箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

三中を離任する

2019年04月19日 17時25分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
申し遅れましたが、4月9日は箕面三中の離任式でした。
 
 振り返って、その日を再現します。
 
まず職員室で、三中教職員に退任のあいさつをしました。
以下の内容で、話しました。
 
三中では、4年間校長を務めました。至らぬ点も多々あったとは存じますが、みなさんのおかげで任期を終えることができました。
 
 ◆子どもへの接し方のお願い
 
①子どもを温かく見守る。「寄り添う」という態度~子どもから心を離さず、チャレンジを見守る
 
②しっかりと子どもと対峙する。「向き合う」という態度~子どもの前に立ち、子どもの問題と向き合う
 
③子どもの心をしっかりと抱きしめる。「受け入れる」という態度~理屈抜きで子どもの心や存在を抱きしめる。
 
私は、学級担任をしていたころ、自分が予定したり、計画したとおりに行おうとしていました。
 
子どもの反応や子ども一人ひとりの様子にあまり目が向けられていないこともありました。
 
自分がよいと思う価値観を子どもに伝えていこうとしていたように思います。その中で苦しんでいる子の存在に気づいていなかったのです。
 
何が大切かは、子ども自身が考え、決めることです。教師は「こうしなければならない」という価値の伝え役ではないのです。
 
その際、教師は「子どものことは見えていない」ということを自覚するべきです。だからこそ、教師は子どものようすをよく見て、考えるのです。 
 
◆教職員として
私は、探究する態度がいちばん大切だと考えています。変化の激しい時代にあっては、子どもに求められる学力も変わってきます。だから探究する態度が教職員の基本的な資質としていちばん大切だと考えています。
 
自分の授業はこれで完成ということがないのです。もっと子どもの力を伸ばす授業をしたいという思いで授業を研究し、実践していってほしい。
 
学校教育に求められるのは、確かな学力をもとに、自ら社会にかかわり、人と協働して、社会に関わる意識と行動力を子どもたちに培うことである 
 
◆保護者に対して保護者は学校教育の受け手ではなく、あくまでも、子どもが受け手です。
 
保護者は学校と協力しあい、子どもの成長にかかわり、子どの人格の完成を目指すために、ともに活動するパートナーです。
 
しかし、子どもを指導するとき、とかく子どもの後ろにいる保護者のことを、教師が気にするという構図になりやすい。
 
教師と保護者がともに子どもを育てるパートナーであるという信頼関係を築いてほしい。  
 
◆教職員団のあり方学校が教師を支え育てるのです。
今後、私は教育専門員として、全中学校を回り、教職経験年数の少ない教員の指導に当たります。
 
三中にも回ってきます。しかし、私が教員を育てるのではない。学校という組織が教員を育てるのです。
 
教育専門員は個別のかかわりしかできません。教員を育てるには、学校での同僚性が必要です。
 
このことは4年間いつも意識していました。教員は、子どもの成長に影響する責任の重い仕事です。
 
「責任」は、英語でresponsibilityです。responseとabilityです。
 
つまり、あなたに任せます。あなたは子どもや保護者に最適の対応ができる能力があると学級づくりや授業実践を任されている人です。
 
その意味で、教職は独立性が高い仕事であるのです。授業や学級経営も一人で多様な生徒を相手にする。自分で考え実践しなければならない。
 
だから人に頼れない。自主性も大切になる。
 
しかし、子どもの課題はたくさんある。どうしても不安になったり、迷ったり、苦しくなったりする。そのとき、支えてくれる同僚が必要になる、愚痴をこぼせる相手、悩みを相談できる相手が必要になる。これが同僚性あり、同僚性のある職場が教師を育てるのです。 
 
◆校長として私は最後の責任は自分一人で受けるという覚悟で臨んできました。
 
でも、その前提として、三中一人ひとりの教職員がそれぞれの責任を受ける態度で教育活動にあたってくれました。これがなければ最終責任を私が受けることもできなかった。
 
4年間にわたり私をサポートしてくださり、お礼の言葉もありません。箕面三中の今後のますますの発展とみなさんのご健康とご多幸を祈っています。ほんとうにありがとうございました。
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続けて、体育館で、三中の子にお別れのあいさつをしました。
 
箕面三中校長離任式あいさつ〈H31(2019).4.9〉
「懐の深い人になってください」  
 
おはようございます。最初に、箕面三中のみなさんに、次の言葉を送ります。 
「人間はな、他の人を喜ばせるのが一番なんや。」  
 
私は4年間、箕面三中の校長を務めました。この度、定年退職を迎え校長を退くことになりました。 
 
4年間のなかで、私は、三中の子にさまざまな話を伝えてきました。 
 
そして、今日が私からのほんとうの最後の話になります。何を伝えようかと考えました。 
 
たくさんある中でも、伝えることを一つ選んだのが「懐が深い人になれ」という言葉です。 
 
1年生のみなさんが、これから体験することで、2・3年生の人は体験して知っていることですが、中学校は小学校とちがって、まわりの友だちと自分の差が見えやすいということがあります。 
 
たとえば、小学校ではテストをすれば、みんながいい点数をとります。しかし、中学校では定期テストがあり、自分が60点だったのに、となりの子は90点をとっている。 
 
自分はサッカーがかなりできると思っていたのに、部活に入るともっと上手いともだちがいた。 
 
その子は、家に帰って言います。「お母さん、私って勉強ができると思っていたけど、もっとできる子がいるねん。」「お父さん、僕ってサッカーがうまいと思っていたけど、もっとうまい子がいたわ。」 
 
つまり、中学校は小学校と違って、友だちとの差が見えやすいのです。残酷だと言う新入生もいるかもしれない。
 
しかし、それは、小学校の方がいいとか、中学校の方がいいという話ではないのです。 中学校は、人との差が見えやすいという、学校のしくみになっているということです。  
 
社会へ出れば、競争があります。アイドルの世界では、誰が選抜メンバーになるか競いあいます。仕事で結果を出したら、給料が上がります。小さな社会である中学校でも、賞や勝ち負けがあります。 
 
ただし、誤解しないでください。私は競争に勝ち抜きなさいといっているのでは、けっしてないのです。 
 
私が伝えたいのは、かりに勝てなかったとしても、自分を見失う必要はないということです。勝てなかったら、人助けをしたと思えばいいのです。あなたは勝つことができた人を喜ばせたのです。人は、他の人が喜んでくれることが、一番うれしいのです。  
 
でも、自分が勝てたら、もっとうれしいんじゃないかと思っている人がいるかもしれない。そんな人に、私は伝えたい。
 
負けた者が小さくならなくていいんです。嫉妬、うらやみ、屈辱、卑下、そんなものは一切無用です。 
 
結果で自分をいじめても仕方がないのです。一生けん命努力する人はそれだけで何にも代えがたい価値をもっているのです。
 
自分を好きになれずにどうして元気が出るのか。負けたっていいじゃないですか。私のおかげであなたは勝てたんだ。ありがたいと思いなさいと言えばいい。もし、あなたが勝ったなら、負けてくれた人に感謝したらいい。 
 
人間は、これくらい幅のある方がいいのです。これを「懐が深い人」といいます。
 
そうです。みなさん「懐の深い人」になってください。
これが私からみなさんへの最後のメッセージです。  
 
その点で、三中の子は、この4年間で、この私の考えを実現してくれました。「自分は自分。私は私で努力する。友だちのすごい点も認め、自分の努力も重ねてきた。そしてお互いがつながっていた。 
 
私は信じています。みなさんの中にダメな子とか、悪い子なんて子は一人もいないのです。もしそんなレッテルのついた子がいるとしたら、そんなふうにしか子どもを見ることしかできない大人の心が豊かでないのだと言います。 
 
懐深く、自分の努力はおこたらず、なおも、友だちを認める。三中の子はこんな子だったと私は考えています。
 
私自身が、36年間の教職生活の中で、中学生の生き方を三中の子に教えられたと思っているのです。
 
4年間ありがとうございました。 私は三中の子が大好きでした。 
 
大切な、大切な、三中の子の幸せを、心から願っています。 ありがとうございました。
さようなら。
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 最後に、今回いっしょに三中を離任する教職員とともに、代表生徒から花束を受け取りました。
 
 
大原櫻子の「ひらり」のBGMが流れるなか、生徒の作る花道を通り、退出しました。
 
生徒からの拍手に感銘を受け、三中を後にしました。
 
この4年間、生徒のみなさん、保護者のみなさん、箕面三中を応援してくださり、ありがとうございました。
 
 

クールな先生

2019年04月19日 11時27分00秒 | 教育・子育てあれこれ
 
 
 
さいきん、クール・ジャパンという言葉がよくつかわれます。
 
 
「クール」(cool )とは、「冷たい」とか「冷静な」「涼しい」という意味があります。
 
また、「かっこいい」という意味もあります。
 
さて、ものごとに取り組むとき、「熱い」という熱心さは必要です。
 
とくに教育には、「熱血先生」という言葉があるように、熱さは必要だと私は考えます。
 
生徒に対して熱い思いや態度で教育にあたることは大切で、教育が人と人とのふれあいで営まれる行為だからです。
 
 
ただし、頭はクールで、心は熱い教師でないといけないのです。
 
観察や見極めは冷静でありながらも、心は熱い闘志をもたないと、判断を誤ります。
 
いつもカッカとしていて、思慮深さが足りないと、生徒の様子を正しくみることはできません。
 
生徒の様子をみるとは、生徒の言動の背後にある生活背景にまで思いをいたすということです。
 
熱いだけでは、生徒の姿を見誤ります。
 
 
例をあげます。
 
いつも上靴のかかとを踏んで歩いている反抗的な生徒を学校でみかけたとき、「だらしない生徒だ」というのは簡単です。
 
しかし、思慮深いクールな教師は、その上靴を踏む態度から、生徒の生活背景の課題がないかということまでみようとします。
 
足が大きくなって、新しい靴を買ってもらえない。だからしかたなくかかとを踏んで歩いている。
 
すると、いつも注意されるから、学校で反抗的な態度をとる。
 
それを詳しくみていくと、新しい靴を買ってくれないという家庭の経済的な問題が浮き上がってくる場合もあります。
 
その点を踏まえ、生徒と向き合う教師に、生徒は心を開きます。
 
教師になるなら、こんな教師を志してほしいと、私は考えています。
 
頭はクールで心が熱い教師が、本当の意味での「クール・ティチャー」なのだと思います。