韓国に来てから、お金の節約にもなり、パソコンをつけてレポートをすることがほとんどなので、パソコンを使ったチャッティングで人と会話をすることが多くなった。
チャッティング、良いのだけれど・・・。
何か片手間に会話をすることも出来るし、相手の反応が遅かったりすると何かやってるのかなという気持ちになる。
一応、一対一で会話をしているのだから、会話をする時の最低限のマナーがあるのではないかと思う。もし、それが出来なくて会話の相手に不快を与えるのであれば、電話をかけるなり、他の方法にしなければ、本人のコミュニケーションの常識がずれていき、挙句には人間関係全般に支障をきたしていくような気もする。
韓国ではNATEという、大手のメッセンジャーがあって、多くの人がその機能を利用して仕事をしたり、会話をしたりしている。
一度韓国人の友達が、私の家でPCを使っていたときに、一度にいくつもウィンドウを開けて同時に文字で何人もの人と会話をしているのを見た。自分はいくら母語でもこんな会話は到底できないと感じる。話題が軽いから、てきとうに返事をしているだけなのかもしれないけれど、そんなのだったら正直会話でもなんでもないんじゃないかという気すらする。
昨日の夜、NATEで会話をしていて、ぶちぎれてしまった・・・。
向こうは、ルームメイトが話しかけてきて集中できない、ごめん。。。とか言って会話の部屋を退室してしまったのだ。
私の話は途中だったのに。
そして、片手間に会話をされていることも十分雰囲気で伝わってきていただけに、あまりの一方的なコミュニケーションに怒りがこみ上げてきた。
私は彼に即刻電話した。
人に対する会話の態度がそれ?なんなの!
私は怒るという事を、ほとんどしない人間だった。
怒るということは、いい事ではないかもしれない。
ずっと持ってると、心もびょうきになる。
私は最近、怒るという行為を…実践で学びつつあるのです。
だけど・・・。
その時間、相手はどういう気持ちで自分に接しているのか位の想像力は持つべきじゃないかと思う。それが、思いやりというものではないか?
片手間で会話ができてしまうことを、便利だと感じるかどうか…考えさせられるけれど、心の無いやりとりほど寂しく、時間の浪費になることはない。
お祈りするとき、礼拝する時。
別のことを考えているということが、神様にとってどういう意味なのかを考えさせられた。うわべだけでの歌詞を歌っている空の讃美、むなしい礼拝に対して怒る神様の姿はもっともだ。
礼拝をささげることができるという事自体が、素晴らしい恵みの上に立っている贈り物なのに、自分自身にとっては時間の浪費としてしまい、神様にとっては受け取れない礼拝が地上で自分勝手に行なわれている。
この怒りと悲しみも、神様が私に教えてくれたプレゼントだと思う。
愛と心のあるコミュニケーションを、神様との間、そして、人との間に構築する人生になって行きますように!
また、私の周囲にいる人々もそのように接してくれる事を望みます。
身近にいる人を大事にしようよ!
チャッティング、良いのだけれど・・・。
何か片手間に会話をすることも出来るし、相手の反応が遅かったりすると何かやってるのかなという気持ちになる。
一応、一対一で会話をしているのだから、会話をする時の最低限のマナーがあるのではないかと思う。もし、それが出来なくて会話の相手に不快を与えるのであれば、電話をかけるなり、他の方法にしなければ、本人のコミュニケーションの常識がずれていき、挙句には人間関係全般に支障をきたしていくような気もする。
韓国ではNATEという、大手のメッセンジャーがあって、多くの人がその機能を利用して仕事をしたり、会話をしたりしている。
一度韓国人の友達が、私の家でPCを使っていたときに、一度にいくつもウィンドウを開けて同時に文字で何人もの人と会話をしているのを見た。自分はいくら母語でもこんな会話は到底できないと感じる。話題が軽いから、てきとうに返事をしているだけなのかもしれないけれど、そんなのだったら正直会話でもなんでもないんじゃないかという気すらする。
昨日の夜、NATEで会話をしていて、ぶちぎれてしまった・・・。
向こうは、ルームメイトが話しかけてきて集中できない、ごめん。。。とか言って会話の部屋を退室してしまったのだ。
私の話は途中だったのに。
そして、片手間に会話をされていることも十分雰囲気で伝わってきていただけに、あまりの一方的なコミュニケーションに怒りがこみ上げてきた。
私は彼に即刻電話した。
人に対する会話の態度がそれ?なんなの!
私は怒るという事を、ほとんどしない人間だった。
怒るということは、いい事ではないかもしれない。
ずっと持ってると、心もびょうきになる。
私は最近、怒るという行為を…実践で学びつつあるのです。
だけど・・・。
その時間、相手はどういう気持ちで自分に接しているのか位の想像力は持つべきじゃないかと思う。それが、思いやりというものではないか?
片手間で会話ができてしまうことを、便利だと感じるかどうか…考えさせられるけれど、心の無いやりとりほど寂しく、時間の浪費になることはない。
お祈りするとき、礼拝する時。
別のことを考えているということが、神様にとってどういう意味なのかを考えさせられた。うわべだけでの歌詞を歌っている空の讃美、むなしい礼拝に対して怒る神様の姿はもっともだ。
礼拝をささげることができるという事自体が、素晴らしい恵みの上に立っている贈り物なのに、自分自身にとっては時間の浪費としてしまい、神様にとっては受け取れない礼拝が地上で自分勝手に行なわれている。
この怒りと悲しみも、神様が私に教えてくれたプレゼントだと思う。
愛と心のあるコミュニケーションを、神様との間、そして、人との間に構築する人生になって行きますように!
また、私の周囲にいる人々もそのように接してくれる事を望みます。
身近にいる人を大事にしようよ!