
【老子哲学は「所詮、物事は相対的」】5183
精神科医、野村総一郎氏の心に響く言葉より…
「美しい、醜い」「正しい、正しくない」 「勉強ができる、できない」「地位が高い、低い」など、 どれも他人がいてはじめて成立する相対的な価値であって、たいしたことはない。
なぜなら、状況が変わったり、 運気が変わったりすれば、 あっさりと変化してしまうものだからだ。
昔から聖人と呼ばれる人は、そのような世俗の価値観にとらわれて、 焦ったり、何かを企てたりせず、あえて 「何もしない」という立場に身を置き、 余計な言葉や概念を振り回したりしない。(老子)
老子哲学のなかでも重要な概念の一つが「所詮、物事は相対的」というものです。
相対的というのは、他との関係、比較において成り立っている様子をさします。
たとえば、「Aさんは勉強もできて美人で人気もあるのに、それと比べて私は全然ダメ」といったように、自分の価値を他人との比較で決めてしまうということです。
たしかに多くの人にとって「勉強ができること」「人気があること」「仕事ができること」「お金を持っていること」「社会的地位が高いこと」は、とかく「価値が高い」と思われがちです。
しかし、所詮はすべて相対的で、一時的なもの。
じつは、そんなに大騒ぎするほどのことではありません。
ある町で「神童」と呼ばれていた人だって、東大やハーバード大という環境に行けば、落ちこぼれにだってなりかねないのです。
美人という尺度にしたって、時代や流行によって変わってしまうもので、絶対的、永続的なものではありません。
奈良時代、平安時代には下ぶくれのおちょぼ 口が美人の条件とされたのは有名な話ですし、化粧にしたって、顔を真っ白に塗りたくるのが美しい時代もあれば、歯を真っ黒にすることが推奨される時代だってあったわけです。
そもそも、 「醜い」という概念は、世の中の人が「美」を「美」として認める ことから生まれています。
たとえば、「にんじんは長い」と聞いても、「まあ、長細い形だけど・・・・・・」となんとなくピンときませんよね。
でも、「にんじんはじゃがいもに比べて長い」と 言われると「たしかに」と感じる。
「長短」も「善悪」も「高低」も、お互いの比較から明らかになる概念です。
自分がどんな環境にいて、どんな人たちがまわりにいるかによって、評価、価値はコロコロと変わってしまうもの。
「相対的に物事を見る」というのは、それくらい曖昧で、不確かなものです。
だからこそ、あまり評価に一喜一憂しない。
「いちいちジャッジしない」ということが大切なのです。
言うなれば、これは「銅像の思考」。
上野の西郷隆盛さんにしても、渋谷の駅前にいるハチ公にしても、まわりの環境やそこに集まる人たちは変わっていきますが、銅像は変わること なく、どっしりとその場に、ただ存在し続けています。
引用した老子の言葉の後半には「聖人は無為でいる」という言葉が出てきます。
「無為」という言葉をそのまま解釈すると「何もしない」ということですが、私なりに補足するなら 「余計なことは何もせず、自然に振る舞う」ということだと思っています。
たとえば、自分が人気者になりたいからといって、無理をしたり、 余計な行動を起こしたりするのは、まず間違いなく逆効果。
そうい うときこそ「自然に、銅像のように・・・・・・」と言い聞かせてみてください。
それこそが「無為」の境地。
銅像のように、ただあるがままでいることが、結局かっこいいのです。
『人生に上下も勝ち負けもありません』文響社
https://amzn.to/3F1NKZz
嫉妬も、不満も、グチも、すべては他人との比較から生まれる。
しかし、情報化社会はどんどん進み、SNSなどで他人の情報は瞬時にわかるようになり、比較することはますます増えている。
たとえば友人が、「海外旅行に行って楽しんでいる」「おいしそうな料理を食べている」「たくさんの友達とワイワイしている」「イベントに参加している」等々。
比較しない唯一の方法は、ボーっとすることであり、力を抜いて生きること。
つまり、鈍(にぶ)くなることだ。
それは…
時に、間が抜けていたり、不器用だったり、バカになれたり、茫洋(ぼうよう)としてつかみどころがなかったり、と自分を飾ることをしない。
鋭(するど)すぎる人は、人から好かれない。
すぐに、人と比較して、イライラしたり、ピリピリしたりしてしまうからだ。
それは、「閑古錐(かんこすい)」という禅の言葉と同じ。
閑古錐とは、古くて先がまるくなり、使えなくなった錐(きり)のこと。
禅では、真の修行者のことを閑古錐という。
俗に「人間がまるくなる」などというが、破天荒(はてんこう)だった人が老境にさしかかり、穏やかな熟年になっていくことがある。
穏やかなのに迫力さえ感じさせる、閑古錐の円熟味。
他と比較をせず、評価に一喜一憂しない人…
閑古錐の円熟味をめざしたい。
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精神科医、野村総一郎氏の心に響く言葉より…
「美しい、醜い」「正しい、正しくない」 「勉強ができる、できない」「地位が高い、低い」など、 どれも他人がいてはじめて成立する相対的な価値であって、たいしたことはない。
なぜなら、状況が変わったり、 運気が変わったりすれば、 あっさりと変化してしまうものだからだ。
昔から聖人と呼ばれる人は、そのような世俗の価値観にとらわれて、 焦ったり、何かを企てたりせず、あえて 「何もしない」という立場に身を置き、 余計な言葉や概念を振り回したりしない。(老子)
老子哲学のなかでも重要な概念の一つが「所詮、物事は相対的」というものです。
相対的というのは、他との関係、比較において成り立っている様子をさします。
たとえば、「Aさんは勉強もできて美人で人気もあるのに、それと比べて私は全然ダメ」といったように、自分の価値を他人との比較で決めてしまうということです。
たしかに多くの人にとって「勉強ができること」「人気があること」「仕事ができること」「お金を持っていること」「社会的地位が高いこと」は、とかく「価値が高い」と思われがちです。
しかし、所詮はすべて相対的で、一時的なもの。
じつは、そんなに大騒ぎするほどのことではありません。
ある町で「神童」と呼ばれていた人だって、東大やハーバード大という環境に行けば、落ちこぼれにだってなりかねないのです。
美人という尺度にしたって、時代や流行によって変わってしまうもので、絶対的、永続的なものではありません。
奈良時代、平安時代には下ぶくれのおちょぼ 口が美人の条件とされたのは有名な話ですし、化粧にしたって、顔を真っ白に塗りたくるのが美しい時代もあれば、歯を真っ黒にすることが推奨される時代だってあったわけです。
そもそも、 「醜い」という概念は、世の中の人が「美」を「美」として認める ことから生まれています。
たとえば、「にんじんは長い」と聞いても、「まあ、長細い形だけど・・・・・・」となんとなくピンときませんよね。
でも、「にんじんはじゃがいもに比べて長い」と 言われると「たしかに」と感じる。
「長短」も「善悪」も「高低」も、お互いの比較から明らかになる概念です。
自分がどんな環境にいて、どんな人たちがまわりにいるかによって、評価、価値はコロコロと変わってしまうもの。
「相対的に物事を見る」というのは、それくらい曖昧で、不確かなものです。
だからこそ、あまり評価に一喜一憂しない。
「いちいちジャッジしない」ということが大切なのです。
言うなれば、これは「銅像の思考」。
上野の西郷隆盛さんにしても、渋谷の駅前にいるハチ公にしても、まわりの環境やそこに集まる人たちは変わっていきますが、銅像は変わること なく、どっしりとその場に、ただ存在し続けています。
引用した老子の言葉の後半には「聖人は無為でいる」という言葉が出てきます。
「無為」という言葉をそのまま解釈すると「何もしない」ということですが、私なりに補足するなら 「余計なことは何もせず、自然に振る舞う」ということだと思っています。
たとえば、自分が人気者になりたいからといって、無理をしたり、 余計な行動を起こしたりするのは、まず間違いなく逆効果。
そうい うときこそ「自然に、銅像のように・・・・・・」と言い聞かせてみてください。
それこそが「無為」の境地。
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嫉妬も、不満も、グチも、すべては他人との比較から生まれる。
しかし、情報化社会はどんどん進み、SNSなどで他人の情報は瞬時にわかるようになり、比較することはますます増えている。
たとえば友人が、「海外旅行に行って楽しんでいる」「おいしそうな料理を食べている」「たくさんの友達とワイワイしている」「イベントに参加している」等々。
比較しない唯一の方法は、ボーっとすることであり、力を抜いて生きること。
つまり、鈍(にぶ)くなることだ。
それは…
時に、間が抜けていたり、不器用だったり、バカになれたり、茫洋(ぼうよう)としてつかみどころがなかったり、と自分を飾ることをしない。
鋭(するど)すぎる人は、人から好かれない。
すぐに、人と比較して、イライラしたり、ピリピリしたりしてしまうからだ。
それは、「閑古錐(かんこすい)」という禅の言葉と同じ。
閑古錐とは、古くて先がまるくなり、使えなくなった錐(きり)のこと。
禅では、真の修行者のことを閑古錐という。
俗に「人間がまるくなる」などというが、破天荒(はてんこう)だった人が老境にさしかかり、穏やかな熟年になっていくことがある。
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