metch Happy days

クリスチャンで、韓国で神学を学んでいるめっちの毎日の成長をつづるブログ

ユーワク・「誘枠」

2006-02-05 19:36:34 | クリスチャンとしての私
十字架がとてもリアルに感じた今日の礼拝。。。

なんでだろう?
今日の礼拝メッセージはテーマ「仕える」でした。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。自分の命を救おうと思うものはみな、それを失い、私のために自分の命を失うものはそれを救うのです。」ルカ9:23

自分を捨てるって、すごく厳しいことのように感じる。
だけど、思ってみれば、
○自分を守らなくちゃ!という努力から解放されることであり、
○人(自分も含む)からの評価にとらわれなくてよくなることであり、
○人との比較の中に相対的な位置関係をいつも意識しなくてもよくなることでもあり、
○永遠の価値観に生きる入り口
みたいな感じに思わされた。

昨日大学時代の友人に会いました。部活の時の同窓で、来月結婚するそうです。同学年で嫁に行ってない女の子は私ともう一人だけになりました。
そういうことをものすごーーーく気にする人もいる。
私のほうが先ね~とか、入籍だけはあの子より早く!とかね、そういうことまであったんだって。私は全然知らなかったけどさ。
でも、結婚した仲間の中には、それが元で悩んでいる子だっている。

あぁ、どうしたらその枠組みから人を解放することができるんだろう?

神様の計画とか、自分自身を神様にささげることや、自分の期待通りにいかなくてももっともっと素晴らしい結果が生み出されることに命をかけた期待を持てること、こんな命の法則、生きる柱って神様がいなければ、持てないよ。。。

だけどさ、クリスチャンでもそういう世の中の枠が「はめよう」として自分に迫ってくることを感じるときがある。結婚のことだけじゃなくて、それは、色々なこと。

「はめよう」として枠がこっちに来るとき、それに全く動かされなかったわけじゃない。
今でも簡単に「はめるぞ」の枠に「はまっちゃった方が楽?」って思ってしまいそうな誘惑に弱い自分がいる。
こんな私が「献身者」だなんて。
こんな私が「宣教の心を神様にもらってるんです」なんて…。

ふさわしく整えられたいと思う一方、「その枠、脱ぎ捨てようよ、もっと素晴らしいことのために君を呼んだんだからさ」ってイエス様が待っていてくれるのを感じました。

「神様、私は弱くて、罪が大きくて…不安になるんです。どこまで私を赦してもらえますか?」
「7度までなどとはわたしは言いません。7度を700倍するまでといいます。(マタイ18)」

イエス様の人生が走馬灯のように頭を横切った。
石打ちになるべき女の人に赦しを与えたイエス様。とか、
渡される夜、パンを裂き「これはあなた方の罪のために与えるわたしのからだです」…

そして、自分の心に思い浮かんだ十字架。
その丘の土の色、生えてる草の緑や、空の青さ、流れる雲、吹き渡る風の音。
それはイエス様の十字架の前にも後にも、今も、同じ。

自然がいつもかわらないように、至極自然に「枠」があって、動かしがたいように見えるのだ。
「君を安心させるために、これ、用意したんだぜ」と言って、聖書と全然違う価値観で物事の判断をさせようとするその「枠」。

その中にいるときはその枠の外の世界があるなんて、そんな価値観があるなんて思ってもみなくて、出てみようとも思えないもの。
でも、それが確かにある。
枠の外に命。
何も無いところに道を作るように、罪のある人間に完全な赦しを与えてくださったイエス様の十字架。

追いかけてくる「枠」に「NO」を言えるようになるってことが、十字架の力なんだ。

人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。マタイ16:26