以下の引用は、「交易による利益」における引用が前提になっています。
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.75 )
ここに、生産性フロンティアとは、生産性を最大にする限界領域、すなわち「交易による利益」の「図3-2」で示されたグラフ上の「点の集合」です。
引用を続けますが、その前に、次の引用で出てくる「表3-3」を先に示します。
表3-3 牛肉とジャガイモの機会費用
牛肉1オンス ジャガイモ1オンス
農夫 ジャガイモ4オンス 牛肉1/4オンス
牛飼 ジャガイモ2オンス 牛肉1/2オンス
同 ( p.77 )
結局、絶対優位とは生産性の比較であり、比較優位とは機会費用の比較であることになります。そして絶対優位とは異なり、比較優位については「一人で両方の財に比較優位をもつことは不可能」なので、必ず「交易 (取引) はすべての人々をより豊かにする」ということになります。
しかしここで、ひとつ、疑問が出てきます。「交易による利益」で著者があげていた例では、たしかに農夫は「ジャガイモ作りに特化していた」のですが、牛飼は「牛とジャガイモの両方を作っていた」のは「なぜ」でしょうか? これは「たまたま」なのでしょうか? それとも場合によっては、「どちらか片方が、両方を作る」ことも必要(=必然)なのでしょうか?
この疑問に答えるために、著者のあげた例をもとに、「どちらも機会費用の小さい財の生産に特化する」場合の(総)生産量を計算してみます。この計算結果と著者のあげた例の(総)生産量とを比較し、もし著者のあげた例の(総)生産量のほうが多ければ、「どちらか片方が、両方を作る」ことも必要であるということになります。
農夫はジャガイモばかり作ると、
ジャガイモを32オンス作れる
牛飼は牛肉ばかり作ると、
牛肉を24オンス作れるので、
合計 = ジャガイモ32オンス + 牛肉24オンス
です。これに対して、著者があげていた例における(総)生産量は
農夫はジャガイモばかり作って32オンス
牛飼はジャガイモを2時間作って12オンス、
牛肉を6時間作って18オンス
合計 = ジャガイモ44オンス + 牛肉18オンス
です。
さて。困りました。この結果は、「どちらもともに、比較優位をもつ財の生産に特化すれば、かえって生産量が減ってしまう財がある」ことを示しています。言い換えれば、「誰もが自分にとって機会費用の小さい財の生産に特化すれば、かえって生産量が減ってしまう財がある」ということです。
これはどう考えればよいのでしょうか? この結果が意味しているものは「どちらか片方が、両方を作る」ことが必要である「場合もありうる」ということではないでしょうか? そして、(上記の例で)牛肉合計24オンスというのは「財が余る」=「売れ残る」場合に対応しているのではないでしょうか?
もちろん今回の例とは異なり、現実の社会には多数の人間がいるわけですが、それでも、
社会のなかの誰かは、
自分にとって機会費用の大きい財の生産「も」
行わなければならない「場合もありうる」
ことには変わりないと思います。
以上をまとめれば、
たしかに比較優位の原理は重要であるが、
比較優位の原理は万能ではない
ということになります。
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.75 )
牛飼による交易の利益の説明は正しいものではあるが、つぎのような謎が浮かんでくる。牛飼のほうが牛の飼育においてもジャガイモの栽培においても優れているのに、農夫の特化すべき得意な作業がどうやってわかるのだろうか。農夫には特化すべき得意な作業がどうやってわかるのだろうか。農夫には特化すべき得意な作業は何もないようにみえる。この謎を解決するためには、比較優位の原理を検討する必要がある。
この原理を解明していく第1段階として、つぎのような質問を考えよう。われわれの例において、牛飼と農夫のどちらがジャガイモをより低い費用で生産することができるだろうか。この問題には二つの回答が可能である。われわれの謎の解決も、交易の利益の理解への鍵も、この二つの回答のなかに含まれている。
★絶対優位
ジャガイモの生産費用に関する問題への一つの回答方法は、2人の生産者が必要とする投入(この例では労働時間)を比較することである。経済学者は、人や企業や国の生産性を互いに比較するときに、絶対優位という用語を使う。ある財を生産するときに、より少ない投入量しか必要としない生産者は、その財の生産に関して絶対優位をもっているという。
われわれの例では、牛飼はジャガイモと牛肉の両方の生産に関して絶対優位をもっている。牛飼はどちらの財を生産するのも、農夫ほどの時間がかからないからである。牛飼はたった20分間で1オンスの牛肉をつくることができるが、農夫は60分間かかる。牛飼はたった10分間で1オンスのジャガイモをつくることができるが、農夫は15分間かかる。この情報に基づいて考えれば、投入物で費用を測る限り、牛飼のほうがジャガイモの生産費用が低いという結論になる。
★機会費用と比較優位
ジャガイモの生産費用を吟味するには、もう一つの方法がある。必要な投入量を比較する代わりに、機会費用を比較するのである。第1章でみたように、あるものの機会費用とは、そのものを獲得するために放棄したもののことである。われわれの例では、農夫と牛飼はともに1日に8時間働くと仮定していた。したがって、ジャガイモの栽培に時間を使った分、牛の飼育に使える時間が減っているのである。牛飼と農夫が2財の生産の時間配分を変更するたびに、彼らは自分たちの生産可能性フロンティア上を移動する。つまり、一方の財を生産するために、もう一方の財を放棄しているのである。ここでの機会費用は、それぞれが直面している、2財の間のトレードオフを測ることになる。
ここに、生産性フロンティアとは、生産性を最大にする限界領域、すなわち「交易による利益」の「図3-2」で示されたグラフ上の「点の集合」です。
引用を続けますが、その前に、次の引用で出てくる「表3-3」を先に示します。
表3-3 牛肉とジャガイモの機会費用
牛肉1オンス ジャガイモ1オンス
農夫 ジャガイモ4オンス 牛肉1/4オンス
牛飼 ジャガイモ2オンス 牛肉1/2オンス
同 ( p.77 )
表3-3は、2人の生産者の牛肉とジャガイモの機会費用を示している。牛肉の機会費用がジャガイモの機会費用の逆数になっていることに注意しよう。牛飼にとって、ジャガイモ1オンスは牛肉1/2オンスを失うことになるから、牛飼にとっての牛肉1オンスの費用は、ジャガイモ2オンスになる。同様に、農夫にとって、ジャガイモ1オンスは牛肉1/4オンスを失うことになるから、農夫にとっての牛肉1オンスの費用はジャガイモ4オンスである。
経済学者は、2人の生産者の機会費用を説明するときに、比較優位という専門用語を使う。ある財Xを生産するのに他の財を少ししか放棄しない生産者は、その財Xの生産における機会費用が小さいことになり、その財Xの生産に関して比較優位をもつという。…(中略)…農夫はジャガイモの生産に比較優位をもち、牛飼は牛肉の生産に比較優位をもっている。
(われわれの例における牛飼のように)一方の人が両方の財に対して絶対優位をもつことはできるが、一人で両方の財に比較優位をもつことは不可能である。一つの財の機会費用はもう一つの財の機会費用と逆数の関係にあるので、一つの財の機会費用が相対的に高い人は、必ずもう一つの財に関して相対的に低い機会費用をもつ。比較優位は相対的な機会費用を反映している。2人がまったく同じ機会費用をもっていない限り、1人が一つの財に比較優位をもち、もう1人がもう一つの財に比較優位をもつことになる。
結局、絶対優位とは生産性の比較であり、比較優位とは機会費用の比較であることになります。そして絶対優位とは異なり、比較優位については「一人で両方の財に比較優位をもつことは不可能」なので、必ず「交易 (取引) はすべての人々をより豊かにする」ということになります。
しかしここで、ひとつ、疑問が出てきます。「交易による利益」で著者があげていた例では、たしかに農夫は「ジャガイモ作りに特化していた」のですが、牛飼は「牛とジャガイモの両方を作っていた」のは「なぜ」でしょうか? これは「たまたま」なのでしょうか? それとも場合によっては、「どちらか片方が、両方を作る」ことも必要(=必然)なのでしょうか?
この疑問に答えるために、著者のあげた例をもとに、「どちらも機会費用の小さい財の生産に特化する」場合の(総)生産量を計算してみます。この計算結果と著者のあげた例の(総)生産量とを比較し、もし著者のあげた例の(総)生産量のほうが多ければ、「どちらか片方が、両方を作る」ことも必要であるということになります。
農夫はジャガイモばかり作ると、
ジャガイモを32オンス作れる
牛飼は牛肉ばかり作ると、
牛肉を24オンス作れるので、
合計 = ジャガイモ32オンス + 牛肉24オンス
です。これに対して、著者があげていた例における(総)生産量は
農夫はジャガイモばかり作って32オンス
牛飼はジャガイモを2時間作って12オンス、
牛肉を6時間作って18オンス
合計 = ジャガイモ44オンス + 牛肉18オンス
です。
さて。困りました。この結果は、「どちらもともに、比較優位をもつ財の生産に特化すれば、かえって生産量が減ってしまう財がある」ことを示しています。言い換えれば、「誰もが自分にとって機会費用の小さい財の生産に特化すれば、かえって生産量が減ってしまう財がある」ということです。
これはどう考えればよいのでしょうか? この結果が意味しているものは「どちらか片方が、両方を作る」ことが必要である「場合もありうる」ということではないでしょうか? そして、(上記の例で)牛肉合計24オンスというのは「財が余る」=「売れ残る」場合に対応しているのではないでしょうか?
もちろん今回の例とは異なり、現実の社会には多数の人間がいるわけですが、それでも、
社会のなかの誰かは、
自分にとって機会費用の大きい財の生産「も」
行わなければならない「場合もありうる」
ことには変わりないと思います。
以上をまとめれば、
たしかに比較優位の原理は重要であるが、
比較優位の原理は万能ではない
ということになります。