metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

すごい教会学校

2008-07-29 08:16:05 | 教会生活
私の奉仕する韓国中央教会では、教会学校は三つのグループに分かれています。
新芽を意味する「セサク」組 1~3年生
実りを意味する「ヨルメ」組 1~6年生合同
青々とした緑の「プルン」組 4~6年生

私はプルン組で先生をしています^^/

プルン組で核となる子供を集めて10週間、とりなし祈祷訓練を受けた子供たちと一緒に先週「WingWingキャンプ」に行ってきました。
WingWingは、韓国のサミル教会という教会内にある教会学校なのですが、今やその教育方法とダイナミックなプログラムをもって韓国全土の教会学校の変革と成長のために仕える「国際WingWingスクール」という名前で大々的に奉仕をしています。

以前6月ごろにWingWingセミナーに参加しました。
その時の記事→http://blog.goo.ne.jp/metch0221g/e/c52f3d55ee6c10d1b7059ca5e19fb19d

大体、国際スクールをうたうくらいなので、プログラムや讃美やダンスや演劇までかなりのプロ意識を持ってやっていてそれだけでまずは、すごいのですが、そのレベル自体がかっこいいとか、良くできていると言う範疇を超えて、本当に神様の御心が生きる教会学校ということが、キャンプに参加して分かりました。
本当にすごい教会学校です。

時々、代表の牧師先生が雷親父のように怒りもしました。
礼拝をささげようとしてる友達を妨害する行動をした子がいる時。
自らを礼拝の妨げとする子に対しても。
祈りの時にしゃべってる子供。
讃美の時に、テキトーに神様に向かってる子供。
そういう子供に対して、怒るのですが、正しい怒りだとも思います。

こどもに、まず、全能の神様に対する姿勢を教えることって、とても教会学校で大事な点だと思います。


それから、讃美とダンス。
この完成度は高いのですが、その技術よりも「ちゃんとやる」ことにここまで意味があることを教えてくれました。
誰が、どんなひとが考えているのか、このダンスと振り付け、まずは教師が率先して一生懸命やることを要求され、私達も頑張りました!
で、ちゃんとやればやるほど、本当に神様に対する私達の魂を表現しているダンスで、感動しました。

子供が歌うように作られている曲なので、単純な歌詞が多いと言えば多いのですが、渇いて神を求める思い、神様に献身をささげる歌詞とそのダンスは、すればするほど「人間の内側に隠されている霊的な内なる人の思い」を表現するのです。

本当に驚くべき神様からの御心を受けて、牧会している教会学校があるもんです!


この代表の牧師先生、とてもとても素敵な先生でした。
雷親父ですが、とても健康的な考えを持って牧会をしてる先生だと分かります。
説教が易しくて、聖書を子供にここまで簡単に、しかも落ちなく、ひきつけて説明できるというのは普通のわざではありません。

また、韓国では、本当に無意識の内に、無言の内に「日本を憎む」ように出来てる流れが、特に、子供の世界であります。
学校の教育で事実を教えるのはもちろんいいのですが、必要以上に日本を憎んだり、自分の民族のみを不健全に強調する流れがないとは言えません。
これは、とても韓国にとってはもったいないことです。
信仰にある一部分の「氷点下」の温度の部分とでも言おうか。

また、自分の教派や教会だけを優先的に考える風潮。

WingWingの牧師先生は、子供を講壇の上に上げて、手をつながせて、世の中にある全ての教会が、「キリストのからだ」を構成するのに必要だと言われました。
そして世界の教会が必要だと言われました。
そして、おともだちをゆるせないと思っている子に対して赦しの必要性、神の命令である赦しに従うときに、私達の心と体が健康になるということを分かりやすく説明された上で、赦しの決心をした子、そして、日本を嫌いと思ってた先生、アメリカやモンゴルや中国を赦せないと思ってた人たちを代表で講壇の上に上げて、許しの決心と証しをそこでさせました。

その時、私も・・・講壇に上がりました。
1000人以上の子供の前で「自分が日本人」というのがこれほど辛かったことはありませんでした。
みんなの無意識の憎しみの対象が、私なのです。

日本人であることを明かして、ここで和解のときを持つことが出来ました。

子供たちは翌日の朝から「昨日の夜の集会の日本の宣教師の先生だ!」っていう感じで「アンニョンハセヨ~」と挨拶してくれました。

日本の私も、韓国人の子供たちも、心から泣いて、神の御心の下にへりくだった時間でした。

正直、このような考えで牧会を出来る先生は、韓国の中でも、そして日本の中でも、わずかではないかと思います。
教会学校の大きさによって先生がすごいと思われるのではなく、神の御心にへりくだった先生の下に、人が集まり、神のビジョンにより、国際スクールを形成した結果を見ただけのことです。

神様の御心と、生み出される結果の素晴らしさに、感動した三日間でした。

国際WingWingスクール
http://www.wingwings.com/

映像はこちら
http://www.wingwings.com/qboard/board.php?id=seminar2#
映像の17番が、私の参加したキャンプの映像のようです。
ひと夏に、全国から集まって6回も行なうので、正確には分かりませんが…雰囲気だけ^^興味のある方はご覧ください!

幸せ涙

2008-07-28 01:43:58 | 家族の話
彼のおかあさま召天から、もうすでに二週間が経とうとしています。
回復しつつあります。

先週教会学校のこどものキャンプがあって、そこでかなり。

まず一つは、こんなこと言ってはなんだけど、気がまぎれました。

月曜から水曜までは、何か仕事して、忙しくて辛くなって、部屋に戻ってきて、おかあさん思い出して泣いて、自分の幸せ思って、もっと泣いて、なんか、悲しいのと、幸せだった分、亡くなって残念っていう思いもあって、なんか良く泣いてたし、ピアノも弾く気になれず、重要な用事以外は家に引きこもりたい気持ちでいっぱいでした。
木曜の朝からキャンプに行きましたが、泣いていられるわけないですよねぇ。
子供連れて、ものすごいスケジュールで、かわいい子供たちは私をめんどくさくさせるほどに「めぐみせんせーめぐみせんせー」って来てくれて。
幸せでした。

このキャンプでは、大人、教師が、子供に先立ち、積極的に遊び、讃美し、礼拝をささげることで、子供を引っ張ります。
なので、三十路めぐみせんせい・・・水着まで購入して参加しました。

泣いてる余裕があるわけなく、ひそかに讃美の中で感動と、言い知れないおかあさんへの郷愁を感じてましたが、三日間、怒涛の中で、癒されました。

キャンプのめぐみは別の記事で書きたいと思いますが、とにかく、元気になって来れました。

彼は韓国に戻ってきまして、今は、自分は回復しましたが、福岡に独りでいるおとうさんのことを心で心配する時です。
自分が元気になったからって、OKじゃなくて、自分が悲しい時期を通ってきたことを肥やしに、もっと人を気遣う・・・「人」っていうか、大事なおとうさん。気遣える私となりたいです。
神様の愛情を頂いて、深い同情と痛みをもって、新しい家族のためにとりなしの祈りをささげる時としたいと思います。


おかあさんが天国に行って何がそんなに悲しいか。
天国に行くことは、悲しくないはずですけど、涙が出て止まらない理由も色々考えました。
彼の故郷に行って、島の親戚の人たちも出てきて、昔の話しになるのですが、少年だった頃の彼の話もリアルに聞けたりして、やっぱりとても素敵な人だとおもいました。今が素敵な青年であることは、自分が交際してるんだから当然素敵なんですけど、少年の頃から、なんて立派に育ってきた人なんだろうって思うようなことばかりでした。

改めて彼を尊敬もし…自分がこういう人の所にお嫁に行くって幸せなことだと思いました。

少年の彼は、仲の良いご両親の元で大切に育てられ、ご両親は彼の前では決してけんかしなかったといいます。
彼が中学生でキリスト教の信仰をもってからは、筋の通った信仰を守り通して、きっとその姿にご両親も一目置いていたんじゃないかと思います。
遠く韓国に行くことも、おかあさんが納得してくれて送り出してくれたことは、彼の姿勢、息子としての姿勢、また、クリスチャンとしての歩みの姿勢が良かったから、両親が彼を信じて送ってくれたんだと、はっきり分かりました。

その後、両親も同じ神様をはっきりと信じるようになって、クリスチャンになりましたが、おかあさんは彼と同じように筋の通った信仰を守り通して天に召されて行きました。

親としても素敵な方たちで、息子としての彼も素敵で、その愛情と信頼関係を思うと、とてもいい家庭だという風に思えました。
そんな幸せと、別れの辛さと、懐かしさと、その家庭の素敵さと、おかあさんへの尊敬と、彼への尊敬と、愛情と、感動と、もう全部がごちゃまぜになって、涙涙ってなってしまっていたんかなぁと思います。

でもって、その、島(おとうさんの出身)の親戚の人たちは、それはそれで、かなり面白かったです。
葬儀の席で面白いってのも微妙ですが・・・。
まず、言葉がよくわかんない。
方言というより、外国語です。
彼らも「言葉も通じないのに、どこにも行けん」みたいな感じで、船で一時間の福岡を外国よわばりしています。
気質もすごい面白い人たちで、嫁に行く前にこんなに親戚の人に出会って、しかも、まぁ、「メグミチャンメグミチャン」と、歓迎されました。
「次はめでたい事だからな!結婚式楽しみだ。はっは~!」
と言う感じで大笑いされました。

と言うわけで、幸せなのは幸せです。
これからのおかあさんを思い出す涙は「幸せ涙」となることでしょう。

オモッタヨリモ

2008-07-23 23:36:41 | 家族の話
彼のお母さんが亡くなった事にショックを受け続けている私です。

何を見てもお母さんを思い出すことばかりで、涙が出ます。
福岡にいる彼は色々いそがしくしているようで、あまり母について考えないのが幸いで、と言っていて、逆にひとりでこっちに戻っている私を心配してくれています。

逆になっちゃったね、と言いながら。

月曜から本日までほとんどまともに何も手につかず、廃人化していますが、そのうち立ち直ります。

よ~く考えても、天国に行かれたお母様のことを悲しむ必要はないのだけど、ただ、もう会えないし、メールもやり取りできないし、私達の結婚喜んで励みにしてたおかあさんを思うと結局、なんとなく涙がでるし、寂しいですね。

こんなことでは、私本人の親が死んだときにはどうなることか。
もう嫌って言うほど長生きして欲しいものです。

夫になる人にも、嫌って言うほど長生きして欲しいものです。

みんなで一緒に天国にあげられる日があったらいいな。
長生きしてる間に。

天からのはげまし

2008-07-19 23:03:32 | 家族の話
私の婚約者のお母さんが水曜日に亡くなりました。
慌てて木曜日の朝彼は日本九州へ。
私も夕方の便で追って向かいました。

思いも寄らない、急なことでした。
先週、体調が一時回復して、退院してから、すぐの召天でした。

「私は大丈夫だから二人仲良くね」
と送ってくれたメッセージが繰り返し思い出されます。

今回の交際と、婚約までの間、おかあさんからは、本当にたくさんの愛を受けました。
ひとり息子を信頼している姿も立派でしたし、
私がお嫁に来ることをとても喜んで私を可愛がってくれたことを感じます。
たった数回しかお会いできなかったのですが、初めから、嫁に来る来ないを超えて、「仲良くできそうね^^うれしいわ」という感じで接してくれたお母さんの思いが懐かしく恋しいです。

二人仲良くね、と言って大事な息子さんのお嫁に来ることを認めて喜んでくれたお母さんに、これからも孝行できるように、そして、お父さんにも倍以上の愛と孝行で仕える夫婦になれるようにがんばります。

私と家族になることを望んでくださったおかあさんの思いを今、心にいっぱいに思い出しています。


博多弁は難しいんですが、博多弁で天国から励まされる気がします。
「私が見とうけんね、泣かんと、皆なかようね」
こういう感じかな。。

おかあさん、私がんばりますね。

理想と現実

2008-07-14 01:31:29 | 読書・映画
理想と現実はいつも隔たっているなぁと感じる。

小説塩狩峠を読んでいる。
中学生の頃からの大好きな小説だった。
このたび、機会があって改めて。
まだ前半分を読んだところです。

綺麗な生き方をしている女性達が出てくる。
主人公の妹、その友人の妹、主人公の母親たち。
小説だけど、いかにも、見た目美人なだけではなく、内面から理想が高くて清い生き方を志したひとなんじゃないかと思わせる描写。

うらやましいなぁと思う。

誰にでも、人に知られたくないと思うような汚い心が、きっとあるはずだけど、それでも理想は高いほうがいいし、理想を置いたらあきらめない方がいいとも思う。
だけど、自分の欲で設定した理想にとらわれすぎるのも、病的だ。

欲と努力のバランスも難しい。
欲は出しすぎたらいけないけど、欲、というより、目標や意欲自体がなければ、努力も生じないからだ。

素直な女性でいたいと思う。
塩狩峠に出てくる女性達のように、きちんとしていたいと思う。
見た目にも美しく、信仰をきっちり守って、夫に従順。
だけど、現実の私は、そうじゃないんだなぁ。

目に見えるように何かはしなくても、たとえ彼氏が気がつかなくても、心の中でいつも私が思っている理想の女性的考え方をしてるかというと、時々そうではない。彼氏だけじゃなくて、すべての人々に対しても、自分が「こういう風に接したい」という枠を大きくはみ出ても、結局自分の心の状態に大きく左右される。
ストレスが大きいとちょっとしたことでイライラしたり、人の失敗を指摘したくなる自分。

実際に人の目に見てやっているかやってないか、よりも、心の中でどう思っているか、そういうことに、塩狩峠は言及する。

その目で見ると、すべてをひっくるめて、自分は理想とは程遠いと感じます。

ピアノも、自分の欲ばりで、努力も追いつかないのに、あれこれと頑張っている自分。頑張っている事は美しい努力ともいえるだろうが、その内側にある急いた思いや、負けず嫌いも自分を苦しめる。

そして悩んで苦しくなった心を引きずって、失敗したりするともっと落ち込みます。

内面から、美しい女性達を小説の中で見ると、改めて理想像を構築しなおそうという気になります。
自分の考えで作り上げた理想は、ハードルがある意味高い気がする。

全部別々
信仰
音楽
奉仕
見た目
女性像
優しさ

大胆さ
強さ
妻像
そのほかいろいろ

だけど、この「色々」は本当は一つの根っこから生え出でる実なのではないかと、今思えてきた。
根っこを押えることが重要なんじゃないかと。。。
じゃあ根っことはなんだろう?
私たちをいつも、澄んだ精神にしてくれるのは、何だろう。
時や気分によって変わらない理想を位置づけてくれるものを、いつも見上げることが出来たらと思う。


もんごるちゃん→

2008-07-09 23:51:14 | 韓国ライフ
夏休みです。
30歳過ぎても。。。学生さんをしていれば、夏休みが一応あるんですね。
職場にいても、夏季休暇はあるけど、学生のように長くはないですもんね。

私は昔々、大学を卒業してすぐには、その出身した大学にお勤めしました。
日ごろの業務は激務激務激務
日ごろのストレスも激激激で、私はその頃、腕は割り箸のように細かったし、お洋服は、お店で縮めてもらわないと合う服がないくらい痩せ痩せでした。
それこそ、鶏がら状態で、今思うと。
横になっても、布団の上で骨がくぼんでいる部分は皮膚がお布団に接しない、って感じだった。
恐ろしいですねぇ。
今はすべての部位に、肉があります。この変化も、ある意味恐ろしいですねぇ。

骨が結構しっかりしてる体形なので、ある程度肉があるのが普通なんだろうと今は思えますけど、当時かなり体重が軽かった事を考えると、骨太めっち、おそらく骨の重みのみだったんじゃないかと思います。

顔に肉が多いので、痩せても顔は結構まるかった。
時々あの軽いからだに戻れたらって思ったりするけど圧倒的に今が健康的に見えます。

えーと、そのころ、激務だったこともあって、うちの部署に限り、二週間連続で休暇をもらえるようになってました。
私はモンゴルに旅行に行きました~☆
当時憧れで応援してお祈りしていた宣教師の先生が、モンゴルをフィールドに活動されていたのでお訪ねしました。

当時南国志向だった私は8月のモンゴルはちょっと寂しかったです。
もちろん季節はモンゴルも夏でしたが、青い草が芝生のように生えているところに、ところどころ木がたっていて、そこに上半身裸の男性が羊の群れを飼っている。。。鳥はいない。花もない。
大きく流れる川の流れの音のみが聞こえる。
ひたすら水は音を立てて流れ・・・風は吹き渡り、自分達以外に人の声も聞かれず、生き物も見られない。

というかんじで(表現力が文字では限りがある)
その前に行った外国だったインドネシアの様子との比較は大きかったです。
南国でギャーギャー鳥が鳴き、色とりどりの可笑しな花は咲き乱れ、匂いのすごいのフルーツがごろごろあるなんていう様子とは似ても似つかぬモンゴルの夏でした。

当時職場でモンゴルに行ってきた新人ということで「もんごるちゃん」などと、働いていたビルで呼ばれていました。。はは。

もんごるちゃんと呼ばれた私は今は「かんこくちゃん」です。

広い大地も、広い空も、化石がごろごろ発見できるこの土地も、ちょっと寂しい、そんな風に思った私は、今は・・・草原もない、花もない、鳥はすずめかはとしかいない、排気ガスでいっぱいで、歩けば人にぶつからない日はない、人口過密なソウルに生きています。

南国が昔は大好きだった。
宣教師になりたいと思っていて、そういう国で汗だくになって現地人と働きたいって思ってイメージしていた・・・のだけど、今は南国でもなく、モンゴルでもない、韓国にいます。

だけど、韓国、ありがとう。
私にとって韓国は多くの可能性を与える扉を持つ国でした。
韓国から派遣されている宣教師の人たちは、世界のあらゆる国で奉仕をしています。今や、せかいでもっとも多く宣教師を輩出する国。
この国を経て、もんごるちゃんになるひとも、日本ちゃんになる人も、南国ちゃんになる人も。

ここを経て・・・
私は「にほんちゃん」になるようです。


イスラエルのお土産話

2008-07-07 21:46:41 | mylover
イスラエル卒業旅行から帰ってきた私の彼。
今日ようやく個人的に会いました。
個人的にってのは・・・
実は木曜日に帰国して、早々金~土で私達はMTに行ってきたのです。
MTとは、メンバーシップトレーニングの略で、今年の夏、九州熊本に短期宣教に赴くメンバー達と一緒に、日本について調べた事を発表したり、お互いの事を理解してよく知ったりする時を持ったのです。

彼としては日程的に厳しかったと思いますが、総務のお兄さんに「しよう!」とやる気で押し切られ。。。でも説教まできちんとしていて、さすがはめっちの彼でした!

金曜土曜と修練会お泊りして、日曜の夜も引き続き準備会を持ち、毎日顔を見てましたが、今日やっと二人で会いました。

そして、水曜からはなんと彼のお母様退院できることになり、またまた福岡へ。
なんて忙しい人なんでしょうか!
そして私に向かって「いいねヒマで。っていおうと思ったけど失礼だからやめた」だって。オイオイ言ってんじゃんか!
ますます、むっと来ている私です。
結婚式の準備とかどうするの!

私としては、短期宣教企画屋の彼に任せておいても、無事に式は挙げられると思いますが、本当に家庭を持つとかいう気持ちになってるか…とかが不安要素です。
今日、彼の方から聞いてくれたので、一応、「ねぇ、結婚して生活することに不安とかないの」って聞いてみたけど「ない!」って言われた。そうかなぁ?!


ところで、イスラエルのお土産を貰いました!
なんて可愛いんでしょうか。
私のハートをつかみます。

百合の形で、真ん中の絵のついたガラス部分に小さい鳥さんがいます。
あぁ~かわいい☆☆
上のビーズのとこには、一個だけ葉っぱのビーズもあります。
-@original lily art-hand made in Israel-


ところで・・・
↑これは違うそうなんですけど、これに似たような形で手みたいな形のペンダントとかがイスラエルで売ってるそうなんですけど…変なお守りなんだそうですTT
私昔、イスラエルのお土産で一個そのペンダントもらったんですけど、その時はそのペンダントも百合の花と言われました。
しかし、今日彼に、それはお守りだって言われました。
百合と思ってた形は手で、本来その手の模様の中に目を書いたものだったらしいです。
それが色々と芸術的に変化して、美しく変えられて今はオブジェのようなもの、ペンダント、ピアスなどになってるそうです。

インターネットで調べたらほんとにありました。

「邪視」
って言葉があって、ねたみの目で人を見て呪うことだそうです。
その呪いの視線は、誰でも持つ事が出来ると言う人もいるし、特別な人だけ持てるという人もいる。その視線に対抗するために、守ってくれる目を見につけるという考え方で目のお守りが考え出されたようです。

見れば見るほどキモイ~・・・
今まで百合だと思っていたペンダント。
これはこれで、とても大事な人に頂いたプレゼントだったのに、困りました。
一応今目の前にあるけれど、どうしようか考え中です。
そのお守りの名は「ハムサ」と言うらしいです。

彼もイスラエルで買おうかなって思ったら、ガイドの人が異教の偶像だと教えてくれたそうです。知らない土地に行けば、分からない事があるから気をつけないとね。。

土地や時代や宗教によって、呪いや祝福を色々に解釈します。
モンゴルでも、赤ちゃんにいい名前を付けると悪魔にねたまれるという理由で「人でない」とか「愚か」とかすごい名前を付けると聞きました。
このハムサの考え方も、ねたみの視線から身を守るお守りという発想で、その考え方によれば、赤ん坊にボロボロの着物を着せてねたみから守ろうとしたり、その社会においては、「わ~お金持ちでうらやましいですね」などの言葉は絶対に言ってはいけないそうで・・。なぜなら「うらやましいです」などという言葉自体が、相手を呪うねたみになるからだそうです。

なんという世界・・・。
私めぐみちゃんっていう名前で、日本に生まれてよかった^^

ちょっとびっくりしたイスラエルの「お土産話」でした。

サマリヤの女性のおはなし

2008-07-07 00:25:55 | クリスチャンとしての私
サマリヤの女性のお話は韓国語では「サマリヤ女人」となっています。

どんな女の人だったんでしょうか。
当時サマリヤ地方の人々は、エルサレムを中心に集まっていたユダヤ教の人たちからは「血の混じった奴」などと思われ、見下げられていました。
長いイスラエルの歴史の中で、かつて北イスラエルの首都だったサマリヤを征服した他民族アッシリヤがその地方に入植し住むようになったためです。

ユダヤの血を守ってない、混血と呼ばれたサマリヤの人たちは、正統派ユダ人たちからは口を聞いてもらえない立場に置かれました。
さらには、そのサマリヤ人の中でも、5人の男性と一緒に住んだり結婚したりした、もっとも居場所の無い女性と、イエス様が井戸でお話するという話がヨハネの4章に登場します。

会話は結構オカシイです。
イエス様「水をください」
女の人 「私はサマリヤ人です。どうして私にものを頼むんですか?」
イエス様「もし私が誰か知っていたら、あなたが私に水を求めたでしょうね。そしてあなたにその水を与えたでしょうに」

なんかかみ合わない会話です。
そしてそのイエス様がくれる水というのは「永遠に渇かない永遠の命の水がわき出る水」だという。
それは素敵。
女の人 「じゃあ、その水をください」
イエス様「じゃ、あなたの夫を呼んできなさい」

・・・イエス様、さっきから女の人の言葉を聞いて、答えているんですか。

会話はこんな感じでなんか面白い展開な訳ですけど、女の人にとっては「夫を呼んできなさい」っていうのは痛いところをつかれる質問だったようです。
何せ…5人と結婚したり関係を持ったけれど今一緒にいる人も夫ではない、
今の世でもちょっとびっくりです。

ギクッ


イエス様は、渇いた心を満たす水をあげようとしていた模様です。
井戸のそばで会話が始まり、女の人は水をくみに来ていた状況で。。。
もちろん、目に見える「水」の話から導入されていったわけですが、実はイエス様は心を潤す、しかも永遠の命につながる水をお話していたようです。

そしてその水をもらうためには、どうやら女の人が「ギクッ」って思うことに目を向ける必要があったようで。

私にも「うわ、それだけは触れないで欲しい」と思う恥ずかしい事や、人に知られて欲しくない過去や、傷や罪や痛みがあります。
イエス様はここで、真昼間砂漠の暑い場所で人目をかくれて、一人で来た女性に声を掛けました。弟子達には「食べるものを買ってきて」と頼んで町に使いにやって。

イエス様は、「ギクッ」と心を刺す質問をする時がありますが、それを、人にわざわざ分かるように大声で「あんた、こういう罪してるね?」なんていう風にもいわれない。全部知ってるのに、弱み握ってるような、デカイ顔もしない。

その後、女の人は、神を真実に礼拝するということをイエス様に教えられます。サマリヤだーエルサレムだーという先祖からの礼拝のしきたりではなく、心からの礼拝者となるということを神が求められる日が来るのだと。

また、イエス様の言葉を聞き、ユダヤ人たちが待っていたメシアなのではないかという感動を受けました。隠れて生きてきた彼女が、町に出て大声でイエス様に会ったことを証しした、というのがここに記されているあらすじです。

証し、というのは、時々カミングアウトも含みます。
どのようにして、キリストイエスと個人的な出会いを経験したか。
教会で聞いた聖書の言葉が、自分の人生に生き生きとした作用を及ぼした経験などを話すことが証しです。

女の人は、恥ずかしい、と思って生きてきたのに、町に出て行って人前でイエス様を語りました・・・。
サマリヤ人はその言葉でイエスを信じた、直にイエス様を町にお迎えして言葉を聞いてさらに多くの人がイエスを信じたと出てきます。

サマリヤ人たちは、同じユダヤ民族でありつつ、他民族虐げの中混血と呼ばれ、とつとう自分の民族からも「ハブ」られてしまいました・・・。
だけど、「渇き」があったんじゃないかなーと思います。

「霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がそのときです。」

サマリヤ人は礼拝を渇望したのに、山で礼拝をしては仲間のユダヤ人にバカにされ、だからと言ってエルサレムに上っていくわけにもいかず。礼拝を求めていたと思います。

私達って、毎週礼拝する中で、神様を渇望する霊とまことの礼拝をささげられているだろか。

カミングアウトして証しする、その動機には、かならず「イエス様がこの私に近づいて永遠の水を与えてくれた」という確信が必要です。
証しを聞いて、もしかしたら、「あの汚い生き方をしてた女が何を言ってんだい」と言った町の人もいたかもしれません。
けれど、「イエスを信じた」町の人たちの存在が大きく描かれています。

現在教会で、毎週礼拝をささげている人たちの間で、もしもサマリヤの女性のような人が変えられた人生を証しして、女がさらに日陰の存在になってしまうような人の目があったとしたら、霊とまことで礼拝する群れではないんだと思います。

霊とまことで礼拝をする人。。。でありたいです。
毎週礼拝のイスに座っているのに、
人の告白を聞いて、スキャンダルを聞くようにそれに耳を傾けたり、そんな目があったとすれば、それは、自分の満足のために礼拝に行っている人、エルサレムで礼拝できた今日は大満足な主日だなーと思うようなのとおんなじです。

恥ずかしい弱い私ですが、恥ずかしくない礼拝者になりたいと思いました。

ムンチャメッセージ

2008-07-02 20:21:23 | mylover
ムンチャとは漢字で『文字』を書く韓国語です。
携帯同士でやり取りできるショートメッセージのことを、通常韓国人は「ムンチャ」と言っています。

私の彼は今イスラエルからエジプトに向かっているそうです。。。
何で分かるかというと、どうやって送っているのかは不明なのですが、イスラエルからムンチャが来るんです。
不思議ですねぇ。。
ローミングとかすれば使えるんだろかぁ?
E-メールともちがう機能で動いているこのムンチャがどういう仕組みなのかはさっぱり私は分かりません。

先週の月曜日にイスラエル聖地旅行に、卒業旅行で旅立ちました。
その前の一週間まで試験だったので、なーんの準備も彼は出来ず。。。
イスラエル聖地旅行ってそこにだけ行くの?と当日空港についてようやく通話が出来た彼に聞くと「まずエジプトに行くみたいだよ。僕予定今見てるんだけど」という返事でした。レポートも全部終われず、なんとノートPC持参での卒業旅行になってしまった彼でした。

「国際電話とか出来ないと思うから連絡できないけどごめんね。。。」

おそらくエジプトに着いたその日には連絡なく、ないことが当然だと思っていた私でしたが、数日後突然のムンチャ。
「今ヨルダンからイスラエルに来ました。イスラエルにいるときだけムンチャできます。会いたい。」というメッセージが来ました。
びっくりします。

数日後さらに
「ガリラヤで泊まって、ナザレでお昼食べて、今カルメル山に登っています」だと。
韓国語で普通にメッセージが入ってくるのに、私の頭の中では聖書のその時代のイメージの地名に、そこに彼がいると言う。

そして今
「エジプトに再び向かっています。もうムンチャできないから韓国着いたら連絡します」だと。。

どうなってるのかよく分かりませんが、とてもこっちは不思議な気持ちでした。
無事に飛行機で飛んで帰ってくるあすを待つばかりです。
明日、私はヘブライ語最終回で試験の準備もしなければ。。。




たんぱく質の情報伝達-レビ記11章の律法

2008-07-01 23:23:47 | 神学校
ヘブライ語集中講義もいよいよ、終わりになります。

今日のテキストはレビ記11章、「きよくない動物と、きよい動物」についての律法でした。
昔々、イエス様が来る1500年くらい前、聖書に描かれるユダヤ人の世界では神様から「食べてもいい動物」と「食べてはいけない動物」が指定されていました。
それについての規定が書かれている聖書の箇所がレビ記の11章です。
正直、もっとも「めんどくさー」という感じのテキストです。

ひづめが分かれている、反芻する動物は食べてもいいが、反芻するけどひづめの分かれてないらくだは食べてはいけない、とか、生命の死体に触れるものは夕方までけがれる。。。様々な規定がかかれています。
これらの律法はイエスキリスト後、この規定に属してない異邦人に神様の恵みが及ぶ時代になった時に、「感謝して信仰をもってすべての動物をきよいとして食べる」という風になりました。・・・神学的な意味はもっと深く言及できるところでしょうが、ここでは、とりあえずこんな感じでやめます。


で、今狂牛病問題が韓国でもとてもとても騒がしいのですが、これについて今日は教授が興味深い発言をしていました。ので、まとめもかねて書いておこうと思います。


太初、人間は「木の実を食べる」者として聖書に著されています。
動物は草を食べていました。

人間は、たんぱく源を、生命が持っているたんぱく質を摂取する事によってでではなくて、別のもの、すなわち木の実、を摂取して人体でたんぱく質を作ってました。
しかし、人は罪を犯したため、働いても刈り取るものがないという苦難の生活になり、肉食を始めました。肉食をする前までは、動物と争う必要もなかったし、動物を殺して食べるという必要もなかった、ということです。


人間の体に非常に大きな役割をしてるのはたんぱく質とアミノ酸です。
そしてたんぱく質というのは、半導体と同じ役割をしているという。
物事を記憶することにかけては、人工の半導体でとても追いつけるレベルではなくて、今はその半導体開発に生命体のたんぱく質を使うという研究が為されているそうです。

たんぱく質は物事を記憶、貯蔵して、伝える機能が非常に非常に優れているそうです。

さて、草食の時代は、たんぱく質を持つ生命体が伝達する内容は、草を食べる動物が死ぬ、ということで終了していました。
しかし、肉食時代、生命体のたんぱく質を食べて、その生命体の内容を伝達した動物を食べる動物、さらにそれを食べる動物、さらにそれを人間が食べるということで、様々な生命体の持っている情報がたんぱく質を通じてヒトに来るようになりました。
レビ記の規定はその肉食世界に、一定の意味ある規定を設けたものだと教授が言います。で、私が改めてレビ記11章を日本語で見ると、死体や肉や生命に対して実に慎重になるように勧められているように感じます。

狂牛病の発端は・・・
恐ろしい事に、狂牛病を持った牛の肉骨粉を牛に与えるということで発生したと聞きます。同種の、さらに、自然界では起きない骨の粉を摂取するようになったのは、一体誰の責任?
人間がわざわざ砕いて、牛に与えた事が原因ではないですか。。。

そのたんぱく質が持つ異常な情報は、濃く蓄積されて、その結果、狂牛病が発生しました。

食物連鎖の一番上に居る人間・・・。
人間が人間を食べるということは、ものすごく異常な事態以外は、絶対にありえないことなので、これ以上は情報が蓄積される事はありませんが、結局、異常な情報を作り出したのは人間で、その被害を受けるのも人間。当然の刈り取りをしてるようにも思えます。

ちなみに、この異常情報を持ったたんぱく質を自然界から消滅させるには600度以上の高温で燃やし尽くさなければなりません。
地にこの生命体を埋めると、地が汚染され、そこに生ずるあらゆる命に、たんぱく質を通じて異常情報が伝達されるそうです。

すごい話をヘブル語の時間に聞きました。

しらな~い・・・とは言えないことです。


しかし。。。
今すでにこの食物連鎖の中で生命を保っている私達の社会では、「狂牛病があるからこの肉を食べません!」などと声を大にして主張するソウルの北の方面には、食べるものがなくて死んでいく子供たちが居ます。
アフリカなどにも飢餓が深刻です。

交通事故や、まだ発見されてない様々な病により、常に死の危険にさらされている私達は、牛の事で騒ぎ立てることが賢いとは言えない・・・という見方もあります。

目先の欲、肉をいっぱい売って儲けたい!とか、国や個人レベルでの欲心などが引き起こしてしまった問題ともいえます。
これを、「アメリカは儲けたいからなんだ!」とか「韓国はアメリカによく思われたくて輸入しようとしてるんだ!」などと個人的な欲心でまたまた対処していては何の解決にもなりません。(その主張は、事実かもしれないですけど。)

生命を作ってつかさどっている神様のみ思いは、計り知れないのですが、そこにへりくだる事しか解決はないと思います。
具体的にどうしようということについては、何も考えられませんでしたが、教授のお話はとても驚かされるないようでした。