metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

年末だったんですね。-再確認・神様と私-

2007-12-29 21:19:44 | 波乱万丈めっちの人生
用事があって日本に電話してみて知った。
休日返上して働いていたのか、秘書の方が出られて
「今日から実は年末休暇なのですよ」

年末なんだよねぇ~・・・。

韓国は旧正月なので、この1月1日はそんなに正月の雰囲気はありません。
と言っても旧暦の元旦だからって、おせちがスーパーに出るわけでもないし、雅楽春の海とかが流れてるわけでもないので、全然お正月ってのはないんだよね。

つまんな~い。
昆布巻き、栗きんとん、こもち雑魚、数の子
たべたぁーい。

年末、日本から来ている留学生の人や、先輩達も帰国しちゃったりすると、普段一緒に生活してるわけでも、しょっちゅう会ってる訳でもないのに、(っていうかたまにしか会わないんでしょ。)すっごく寂しい。
ひとりで異国に来たときは元気だったくせに、おいおい、なんだよぉ。

今年も終わっていくということで、感謝なことを思い出したいと思います。

感謝なことは私の価値観や信仰を新しくする、とてもフレッシュな体験が沢山あったこと。
これは主に今年の前半に目覚しかった事だった。
神様は大きな方なので、新しく知ることが沢山あって当然だった。
感動的な、新しい出会いって感じでした。

しかし、これらの事も、自分できちんと祈りながら判断して消化しなければダメということも後半ではよく知った。
これは目覚しくフレッシュな体験に、すこしストップをかけるものでもあって、私的にはちょっと痛い感じだったけど、将来的にはとても感謝な経験になっていくと思う。
大事な事は、これを学んだという事実じゃなくて、なので、これから具体的にちゃんと自分の目で見て、自分で祈って、聞き分けていく霊的力、判断力をつけるためにトレーニングが必要で、実際にそれを行っていくところに意味があります。

ますます、厳しい展開になってきてますが、神様の弟子としては当然のことだね。

韓国の讃美でこんなのがあります。

 세상을 보고 사람을 볼때
 世を見たり人を見たりするとき
 만족함이 없었네~
 満ち足りるものがなかったね
 나에 하나님 그 분을 뵐때
 私の神様 その方に会った時
 나는 만족 하였네~
 私は満ち足りたんだよね~


 저기 빛나는 저 태양을 보라~
 その輝く太陽を見よ
 저기 서있는 저 산을 보아라~
 その聳え立つ山を見よ


 천지 지우신 우리 여호와
 天地を造られた 私たちの神
 나를 사랑하시니.~
 私を愛してくださったから
 나에 하나님 한분 만으로 나는 만족하여라.
 私の神 お独りだけが 私を満ち足りたものにする
 동남풍아 ~~~
 東南風よ~
 불어라~~~~
 吹け~
 서북풍아~~~
 西北風よ~
 불어라~
 吹け~
 가시밭에 백합화
 人生の苦しいいばらの中の 白百合
 예수 향기 날리니
 イエス様の香り とんでくから~(香るから~)
 할랠루야 아멘
 ハレルヤ アーメン

この歌は、音をお伝えできないのが残念ですが、聞いたらびっくりするような、日本で言う演歌調?
なんとも伝統的雰囲気の讃美なわけで、歌詞が伝える迫力も、私のイメージでは「根菜」=ごぼう系?の力強さを感じます。超勝手な解釈ですが。

どんな風が吹いたとしても、倒されるどころか、イエス様の香りが香れ~というくらい、確信のある信仰の強さが欲しいです。
人から通して学ぶことも多いけど、最終的に自分の命を神様に従わせていく献身の道は、自分の選択と神様の恵みの中で成就されていくものです。

人は、各自の働きにしたがって、集まっては散っていきますが、神様の愛と、その愛によって立たせられた私の存在というのは、決して動かされない確かな中に置かれている事を改めて確認します。

この歌を聴きたい人は、帰国している時に私にお願いしてください。
「ごぼう系」で歌います!


天国の草花

2007-12-25 01:07:50 | 波乱万丈めっちの人生
私の韓国でのお友達…
(韓国では同い年以外は友達とはいわないで、年上だったらお兄さんお姉さんと言いますので、正確には「お兄ちゃん」)
に、イヨセフさんという方がいます。
ヨセフオッパ(お兄ちゃん)は、写真作家です。
写真だけがうまいのではなくて、詩を書きます。
ヨセフ日記というウェブページに、詩と写真を載せるほか、それを溜めて、出版したりもします。
QT本を買うと、表紙がヨセフオッパの写真であったりすることもあります。
とても素敵な写真をとります。
時々機会があれば、私の写真も撮ってくれます。

オッパは色弱というしょうがいがあるそうです。
それをしばらくしりませんでした。
オッパの詩を翻訳するのを頼まれて、日本語にしていたとき、「作家紹介」なるもの翻訳する事になり、その時に初めて知りました。
「色弱の作家、イヨセフは・・・」
わーびっくりだぁ。
でも、だから綺麗な写真が撮れたりするもんなんだろうか?

私は、趣味がビーズや編み物だったりするんですが、オッパは
「メグミビーズうまい~。」と言いながら、私の作ったピアスをもって、
「これ何色?これ何色?ひょっとしてこれ、ピンク?わ~外れ!」
という具合に、ほとんど色を識別していません。
色の世界に生きている私には、オッパの目が何をどのように映してるのか、検討がつかないのですが、とにかく、神様のくれた目と、芸術的才能で素晴らしい写真を撮ります。

オッパが、翻訳してくれてありがとう、と言って、葉書のセットを時々くれます。
サインは「天国の野生花 めぐみへ」
野生花、というのは日本語で言うと、雑草?ちょっと違うよね。綺麗でしかも自然で、自分を生きてたくましい、そんなところでしょうか。

オッパは人々を天国の野生花と呼んで写真におさめます。

その被写体は、美人やかわいい天使のような子ども、だけではありません。
地下鉄の駅でホームレスをしてた兄弟、マヒを負いながら地にはいつくばって
詩人を目指す男性。
オッパは彼らを、天国の花と呼び、その通りの姿に写真に表現するのです。

誰もがくさいと言って避ける人を写真に収め、収め続け、近づき、友となり、
究極には、彼をホームレスの生活から救い出し、仕事を紹介し、彼の夢見る
将来を一緒に夢見てしまうような…そんな写真作家がヨセフさんです。

神様は私たちを作って、本当に個性ある存在として、この世に送られて、自分自身の花の姿と、香りを放つようにしてくださったんだろうなぁ。
私も人を見るとき、神様の視点に近づきたいなーと思います。
人と自分を比べなくても、自分自身を神様の視点で見る。
人を、神様の作られた尊い存在として、自然体で見る。

草花のように、何もしないように見えるときも尊くて、
香りを放ったり、人を癒したり、何かを行うときにも尊くて、
命がそのなかに生き生きたくましく光っていて、
実を結んだり、鳥や虫に小さな食料を提供したりもしている。

誰かに認められようと認められまいと。
そういうふうに、みーんなが生きられたらね。

人は罪のために、怠けたりだましたり、徳になるように計算したりもする。
けれども、神様の視点に近づけば近づくほど、無駄な計算や努力すらも
しなくてすむようになって、むしろ、人の美しさに気がつけたり、
人を愛したり、人に仕えたりできるようになるんじゃないか、って思う。

天国の草花、とヨセフオッパが呼んでくれる中に、
神様の視点を感じたひととき。



クリスマスですね

2007-12-25 00:38:10 | Weblog
クリスマスおめでとうございます。

私にとって我が家は幼い頃、12月は完全に楽しいひと月だった。

ドイツに住んでいるおばさんが、小包を12月の初めにとどくように
いつも送ってくれていたんだけれど、なかには、きらきら輝く包装紙に
包まれた豪華なチョコレートや、美しい箱入りのお菓子、クリスマスの
オーナメント、そして、アドベントに入ると毎日窓を開けて、チョコを
取り出して一個ずつ食べながらクリスマスを待ち望むチョコカレンダー
があったんですね~。

かわいい絵がついていて、それだけでもかなり楽しかったんだけど
成長するにつれ、それらも進化している模様、ある時期からは、
上方の大きなまどをあけると、光や音が出たりするものもあったし、
立体的になるものもありました。
写真があれば良いけど、あいにく写真はありませんTT。

それが届くと、まいにちかわいいお菓子を食べながら、12月を過ごすのです。
寒い部屋に大きなダンボールに入って置かれているそれを、食事の後
取りに行く。。。今日はこのうさぎのチョコ、明日はサンタさんのチョコ。。。

そして、クリスマスの日には、お母さんとお父さんが贈り物をいっぱい
準備してくれて、最高に幸せでした。

クリスマスがイエス様の誕生日だとは、いつも知ってました。
もっと年をとって、イエス様が何のために生まれたのかも、知りました。

年齢を重ねたから分かるようになったのではなく、
だんだん知っていったことごとがあったのですが、
イエス様という方が人間の姿になって生まれるということが
どういうことなのかを、深く知るようになってからは、
クリスマスが、ちょっと苦しい思いを感じたりもします。

そして、女性として年を重ねるうち、馬小屋で出産とかいうのが
非常にありえないという思いもします。
そんなところに、神である方が生まれたとは・・・。
人となった、ということが、どういう制限と低さをまとうことなのか。
クリスマスの夜に起こったのは、美しい童話の絵のような、
お話ではなかった、と思われてきます。

正直、苦しいお話なんじゃないかとも思ったりします。

なのに、天使は軍勢となって多く現われて、歌を歌い、
いと高きところに栄光、地の上には平和を・・・
と神を讃美したんですね。

クリスマスがどうしてこんなにうれしいのかも、痛いほど感じる。
痛いほどに、イエス様の誕生の意味を思う。
苦しくもあり、しかし私にとってなくてはならない日なのであり、
悲しいような気もするのですが、感謝です。
マリヤとヨセフという人たちにも非常に感謝を感じます。

クリスマスを本当に感謝します。

私たちは信仰によって、罪と死に勝つ「イエスキリストを着る」のですが、
神であられるこの方は、貧しさと低さと罪と死と、あらゆる制限を伴う
人になってくださったのです。

げほげほ

2007-12-19 10:47:22 | Weblog
風邪です。
休みたいなーと思ってました。
そしたら、休みをくださいました。
しかし、あまりに苦しいと、睡眠ができないんだね。

昨日の夕方から夜までは、頭痛との格闘でした。

神様吐き気がなくて感謝します。

私は吐き気が一番辛い。

また休もう~。

深く学べますように。

2007-12-13 07:24:36 | 神学校
火曜日で秋学期の試験が終わりました。
神学校も一学年を修了したことになります。
落ちてなければ。

教授陣は、レベル高く、優しく、また私のことをかわいがってくださってます。
ほんとうに感謝です。
だけど、私、

神学ってとっても必要な事なんだな~~~~~!

が、今の感想なんです。

これを学んだ、
知識を身につけたというより、
必要な知識を今学んでいる、という状態を自覚したのです。

非常に自分に不足を感じます。
語学的な壁もあるし、
みんなの優しさに頼った部分もある。
一生懸命誠実にやったという自信もある。
だけど、
学問への自信が全くないんですね。

この不足へどう向き合うかが残りの二年と、
始まった冬休みの課題です。

先輩のパソコンが壊れちゃったので、
課題の一部をめぐみがお助けいたしました。
しかし、
「めぐみがやってくれたところ、切っちゃった」って言われた。

ひぇ~
おいらだって知識も資料もない中頑張ったのに・・・

寂しく思ってもしょうがない。
これは先輩の課題であるので、もともと先輩がしなきゃいけないことだし、
先輩の納得いくものを提出しなきゃいけないからである・・・。

「結局僕が知っていることを書いて埋めた」
だったら初めから自分でやったほうが良かったねぇ・・・

と思う一方、やっぱそれくらいのことを知ってないとだめだよねー
って思いました。

資料を見て引用してレポート作っても頭に残ってる事がすくないと
蓄積される知識がないので、その場で終わっちゃうんだよね。

先輩は先輩で長く生きてるし、私とはキャリアも違うし
勉強も長くしてるからそれはそれだけど、
私の今後の勉強へ、実際日々課題をこなすだけじゃなくて、
深く神様を知る(学問的な)知識を持ちたいと願わされました。

どうしたらいいかなぁ~
まずは祈るでしょう。。

女の子の夢・・・

2007-12-08 21:10:04 | 読書・映画
先輩から「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマのDVDを借りて見ています。
もうすでに、古くなりましたよね。
私も映画を、ずいぶん前に見に行きました。

闘病もの、って言っていいのかな。
先輩も何度も泣いたって言っていたけど。

あきちゃんという主人公の女の子が病気で亡くなるんだけど、
闘病している時に、髪の毛も抜けて、病状が悪くなる中、
お母さんに、「こんな女、誰も好きじゃないよね・・・
子どもとかも、無理だよね。
結婚だって・・・」というせりふがあります。

これと似たような言葉・・・。
「一リットルの涙」というこれも闘病ものでしたが、
だんだん弱っていく主人公の女の子が、お母さんに
「お母さん、私、結婚できる?」って聞きました。

私、とてもこの気持ちが分かる。
とても、なきたくなるせりふです。

健康な体を得たら、
何か大きなことを成し遂げたいというよりも、

好きな人と一緒にいたい気持ちや、
好きな人と生きていく事や
好きな人の子どもを産むこと。

なんだか多くの人がやっているみたいに見えることだけど、
女性の想いであり、夢だと思います。

この二つのドラマの主人公の病気の女性は二人とも高校生だけれど
女性の想いと夢を私に思わせてくれます。


私の周囲に妊娠している方が多くなってきました。
とっても素敵で神秘な
神様からのプレゼントと祝福だと思います。

私もいつか、赤ちゃん産みたいです。
神様からの最高の祝福として、この人生を生きていくために
自分を整えたいと思います。

今、与えられている健康と、
この夢を、思い描くことができることが、
今の幸せです。


おじいちゃんのたびだち

2007-12-05 01:51:47 | 教会生活
一週間前、うちの祖父は天国という素敵な場所に、旅立ちました!
とても素敵な91年間を終えて、めでたき旅立ちでした。

本郷台キリスト教会という教会が私の母教会なのですが、
そこで、葬儀を。父のときも祖父の時もしていただいてます。

故人を思い出して遺族が文章を書くと、冊子を作ってくれて
式次第にはさんで参列の方に配布してくれるという粋な(?)
計らいをしてくれます。

うちのおじいちゃんは、我が家の親戚一同のリーダー的な存在でしたので
多くの人々が葬儀に来てくださったようです。
また、横浜に移住してきてからは、教会には出席できる回数が少なかった
のですが、みな、私や母親の祖父であり、父であるということで、
親しみを持って心こめて葬儀のお手伝いをしてくださいました。

本当にありがとうございます!

ちょびーっと寂しいですね。
横浜に帰っても私のかっこいいおじいちゃんはもう居ない事は。

本当にハンサムだったんですよー。
背も高かったし、話もおもしろいし、頭はいいし、特技は弓道と、、、
マージャン?あ、いやいや。計算、とか、旅行の計画とか。
人を楽しませることが大好きで、また、よく働く人でした。

そんな家から生まれた母親から私が生まれ、
弓道のりりしさや、天才的な頭の良さなどは、一体どこに引き継がれ
ちゃったんだろうかぁ?よくわかりません。

ちなみに、ハンサムなおじいちゃんの相棒であったうちのおばあちゃんは
これまた、絶世美人です。

これもまた、どこに引き継がれちゃったかなーぁ。

どちらにしても、悲しい別れではなく、めでたい旅立ちとなり、
心こもった葬儀をしてくださった、わが本郷台キリスト教会には
感謝でいっぱいでございます。

韓国語で「本郷」というと、天国のいみもあるんだよ。
発音は「ぽんひゃん」って感じですが、時々讃美に出てきます。
ってことは、
天国から天国への旅立ちだったのか?

おじいちゃんの思い出文章をここに載せます。
葬儀の時に配布していただいたもののうち、私が書いたものだけ抜粋です。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
おじいちゃんの思い出

 小さい頃おじいちゃんが、「ウミボウズの話」や、「海軍での怪談」をしてくれたことがありました。ウミボウズの話というのも、海軍での怪談に入りますが、昔おじいちゃんが経験した軍の話や、本当らしく臨場感たっぷりに話すその怪しい話は、非常に私の心を惹きました。私が喜ぶと同じ話を同じように何度でもしてくれました。

 その話の内容と独特な口ぶり。おじいちゃんは、とてもおもしろい人で、ずっと大好きな人でした。そして、私が20歳をすぎても、大昔、私があげた「おじいちゃんだいすき めぐみ」と書いたカードを財布に入れて持ち歩いていました。時々それを取り出しては、「あんたが昔これくれたんだよ」と、見せてくれました。

 私のいとこはドイツで成長しましたが、よく日本におばが里帰りをしてくれるおかげで、そして、このおじいちゃんのおかげで仲良く育ちました。おじいちゃんが夏休みや冬休みのたびにアレンジしてくれる旅行の企画に親族揃って、大喜びで参加しました。おじいちゃんは、常に私たちの「リーダー」という感じでした。

 私は韓国に派遣され、今は神学を勉強中ですが、今年の春に一時帰国をしたときには、ぜひおじいちゃんにイエスさまという方を紹介したいと思いました。おじいちゃんには小さい頃から多くの目に見えるものや、体験できる思い出をもらいましたが、それ以上に、私を生んでくれた母を生み出した存在であり、育てた人だと改めて気がつきました。命をくれた人であることに気がつきました。私が信じる神様が用意してくれている天国を教えてあげる事が、私にできる一番の贈り物だと思えました。

 伝道、宣教という言葉をたくさん聞いてきたし、私自身が宣教師ですが、自分が神様に愛されているということが溢れて、初めて人への愛も溢れ、神への愛に溢れ、それを伝える事ができる、その熱意を持つことができるということをおじいちゃんに話していて感じました。宣教師としての一番楽しい時間でした。イエスさまとおじいちゃんの出会いの瞬間に居合わせることができてうれしかったです。

 その前までは仏壇念仏神棚に生きてきたおじいちゃんでしたが、神様を信じてイエスさまの用意してくれた天国に行くとその時決めてから、意識がもうろうとしても「アーメン」だけ、周囲の人の祈りに心を合わせるようになったと聞いていました。

 91年という長い人生、いつも忙しく積極的に活動して働いてリーダーシップをがっちり握っていたおじいちゃんでしたが、そのリーダーにイエスさまというリーダーが居てくださるようになりました。

 イエスさまに出会った日、おじいちゃんは、楽しい会話の中にも、「この歳になって、誰かの導きがなければ、どこにも行けないんだよ」と言っていました。その時イエスさまをお迎えし、地上のその瞬間からイエスさまがリードしてくださいました。今もその備えの場所に、約束に従って入っていったことを信じて、残された私たちもとても幸せであり平安です。

 親が死んで感謝と思える人は普通いませんが、召された日に母から「いい一日だった」と電話で言われました。一番良いところに導いてくださる方への信仰があるから言える言葉で、これ以上感謝なことはありません。
 
 おじいちゃんにたくさんのものや、命をもらい、私も永遠の命を共有する事ができて幸せでした。おじいちゃんだいすき♡