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クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

み言葉の黙想-配慮 Ⅰコリント

2009-04-17 08:58:01 | 黙想
日々いろいろなことが起きて、いつもブログ(日記)に残しておこうと思うのですが思ったように記事をアップできません…。とっても残念です。

コリント人への手紙を読んでの黙想です。
これはイエス様昇天後の使徒の時代、コリント教会の信徒へパウロが宛てた
手紙です。

コリント人への手紙第一では、人を配慮することがたくさん書かれています。
当然の権利であったり、間違っていないことであっても、「あなたがたのこの
権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」、そして
「彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪をおかしているのです」と書かれています。

ということは、キリストは、人々の間で、もっとも弱い人のためににも
いのちを捨ててくださり、彼らを大事にしておられたという十字架の意味が
連想されます。
もしも私たちが、自分の義を優先して、人の思いや気持ち、弱さに
まったく配慮しないで行動を決定していこうとするならば、その行動が
間違ってなくても、キリストが悲しまれることになるんだということが
分かります。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
コリントⅠ 6:20

の本当の意味は、杓子定規で正しい、正しくないを判断して、正しいこと
だけを自身を持ってお前が行えばよろしいというすすめでないことが
分かります。

代価を払って買い取られたからこそ、同じように代価をもって買い取られる
尊い人々の思いや、弱さを配慮しなさいという事だと思います。

神を愛することと、人を愛すること。
これをひとつの次元で考える、ということは、易しいようで、時に複雑です。

なぜなら、神を愛して、神の義だけを追い求めるならば、自分を憎み、
人の行う罪ある行動をも憎み、社会を憎み、とうとう私たちは山にこもるしか
道が無いんじゃないでしょうか?

だけど、神を「愛する」ということは、「律法を守ることで義を確立しなさい」
ではなく、神の愛を知り、神と交わるということだと思います。

他の宗教では神と交わると言ったら、不気味な霊媒師が霊の交流をするような
ものがイメージされるのかもしれませんが、私たちの神、キリストイエス
を信じるキリスト教会で言われる神様との交わりは、「たたり」とか「罰」
とかを伝達するものではありません。
私たちに恐れを与えるような存在ではなく、愛に始まり、愛に終わる、
愛なる神様。

だから、私たちは山にこもったり、孤立して義を求める者になるのではなく
社会にあって、生活をしながら、キリストの愛を自ら黙想し、体験しつつ
実践を持って証しして生きています。そのように努力をしています。

人を配慮しないことがたくさん見られます。
まず、聖書を学んで、それを実践しなければならない、クリスチャンの私たちが
人を互いに配慮したり、仕えあったりすることに欠ける場合もあります。


あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を
現すためにしなさい。
コリントⅠ 10:31

これも、クリスチャンの中では非常に有名なみ言葉ですが、「食べること、
飲むこと」を、個人的な食生活の基本をして捉えて、「よーし。私は今日から
食べるにも飲むにも神のためにするぞ」などと決断してしまうことが
あると思います。それもみ言葉の正しい適用だと思いますが、コリント10章は
正餐式と、当時のユダヤ社会の「偶像にささげられた肉」の取り扱いについて
扱われている部分です。

文脈と背景を考えると、自分の利益を考えるのではなく、他人の利益を
心がけることを基準に、その問題に対しなさいというのがメッセージの
本質です。

ということは、個人的な生活で常に神の栄光をあらわそうというすすめ
というよりは、「あなたがたの」弱い人への配慮そのものが神の栄光に
なるということを言っていると読むことができます。
あなたがたとは、私たち、クリスチャンたちです。


信念を貫くことが神の栄光になることもある。
弱い人を配慮することが神の栄光になることもある。

しかし、私たちの信仰生活は、やみくもに自分の満足する礼拝をただ
熱心にすることが本質なのではなく、その輪の中に居る人、そしてその
輪の外に居る人への配慮も、信仰生活の重要な核である、と言えると思います。

私の配慮を必要としている人は、今日、誰でしょう?
また、私たちの配慮の無さで傷ついた人はいないでしょうか?

イエスさまを信じて、教会に通っている人「たち」として、また、
そのクリスチャン(個人)として、両方の側面から、配慮を黙想しています。

行けば行くほど謙遜

2009-03-15 23:42:03 | 黙想
行けば行くほど、を韓国語で書くと가면 갈수록 となる。

行けば行くほど、謙遜な人になりたい
というのが私の最近の思いです。

年を重ねれば重ねるほど、経験が多くなり、知識も増えるし
自分の目で見たこと、耳で聞いたことも増える。
そして自分がやって、成功したこと、失敗したことも
体験として残っていきます。

そのような経験が積み重なって、自信をもって人に良いと
思うことや、真理と信じることを強く口にする事もできる
のかもしれません。

往々にしてちょっぴり影響を受けやすい私は、説得力のある
人のメッセージを聞いて感化を受けることも少なくないのですが
ただたやすく影響を受けるというだけのことではなく、
最近はこの30年の経験の中で、

Aは効果もなかったし、その中に真理もなかった
Bは説得力もあるし私は納得している

となると、Bだ!Bこそ本物の考え方だ!
などと極端になり勝ちな私を発見します。


そんな中、Aも必要でBも必要で、いろんなケースによって
どちらのアプローチが適当なのかを考えて「かみわける」
分別力が必要なんだよ。
それが与えられるように祈ってみたら…なんていう意見を聞き…。

「私も経験を多くしてからBを見分ける力がついたな」なーんていう
ことが、むしろ非常に傲慢なことで、偏っていること。
いつも謙遜にいろんなことを吸収することが大事なんだ。
祈りが常に必要なんだ。自分が知っているって思ってはいけない
ってことを改めて気づくわけです。



今日はそんなことを考えて、また謙遜について考える中一人の方との
出会いがありました。
主人を日本から韓国に送るときに力になってくださった、もと
日本宣教師の韓国人牧師で、いまはアメリカで宣教師として働きを
されている方です。
韓国にちょっと戻られて、今日、私たちの行っている教会の
夕方5時の礼拝でメッセージをされるということが、当日の朝分かり
夕方の予定を後に押して、主人が私を妻として紹介もしたいという
ことだったので、残ってお会いしました。


その方の謙遜に驚いてしまいました。

日本であったいろいろなこと
苦しんだことや誤解を受けたことなど…
きっと今思い出しても胸が痛むことや、後悔となるようなこともあると
思いますが、自分を正当化するようなお話には決してならず、
日本を熱く、なぜか愛する気持ちが自分の中に流れていること
そして、人間がもう少しましになったとき、
神様をもう少しでも愛するようになった未来のそのときには、
もう一度日本に行って働きたいと言っておられました。
できなかったことが、やり残した仕事がたくさんあるので…と。

また、韓国が日本を助けるのは良いことなのだけれど、
自分の方式でやるのではなく、日本の牧師の下で働きたいと…
おっしゃいました。
日本の先生の指導の下に、韓国人は日本から学び、あえて自分の
方法を捨てて日本式にする、そして日本も韓国からいろいろなことを
学べるような一緒に共存できる教会を思い描いているということを
話してくださって、非常に感動してしまいました。

私の中で、韓国にきてから3年、
韓国式な方法を強力に行使している日本の地にある韓国人教会での
ある意味のショックを忘れられません。

日本の人たちが気にする騒音や、さまざまなことをむしろ進んで
行なっているようにすら見える教会は、日本人のクリスチャンとして
地域の人にこれ以上教会とキリストが憎まれるようなことを
しないでほしいという気持ちを持つしかありませんでした。

そして、短期宣教などを計画するときには、完全に日本の教会の
やり方を尊重するように強調しましたが、その中に、私も、
日本の地にある「日本の教会のやり方に従いなさーい!」という気持ちに
重きが傾いてしまっていた感じがします。

心痛む経験をしながらでも、ますます謙遜でやわらかく、
中立の立場…それはもはやイエス様のお考えとお心を感じさせる
ものでもありましたが、本当に感動し、自分が恥ずかしかったです。

たった3年の間に見たこと、
そして人生30年の間に聞いたことや見たことで
「私は知ってるんだもーん」
という気持ちになっていた部分のすべてを、消しゴムで消したい気分です。

罪、恥ずかしい恥ですがこれらをすべて見通せる方が、私の心を
すべて知っておられても変わらず愛しいつくしみ、なおも導きの
道を用意してくださっていることを感謝して、さらにこの謙遜を
見せてくださる周囲の器から学びたいと思わされました。

感謝です。感動の一日。

互いにすぐれた者と思いなさい。

2009-03-05 10:18:16 | 黙想
Let nothing be done through strife or vainglory; but in lowliness of mind let each esteem other better than themselves. (KJV)


Do nothing from selfishness or empty conceit, but with humility of mind regard one another as more important than yourselves;(NASV)

何事でも 自己中心や 虚栄からすることなく, へりくだって, 互いに 人を 自分よりもすぐれた 者と 思いなさい.(新改訳)

아무 일에든지 다툼이나 허영으로 하지 말고 오직 겸손한 마음으로 각각 자기보다 남을 낫게 여기고 (개역)

무슨 일을 할 때, 이기적이거나 교만한 마음을 갖지 말고, 겸손한 마음으로 나보다 다른 사람을 더 존중해 주십시오. (쉬운)

μηδὲν κατ' ἐριθείαν μηδὲ κατὰ κενοδοξίαν, ἀλλὰ τῇ ταπεινοφροσύνῃ ἀλλήλους ἡγούμενοι ὑπερέχοντας ἑαυτῶν,




この聖書のみことばが気になって、色々と調べてみた。
すぐれた人と思うというのはどういうことだろう?
自分より能力があると思えと言うことか。
しかし、人と人の比較の中で、能力を比べてみたら、
人より上手くできることもあれば、人が上手くできることもある。
年齢の幼い子供と比べれば、当然、大人が力において「すぐれて」
いるのは当たり前なのに、無条件に、人を自分よりもすぐれた者と
思いなさいとは・・・。

英語では、よりまさった者と思う、重要に考える
韓国語では、やはり、よりまさった者、そして、尊重する
ギリシャ語の原語聖書では、上回る、優勢な、すぐれた、まさった・・・。


私たちは、人に能力がある事を認めるだけでは、神のみこころを満足させることが
できないと感じる。
なぜなら、私(たち)の心には、人が自分よりも能力があると思うと、とたんに、
妬みや羨やむ思いが入ってくるからだ。

人に能力があることを認め、なお、一つ志のうちに、互いを尊ぶことがなければ、
神の共同体は壊れてしまう。

このピリピ2章3節のみことばの教えの後には、このような心構えはキリスト・
イエスのうちにも見られるものだと出てくる。

キリストは、使命に従って、神のみ姿を捨て、神のあり方を捨てられないとは
考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人と同じようになられた・・・
のだが、使命と十字架の救いの働きに身を投じる中に、常に、人を尊重する
考えがあったということを意味している。

13節にも、神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、
事を行わせてくださるのです、と出てくる。

志、使命に従うところに、常に、人を尊重し、すぐれた者と思う気持ちが
なければ、その働きはむなしい。
自己満足や、自分の志をまっとうするために生きるのであれば、神のみこころ
を決して喜ばせることはできないだろう。
自分の能力、そして人の能力、どれもが、一つ志=神のみ心にしたがい、神を
喜ばせ、神のみ名があがめられる=の中にあってこそ、互いに尊敬しあい、
尊重しあい、神の目線で「すぐれた」と思うことができるようになるのだと
考える。

生命を愛し、その存在の尊さを知ることが、どんな働きにも先立つべきでしょう。