしている秋田の連続児童殺人事件。
あれって、ホントに報道通りの犯行が行われたのでしょうか?
わたしには、到底、理解できません。
しかし、こんな犯行が現実なら、美々子は、本当にこの世に出現するかもしれません。
「最低な一日」とあわせて拝見。
minaさんのフィールドの広さに感心しました。
フィールドが広いんじゃなくて、間抜けなだけなんですけれどね。
良くこんな言考えながら、見たわね。
恐れ入りました、、、
実はこのBlog以前から猫姫さまのBlog経由で拝見しておりました。
う~ん災難でしたね・・・
やっぱり飲み物は売店に限ります。
1人貸切の経験があるのでわかるんですが、少ない人数で観ると確かに寂しいけれど、何か失敗しても気にしなくて良いですよね。
記事の内容なかなか興味深いですね・・・
小説描いているだけに読み込んでしまいました。
でも、昔は、お母さんがお弁当を作ってくれて、家族みんなで観に行ったような記憶があります。
魔法瓶にいれた熱い番茶が美味しかった。
それとおむすび。
館内は熱気があって、いつも観客が一杯だったような気がする。
そう言えば、映画の黄金時代の頃を描いた作品「カーテンコール」・・・これも観てみたいなぁ。
あの“スカートふわりっ”事件の時の観賞作品だったのですネ?
あの記事、ドキドキ♪しながら拝読しました~。
“いじめ”に関する考察、流石minaさまです。
私も「苛められる側にも苛められる理由がある」なんて言ってるヤツは
ゲンコツパンチを食らわせてやりたい!
どんなに国の上のほうの方々が政策を打ち出しても
学校単位でなにか行動を起こしても、日本のイジメって
無くなるコトはないんじゃないか?と思う今日この頃です。
作品に関してのコメントじゃなくってゴメンナサイ。
(ついつい、イジメ問題の記事に反応してしまいました。)
TRBさせていただきます(^-^)/
どうしてそんなことをするのか。
ストレスが原因なのでしょうか。
人間の心の中にある、何か邪悪なものが、
人間をいじめに駆り立てるのでしょうか。
毎日のようにあるいじめの記事を読みながら、
暗い気分になってしまいます。