英語・ダイエット・その他徒然なるままに

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”勉強が楽しい”では困る

2015年08月29日 11時51分52秒 | 日記
前回、私は大学でも勉強ばかりしていたと書きました。もちろん、親のスネかじりの分際でサークルやコンパに明け暮れるよりは全然ましだと思うのですが(全否定はしていませんよ)、大人になってから思うに、”楽しい”勉強ばかりしていてもダメなんですよね。

「勉強が楽しい」自分の子供がもしこんな事を口走ったとしたら、普通の親なら大喜びするでしょう。もちろん悪いことではありません。しかし、まあ真の学問や実学に足を踏み入れつつある20歳くらいの学生ならともかく、小・中・高校生くらいの子供がこういう事を言い出したなら、私は要注意だと思っています。そういう子は受験は上手くいくかもしれませんが、本当の意味での成功者、勤勉な人間、要するに本当の意味での立派な大人には成れないかもしれないな、と思うからです。はい、ちっとも”本当の意味での立派な大人”でない私が言うのもなんですが。

なぜこんな事を言うのか。一言でいえば、”勉強なんて人が与えてくれる知識を吸収するだけの受け身に過ぎないから”です。特に受験勉強なんて、ただの知識&演算ゲームです。東大入試だって本質的にはそうです。考える力を試す良問とか何とか言ったところで、その”どう考えるか”をプロに仕込まれているのだから、同じ事です。

こんな受け身の暗記ゲームを”楽しい”なんて口走る子、危険でしょ?自分では何も生み出さず、深く考えることもせず、異論反論を唱えることもせず、人から覚えろと言われたことを何の疑問もなくひたすらその通りに吸収するだけ。こんなにラクな営みは世の中どこを探しても他には無いでしょう。もう既にラクをする事に慣れてしまい、人が色々与えてくれるのを当然だと思うようになってしまっているのです。

そして、一流大学に受かった日にゃ、”俺は難関を突破した選ばれし者なのだから、これからもいい思いをし続ける権利があるのだ”という思想に染まっていく。”いや、僕はそんな傲慢なことは考えていない”と多くの人は言うでしょうけど、深層心理ではそう思っているはずです。卒業が近づいてくるといわゆる”エリート企業”と呼ばれる所に群がっていくのが何よりの証拠です。

別にいいんですけどね。ただ、”人間の評価はインプットではなくアウトプットで決まる”という事は、分かっておいてほしい。そして、インプットの善し悪しとアウトプットの量は残念ながら相関関係にはない、という事も分かっておいてほしい。そんな事はないでしょ、沢山勉強してきた人の方が良いアウトプットができる可能性が高いでしょ、と言う人が多いと思いますが、たかだか大学卒業までの”学問モドキ”など、大した意味はありません。本当の勉強は大学院かそれより上の学問レベル、あるいは、職業レベルにおいてなされるものです。

そして、そのレベルにおいてなされる本当の勉強は、実は”楽しい”なんて言葉が吐けるほど生易しいモノではありません。いよいよ才能の有無が問われてきますし、何より、誰も手取り足取り教えてはくれません。そりゃそうです。職業人として人にモノを教えるということは、自分の食い扶持を奪われることを意味するのですから。そして、評価は”アウトプットの質”でなされる。こうなってくると、あんなに好きだったはずのお勉強がとてつもなく苦痛で辛いモノになってくる、と多くの人が感じるようになっていきます。このレベルになってでもまだ”楽しい”と思える人、がむしゃらにやれる人、自分の力だけで進んで行ける人のみが、真のプロフェッショナルになれるのです。受験生時代に受け身に慣れきっていた人が、こんな厳しい世界を自分の足だけで歩いていけるハズがありません。

これは学問の世界の話だけではありません。企業に就職した場合でも、茨の道が待ち受けていることは本質的には同じです。長くなるので簡単にまとめますが、私は、社会に出てから強く歩いていけるかどうかを決定づける最大の要因は、”理不尽な事に耐える力があるかどうか”だと思っています。社会に出たら本当に理不尽だらけ。平等とか公平なんて事を真剣にやってたらコストが掛かって仕方ないですからね。理不尽というモノが一切存在しない学生時代の空気に染まりきっている人は、免疫が無いからここで潰れていく。

昔、”わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい”というCMがありましたが、”知識も身につけて、かつ、たくましく育つ”くらいで無いといけないのです。人から与えられているだけのお勉強が楽しいなんてぬかす子は、人が与えてくれなくなったらオシマイです。