普段はサッカーなど全く見ない人なのですが、今回のワールドカップはコロンビア戦、ポーランド戦と、放送時間が良かったこともあり、たまたまですが見てしまいました。
ポーランド戦の最後の玉回し(?)について色々といわれていますが、私自身は試合観戦中にあのプレーを見た瞬間に
と、興奮状態になりました。頭で考えてどうこうではなく単純に、まずは実際にそういう感情を抱きました。こんな思い切った作戦ができる国になったんだ、という思いでしたね。美しいことなのか云々という”べき論”を頭で考える以前に、なにも考えず直感的にそういう感情になりました。なので、あのシーン自体も”面白かった”です。
あの作戦自体について論じることはここでの目的ではありません。私みたいなニワカがそんな事を言っても意味ないでしょうから。私自身の感想は、”とにかく決勝トーナメントに進めてよかった”です。
で、今回私が記事に書きたいことは何かというと、ああいうプレー(作戦)を肯定するか否定するかということについて、人は、完全に理性や論理に基づいて自分の意見を述べているように一見みえるんだけど、実はなかなかそうはできていないんじゃないか?ということです。何故かというと、自分自身の中に”矛盾”を見つけてしまったからです。
今回のポーランド戦の作戦について、私自身は完全に肯定派なのですが(否定派の人を否定したり争うつもりはないです。私は肯定するというだけ)、92年の松井の「五打席連続敬遠」については否定派で、よく考えてみるとこれって自分の中で矛盾してるなーって思うんです。
今回のサッカーの方は何故肯定するかというと、”予選突破という一番大事な目標を最も高い確率で達成できる作戦だから”です。そういう風に論理的に判断したつもりで、肯定するにきまってんじゃん、と思っているのです。
でもよく考えてみると、松井の五打席連続敬遠の方も、対戦高校にとってみれば”勝つという一番大事な目標を最も(ではないかもしれないが)高い確率で達成できる作戦”のはずです。だとすると、同じ論理を通すのならこちらも肯定派にならないとオカシイわけです。でも、実際には自分としてはこちらは納得していません。”勝負しろよー”って思ってしまうのです。これって、明らかに矛盾ですよね。
この矛盾ってどこから生じているのだろうと考えてみると、何のことはない、
だけなんです。サッカーの場合は同じ日本国民として、完全にそのチームを応援する立場で考えている。別にW杯全体の盛り上がりとか、負けたセネガルの立場とか、そういうことよりも、自分達の日本がどうなるか(あるいはどういう戦いをしてくれるか)という、日本の事しか考えていない立場(勝つか勝たないかだけでなく、格好いい戦い方をしてくれるかどうかも含めて、日本の事しか考えていない、という意味です)で物を言っているのです。
でも上の高校野球の例では、別に自分は石川県民でも高知県民でもないので、どちらかのチームの側からだけの目線で見ているわけではない。そこの立場が決定的に違う。立場が違うと同じ論理でも通用したりしなかったりする。
人が振りかざす”一見論理的なもの”なんて所詮その程度のものかもしれない、ということが言いたいのでした。置かれた立場、責任の有無、どちらを応援するかの立場、大会全体を見ているか自分の国の事だけみてるか、色々な人が、意識するしないは別として色々な立場や目線で物を言っているのですから、色々な意見があって当たり前だと思います。むしろ、日本全体で意見が一つに統一されてしまったら、その方がよっぽど気持ち悪いのではないでしょうか。
ポーランド戦の最後の玉回し(?)について色々といわれていますが、私自身は試合観戦中にあのプレーを見た瞬間に
日本すげぇ
と、興奮状態になりました。頭で考えてどうこうではなく単純に、まずは実際にそういう感情を抱きました。こんな思い切った作戦ができる国になったんだ、という思いでしたね。美しいことなのか云々という”べき論”を頭で考える以前に、なにも考えず直感的にそういう感情になりました。なので、あのシーン自体も”面白かった”です。
あの作戦自体について論じることはここでの目的ではありません。私みたいなニワカがそんな事を言っても意味ないでしょうから。私自身の感想は、”とにかく決勝トーナメントに進めてよかった”です。
で、今回私が記事に書きたいことは何かというと、ああいうプレー(作戦)を肯定するか否定するかということについて、人は、完全に理性や論理に基づいて自分の意見を述べているように一見みえるんだけど、実はなかなかそうはできていないんじゃないか?ということです。何故かというと、自分自身の中に”矛盾”を見つけてしまったからです。
今回のポーランド戦の作戦について、私自身は完全に肯定派なのですが(否定派の人を否定したり争うつもりはないです。私は肯定するというだけ)、92年の松井の「五打席連続敬遠」については否定派で、よく考えてみるとこれって自分の中で矛盾してるなーって思うんです。
今回のサッカーの方は何故肯定するかというと、”予選突破という一番大事な目標を最も高い確率で達成できる作戦だから”です。そういう風に論理的に判断したつもりで、肯定するにきまってんじゃん、と思っているのです。
でもよく考えてみると、松井の五打席連続敬遠の方も、対戦高校にとってみれば”勝つという一番大事な目標を最も(ではないかもしれないが)高い確率で達成できる作戦”のはずです。だとすると、同じ論理を通すのならこちらも肯定派にならないとオカシイわけです。でも、実際には自分としてはこちらは納得していません。”勝負しろよー”って思ってしまうのです。これって、明らかに矛盾ですよね。
この矛盾ってどこから生じているのだろうと考えてみると、何のことはない、
どの立場から観戦しているかの違い
だけなんです。サッカーの場合は同じ日本国民として、完全にそのチームを応援する立場で考えている。別にW杯全体の盛り上がりとか、負けたセネガルの立場とか、そういうことよりも、自分達の日本がどうなるか(あるいはどういう戦いをしてくれるか)という、日本の事しか考えていない立場(勝つか勝たないかだけでなく、格好いい戦い方をしてくれるかどうかも含めて、日本の事しか考えていない、という意味です)で物を言っているのです。
でも上の高校野球の例では、別に自分は石川県民でも高知県民でもないので、どちらかのチームの側からだけの目線で見ているわけではない。そこの立場が決定的に違う。立場が違うと同じ論理でも通用したりしなかったりする。
人が振りかざす”一見論理的なもの”なんて所詮その程度のものかもしれない、ということが言いたいのでした。置かれた立場、責任の有無、どちらを応援するかの立場、大会全体を見ているか自分の国の事だけみてるか、色々な人が、意識するしないは別として色々な立場や目線で物を言っているのですから、色々な意見があって当たり前だと思います。むしろ、日本全体で意見が一つに統一されてしまったら、その方がよっぽど気持ち悪いのではないでしょうか。