最近、家事をしている時や休んでいる時に大祓祝詞を口ずさんでいたり、声には出さずに心の中でつぶやいていることがある。
けっこう長い文章なので、まだ全部は暗記出来ておらず、途中で「あれっ、次は何だっけ?」と考え込むこともしばしばで、そんな時はやっていることを一時中断して大祓祝詞が書かれた紙を読みに行く。
「そうだ、そうだ、次はこれだった」と確認できる時はよいのだが、場合によっては確認しに行けない事もあって、そんな時は次の言葉がどうだったかと気になり、なんとか思い出そうと試みて脳みそはフル回転する。
これが昼間であればいいのだが、夜に布団に入ってからもやってしまう為、頭が冴えわたり眠れなくなることもある。
いけない、いけない、もう考えないようにしよう・・・と思うのだが、どうしても次の言葉が知りたくて、わざわざ布団から起き上がって灯りをつけて大祓祝詞を確認しに行くこともある。
こうなったら、もうだめだ。眠れない・・・
まったく我ながら何をやっているのかと思ってしまう。
しかし、やっぱり暗記したい。
初めて大祓祝詞というものを読んだのが今年の二月頃だったが、その時に「これを暗記したい。暗記しよう」と思った。
それまで祝詞などというものは読んだこともなく、またほとんど聞く機会もなかったので(自分の結婚式では神主さんに祝詞をあげてもらったのだが、忘れてしまった)お経と同じように一般人には何を言っているのかさっぱりわからない言葉なのだろうと思っていた。
しかし大祓祝詞は違った。理解不能どころか、一つの美しい物語になっていた。
それは読めば読むほど、まるで物語の情景が目に浮かぶかのようだ。
初めて大祓祝詞を読んだ時から、毎朝必ず神棚の前で祝詞を読み上げるようにしているのだが、先日、自分の心の中でちょっとした変化があった。
それまでは間違えずに読み上げることだけに心を奪われていたのだが、次第に読むことに慣れてきて、物語の情景を思い浮かべながら読むようになったからだと思うが、大祓祝詞を読みながら「なんとありがたいことか」という想いが心の底から湧き上がってきた。
これほどまでにして、神様は私たちの為に罪を祓って下さっているとは、ただただありがたいとしか言いようがなかった。
祝詞を聞いて下さった天津神さまは幾重にも重なった雲を押し分けかき分け、国津神さまは高い山低い山に登られて、罪と名がつくものの一切を残らず消え去られるようにしてくれる。
そして、数名の神様たちが出て来られて、色々なことをしてあらゆる罪を浄化してくださる。
私の拙い文章では、これだけでどうしてありがたいという強い想いが湧き上がってきたのか分からないかもしれないが、何度も何度も読んでいくうちに、そのような想いが湧き上がってきた。
過って罪を犯してしまった私たちの為に、そしてその罪を浄化して下さるために、神様たちは雲をかき分けたり、山に登られたり、罪を大海原に持ち去ってくれたり、がぶがぶと飲み込んで下さったり、息を吹いて吹き去って下さったり、どこかに持ち去って封じ込めてくださったりと、大変なご苦労をしていらっしゃる。
このようなことをして頂けるとは、なんとありがたいことだろう。
大祓祝詞を読み上げることで、自分でも気づかなかった想いが湧き上がってきたことが、意外でもあった。
というわけで、まだ全部暗記できるまで時間はかかりそうだが、地道に憶えていこうと思う。
ただし、寝る時はできるだけ止めておこうと思う・・・
けっこう長い文章なので、まだ全部は暗記出来ておらず、途中で「あれっ、次は何だっけ?」と考え込むこともしばしばで、そんな時はやっていることを一時中断して大祓祝詞が書かれた紙を読みに行く。
「そうだ、そうだ、次はこれだった」と確認できる時はよいのだが、場合によっては確認しに行けない事もあって、そんな時は次の言葉がどうだったかと気になり、なんとか思い出そうと試みて脳みそはフル回転する。
これが昼間であればいいのだが、夜に布団に入ってからもやってしまう為、頭が冴えわたり眠れなくなることもある。
いけない、いけない、もう考えないようにしよう・・・と思うのだが、どうしても次の言葉が知りたくて、わざわざ布団から起き上がって灯りをつけて大祓祝詞を確認しに行くこともある。
こうなったら、もうだめだ。眠れない・・・
まったく我ながら何をやっているのかと思ってしまう。
しかし、やっぱり暗記したい。
初めて大祓祝詞というものを読んだのが今年の二月頃だったが、その時に「これを暗記したい。暗記しよう」と思った。
それまで祝詞などというものは読んだこともなく、またほとんど聞く機会もなかったので(自分の結婚式では神主さんに祝詞をあげてもらったのだが、忘れてしまった)お経と同じように一般人には何を言っているのかさっぱりわからない言葉なのだろうと思っていた。
しかし大祓祝詞は違った。理解不能どころか、一つの美しい物語になっていた。
それは読めば読むほど、まるで物語の情景が目に浮かぶかのようだ。
初めて大祓祝詞を読んだ時から、毎朝必ず神棚の前で祝詞を読み上げるようにしているのだが、先日、自分の心の中でちょっとした変化があった。
それまでは間違えずに読み上げることだけに心を奪われていたのだが、次第に読むことに慣れてきて、物語の情景を思い浮かべながら読むようになったからだと思うが、大祓祝詞を読みながら「なんとありがたいことか」という想いが心の底から湧き上がってきた。
これほどまでにして、神様は私たちの為に罪を祓って下さっているとは、ただただありがたいとしか言いようがなかった。
祝詞を聞いて下さった天津神さまは幾重にも重なった雲を押し分けかき分け、国津神さまは高い山低い山に登られて、罪と名がつくものの一切を残らず消え去られるようにしてくれる。
そして、数名の神様たちが出て来られて、色々なことをしてあらゆる罪を浄化してくださる。
私の拙い文章では、これだけでどうしてありがたいという強い想いが湧き上がってきたのか分からないかもしれないが、何度も何度も読んでいくうちに、そのような想いが湧き上がってきた。
過って罪を犯してしまった私たちの為に、そしてその罪を浄化して下さるために、神様たちは雲をかき分けたり、山に登られたり、罪を大海原に持ち去ってくれたり、がぶがぶと飲み込んで下さったり、息を吹いて吹き去って下さったり、どこかに持ち去って封じ込めてくださったりと、大変なご苦労をしていらっしゃる。
このようなことをして頂けるとは、なんとありがたいことだろう。
大祓祝詞を読み上げることで、自分でも気づかなかった想いが湧き上がってきたことが、意外でもあった。
というわけで、まだ全部暗記できるまで時間はかかりそうだが、地道に憶えていこうと思う。
ただし、寝る時はできるだけ止めておこうと思う・・・