metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

めぐみ

2006-05-31 19:30:40 | クリスチャンとしての私
先日の礼拝説教は、言葉の力が世界を動かすというタイトルでした。内容は、人の心から出てくるものは、悪い考え、~~(マタイ15;19)なのですが、神を心で信じ、口で告白する生活、いつもいつも信仰による言葉を発しようという勧めが核心です。
その中に例話があり、アブラハムがアブラムから名を変えて「列国の父」という意味のアブラハムになったとき、それを呼ぶたびに彼が神様からもらった約束を思い起こさせるものになるために、神様がそうされたという話がありました。

以前日本で「あくまちゃん」という名前を付けられた子供がいて問題になった事を思い出しました、呼ばれるたびに「悪魔」という考えを持つようになるんだなぁと思うと、親の愚かさを感じます。

また、日本でしているテレビ番組で、整形手術を受けようという女性が出てきて、before と after を比較する番組があったと思うのですがそういうのをみても、父親から「お前みたいにブスな子はみた事がない」と何度も何度も言われて育ったとか、そんな女性がよく出演して、言葉による影響が大きい(マイナス方面に)ことを感じました。

言葉の持つ力は大きい。これは事実ですね。

私の名前はめぐみです。あぁ~いい名前。本当に嬉しい。
めぐみ、めぐみ こっちに来てからこう呼ばれる機会も増えました。日本ではいつもめっちと呼ばれていたので、めぐみという名前で呼ばれる事があまりに少なかったんです。めっちも気に入っていますが。^^

この名前でとても良かった、と説教の説明をしてくださっていた牧師様に話していて、横田めぐみさんのことを思わされました。というのも、説教の中に、私達がイエス様をのべ伝えなければならない「地の果て」のことに話が及んでいて、北韓でのエピソードが短く載っていたのです。

牧師様に「めぐみさん、知ってるでしょう?」と言ったらご存知でした。でも、めぐみさんが北韓で結婚したという韓国人の夫の事は知らなかったんですね。私はめぐみさんのお母さんがクリスチャンである事、夫の可能性がほぼ確実な男性が韓国の拉致被害者であること、DNA鑑定で認められたかわいい孫が北韓にいること、双方のご両親が面会をしていることなどを話しました。
ご両親がめぐみさんの骨とされる偽物を手にした話、そして、めぐみは生きていると確信して祈っているという話もしました。
霊的世界での「地の果て」が、距離的に遠いものではなく、地続きの北にあるんだなぁという話を牧師様としました。

私も改めてその事実を認識する機会を得ました。

今朝夜明けに祈っていたときに、めぐみ、めぐみと横田さんのお母さんがいつもテレビで呼んでいる姿が思い出されて、涙が止まりませんでした。めぐみという名前をどんなに愛情をもってつけたか。いなくなってからも何度その名前を呼んでいるか。・・・
主も私のことをそうやって探してくださいました。

新しく心に与えられた神様からの「使命」として祈っていきます。私にも愛情もって名前を付けてくれた父と母にもとても感謝しています。

新しい恵みの窓が

2006-05-04 19:32:57 | クリスチャンとしての私
ここに来て、2週間も過ぎました。
言葉の問題がありますが、皆さんには芝居のように話してもらって、とても楽しく理解します。しかし、礼拝の説教はそこで芝居をしてもらうわけにもいかないので、会衆皆さんの笑いもわからなければ恵みのわからないという、困難を味わいました。
1回目のときより今回が難しかったんですね、私には。

毎週水曜礼拝のときに、日曜の説教のテキストがもらえるので、今日、それを翻訳しようと取り掛かっていたら、ある副牧師様が現れました。
「先週の説教、なーんにも分からなかったのです。とてもしんどかったです…」
と言ったら、子供用聖書を持ってきてくださって、み言葉を一つ一つ説明し始めました。
ナアマン大将のらい病が癒されるようになる箇所でした。(列王記Ⅱの5章1~7)

ナアマンの奥さんに仕えていたイスラエルからつれてこられた侍女が、ナアマンのらい病が直るためのアドバイスをする事です。

この侍女は捕らえられて奴隷としてきていたが、神様を信じる者だったので、自分の主人のだんな(ナアマン)の病気をかわいそうに思って、その方法を教えるのに用いられた。本当は奴隷だけど、神様を信じる者には愛があふれ出ているからね、その病気をかわいそうに思ってこの次女が預言者を紹介したんだよ。
それは、イエス様が十字架でね、苦しみを受けて私たちを救ってくださったからね、ゆるしをうけて愛があふれ出るでしょ
・・・というように、最後にはヨハネ3:16の十字架を話してくださったのです。

それを一つ一つ身振りつき、表情つきで丁寧に説明してくださって、イエス様の十字架の苦しみも、その愛も、とても伝わってきました。全部説明が終わったときには全然分からなかった説教の核心が分かった嬉しさと、その十字架のことに感動して泣いてしまいました。

知らない言語で説教を聴くと、本当に雲をつかむように、分かったか分からないか、怪しかったり、先日の私は全然分からなくて周りの人だけ恵みを受けているのに私は全然分からないという状況です。
そんなときに、自分の母語の聖書を開くと、今までになく光にあふれ、乾いた心に花が咲く感じがします。
けれども、この牧師様の説明を受けて、非常に恵まれました。
知らない言語でも同じことを信じて、同じ目的に歩める事も嬉しく、その十字架をとてもリアルに言葉の壁を越えて語ってくださった事に、とても恵まれました。

たとえば、あふれ出るという語彙、辞書を引けばつながりますが、この方は、コップを持ってきて、あふれる、あふれる、というように説明されたんですね。
愛があふれ出る…ということを目で見て、語彙を習得し、み言葉に近づくと、言葉の持つものすごい真理を語る力がちょっとわかるんです。

日本語で「わかったよ、わかってるよ」と思う時に、いかに神様が今日も新たに伝えたいと思っておられる恵みを見落としていたかを思った瞬間でした。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
今まで母語で聖書を与えられない人たちのための翻訳のために祈ってきましたが、それが今、自分にどれだけ光になり命になるかも味わいます。
それと同時に、母語ではない言語で福音を聞くことの恵みも味わっています。
以前、聖書翻訳協会のツアーでフィリピンに行った時、知らない言語でヨハネ3:16を聞いたとき、ここの人たちにとっての命の言葉だと思うと、何も自分に分からなくても涙が出ました。
その十字架の内容を私にとって母語でない言語で聞いたのですが、同じ主の霊によって同じものを知って恵みによって救われて、頂いた命が全くの同じものである事に大きな驚きと喜びを感じました。

といういろんな恵みが、今日与えられて、どんなに感謝か。
お祈りありがとうございます。
今日も皆さんに愛されて、キムチもらって、この地で元気にしています。