metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

細胞の中で対話?

2007-03-31 11:09:10 | 神学校
先日の組織神学の記事http://blog.goo.ne.jp/metch0221g/e/51ebfd2cfc0086317b8ea0300306c167に引き続き、この授業困ったね~すごいよ、すごいよ。
宇宙人が来て話しているのと同じだよ。

前々回、教授は授業の初めに細胞の絵を出してきた。

「セポです。」=「細胞です」の意味。
もう、この人が話すと、ちゃんとした韓国でさえも、可笑しく感じてしまう。

めがねの奥で小さな目をぴょこぴょこさせつつ話すその話は私の予想を遥かに超えていた。

「細胞の中にある様々な物質ね、アミノ酸とか、たんぱく質、ミトコンドリア。これらは、性質が同じだろうか。違うだろうか?」
「違いまーす」(生徒)
「そう、違う。だから細胞の中で互いに対話をしているんだ。」
・・・なんだそりゃぁ?

韓国語にはできれば自信を持ちたいところだが(言語が分からなければ沈没のため)その自信を放棄したい。この人の言ってる事が、本当であったら、組織神学は大変だ。

韓国人の皆さんも母語で聞いているにも関わらず、ほとんど理解不能らしい。
私が、同じ教会から通っている二個年下の男性「聖主=そんじゅ」くんはこういっている。

「僕が今日はじめてめぐみヌナ(お姉さんの意味)にあったとするじゃないですか。
それで、初対面で何も知らないのに、僕が『今日山に行って、木を切って来たんだよ。それから、私のお母さんは、とても立派な人で、昔は美人だった。昨日は焼肉を食べたんだけどそれはね、味が・・・』ってさ、話し始めたらどう?
この先生の話はそういう感じだよ。」

つまりは脈絡が見えないということらしい。

この先生は、世界人物図鑑に載っているほどものすごい神学の権威なのだそう。
そして、大学の時も大学院の時も論文を書いては、指導教授に「君の論文は理解できない。私の手を超えています。パス!」って言われて卒業してきたんだって。
なるほど、私が理解できるはずもない。

もはや、異言レベルだ。
そんなスゴイ有名な?人を生で見たということくらいが、本日までの組織神学の授業の収穫でしたね。ははは。

オメガ→アルファ

2007-03-30 00:01:28 | 教会生活
韓国に来てもうすぐ1年です!
そして、オメガ聖歌隊という聖歌隊に所属して、奉仕を始めてからは8ヶ月くらい経ちました。メインの奉仕ではないけれど、本当に楽しく喜んで、今まで讃美をささげてきました。
私の教会に今通ってきている日本人の信徒さんが、一人だけいます。
韓国人男性と結婚して、ここに住むようになっている方で、韓国語があまりできません。

彼女のために、礼拝で通訳をしたりする機会が与えられ、日本語礼拝をする機会も与えられ、本当に神様に感謝しています。
彼女は日本で音楽大学を卒業し、専攻はオルガンでした。
今まで、賜物であるオルガン奏楽奉仕をしたいと思いながらも、聖歌隊に空きがあると言う話も聞かなかったので、できていませんでした。

それが、実は水曜日に午前、午後と二回ささげられている礼拝の内、午前のアルファ聖歌隊で、オルガン奏楽者がいないということが分かり、奉仕の機会が与えられました。ずっと奏楽者が来る様に祈ってたんだって。
彼女がとても喜んで、大好きなオルガンで神様のお役に立てることを嬉しく思っているようでした。そして通訳の必要があるかと思い、私も水曜午後のオメガ聖歌隊で奉仕をしていたのですが、午前のアルファに移りました。

私の教会は今、信徒が4000人以上いる韓国の中でも比較的大き目の教会です。
聖歌隊は7つ位あって、それぞれ個性があります。

オメガ聖歌隊は男性が少ないけれど、それでも4部に分けて最大限がんばっている努力派の聖歌隊でした。どうしても、女性が多くなってしまうのは仕方ないんだけれど、ソプラノが断然多いのがやっぱバランスが悪い。でも、少数の人たちも心からの真心でがんばっていました。

アルファ聖歌隊の指導をしてくれている方が、私の本当に憧れの声の持ち主でした。明るくて、力強くて、はっきりした発音。ピアノ(小さい音量)が綺麗なのも私の気を惹きつけていました。
以前から、実はこの方に声楽習いたいと思っていたんだ^^
そして、この機会に、「実は以前から、先生に歌を習いたいと思ってたんです」と言ってみました。
そしたら、OKしてくれたんですよ!あぁ~嬉しい。

そして、レッスン費用を聞いてみたら、ちょっと思っていたより高かった。。。
だけど、音大に行っていたその友達に言わせると破格だよ~って言うんです。
また相談しようねって一回別れました。
私も色々考えて、相場を知らずに失礼なこと言ってしまったなと思っていました。そして神様に仕えるために歌習いたいので、自分の予想より高くても大丈夫ですって言おうとしていたら、先生が「私に日本語教えてくれたら、それでいいわよ」って言うんです。

きゃ~マジで~!

先生が知ってか知らずか、分かりませんが、一応日本語指導のライセンスを持っているだけでも、申し訳なさが解消されます。勉強しておいて良かった。。。
先生の指導力には及ばない日本語かもしれないけれど、このご好意があまりにも嬉しかったです。

今日の朝5時からの祈り会で、私と日本人信徒のお友達は一緒にアルファ聖歌隊で奉仕デビューしました。
赤ん坊を抱えている彼女にとって夜明けから奏楽の奉仕に来る事も易しい事ではないだろうに、本当に喜んですることができました。
感謝です!
讃美は「万民に伝えよ~イエス様の救い~」みたいな歌詞だった。
今後オルガン奉仕をする彼女が、心から讃美をささげるために歌詞も分かる必要があると思います。どんな風に用いられて、お互い成長させられていくのかが、私達二人とも楽しみです。新しい領域を神様が与えてくださいました。

ところで、今日、神学校からの帰り、電話を受けてみると、文化講座で日本語を教えている高校生のお母様からだった。
「うちの娘が、めぐみ先生の授業がスゴイいいって言うんですよ。他の時間とって教えてやってもらえませんか?」って言ってくれるんですよ。
私、本当に日本語教えるの好きですね。
あるいは、「先生」っていうのが、好きなんだと思います。
時々「やば~い」ってなるときあるけど(お読みの皆さんも自分の母国語よく考えてみてね。教えようと思ったら、難しくて悪い汗かくような構文きっとありますよ。)そんな風に言ってもらって嬉しかったですね。

神様が私達に与えてくださったもの。
音楽であったり、言葉であったり。

こう言ってはナンだけれど、韓国語を勉強している私は、韓国人の韓国語の誤用に時々気がついているんだよ。ふっふっふ。
正しく話そう、母国語。
美しく使おう、自分の国の言葉。

これも、賜物の一つです。
大事に使って、神様の栄光になりますように~

「新しい」

2007-03-25 19:40:24 | 波乱万丈めっちの人生
先週の日曜日、本当に気分が悪くなる(っていう言い方は韓国式か?頭にくるっていうのが適当?)ことがあった。
本当にしばらく、心の中で泣いて、実際にも泣いて、気分が疲れて、寝て、祈って、回復して、それでもどうも立ち直りきれない様子があって、結局、ヘアスタイルを変えるという手段を利用してみた。
ウエーブだった髪を、マジックパーマでまっすぐに伸ばした。
さらさらのストレートになった。
元来、強くはないけれど多少癖がある私の髪が、指に突っかからないまっすぐ髪になりました。新しいめっちだ。

今考えてみたら、別に大きな事じゃなかったのかもしれないけれど・・・。
私にとっては、グサッと来る言葉だったんだよな。
年齢の事。嫁に行けって言われる事。
・・・正直、大きなお世話だ。
アブラハムだって100歳過ぎてから神様の約束の子供を得たではないか。
そう思えば別に泣く事でもない!

さて、今日は、教会で結構私は楽しみにしてた「期別『もいむ』=『集まり』」ってのがあった!
ここでも年の話になってしまうんだが・・・
韓国では年齢によって丁寧語とため口を使い分けることでも分かるように、年齢が重要なお付き合いのポイントだ。
同年齢とわかると「じゃ、私たち友達だねっ」ってなる。
私は、韓国中央教会15期に属します。

期別もいむをしてみたら、今日はなんと・・・讃美リーダーをしているギタリストの男性とめっちだけ。
寂しいよ~しかも彼は、用事があっていかなきゃいけないって。
めっち一人で「もいむ」できない。
(『もいめ』ない?←韓国語学習者の日本的活用。 )

さて、そんなわけで、15期の私一人と、私より5~6つくらい上のお兄ちゃん達と食事しに行きました。
お兄さん達は、小学校の時から同じ教会に通っていて、今に至ります。
本当に羨ましいな~。

めっちは、初めて教会に行った時は3歳だったけれど、その時一緒に教会にいた子達は今どこにいて何をしているか分からないし、すでに3年生ぐらいの頃には、教会に来なくなっていた。
今つながっているのは、牧師先生の娘であった友人だけだ。

その後、愛媛に引越した時には教会がなくて教会生活はしなかったし、
横浜に来てからも、中学生の時の友人達はいない。
そのときから一緒に奉仕をしていた年上の人たちは教会にいるけれど・・・。
憧れだったお姉さんの年齢を越し、徐々に婦人たちの年齢に、なりつつある事が、驚きです!

年齢、過ぎ去った自分の日々を考えると恵みもいっぱいで、これからどうなるのか楽しみでもあり、希望や期待もある。それはとても感謝なこと。

でも、先週の礼拝の説教はこうだった。
自分がこうなりたいと思うことではなくて神様が、自分に望んでいることがあなたのビジョンだと。

おー難しい。どうやって明確に知ることができようか?と思ったけれど。
しかし、たくさん分かる事はある。
父なる神の御心は、父なる神と交わる事で十分に知れる。
父なる神の御心は、聖書のみ言葉からも、深く知れる。
非常に知れる。神様がいつどんな時に悲しまれたか。
どんなものをみて怒っておられるか。どんな時に喜ばれるか。

私は、ビジョンという言葉を分かってなかったのかも知れないなって思います。
計画や夢というものに置き換えられがちなこの言葉。
そうではないんじゃないかと思います。

私の大きな今のテーマは「からしだね」です。
マルコ4;30の聖書の言葉では、神の国がからし種に例えられています。
地に蒔かれる時には、地に蒔かれる種の中で一番小さいのですが、蒔かれると生長して、どんな野菜よりもおおきくなり・・・。

神の国を思うことができる私。
小さな小さな、目にも見えないくらい小さな種のような存在だけど、
大きな大きな神の国を抱いています。
どこに蒔かれるのかも、どれくらい大きくなるのかも、自分の中には計画しないで、思い描く事はあるかもしれないけれど、全ては蒔く方と育ててくれる方に任されていること。

育ててくれている神様に信頼すること。それが、ビジョンの99.9パーセントを占めていると感じています。
・・・
年齢が進み、人は何とかかんとか言いますが、主が見ておられるように自分を見ることが、自分の平和を守ることにつながると思えます。
ビジョン、年齢、自分、友達、ミニストリー、結婚…
日々、新しい考え方を持つ事が必要に思えています。

私の名前知ってるでしょ?

2007-03-22 09:40:38 | クリスチャンとしての私
韓国のゴスペルで「私の名前知ってるでしょ?」という歌があります。
私の大好きな曲です。

神様に向けて、
『私の名前知ってるでしょ~
私の全ての考えも~
「パパ~」と呼ぶとき、神様が答えてくださるね~』

と、歌う、そういう歌詞です。

天国に行ったらどんな風なんだろう?って、以前にも教会のお兄さんと一緒に
話しながら思いを向けて考えていた。

そして、最近、あるもう一人の方の、新しいイメージを聞いた。
その方は、天国に誰かが到着すると、天国にいる人を集めて、
「お~い、みんな~、めっちが来たよ!この子が、私の話していためっちなんだ。
地上ではね~私のためにこんなことをしてくれたんだよ。皆で待っていたんだよ!
さあこっちにおいで~」って神様が言ってくれるんだって!

そういうイメージなんだって。


私の後輩を天国に送って、改めてこの讃美の意味を考えていた。
この後輩は、自分の天国に行く式を、神様を伝えるチャンスにしたいと言っていた

今、日本の教会で準備されているお別れの式では、
彼がどん底の生活から神様に従う日々に帰ってきたことを証しした礼拝説教の
DVDを配布したり、彼が作詞した歌を、式の中で披露する予定で、準備が行なわれているそうだ。

私が、この大好きな讃美歌を思うとき、何か自分が苦しかったけどがんばっていた
ことや、神様に知って欲しいと思っていることが、ちゃんと覚えられていて嬉しい
っていうような、勝手な希望を持って歌って喜んでいた感じも、今はする。

神様は、私が従えなかった時も、神様から遠く離れていた時にも、神様に恥ずかしく
お見せできない姿でさえも、知っていてくださる。

神様の前に、全てが知られている私の人生。
そして、私の後輩がしてきた証しは、その、神様に知られている人生を、
神様の目から見た視点で公開することだった。

私の韓国での知り合いに、もとホームレスのお兄ちゃんがいる。
彼をその生活から救出したのは、ある撮影事務所に所属する撮影スタッフ達だ。

彼が、地下鉄の駅で物乞いをしている姿から、今の生活になるまでの全ての様子を
フィルムにとって、彼の尊い命が、神様に守られて愛されている事が映像になって
今、公開されている。

今日、私が読んだ聖書はルカ20:41~47だったのだが、
地上で立派に思われる事や、人の尊敬を受けるという事は
まったく小さな事だと思った。

ある人たちには聖人などと言われている人たちが聖書にはいるけれど、
神様とイエス様の前に、ダビデも、エレミヤも、モーセも同じようにいる中に、
私たちも名前を呼ばれて入っていくんだ。
彼らは聖人などという称号を持つ事を全く望んでない。

私たちは、名前と、全てを神様に知られている喜びをもって、この地上を歩くだけだ。
今日も、歩いていこう!

会いたい。

2007-03-21 07:44:02 | 波乱万丈めっちの人生
昨日は、私の後輩の旅立ちの日になりました。

私の日本の教会で一緒だった後輩が、昨日がんのために天国に行ったのです。
その子と私は、長い間、一緒の教会で信仰生活をしました。
私が22歳の時に教会の中にある弟子訓練センターで訓練を受けた時には、同期の仲間として生活の多くの時間を一緒に過ごし、食事をしたり、短期宣教に出かけたりしました。
思い出いっぱいのいとしい仲間です。

彼のことを、以前に一度、教会の小グループの分かち合いで話しました。
私たちの弱さに働かれる主という題での説教の分かち合いでした。
その子は、マジメな子ではありませんでした。
ぐれて、事件を起こしたり、お母さんが学校に呼び出されたり、ということは日常茶飯事でした。
がんであることが分かってから、彼は再度、神様のもとに帰ってきました。
弱さが、たくさんありましたが、病と痛みの中で主に従い続ける強さと、その中で力強く神様を証しして、多くの人を救いに導きました。
そして、主を証しして昨日までの日々を過ごしました。

韓国の皆は、彼のことを聞いて、祈ってくれました。
そして、彼を通して大きな感動を受けていました。
私の知っているほんのわずかな彼の人生を通して、多くの人が主にある感動を得ていました。

先週になってから、彼の容態が悪くなった連絡を受けて、韓国のホームページに祈りの要請を出していましたが、その文章を仲間が、祈祷会の掲示板に移動してくれて、もっと多くの人が祈れるようにしてくれました。

そしてまもなく、彼は天国に行きました。

韓国でも日本でも、そして私の知らない全ての人たちの祈りの中で・・・。

愛する友達の旅立ちでした。
そして、彼の伝道はまだまだ続くと思っています。
私が語り継ぐ限り、彼に起こった神様のみ業を通して、もっともっと多くの人が、命を得て、力を得て、励ましを受けます。

本当に今、彼に会いたい。
ちょっと時間が多く経ったその後に・・・。会える時間がちょっと先になっただけだと思える、天の希望を感謝しつつ、愛するコウジを見送りたいと思います。

私の誇りとする仲間の命を通して、多くの人々が新しい命を受け取ることを願います。

コソって何だよ!?

2007-03-19 08:58:20 | 神学校
神学校に入学して2週間が経ちました。
素晴らしくめぐみを受ける授業もあれば、「は?」って感じのものもある。

特に・・・組織神学!?これ何なの?
わけの分からない世界の話を、わけの分からない言語で聞いている私にとって、
霧の中にいる2時間は苦痛です。

前々回は先生の声が小さく、何を言っているのかよくわからず、イライラ。
前回は、どうも、世界の全ては、人が「認識した」その時、すでに過去になっていると言う話しをしているようだった。この主題が分かるだけでもまだましだ。
私は、こういう哲学的な話、世界観にはもともと興味がある。面白いです。

大学の時に、勉強していた中国哲学では、こんな話があった。
「庭にある、竹を竹たらしめている理は何か!彼はこれを庭の前で数十日考えた末に、陰陽五行により、世界を世界たらしめている理を見出した」
など…^^;
どんな理なんだ?
でも、こういう「人」の思考回路に非常に興味を持ちます。

そして、人の作り出す哲学の全てにまさるのは、それら全てを創造した神様の言葉、聖書の世界観だと私は信じるわけなのです。

とにもかくにも、、、
その組織神学の授業の中で先生が何度も「コソ」「コソ」って言うわけなのよ。
そんな単語知らないけどな~。
電子辞書であてずっぽうのつづりで引いてみると
『「居所」住んでいる場所』
という単語がある。これか?これか?これなのか?

非常にイライラして授業を終えた後、となりにいた子に聞いてみた。
「コソって何なの?」
「コンピューター使うときに、ちかちか点滅してるやつあるでしょ、あれだよ」
「はぁ?・・・」

その会話を聞いていた、前の席の女性が振り返ってもう一度同じ事を丁寧に教えてくれた。それでも何のことなのか理解しない私に、電子辞書を開けて、点滅している「カーソル」を見せて「コソ、これが、コソです」って言うじゃありませんか。

ひえ~「カーソル」(日本語)→「コソ」(韓国語)か!

そのコソが点滅している時に、人間が入力しようと意思を働かせて入力する事が同時に行なわれているように思うけれど、思考して、入力と言う行動するまでの時間に、すでに過去になってしまってます、という話だったらしい。

分かりやすい例だと思って、先生はお話なさったんだろうけれど、
私には肝心のコソがわかりませんでしたとさ。

今週も・・・ファイト~・・・ひぃひぃ
ブログ引っ越しましたけど、変わらずコメントしてね~。


神の国のうわさ

2007-03-15 09:28:58 | クリスチャンとしての私
ルカの福音書17章に、神の国に関する記事がある。
20;神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに訪ねられた時、
イエスは答えて言われた。神の国は、人の目で認められるようにして
くるものではありません。・・・
21;神の国はあなたがたのただ中にあるのです。

先週から私は神の国を時々体験している。
ほんとうには、いつも体験しているんだと思うけれど、
あなたがたのただ中にある、というみ言葉を読めば、
複数の人の集まりの中に、あるのかもしれないとも
思っている。

先週、教会のお兄さんと天国のうわさをした。
「ここにある」「あそこにる」と言っても惑わされてはいけない、
と聖書に書かれているように、私たちはそんな話をしたわけではない。

天国に行って、イエス様を見たら、どんな気持ちがするかということを
二人で話していたのです。
「めぐみは、走っていくとおもうな~イエス様~きゃ~って」
「僕は、もしかしたら、もっと主のために何かをしたかったと思って
恥ずかしい思いをしているかと思うよ…」
いろんな天国イメージがある。
そして、彼は言う。
「走っていく人もそうでない人にも、イエス様はそばに来て、うつむいて
いる人がいたら、背中に手を置いて名を呼んで話しかけてくれると思うよ。」
と言っていた。

天国を想像するだけで、イエス様の姿を想像しただけで、涙が出るくらい
「懐かしい」っていうのは変だけど、「恋しい」?どんな日本語がいいかな。
分からないくらい、心が動く。
そして、そんな話をして、心を動かしている私たちの中には、同じ天を
待ち望む期待とともに、同じ神様の子供として生きている平安や、幸せが
満ちていて、そこに天国があるかのようだった。
涙がでるね。。。
場所は、韓国食堂でしたが。

今週の月曜日は、別の友達に会った。
彼らは、木曜日に一緒にお祈り会をしているメンバーだ。
一緒に長野にも行った。
松代大本営も一緒に見た仲間だ。

痛めつけられた韓国、朝鮮の方たちの苦しみを見て、そのうえで、神様の
前に、和解の祈り、赦しの祈りをしてくれたみ言葉に従う、神に忠実な
大切な友人たち。
その時も、私は涙が止まらなかった。
赦しと和解が必要だと思っていたけれど、目の前にある松代大本営には、
当時連行されてきた人たちの悲しみや涙が詰まっていて、自分はいっしょに
行った皆とは違う国のもので、皆を傷つけた側のものだと、実感していた。
ところが、皆は、祈ってくれた・・・。

そして、
月曜日彼らと会った時に、ある兄弟がこういうのだ。
「まず、韓国が日本に謝罪しなければいけない」
なんだ?それは。
韓国が謝る何があると言うのか。松代まで行ってそれを見た上での言葉とは
思えなかった。

「韓国には、赦しなさい、和解しなさいという聖書の言葉を聞いている
クリスチャンがたくさんいるのだから、イエス様の言葉に従順に従う事は
クリスチャンとして当たり前なのだ。
しかも、日本時代に抑圧された韓国の歴史ある教会には、むしろ一般の人より
もっともっと、日本への憎しみがあるんだよ。今まで憎んでいたことを
ごめんなさいと謝らなければいけないんだ!聖書に従うのは、当然だからね」
驚くべき言葉だった。
聖書に従順になるってここまでなのか。

そこでも、涙が出た。
場所は、コーヒーショップだったけれど、神様の国を体験した。

彼も言っていた。
神の国はここにあるんだよって。
僕らが和解をすることを見れば、世界中が驚くよ。
世界中が日本と韓国の間にある、神の国をみたら、世界中が、復興するよ。

神様の国は、あっちにあるとか、ここにあるとかまどわされない代わり、
今日も私がみ言葉に従順になれば、「ここ」にあるんだ。
私と話す人との間に、神様の国が体験されるように、なりたい。

こんな、からし種のような小さな人の心に、聖書への従順がもたらす
神の国。


ブログ引越し

2007-03-14 11:49:07 | クリスチャンとしての私
今まで会員制でつづってきたブログを、
こちらに移動しています。

韓国人のお友達や、日本を離れてミクシーとは縁遠く
なってしまっている人たちにも読んでもらえるように
リンクさせました!

今までつづってきたものでこちらに移動したいものを
お引越しさせています。

今後とも・・・どうぞよろしくおねがいします!

そしたら父の愛を知ってみよう

2007-03-14 11:06:12 | クリスチャンとしての私
前回の記事に引き続き。

お父さんの心が分からない私だと自覚して以来、
じゃあ、お父さん(天のお父さん、神様)の心を知るように
祈ってみようと思いはじめた。

「お父さんあなたの心を教えてください。」
「お父さん、あなたは何を願っておられるんですか?」

私は、本当にこの祈りで変わった気がする。

たとえば、ある祈っている事がある。

現状をどう変えたいか。
めぐみが、「こう変えたい」と思っていること以上に、
神様が「どんな結果を望んでいらっしゃるか」を中心に
考えるようになった。
めぐみが、ある感情に支配されている時、自分の感情に
従うよりも、神様が何を望んでいるかを思うようになった。

全て疲れた人、重荷を負っている人は私のもとにきて休みなさい。マタイ11;28

神様のもとで休んで、立ち上がるとき、神様は
「ここにその重荷を置いていきなさい」と語られる。
私の重荷。
重荷なのに、手放したくないと思っていることが無いだろうか?

ある一つのことにとらわれて、身動きもできない状態。
人を憎むこと。
羨ましく思うこと。
愛されたいと、必要以上に熱望して満たされない心にあえぐ事。
自分をさげすむ自己卑下。
私の希望が叶えられない不満
考えてみると、全部自分中心だ。
そういういろんな心の動きや感情を「置きなさい」って言っているんじゃないだろうか?


ところで
人には色んな心の傷があって、人が聞けば、
「もっともだよ、その気持ち、分かる分かる」
って言うようなこともたくさんある。
そして、ある時期、そんな対応がとても心を潤して、そんな癒しも必要だ。

しかし、神様の心は、私たちの当たり前の心の動きをしない。
私はこれが知りたいのです。
罪のある人のために、イエス様を十字架につけたこと。
完全に天と切り離された地獄を、自らが代わって体験されたイエス様。
去っていった弟子達を、そうと知って、選んで愛してくれたイエス様。
復活して、漁にもどっていた弟子達に、朝の食事の準備をしてくださったイエス様。その朝、テベリヤ湖の朝の光はどれだけ麗しかったんだろう?

放蕩息子の例話も、誰もが、放蕩してもどってきた弟に対し、
マジメに父に仕えてきた兄が面白くない思いを抱いたことを、
理解するだろう。
誰もが抱くだろう、当たり前の感情。
兄を主人公にすれば、当たり前のお話なのだ。

でも、それが人を疲れさせていないだろうか?
自分中心な私の生き方は、私を疲れさせる。

父の心を知ろうと祈ることから
私の重荷は軽くなっていく。

祈りによって、
父と一緒に、放蕩の弟を喜んで迎えられる心を持つ事に
近づけられていくように思う。

お父さん、あなたは、想像を超えた方です。
見えない神様をお父さんと呼んで礼拝している私を、
可笑しいと思う人がいるかもしれない。
でも、聖書のみ言葉って、知れば知るほど、私たちの命があって、
力があって、能力がある。
そして、愛がある。