metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

札幌にいます。

2009-09-24 00:16:47 | クリスチャンとしての私
日本伝道会議という7年に一度行われる、日本の教会の今後を考えるカンファレンスに、韓国直行直帰でやってきました。
月曜から、明日、木曜まで。


韓国での生活が長くなってきている私たち夫婦としては、日本人の感覚、牧会の現場の声、近いうちに戻ってミニストリーを始めるであろう、宣教地、日本を知る目的…その他その他で、やってきました。

日本はシルバーウィークということで、お休み中ですが韓国は関係ないので、学校は自主的に休みました。


久しぶりに日本に来て思うこと。
日本語複雑です。

私は日本語を教えるお仕事を専門に勉強したので、分かりやすい日本語というのにこだわる時がありますが、公的な場所で話される日本語というのは、なんて複雑なんでしょうか。

丁寧なのは良いのですが。
「~~という問題の中で~~といったことを初めとする一連の課題に向けて、我々が相互に情報交換をしつつ、考えつつ、検討しつつ、前向きに歩んでいけたらと意見をひとつにした有意義な時間が与えられたことが感謝という以上に何と言うべきなんでしょうか?」(例文)
こういうものは、一体通訳ではどのように訳すんでしょうか。
韓国語は語順が一緒だから良いかもしれませんが、英語の通訳さんは大変でしょう。

あ、これは余談です。


伝道会議は、本当にたくさんの、日本の今を担う働き人たちがいらして真剣に情報を交換していました。

また、同年代で女性でも、ひとつの教会を牧会していたり、しかも信徒さんは皆、年上だったり、教団の任命で田舎で言葉の通じない地方に派遣されたという経験があったり、うーん!本当に頭の下がる神の働き人たちにお会いできました。

日本の社会の背負っている問題は、直、教会の問題、世代の問題でもありますので、それをどういう風に考えるか、いや、私の場合は日本の問題を身近に聞かされる貴重なチャンスでした。

私の立場も、信徒の奉仕者、宣教師、神学生、伝道者夫人、そして後には、牧師夫人になることを考えると、いろんな問題を覚悟しておく必要があります。

今回は特に、家族のフォローアップということでファミリーミニストリーを考えるセミナーに選択で出ました。本当に有意義でした。
教会に来ている婦人の持っている家庭の背景まで考えてケアをする、など、聞いておいて決して決して損にならない大事な体験談、(失敗談を含め)お聞きしました。


懐かしい人との再会もたくさんありました。
お顔と名前を知っていて初めて出会う方も!まじで、あえてうれしすぎです。


日本語は長くなる一方のようですが、私もこの土壌で育ってきたんだなー。。。

私が海外にいたという経験は、簡潔な日本語で、核心を、恵みを、福音を、伝える唇に結びついたら良いなー(しかも日本人の精神性に合わせた日本語で)と感じました。

出会えた皆さんと、与えられた有意義な時間に心から感謝しつつ・・・

日本を愛します。

親切な教会

2009-05-11 18:00:59 | クリスチャンとしての私
私が日本で通っていて、今私を派遣してくれている本郷台キリスト教会という教会は、改めて今思いますが、親切な教会です!

いろいろな~~な教会といえる要素はあると思いますが。
特に地域に根ざす教会などという題目で主任牧師先生が文章を出されているのなどを見かけると、それも「そうだそうだ」と思います。

だけど、まずきっと本郷台教会に行って感じることは、親切ということなんじゃないかと思います。

たとえば留守番電話。

留守電がない教会もありますし、それはそれでいいのですが、本郷台は業務時間が過ぎると美しい女性の声で(といってもいたずら電話しないように!)教会のご案内と、次にいつデンワすれば人が出てくるのかを教えてくれます。

人間が電話口に出たら、それは非常に親切な対応をしてくれるのが、本郷台では普通です。

また、どの人も笑顔で挨拶し、新しい人が来られたら、自分の家のお客さんと思うのと同じ気持ちで接してかかわります。

これが、普通のことではなく、本当にすばらしいことだったんだーって最近良く思います。

教会が大きくなれば、誰が新しい人なのかわからなかったり、新しい人って分かったとしても、自分のお客さんとして接しなくても、誰かが声をかけるだろうと無関心になりやすく、自分は自分の仲間たちだけで内輪盛り上がりをするようになる事態も起こりえます。

私はそんなところにも本郷台教会が成長する理由を見出しています。


教会成長を目的にしたら、教会はだんだん不健康になります。
また、人がいっぱい来るように文化に迎合したプログラムやアイディアは、すぐに廃れます(それが必要なときもありますが、それがメインではないし、礼拝の形もそんなことを根拠に変えることはないと思っています)。

けれど、神様の心を持って隣人に関心を示すこと、関心を示すだけではなくて、愛を持って接しコミュニケーションを持つ一人一人で構成されている教会というのは、廃れることのない神の愛が生きている共同体になります。

最近思わされた、神様が望まれる共同体。
親切な教会
そしてそれは、私の育てられた本郷台キリスト教会もそのひとつであります^^

本質を失うほどに親切を強制する必要はありませんが、親切な教会であることは神様が望まれていることだと思います。

受難週→イースター

2009-04-12 22:14:58 | クリスチャンとしての私
波乱万丈な一週間でした。

まず、電車やバスを乗り継いでほぼ一時間の距離にある、私たち夫婦が参加している教会の特別早天祈祷会に二人で出席しようと、一週間努力しました。

私は二回いけませんでしたが…。

そこに行くためには、開始が4時50分なので、4時に起きて、なおかつ交通手段が無いため、タクシーに乗らなければいけません。
礼拝は毎朝すごくよくて、恵まれて、早起きはそんなに苦にはなりませんでした。

しかし、主人は忙しい毎日で疲れがたまっていたのか、だんだん無口になり、私を傷つけるようなことばかりを発言し、行動したために、週末に私が大爆発して夫婦喧嘩になりました。

喧嘩というより、私の大爆発で怒り心頭だったのですが・・・。

「ひろちゃんは何にも考えてないと思うけどね!」
と言ったら
「うん。何にも考えてないよ。そんなことで傷つかないよ僕は!」
と言われ、
「私は傷つくのよ!」

見たいな感じで、大変なことになりました。


自分のやってる言動を、受けている者と行なう者は違う人間なので、考えてみたら埒のあかない言い争いでしたが、一晩別々に寝て、翌朝、お互い謝りました。

そこで、聖書を読んでいて思うことは、ひとつは、

怒りっぽい者と交わるな
争い好きな女を避けよ

などというみ言葉はたくさん出てくるのですが、

無神経な夫はいけない
女性を傷つける男性は避けよ

は、無い…TT

別に私の場合、怒りっぽいのではないのですが←私の言い分では。
溜まりに溜まったものが爆発するに過ぎないのですが、
怒ることは裁かれて、無神経なのは良いのか…。

などと多少悔しい思いをしました。

しかし、お互い罪びとだなぁと思います。
私たちが大喧嘩になったのは金曜日の夜
イエス様が十字架にかかられたことを記念する受難日でした。

神様に仕える働き人夫婦の受難日は、ちょうど4月10日で結婚三ヶ月目で
大爆発の記念日になってしまいましたが、こんな私のためにイエス様が十字架にかかって死んでくださったということを一晩、一人ぼっちで考えました。

イエス様ありがとう。。!


今日はいのちのイースター。
朝5時半に市庁前で復活の礼拝をささげに夫婦で行ってきました。
相変わらずお疲れモードの主人ですが、私が手を引っ張ってあげて帰ってきました。
これから一年の目標は、怒らない妻…。
がんばります。

なべの方?

2008-11-28 02:52:57 | クリスチャンとしての私
忙しいです。すごく。

課題課題課題 
 徹夜でやってるよー
試験試験試験 
 勉強しなきゃいけないのに課題におわれるよー
短期宣教準備短期宣教準備短期宣教準備 
 さっきまでミーティングだったよー
 でも結構楽しいよ楽しいよ楽しいよ
寝不足寝不足寝不足
 頭痛いなー
翻訳翻訳翻訳翻訳翻訳 
 締め切り過ぎるよー 明日片付けなきゃ
祈り祈りの祈り祈り祈り祈り祈り祈り 
 しなきゃいけないのに!一番しなくちゃいけないのに!

という日々です。

昨日チラッと、課題の合間にインターネットでニュースを見たら、
なぁに?
「なべの方いかがですかでタイホ」
という記事。

思わずクリックしたら
しつこく客引きしていた
「なべの方いかがですか」と言っていた
アルバの店員が、人に迷惑をかけた罪で逮捕されたという
事件だった。

この店ではひとり連れてきたら50円とお金に換えて
支払われていたという。

という話でした。

①なべのほういかがですか?って変な日本語だな。
 なべのかたかと思いました。
 なべのかた、なんて誘ったらもっと問題ですね。

 なべの方いかがですかと言われて、数十メートルも
 追跡されたら本当に迷惑ですね。
 この日本語が気味が悪いな。

②客をお金に変えるってどういうことかね。
 人をお金みたいに。
 まさしく金づるです。
 お客様にいいお食事を提供するという誠意が
 疑われます。
 誰でもいいから来て食べてくれさえすれば
 ウチは儲かるのよ っていう感じがして
 嫌な思いをさせてでも、つれてくればいいから!
 来てさえくれれば、後は、
 食って帰ってくれればいいや、って思ってるのかな。


その食べ物や店全体が疑われる。

誰にでも・・・?
いいものは、誰にでも不特定に提供したいものです。
けど、明らかに個人の利益のためだったら、これは、
エゴだよね。

私の考えの中で、教会での伝道をちょっと考えた。
人に教会に行きましょって伝道する時にも、いいものだから、誰にでも
まずは聞いて欲しいという熱意で伝道します。

しつこく感じられてしまう時があるいはあるかもしれません…。
けど…人を何人連れてきたかが、人の目には「えらい」
「伝道を良くした!」と言って褒められることもあると思いますが
★神様の目には、どういう気持ちで何を行っているか全部見えて
いることでしょう。

逆に、何も行わない人の心も神様は見ておられると思いますが。

今日、私の心にあったこと、
神様みて、どう思われただろうか。
悲しまれたことがあっただろうな。

けれど変わらず、神様は私たちに福音伝道を任せてくださるのだ。
本当に、この「ひと」(自分)が、信仰のある人間として、なるべく一歩でも
ふさわしい人でありたいし、そうなりたいし、進歩していたい。


伝道、誘うということを超えてですが、
ある行為の裏側が明らかになると
隠されていたあれこれも、明るみに出るって事があります。
高級料理屋さんで食材使いまわし!とか

それまでは、すごくいい気分をお客様に提供してきただろうに、
裏ではそれなの?という失望。

私は、「今まで分からなかったけど、裏にはそんなにすばらしいことが
あったのか?」っていう驚きがいいな。

もし、しつこかったら、「しつこかったけど、しつこく誘われた理由が
分かったわー。こんなに素敵な「なべ」だったのね。」
と思われれば、いいな。



罪を書き出す→自由を得る

2008-11-09 22:42:13 | クリスチャンとしての私
罪悪感が自分を苦しめていることがありませんか。

という問いかけが金曜日のオリーブの木の学びの中でされました。
使っているテキストの中にも、その取り扱いが出てきました。

羞恥心を抱くような罪の思い出。
または、幸福を思い出させるような甘い思い出。
また、怒りを感じる誰か。

いろんな記憶が自分の中にあるのですが、罪を指し示されていると思う事柄について、紙に書くというのはなかなか勇気のいることですね。

テキストで学びをしながら、罪悪感について話しを分かち合った後、じゃあ、白い紙を持ってきて、はじめよう!と光世オンニが言いました。

あーあ。。やはりやるのか。
気が重いなぁ。
しかも、書いた後に、信頼できる人にそれを見せ、話して明るみに出してその罪悪感から自由になりましょう、というのがテキストの内容だったのです。

三人で、それぞれ部屋の中で違う方向を向いて、思い思いに書き始めました。
信頼できるある一人の人だけに、分かち合えばいいことだそうです。
無駄に、自分がした悪い事をだれかれかまわず打ち明けて、争いを招く必要はありません、ということで、ここで公表するつもりはありません。

まだ私は紙に書いただけで、誰にも話していません。
しかし、色々と思い出して、紙に書いた、ということで、自分自身でしっかりそれを認めたことができたように思います。それを今の時点では、一人対神様の祈りのところで告白して、ゆるしを感謝しました。

それで、すっご~く気が軽くなって、神様のくださる自由を満喫しています。

このときに学んだことは、神の目から見た罪が何であるかさえ、把握できない私たちに、神様は、罪が何かを教えてくれる。

その後、罪、罪、と悩みましょうとは神様は言っておられなくて、「もし、自分の罪を心から認めるなら、神がどれほど信頼できるお方であるかが分かるでしょう。神は私たちの罪を赦し、あらゆる悪から私たちをきよめてくださる」(Ⅰヨハネ1:9) ここで言われている認めるは、ギリシャ語で「告白する」から派生した言葉であり、「同じ」と「言葉」という意味が含まれる言葉だそうです。文字通りに訳すと、「同じ事を述べる」だそうです。

ですから、自分の罪が何かを分からない私に神様が罪を示してくださった時、
私たちは「同じです」(そのとおりです神様)と神様に言うことが、罪を認めるということなのだそうです。

この作業を、心の棚卸作業と言っています。

昔、チャンジングライフキャンプというのに参加した記憶があります。
しかし、正直なところ、それを転機に私が変わりました!とは言えません。

その問題は、心の棚卸を定期的に行わなかったことが原因だと思います。

なんか、病気のように私を押さえつけている悪い力から、自由になってチェンジングなライフを生きられる希望が見えてきました。
それだけで、すごく自由を感じています。
しかし、これは、自由になれる望みを見ているに過ぎないと感じています。

この罪を、一緒に信頼できる人と一緒にキリストの名前によって祈って清算するとき、そして、そういう相手と共に一生を生きられることは、すごく大きな祝福と、力と自由の道だと思います。

そして、これを定期的にすること。

Jesus is changing me~
っていう賛美もあるように、現在進行形なのです。

自由のにおいをかいでいるだけで、とてもハッピーな私。
それは、神様がここまで私たちに自由を与える道を開いてくださった神の計画が見えるから。
そこに愛されてることを感じるからうれしいのです。

自由を手に入れよう!

こんな赤裸々なクリスチャンライフを分かち合ってくれる、オリーブの木のお姉さんたちに出会えて本当に幸せです。

このことについて、チェンジングされる私の日々についてまたお話ししたいと思います!

古い人から新しい人へ

2008-09-21 00:03:47 | クリスチャンとしての私
最近色々なことがありました。
それで、すごく祈ったりするんですけど、心の中に生じた苦い思いを取り除けないままでいると、結局は「頭で考えたもの」になってしまうということに気がつきます。

神様の用意された新しいひとではなく、やっぱ、古い人の考えなんですね。

それをやめて、新しい人らしく考えるのには、それなりの、「脱ふるい人」「脱肉なる人」という高そうにみえる壁に取り組む必要があるんですね。

傲慢や不平や不満や思い込みで満ちている私に接するたびに、わ~絶望的、穴があったら入りたいと思います。
こんな姿で説教奉仕なんて!

けれど・・・人の前に立つことで、自分の恥ずかしさを知って、低くなりたいと思うことは、一生の宿題なのかもしれません。整えられて奉仕にたたなければいけないですけれどね。


私ってプライドが結構高いんです。
だから、私のプライドを守るために色々なことをしたり、発言したりするようなのです。
特に、今結婚準備する中で、彼が私のことを後回しにしてるんじゃないのって思うと、信仰にたった発言よりも、自分を主張させてしまうんですよね。
ま、準備らしいことな~んにもできてないんですけど。
「大丈夫神様がしてくださるよ」
「それはそうだけど、あなたちゃんと私のこと考えてるの!」
とまでは言わなくても、そういう主張しちゃいやすいんですね。

それから、彼に張り合おうとしたり、彼に見合った自分になりたいと、変な努力をしてみたり。

彼との事は生活の一部分に過ぎないところです。
心の中でもっと謙遜になりたいといつも思っています。

それ以外の部分でも、私の「脱ふるい人」は続く。

天の国籍を持つ私は、日本人だからということで、頭にきたり、神様の恵みをのがしてしまったりする事はしない。

神様の子供は、夫に認められる妻になろうとする努力、自分を目立たせたり役に立ったという達成感のために努力するんじゃなくて、神様に信頼する事と、神様に栄光が帰せられることをもっと熱心に求めるんだ!

すべての悩みや不満やつぶやきは、個人的な傷や、個人的な自分を現そうとする名誉欲、大事にされたい、自分中心欲から出てくるような気がします。

でもね・・・この欲求も、時々は大事ですが・・・、
今も、充分に神様にも彼にも、大事にされているし、なんと行っても万軍の神様が付いている私たち。
十分に本当は幸せ要素が揃っているんだよ。
でも、不平不満に目が行きやすい、古い私です。

脱出めざせ!


祈りの生活

2008-09-01 09:00:43 | クリスチャンとしての私
最近、よく祈っています。
祈るのがすごく難しく感じることもあれば、そうでないときもあるんですね。

祈りの味をしめた?というのか。。。
辛い境遇が祈りへ導いたことがきっかけなのか。。。
とにかく、これは、断然健康なことであり、また、花嫁準備でもあるので、大変喜ばしいことです。
自分に喜ばしいと同時に、神様との祈りの時間、ひとりで礼拝をする時間が良くて、学校始まるのが惜しいです。
ひっそりと人に見えないところで力を受けて出かける生活。
この時間を金のように大切にしたいと思います。


実はあることをきっかけに心は傷つきましたが、それが健康な祈りの生活を引き出してくれたので、感謝です。

傷つく、というのは、一回で起こることではないような気がしています。
心の、あるポイントに、ひそやかに衝撃を受ける。
二度目、もう一度パンチを受ける。あざになる。
あざの上に、さらにもう一発!
心の骨が折れます。
ギブスをつけます。
さわらないで、そ~っとそ~っとしようと思ってるところに、さらにもう一発!

なーんてことがあれば、傷そのものの痛みよりも、傷つけられた人に対する恨みまで(転移?)生じます。

心の健康と、霊的信仰生活の健康を目指しつつ、今日から秋学期がスタートです。
修練会でお泊りします。
何とかいい時になるよう祈ります^^

サマリヤの女性のおはなし

2008-07-07 00:25:55 | クリスチャンとしての私
サマリヤの女性のお話は韓国語では「サマリヤ女人」となっています。

どんな女の人だったんでしょうか。
当時サマリヤ地方の人々は、エルサレムを中心に集まっていたユダヤ教の人たちからは「血の混じった奴」などと思われ、見下げられていました。
長いイスラエルの歴史の中で、かつて北イスラエルの首都だったサマリヤを征服した他民族アッシリヤがその地方に入植し住むようになったためです。

ユダヤの血を守ってない、混血と呼ばれたサマリヤの人たちは、正統派ユダ人たちからは口を聞いてもらえない立場に置かれました。
さらには、そのサマリヤ人の中でも、5人の男性と一緒に住んだり結婚したりした、もっとも居場所の無い女性と、イエス様が井戸でお話するという話がヨハネの4章に登場します。

会話は結構オカシイです。
イエス様「水をください」
女の人 「私はサマリヤ人です。どうして私にものを頼むんですか?」
イエス様「もし私が誰か知っていたら、あなたが私に水を求めたでしょうね。そしてあなたにその水を与えたでしょうに」

なんかかみ合わない会話です。
そしてそのイエス様がくれる水というのは「永遠に渇かない永遠の命の水がわき出る水」だという。
それは素敵。
女の人 「じゃあ、その水をください」
イエス様「じゃ、あなたの夫を呼んできなさい」

・・・イエス様、さっきから女の人の言葉を聞いて、答えているんですか。

会話はこんな感じでなんか面白い展開な訳ですけど、女の人にとっては「夫を呼んできなさい」っていうのは痛いところをつかれる質問だったようです。
何せ…5人と結婚したり関係を持ったけれど今一緒にいる人も夫ではない、
今の世でもちょっとびっくりです。

ギクッ


イエス様は、渇いた心を満たす水をあげようとしていた模様です。
井戸のそばで会話が始まり、女の人は水をくみに来ていた状況で。。。
もちろん、目に見える「水」の話から導入されていったわけですが、実はイエス様は心を潤す、しかも永遠の命につながる水をお話していたようです。

そしてその水をもらうためには、どうやら女の人が「ギクッ」って思うことに目を向ける必要があったようで。

私にも「うわ、それだけは触れないで欲しい」と思う恥ずかしい事や、人に知られて欲しくない過去や、傷や罪や痛みがあります。
イエス様はここで、真昼間砂漠の暑い場所で人目をかくれて、一人で来た女性に声を掛けました。弟子達には「食べるものを買ってきて」と頼んで町に使いにやって。

イエス様は、「ギクッ」と心を刺す質問をする時がありますが、それを、人にわざわざ分かるように大声で「あんた、こういう罪してるね?」なんていう風にもいわれない。全部知ってるのに、弱み握ってるような、デカイ顔もしない。

その後、女の人は、神を真実に礼拝するということをイエス様に教えられます。サマリヤだーエルサレムだーという先祖からの礼拝のしきたりではなく、心からの礼拝者となるということを神が求められる日が来るのだと。

また、イエス様の言葉を聞き、ユダヤ人たちが待っていたメシアなのではないかという感動を受けました。隠れて生きてきた彼女が、町に出て大声でイエス様に会ったことを証しした、というのがここに記されているあらすじです。

証し、というのは、時々カミングアウトも含みます。
どのようにして、キリストイエスと個人的な出会いを経験したか。
教会で聞いた聖書の言葉が、自分の人生に生き生きとした作用を及ぼした経験などを話すことが証しです。

女の人は、恥ずかしい、と思って生きてきたのに、町に出て行って人前でイエス様を語りました・・・。
サマリヤ人はその言葉でイエスを信じた、直にイエス様を町にお迎えして言葉を聞いてさらに多くの人がイエスを信じたと出てきます。

サマリヤ人たちは、同じユダヤ民族でありつつ、他民族虐げの中混血と呼ばれ、とつとう自分の民族からも「ハブ」られてしまいました・・・。
だけど、「渇き」があったんじゃないかなーと思います。

「霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がそのときです。」

サマリヤ人は礼拝を渇望したのに、山で礼拝をしては仲間のユダヤ人にバカにされ、だからと言ってエルサレムに上っていくわけにもいかず。礼拝を求めていたと思います。

私達って、毎週礼拝する中で、神様を渇望する霊とまことの礼拝をささげられているだろか。

カミングアウトして証しする、その動機には、かならず「イエス様がこの私に近づいて永遠の水を与えてくれた」という確信が必要です。
証しを聞いて、もしかしたら、「あの汚い生き方をしてた女が何を言ってんだい」と言った町の人もいたかもしれません。
けれど、「イエスを信じた」町の人たちの存在が大きく描かれています。

現在教会で、毎週礼拝をささげている人たちの間で、もしもサマリヤの女性のような人が変えられた人生を証しして、女がさらに日陰の存在になってしまうような人の目があったとしたら、霊とまことで礼拝する群れではないんだと思います。

霊とまことで礼拝をする人。。。でありたいです。
毎週礼拝のイスに座っているのに、
人の告白を聞いて、スキャンダルを聞くようにそれに耳を傾けたり、そんな目があったとすれば、それは、自分の満足のために礼拝に行っている人、エルサレムで礼拝できた今日は大満足な主日だなーと思うようなのとおんなじです。

恥ずかしい弱い私ですが、恥ずかしくない礼拝者になりたいと思いました。

祈ることは。

2008-06-15 00:16:04 | クリスチャンとしての私
祈るということの重要性がいつも礼拝やQTの本や、あらゆるところで言われていますが、これだけ言われるという事は、みんなが忘れやすい、みんなが祈りの席からどれだけ離れやすいかを意味しています。

サタンは祈りの力を知っていて私たちをそこから引き離そうと必死だとも言われます。

人間は、見えない神という方の前に座って祈るということについて、クリスチャンになってから、訓練もしなければいけないことです。
また、その素晴らしさも同時に知ることができます。
だけど、訓練も必要です。
生まれたときから、見えるものに対して会話をし、その場で耳に聞こえる言語で答えを貰ってきた私達が、魂の世界で神様の声を聞くようになるということは、自分の力で得られる事ではなく、神様からのプレゼントです。継続してこの贈り物としての人生を生きていくためには、常に霊的に助けを貰わないといけないのですが、それがまさに祈りです。
祈りによって祈りを継続する力を受ける、のだと思います。

試練があるとき。
いや、それ以外の日常生活で。

私達は常に自分自身と対話をしているということを知っていますか?
こころの中を冷静に観察してみると、驚いたことがあったときには「びっくりしたなぁ!」と心の中で言ってみたり、イライラしているときには「ホント頭くるよ!次にあの人に会ったらこう言ってみようか。ああ言う事がいいか?」なんて、自分の中で会話をしています。
その言語数は非常に多いんだと聞きました。

試練、またその他の日々の出来事の中で、自分の中での会話だけで完結しちゃっていませんか。
自分を納得させる、または悩みを自分自身に打ち明ける、考える、結果を出す?

クリスチャンである人に与えられている祈りを、私自身が活用を十分に出来てないと感じます。

また、自分の問題を誰に打ち明けるか。誰にわかってもらえるか。
人の間で、分かってほしいという「自分憐れみ」の欲求が人間誰にでもあるはずです。打ちのめされている時には「辛かったね」と慰めてほしいものです。
けれど、実際大人になったり、教会のなかでもリーダーになれば自己憐憫の欲求は自然なものでも、それを表せる場と相手はとっても限られてきます。

祈る時、
自己憐憫でもいいと知りました。
神様は、私の辛かったことを知っていてくれる。
一対一で向かい合ってくださる。
自分との会話や、誰に分かってもらおうということよりも、神様が私の味方になり、話しを聞いてくれるという霊的な対話の場では…
自己憐憫でも神様との会話のなかに身を置く時、
戸を閉めて、神様は秘密の場所で私達に出会って、語ってくださるのです。

一人でがんばっちゃったな、
という、またまた大きな反省といつも言われて、耳にタコほどの「祈りが大事」をまた新たに経験するのです。

それでも、昨日より今日、それが分かれば進歩じゃないか。



宣教師墓地を訪ねて

2008-05-19 00:26:25 | クリスチャンとしての私
金曜日の午後、ソウルのヤンファジンというところにある外国人宣教師墓地を訪ねました。
日本で言うとほぼ、横浜の外国人墓地です。

ここは、エリアが二つになっていて、一方はカトリック、一方はプロテスタントです。
始めにカトリックが宣教を朝鮮半島に始めましたが、朝鮮王朝末期で迫害がすごく、多くの人たちが殉教しました。カトリックの信者の人たちが来て、涙を流して祈っている姿が見られました。
その場所はチョルトゥサンという名前ですが、漢字で書くと「切頭山」であり、その名前の通り昔、処刑されていった人たちはみな、首を切られてなくなったのだそうです。日本でも長崎で殉教した人々はカトリックの方たちでしたが、似た歴史が私達双方の国にあることが分かりました。

私と一緒にここに来た婚約者の彼は、改革派(カルビン)のキリスト教神学の学生なので、学校では色々な神学との比較、カトリックとの違い、相容れない部分などについても聞かされます。

日本にいた時は私は神学やらなかったので、詳しい教理とかは私は知らなかったのですが、交わりのあった聖書翻訳の宣教師の先生達はフィリピンとかで日本人のプロテスタントの宣教師の下でフィリピンのカトリック信者、聖霊派の信者、または福音派、といろんな人たちの協力の下に、大仕事である聖書翻訳がされるっていうお話などを聞いて、協力をイメージしてました。
しかし、韓国ではカトリックは「天主教」と言って、別の宗教の扱いであり、キリスト教というのはプロテスタントだけを指します。

色々勉強すると、聖書を深く知れますけど、学問や人が解説したものを真理や福音だと信じ込んでしまう危険があります。
カトリックの人たちの信仰、殉教の歴史がすぐ横にあって、仲良くプロテスタントと場所を分けて墓地を作っているような空間は、地上ではなかなかないとのことでした。

プロテスタントの方に行って、墓地を見学させていただきましたが、日本人の曽田先生って言う人が一人だけアジア人で埋葬されています。孤児たちの面倒を見てくれた人なのだと。

他の埋葬者についても詳しく説明がされましたが、私たち自身が異国にいる外国人であるわけで、異国に埋葬されるという寂しさを感じました。
本人は別に寂しくないかもしれませんが。。。今は。死んでしまって天国に行ったので。
だけど死ぬってことは死ぬ直前の状態があるわけで、異国の地で息を引き取るってことを考えると、本当に献身的にこの国に来て福音を伝えてくれた人たちなんだと思わされました。

小さい墓石もあり、それは宣教師の子供たちなのだそうです。
墓石には our baby...なんていう文字が見えたりして。
ここにも、尊いいのちの献身が見られました。

ところでですが、この墓地とっても綺麗に整備されています。
雑草やゴミはありません。
昔は土葬で埋葬するので墓地一つの敷地が大きいので、草が生えていると本当にぼうぼうになっちゃうんですよね・・。
だけど、落ち葉も綺麗に掃除されているし、とても綺麗です。

だけど、言ってみれば当然こうでなきゃいけないんだよね。

以前春に韓国人の人たちを案内して横浜の外人墓地に行った時のことを思い出します。
これ以上はないというくらいの雑草と枯れ葉、落ち葉、猫達。
この国のために、貧しい子供たちを助けてくれた宣教師や、学校を建ててくれた人・・・、そういった福祉以上に真実を伝えようとご苦労されて日本に死んでいった人たちに対して、こんなにも無関心だなんて。
色々忙しいのはわかるけど。そこに葬られた人が建てた学校はすぐ横にあるのに、ちょっと学生が来てお掃除くらいできないのかな。
それ以上に、自分自身も無関心であったことに悲しく胸を痛めました。
横浜市民としても、とても情けなく、悲しい思いでした。

横浜の教会とか、ミッションスクールで連合して、お墓お掃除当番なんてできないかなぁ。

お墓には骨があるだけで誰もいませんが。
本当はそうだけど、
その方たちの心から、私達の救いのルーツも知れますし、感謝が溢れること、何とか力を合わせてできないでしょうか。
これは、とても意味があることだと思います。
横浜と日本のリバイバルと世界宣教に必要な事だと思います。


愛の畑 修練会

2008-05-05 21:10:44 | クリスチャンとしての私
教会で一泊二日の修練会に行ってきました。
愛の畑 사랑밭 と題して一年に一度~二度恒例で行なわれる修練会です。
場所はポチョンというところにある祈祷院です。

テーマは
「私達愛し合おうよ」
「우리 서로 사랑할까요?」
という主題でした。

私の気持ちを憂鬱にする色々な問題がありますが、神様の愛の大きさを隠すほどの大きな問題は一つもないことを思わされました。

二日目は大体遊び(?)だったのですが、聖書に出てくるいろんなお話を版ごとに写真でストーリーを描き出すというゲームをしました。
ほんっとうに可笑しかったです。

私の班は「背の低いザアカイ」という題でした。
髪の毛の長さから私がイエス様役
班のうちのある男性がザアカイになったのですが、服にひざまでを入れて背を低く見せたり、女の子達の装飾品を身につけて「金持ち」らしさを出したりと色々と工夫をした結果、二位をいただけました。


韓国には年をとっても結婚してない女性を言う「老処女」ってことばがあります。
普通に韓国では結婚してない未婚の女性を「処女」って呼ぶんですが、それに「老いた」って文字が追加されるわけで、失礼しちゃいますねぇ。

私の宿泊した部屋は、34、32、31(私)、30←(全て韓国の年齢の数え方で、実際は日本で言うマイナス1歳、2歳です。)
老処女部屋。。。うわ~~口にするだけでものすごい頭キマス!!!!

私よりお姉さん達は「若い子達と遊ぶの疲れる」とか言ってました。
次の사랑밭は、私が一番「老いた処女」かも。。
あぁ~~
この韓国語の直接的表現、やめて欲しい。
愛の畑というなら、愛で老人を包んでおくれ~。

なーんちゃって
まぁまぁ結構楽しんで帰ってきましたけどね・・・^^;

JEM-日本福音宣教会-での公開セミナー『100万回生きた猫』のはなし

2008-04-25 20:11:02 | クリスチャンとしての私
毎週木曜日にソウルのイスという所の近くで日本福音宣教会という団体が礼拝をささげて日本のために祈ったり、日本宣教に必要なあれこれを学んだりしています。

また、この団体派遣で宣教師も日本に行っています。
とても尊い働きをしている団体だと思います。
神学校~家がかなり私の場合はなれていますが、ちょうどイスが通過点なので、木曜日はなるべく、この礼拝に参加するようにしています。

昨日の礼拝は長崎から来た友納靖史先生が公開セミナーをしてくださいましたが、とてもとても感動的で、途中から涙がとまらなくなり、困りました。
こんなセミナーで私みたいにワンワン泣いてる人はいないのでもっと恥ずかしいです。


「セミナー」なので、何か知識を得るとか、方法論であるとか、そういう方向を予想しつつ、それでも「学ぶ」だけを目的に聞くのではなく、自分の霊が新しくなるようなひと時になるように、祈って行きました。

何が感動的だったのか、涙が出てとまらなかったのか。
それを正確に文字で書くことができるかわかりません。
けれど、人間のなかに神様を求める霊があるということを、聖書から解き明かしてくださった上で、今日本人が感動を受けているいくつかのポイントを挙げてその具体的な表れを説明してくださいました。

Jニュートンという、アメイジンググレイスを作った人は、自分の中に神を求める思いがあるということにある日気がつきました・・・。
奴隷船の船長だったけれど、嵐に遭い、初めて神に祈る、それが、神を知る知識のはじめ、人間の中にもともと与えられていて、眠っていた「神が与えた霊、神を知りたい知識」の目覚めだそうです。

人は気がついても気がつかなくても、霊と魂と体があり、今日本人を特別に見てみると、その霊の部分に痛みを抱えているということが分かるといいます。

歌「千の風になって」
絵本「100万回生きた猫」
そして、歌「世界で一つだけの花」
また、「君は愛されるため生まれた」

死へ答えを出す事ができなかった私達は、「輪廻」や、「その他の答え」で自分や人々を納得させようとしました。。。(輪廻は仏教の釈迦が話したことではなく、ヒンズー教やラマ教の影響だそうです。ごちゃごちゃと混じって日本の仏教の中に入ってきました。)
これは友納先生のセミナーででた事ではありませんが、以前私は職場の先輩とこんな会話をしたことを思い出します。
親戚の中で誰かがなくなり葬式に参列したそうです。幼い姪っ子が「人は死んだらどこに行くの?」と先輩に聞いたそうです。先輩は「幼いから人が死ぬ事が分からないんだなとおもって『お空の星になるんだよ』って答えたんだ~」と言ってました。

私は聞きながら「年をとったら分かりますか?」と思いました。
そして、幼い子供がそれをそのまま受け取るのに、「その場しのぎの答え」を自信を持って言わなければならない姿になんとも疑問や不思議を感じたものでした。

人はみんな死んだらどうなるか、分かりません。
千の風になって、という曲は、お墓にいません、風になって自由に飛んでいるんだと、死んだ人がお墓の前にいる人に向かって語りかける歌です。
これがいい歌だと思われるのには、「死」や「お墓」の持つ束縛性や暗い思いを自由に解放する歌詞だと人々が思って、感動するから、なのでしょう…。

そして、絵本「100万回生きた猫」も、生まれ変わる虚しさよりも、人を心から愛して自分よりも、その人を愛して死ぬ、一度きりの人生の意味深さを語ります。

今まで私達日本人が「死んだらこう」と無言の内に考えてきた死生観が、とても悲しくて、また、切実にそこから抜け出たいと思っている悲痛が分かるような気がして、私は泣きました。

そして、いまだ「その他の答え」に霊的痛みの解決を見出したと思っているところも悲しかったです。

痛みがあれば、病気があることが分かります。
痛みがあるから、その存在が分かると思いました。
心が痛いから心の存在が分かるように、
霊が痛むから、霊的な必要に気がつきます。

その必要に気がついていることを、「光のはじめ」と思います。
そこに、「その他の答え」じゃなくて
本当の光があてられることを願わされます。


・・・
私は、、、
天国に行く希望のために、死ぬ事を暗く考えたりはしません。
でも、結婚しようと思ってるから、長生きしたいと最近思ってます。

私の父が早く亡くなりました。
だから、いつも、愛する人がいついなくなるか分からないと考えています。
それが絶対的な終わりじゃないことが、恵みに満ちた希望ですが、事実は事実で、地上から一人の人間のいのちが無くなる時、肉体が死ぬ時、私達は一次的に別れるのです。

結婚も、地上でいる間婚姻関係の中にいますが、どちらかが死んだら、婚姻関係が終わります。
天国に行って、彼に会ったら、私達が地上で結婚式を挙げていても、夫としての彼に会うのではありません。

地上の人生は一瞬のように短いので、なおすばらしい希望ですが、彼と長く結婚していたいと思います。

そういう意味でも、「100万回生きた猫」は私の心を打ちました。

何度も生まれ変わって、全ての人生に不満足だったどらねこが、
100万回死に、生まれ変わります。
100万回目の「猫生?」で愛する猫にめぐり合って、結婚します。
100万回目にして始めての幸せでした。
子供の猫ちゃんたちもいっぱい生まれました。
でも、妻の猫が先に死にました。
自分もいっぱい泣いて死にました。
そして二度と生まれ変わらなかった。

そういう話だそうです。

私達の信仰には「生まれ変わる」という考えがありませんが、自分より妻を愛した猫は初めて本当に地上のいのちに死にました。

私は地上でいる間、どれくらいの人と、どれくらいの人間関係を築けるだろう?
ましてや、婚姻関係という深くて強いつながりの中で、これからどれ位の月日を彼と一緒にいることができるだろう?
100万回のいのちよりも、一回のいのちに満足するくらい、愛することができて、その日が一日でも、一秒でも長いといいと思います。

まだ結婚もしてない私にとって、結婚自体も、その日までお互いが地上にいれば結婚するだろうということに過ぎません。
いのちの短さ、はかなさをいつも考えるのです。

私が長く生きる事と、彼が長く生きることを、
いつもいつも願っているのです。






死海写本とキリスト教の起源

2008-04-20 18:04:34 | クリスチャンとしての私
死海写本の展示会があって、金曜日の午後に彼と一緒に見て来ました。
彼の神学大学の学生証で二人とも割引で入れました。

死海周辺から出土した聖書の写本の切れ端みたいなものを展示してありました。羊皮紙、パピルス、金属板に彫られた聖書のみ言葉たち。
つぼなどに入れられた状態で巻物として出土したりするようです。
聖書のどの箇所なのかとかも表示してありますが、びりびりだったり、巻物だったら、まともに残っている状態で、三分の一くらいの部分が風雨などに浸食されてなくなっている状態。
切れ端だったら、ホントちり紙程度だったりもしていました。

これを発見して、どこの聖書箇所なのかしらべたり、他の写本との違いや歴史などを調べたりするっていうのはものすごい作業だろうと思う。

聖書という書物が、今普通の本の形になって売られていて、読めるってのがすごい歴史的遺産なんだと思います。
今までは自分のクリスチャンとしての指針や、生活適用のための神様の指針だと思ってたけど、すごい遺産であるってこともまた、100%の事実なんですねぇ。
それを改めて感じました。

神様の歴史の中におかれた「私」。
こんな私に聖書を教えてくれてご自分をあらわしてくださった神様ってすごい^^
神様のLOVEを感じちゃいます。

モーセ五書の時代から考えると(旧約の初め部分)ものものものすごい月日が経ってるわけで、自分の存在は神様の歴史から見ると「秒」くらいの割合に見えちゃったりもします。神様の目から見た時計は、そんな動き方じゃないのかもしれないけど、とにかく、私の一生は歴史の中では短いと思う。

だけど、その一生の中で、神様を愛して、従うようにするときに、神様は後の時代の祝福と幸せを約束して結んでくださるんだよね。
ダビデの神様への愛が、後の時代の祝福になったように…。

ということで、
こんな短い地上での命かもしれませんが、私がこの地上をよく生きられるように神様がしてくださるあらゆる配慮にうれしくなりました。
愛する人もいて、愛してくれる人もいて。

死海写本のメッセージの中に、今日の私も生きている。

初めての神戸

2008-02-23 22:43:03 | クリスチャンとしての私
短期宣教で、二つ目の奉仕地としての神戸。
ここは私にとってははじめての土地でした。
横浜に似ているけれど・・・
ちょっと小さくて、可愛い。
いろんな違いもあります。
言葉も違うし、地震によるものなのか、古さと、新しさが同居している町でした。

横浜からは、夜11時に品川発の深夜バスで下って行ったのですが、このバス会社が関西の会社であったこともあり、車内スタッフ(運転者と、サブ運転者)が関西人でしたね。
話を少しでもすれば、分かりますね。

ただいま11時に出発したこのバスは・・・とアナウンスが始まり、
「当バスは~座席シートが少々、固い目になっております~」
という「固い目」のところに関西人を感じました。(標準語では「固め」)
そこだけでなく、全体的に全て関西アクセントなんですけどね。
異国のアクセントでありつつ、テレビなどで親しんでいるせいか、耳には優しい。

神戸では本当にすばらしい奉仕の場所をたくさん受け入れの宣教師先生が準備してくださっていて大変感謝でした。
今日は大阪、明日は京都、というように毎日めまぐるしく動きましたが、何よりも、先生が、私たち宣教チームの奉仕の場所を、事前リサーチをしてしっかり準備してくださっていた事が感謝です。

事前リサーチの大事さというのは、そのチームを生かせるかどうかが掛かってます。リサーチ不足で、ただ自分の良いと思うこと、益となると予測されることだけを推し進めるのは、信仰による大胆ではなく、ただの迷惑になる可能性もあるのです…。
同じ日本でも、地域により、必要とされている働きも違いますし、人々が愛を受け取れるシチュエーションが異なります。
ですから、短期で働きをしようというときには、事前リサーチを十分にするか、土壌を把握して奉仕を準備してくださる方の助けが何より必要です。(同時にチームがその助けに従順になることが大事です!)

ここでお世話になったのは、ホン先生という牧師先生ですが、私たちを老人ホームに連れて行って公演させてくださったり、聖書のメッセージを語る場を用意してくださいました。そしてご老人とお話しする機会を設けてくださいました。
それだけではなく、先生が日ごろからその場所に足を運び、個人的にその方々をよく知っていることが見ていてすぐに分かりました。
そこにいる方々一人ひとりが、どんな悩みを抱えているのか、または、過去にあった辛い事など、ご存知でした。会話を通してその方たちの心に届き寄り添い、仕えていらっしゃる先生の姿はすばらしかったです。

外国人として海外に生活していると、その国のやり方に合わせることだけでも大変な努力を必要とすることが分かります。迷惑をかけたくないと思えば、何もしないという結論も選択肢の一つです。または実行力があれば、自分のやり方を押し通すというスタイルもありですが。

ホン先生の姿を通して、日本人を自分の隣人として愛し、彼らの心に聞こえる方法と言語で愛を語っている、宣教の模範を見せられました。

神戸ではたくさんの素晴らしいことがあったので、オイオイまたアップすることにします^^

ただいま~

2008-02-22 23:04:05 | クリスチャンとしての私
私の韓国での奉仕教会 韓国中央教会から青年達が日本にビジョントリップにやってきて、この二週間横浜→神戸と回りました。
本日長旅を終えて、ついに家に到着しました~。

青年達が日本に親しみを持ち、また来たい、続けて祈りたいと思ってくれたことが大きな第一の収穫だと思います。
私にとっては本当にたくさんの体験と、経験ができたことを感謝したいと思います。

大学生達がほとんどのチームメンバーでやってきましたが、日本語に興味を持ってくれた子達が、大変な日韓まぜまぜ言葉になって、韓国に帰っていきました。

日本は「ちょんまる あるmだpた」ですぅ~
→日本はとても美しいです の意味。

メグミオンニ(オネエチャン)は「ちんちゃ きよppた」ですねぇ~
→めぐみおねえちゃんはとてもかわいいですねー の意味

なんでもかんでも「です」「です」をつけてにぎやかに帰国していきました。
私も後を追い、来週韓国に帰る予定です!です。


日本語が一番上手だった、ハニムという可愛い後輩がいるんですけど・・・。
彼女はチームの一人が熱を出した時に、側に行って、
「けんちゃな?ねが「おにぎり」へじゅるか?」
と言っていたのです。
訳すと、
「大丈夫?私が「おにぎり」してあげようか?」の意味です。

ん?おにぎりするとは何の意味か?!

彼女は、お○○り・・・
おいのりを、おにぎりとゴチャマゼにしてたんですね・・・。

以来彼女においのり、というたんびに、
彼女の手は、△になっておにぎりの形になってます。

色々アップしたい事はあるのですが、
じきじきにアップしていくか、
またはアップできないかもしれませんが・・・
とりあえず、帰浜したということをお知らせいたします!

どうもありがとうございましたん^^