国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

最後にビックリ

2016-01-09 | 結婚@Bolivia〜来日
(午前中の出発ということもあり帰国当日についてはあまり書くことがありません。)

都合の付く御家族は全員が空港まで見送りに来てくれたと思います。(一番上のお兄さん=Igorさんはご多忙のようでしたが、それでも別の車で私たちのスーツケースを運んでくれました。)日本ではまずそこまではしないでしょう。家族の絆の強さには父もたびたび感心していましたが、ここには私たちが失ってしまったものがまだまだ残っていました。

前の晩に父が「日本語の『さようなら』ではなく(また会えるようにとの思いを込めて)敢えて中国語で『再見(ツァイチェン)』と言いましょう」などと挨拶したのに合わせて "HASTA PRONTO"(「またすぐ会いましょう」の意)のプラカードを作ってきたのかもしれません。

来る時はサンタクルスまで迎えに来てもらいましたが帰りは大丈夫。ここでLindaと3度目の「しばしの別れ」です。が、今度は1ヶ月ちょっと。すぐです。



とくに意味はありませんがサンタクルス上空です。着いて預け荷物が出てくるまでの間に腹が下ってきたのでトイレへ行ったのですが(まだ下痢は完治せず)、大の方を見て仰天!


一時的なもの(改修中)なのか、それとも誰かが個室内で麻薬を吸ったりなどしないよう壁を取っ払ったのか? 何れにしても誰も入ってこなかったのはラッキーでした。(今思うに壁がない方がずっと危険ですよね。無防備ですから。)

おまけ

リマのホルヘ・チャベス国際空港でのトランジット中のひとコマ。民芸品店の前でフォルクローレの生演奏(CD販促?)が聴けました。
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あっという間

2016-01-08 | 結婚@Bolivia〜来日
タリハから帰った翌日の朝食にサルテーニャが出ました。前日食べたtucumanaではなくbolivianaの方です。中の具は非常に汁気が多いため下手な食べ方をすると服やテーブルを汚してしまう、ということでLindaが手本を示してくれました。


まず端っこを囓ってまず中のスープを吸い出し、それから普通に皮と具を味わえば良いとのこと。私も言われた通りやってみましたが、それでも汁が少しこぼれました。ちなみに下画像は中がいかにジューシーかを見せるために敢えて開いてくれたものです。もちろん普段はこんなお行儀の悪い食べ方はしません。

さて、その日の午前中は市の中心部にある市場でお土産を買うことになっていました。が、人の非常に多い場所へ行くということでLindaは財布はもちろん時計もスマホも持たせてくれませんでした。不安になって「そんなに危ないところなの?」と尋ねましたが、「何かあったら大変だから」という返事でした。ま、用心するに越したことはないということで納得。そういう訳で申し訳ないですが写真はありません。

市場はこれまで足を運んだものよりずっと広大で食料品、日用品の品目毎に建物が別れていました。たぶんここだと思うのですが、民芸品を売る店が通路を挟んだ両側にビッシリと立ち並ぶ一角がありました。各店舗は幅2m、奥行き3mほどだったでしょうか。その中の3店ほどで買い物は済んでしまいました。なお24年前もそうでしたが(注)、ボリビアは物価が安いと改めて感じました。(注:あの時は100USドルでそれこそ山ほどお土産が買えました。)年1回出張しているアフリカ南西部のナミビアで同じようなものを買おうとしたら、たぶん5~10倍はするでしょう。ただし、そんなに値引きはしてくれません。交渉は全てLindaに任せていましたが、85ボリビアーノの品を2つ買って160にまけてくれたという程度でした。最初の言い値が既にリーズナブルなんでしょうね。値段が折り合わなければそれまででした。(これが過去に私が数度訪れた東南アジアの某国だったら、値段を吹っ掛けてきているのがミエミエなので、まず半値、時には1/3ぐらいの値段を言ってみて、それからどこで折り合いを付けるかが勝負、みたいな感じでした。さらに交渉が決裂した後も店員が追いかけてくるということが何度もありました。)

その後お菓子を売っているブロックへ行き数点買い、乗り合いタクシーで戻りました。想像していた以上に人通りが多いという印象でしたが、Lindaによると午後はもっともっと増えるので早めに来たということでした。昼過ぎに帰宅。

夜はご家族の家でお別れパーティの予定でしたが、それまで時間があるので二人でアイスクリームを食べに行くことにしました。シモン・ロペス通りがエコロヒカ通りという名前に変わってしばらく行くと、大通りの真ん中に街路樹(ユーカリ)が植えられ公園のようになっていました。たぶんこのあたりですが、いい感じです。


家から4ブロックぐらいと聞いていたので歩くことにしたのですが、アイスクリームを売っている屋台は行けども行けども見つからず。「今日は休みなのかもしれない」とのことでしたが、結局コチャバンバに隣接するティキパヤという町まで来てしまいました。


店でソフトクリーム(袋入り)を買って公園で食べました。Lindaは「この町は静かでとても好き。ここに家を買って住みたいわね。」などと言ってましたが、本気なんでしょうかね?(なお私たちが提供を受けていた住居について彼女からちょっとビックリするような話を聞きました。ここでは伏せておきますけど。)

家に戻り、その日の会食用に私が持って来た米(我が家で栽培したコシヒカリ)を炊きました。炊飯器なしなのでぶっつけ本番はさすがに恐い、ということで当日朝試しに2合ほど炊いてみたのですが水加減に一苦労。最初は水が足りず芯が残りそうだったため足し湯で調節しようとしたものの、今度はやや多すぎて仕上がりはイマイチ。その教訓が生きて皆に振る舞う約5合分はシャキッと炊き上がりました。なお、標高2600mゆえの気圧、というよりそれに起因する沸点の低さを懸念していましたが、その影響はまったく感じませんでした。(3000mを超えると圧力鍋が必要になるのかもしれませんが。)


その鍋を携えてご家族宅へ・・・・ですが、写真はほとんど撮りませんでした。せっかくの御馳走もさんざん食い散らかした後です。(毎度のことながら後の祭りです。)父が感謝の言葉に続けて結婚式の日に披露するはずだった(もののキャンセルとなった)婚礼の歌および日本舞踊を演じたところ大好評。(踊りはこれですね。)またLindaのお父さんとも感動的なやり取りがあってLindaやお姉さん達が涙ぐんでいました。やはりそうなると傍観者ではいられなくなるんですよね。

お兄さんにクリスマス用のケーキ(rosca)を焼いた窯も見せてもらいました。昔は薪だったので大変だったけど今はガスを使うのでラクになったとのこと。

その後、婚礼の招待者からいただいたプレゼントやお祝い金(贈り主の名前と品目または金額)を皆の前で読み上げました。(そういう習慣なんですね。)プレゼントのうち一番大きな包みを開けてみたら額に入った油絵でした。

描いたのはかなり絵心があって腕の立つご親戚、そして風景は皆さんがかつて住んでいた場所(たぶんポトシ)とのことでLindaもはっきり憶えているそうです。額付きだと大きすぎてスーツケースに入らないため絵だけ持って帰ることになりました。(追記:お土産に買ったアグアヨ (現地のふろしき) で丁寧に包んだため無傷で持ち帰ることができました。自宅のどこかに飾ることになると思います。)

しばらくしてお別れパーティーはお開き。翌日はいよいよ帰国です。思えばあっというまの9日間でした。
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再び大盤振る舞い(写真42枚)

2016-01-07 | 結婚@Bolivia〜来日

この日は早朝から観光です。ホテル前の大通りを大型車が何台も通りすぎていきました。タイヤを多数積んでいることからダカールラリーの後方支援部隊と思われます。



公園の周りにも停まっていました。これからレース車の後を追うんでしょうね。





市内の移動にはバスを使いましたが、フロントガラスのヒビはナミビアで慣れっこになっているので気にしません。一方これは・・・・・

もっと写真を撮っておけば良かったのですが、日本のお下がりをタリハでもコチャバンバでも見ました。(24年前に旅した時もそうでした。)ただし右ハンドルの車は走行禁止なのですべて左ハンドルに改造されています。メーターの類だけ右に残っている車も目にしました。






朝食の後、中央市場へ。父がこの直後に迷子になりかけて焦りました。(声を限りに呼んで事なきを得ました。)



チョリータさん達はいるだけで絵になりますね。(なお地域ごとに特色があり、ラパスでは山高帽なのに対してコチャバンバでは明るい色の麦わら帽子になり、タリハでは下画像のように花飾りを付けるとのこと。)






続いてサン・ロレンソという近郊の町へ。ここでは公園が博物館になっており昔のチチャ(どぶろく)製造用のかめや蒸留器などの模型が展示されていました。


その先の屋台で懐かしい食べ物が目に入ったので所望。パラグアイではエンパナーダ(empanada)ですが、ボリビアではサルテーニャ(salteña)。ただし、これはボリビアで普通に食べられているサルテーニャ(salteña boliviana)ではなく、内部に汁気のない "salteña tucumana" (トゥクマン風サルテーニャ)とのこと。ちなみに「サルテーニャ」という名前自体は(アルゼンチンの北部に位置する)「サルタの」という意味なのですが、どうやらサルタがこの食べ物の発祥の地のようです。(ついでながら、アルゼンチンでは "empanada tucumana" とか "empanada salteña" といった呼び方をするようです。ややこしい。)初めて食べた父も結構気に入っていましたし、私もパラグアイ在住時代によく食べていたエンパナーダの味に近かったため懐かしさを感じながら美味しくいただきました。

何にしても "salteña tucumana" が売られていることで、当地がアルゼンチンに近いということを意識させられました。(今更ですがタリハ県とサルタ州は接しています。)そういえば、移動の車中で耳にした音楽もアンデス風のものよりはポルカなど3拍子系の曲の方が多かったような。(ここでもポルカが代表的舞曲の一つであったパラグアイを連想したのでした。)

いったんタリハに戻って次はCasa Viejaへ。最初聞いて「古い家って何だろう?」と思ったのですが、要はワイナリーです。


途中で給油しましたが、これはレースクイーンか何かのつもりでしょうか?





建物もブドウ畑も雰囲気は満点。国内外から観光客が大勢来ており、お目当ての試飲は順番待ちでした。





ここで昼食を摂ってから再びタリハに戻り、しばらく土産物を物色した後、中央広場に面したレストランへ。前日空港でお会いした岡野さんと14時に約束していたのですが、時間ピッタリに来られました。先月までメキシコで仕事をされており一時帰国中(2月から再びメキシコ)とのことでした。お時間を取っていただいたことに感謝しています。

テレビ出演のことを少し訊きましたが、やはり事前に依頼があり、突撃取材ということはさすがにないようです。ただし、タレントさんが本当に自力で来られたのかどうかまではわからないとのこと。(ちなみに私がこの番組の出演者とお会いするのは2度目なのですが、ナミビアの藤本さんの場合は局側がストーリーを勝手にこしらえていました。千原せいじは国内便の飛行機に乗れば首都から3時間ほどで済むところを、わざわざ道の悪い陸路を使うことで日本からの所要時間に上乗せをしていましたし、途中に寄った赤い肌の先住民(ヒンバ族)の村というのも藤本さんの任地とは全く関係がありませんでした。それでタイトルが「赤い肌の先住民の村に住むたった一人の日本人」ですから捏造もいいところ。岡野さんが出演された回のタイトル「南米ボリビア アンデス山脈 峻険な山々に囲まれた町にいる日本人 どんな土地に住んでいるのか?」にしても「何だかなぁ」と言いたい気分。タリハは都会だし、周囲の山もアンデス山系ではありませんからね。悪質なヤラセではないから目くじらを立てるのは野暮なのかもしれませんが・・・・脱線ついでながら、一昨日の日記に登場していただいた野原さんのところにも同種のテレビ番組と思われる出演依頼が何度もあったそうですが、煩わしいので全て断っているとのことでした。)

このままボリビアで暮らすのか、いつか日本へ帰るのかも今はわからないとのことでしたが、そういうものだと私も思います。ただ日本へ行く(帰る)にも家族4人分の飛行機代を貯めるのは容易ではないようです。金額を聞いて少し驚きましたが、今回私が利用したような安い航空券が使えないからです。これは他人事ではありません。私がLindaとボリビアへ来る(帰る)場合にも西回り、あるいはカナダかメキシコ経由にするしかありません。「本当に酷いことをする国だ!」と思い出す度に腹が立ってきます。

元パラグアイのシニア隊員女性(名前はEikoさんだったような)も来られていましたが、「今この人と電話が繋がっていますけど」と見せられた携帯電話の画面には懐かしい名前が! パラグアイ時代に調整員としてお世話になった(ついでながら隣の家に住んでいた先輩の同期だった)Iさんでした。現在も調整員としてラパス勤務ながら間もなく任期を終えて帰国されるのだとか。昔話や私の結婚話をした後、決まり文句の「またいつかどこかで会いましょう」でお別れしました。(具体性なしですがそういうものでしょう。縁のあるなしを私たちは決めることはできませんから。)




預けておいた荷物を取りにホテルに戻ってみたらテレビでダカールラリーを放送(生中継)していました。タリハを発ってウユニへ向かっているとのこと。後で聞いた話ですが、ボリビアではどの町でも大歓迎を受けて感謝している(あるいは感激した)といったコメントが出場者やサポートスタッフの多くから出されていたそうです。(他の国では違っていたのでしょうか?)



夕方の便でコチャバンバに帰還しました。下は100万ボリビアーノの夜景です。
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こんなところに

2016-01-06 | 結婚@Bolivia〜来日
Lindaが私の帰国に合わせて来日するという当初のプランではビザを申請するため式の翌日にラパスへいく必要がありましたが、それが流れたため日程に少し余裕が。ということで、どこか国内旅行をしようということになりました。私が所望したのは24年前に休暇を取ってボリビアを旅した際に訪れた4都市の中で最も印象に残ったスクレ(憲法上の首都で世界遺産)なのですが、後に南部のタリハへ変更となりました。

その理由の一つがこの番組です。(どうでもいい話ですが、現地を訪れた俳優の名が村田雄浩から最後の最後で西村和彦に変わってしまっているのは笑えますね。)そのビデオを観たLindaは私以上に興味を抱いたようで、「あの二人にいつか会ってみたいわね」などと語っていました。また、少し前に同地へ足を運ばれた彼女のお姉さん(Elmaさん)が「タリハはとってもいいところだよ」とイチ押しだったことが決め手となりました。



ちょうど1週間前ここへ来た時には気が付きませんでしたが、コチャバンバのホルヘ・ウィルステルマン国際空港のビルにはモラレス大統領の写真がデカデカと。

機内誌にはこんな記事が出ていました。何でもモラレスさんは世界で2番目に人気のある大統領だとか。(その根拠となったのがスペインのある企業の調査による支持率ランキングですが、彼は1位プーチンさんの84%に次ぐ69%を得たそうです。ちなみに3位以下はドイツのメルケル首相、エクアドルのコレア大統領、米国のオバマ大統領の順でした。アベちゃんはいったい何位だったんだろ?)


後で聞いたところではコチャバンバ~タリハ間のフライト中にスクレの街が見えるそうですが、全く気が付きませんでした。1時間ほどでタリハに到着。岡野さんにはフェイスブックを通して私たちの訪問を伝えていましたが・・・・・空港でお会いできるとは思っていませんでした。ご家族も一緒でした。さらにJICAボランティアのシニアとジュニアの隊員がそれぞれ1名と2名。(聞いたところではダカールラリーの関係でたまたま来られていたとのこと。)うちシニアの女性はパラグアイOGでした。

ここで日本人の皆さんとはいったんお別れ。そして迎えに来ておられたタリハ在住のBenanciaさんに案内してもらうことになりました。Elmaさんとラパスで一緒(同窓もしくは同僚)だったとか。



ここは本当に緑が多くコチャバンバとはかなり印象が異なります。






ホテルでチェックインの後、飛行機からも見えたダムへ行きました。今年はあまり雨が降らず水が非常に少ないとのことです。たしかに。



昼食の一皿。ダム湖の魚やカニをそのまま揚げて出してくれます。

魚介類は久しぶりということで最初は勢い良く食べましたが、付け合わせのポテトと大粒コーンの量があまりにも多く、完食はできませんでした。(下痢もまだ治りきっていなかったので古い油にあたったら大変と思ったこともあります。私の表情にもどことなく精気がありませんね。)なお他の客のテーブルには例外なくワインのボトルが並んでいました。タリハはボリビア随一のワインの産地として有名だそうです。

トヨタのカローラですが、他にも日産のサニーなど日本車、それも往年の名車(たぶんほとんど全てが中古)を至る所で目にしました。










市内へ戻ってあちこち見て回りました。丘の上にある展望台からの眺めも緑タップリでした。




日が落ちてから屋台で夕食を取りホテルに戻りました。この日の観光はこれで終わりですが、もうちょっと写真をしっかり撮っておくべきでした。

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何かの縁

2016-01-05 | 結婚@Bolivia〜来日
この日はコチャバンバ在住のこの方を訪問することになっていました。コチャバンバへ行くことが決まってからは、どうしてもお目にかかりたいと思っていたのです。(私もこの番組をたまたま観て非常に感動した一人なので。)日本で支援をされているお姉さんを通じて訪問の了解は得ていました。が、当日になって落とし穴にはまりました。

私が場所を確認しておかなかったのが一番良くないのですが、乗り合いタクシーで市の中心部にある "San Martín de Porres" という名のカトリック教会を訪ねたものの、そこは本来の目的地「聖マルティンの家」とは全くの別物。途方に暮れた私たちはLindaのお兄さんに連絡を取って調べてもらったところ、その施設にいる障がい者の子供達が作った工芸品を売っている店が近くにあると判明。まずはそこを訪れ、店の人に電話で野原さんを呼び出してもらいました。

判ってみれば何のことはない、「聖マルティンの家」は私たちが滞在していた場所からさほど遠くないところにありました。(まったくの無駄足を踏んで2時間以上ロスしました。繰り返すように任せっきりにしていたのが敗因です。)ちょっと自信がありませんが、たぶん場所はここだと思います。

この施設で精神・身体のどちらかまたは両方に障がいのある8人の世話をしているとのこと。いずれも親はいないそうです。施設内を見学させていただきましたが、中にとても気性の激しい子がいると聞いたのでカメラを向けるのは自粛しました。(建物の外壁ぐらいは撮っても良かったのでしょうけど、その気になりませんでした。)それでこの記念撮影2枚だけです。


Lindaは午後ラパスへ行く必要があったのでここでお別れ。

その後、野原さんの車で施設が管理・運営しているという畑を見に行きました。本来は新しい施設を建てるために購入された土地だったのですが、近くに下水処理場ができたために建設許可が下りなくなってしまい、仕方なく畑として使うことになったとのこと。また、その処理場とやらが汚水を垂れ流しているせいで夏は悪臭が漂ってきてたまらないのだとか。実に酷い話です。それでも施設で必要な食べ物をなるべく自給できるようにと野菜栽培および家畜飼育を始められたそうです。(家畜は豚と鶏の他にアヒル、ウサギ、そして「クイ」という食用のネズミがいました。)残った野菜や肉の加工品は販売もしているとのこと。実に前向きでバイタリティーのある人です。見習いたい。





お昼は持参したのですが、穫れたてのダイコンとキュウリを御馳走になりました。昼夜の温度差が大きいお陰だと思われますが、畑では夏野菜と冬野菜が同居していました。日本ではちょっと考えにくいことですね。ちなみに健康を考えて可能な限り無農薬・無化学肥料の栽培を行っているという話でしたが、さらに無除草でも何とかならないか試行錯誤&悪戦苦闘中とのことでした。確かにそのような自然農法もあるにはあるのですが、その提唱者以外が試みて上手くいくケースは珍しいようです。

父は輪切りにして醤油をかけただけのキュウリの美味しさに感動していました。有機栽培ゆえの良食味とボリビアに来てから生野菜に飢えていたこととが相乗効果を発揮していたのかもしれません。

車で「聖マルティンの家」に戻り、しばらくしたら迎えが来ました。何とLindaでした。結局飛行機には乗れなかったのでラパスへは翌日お姉さんに行ってもらうとのこと。(髪の毛が酷いことになっていると姪御さんから言われ、直してもらっている内に遅れてしまったのだとか。おいおい。ただしオープンチケットなのでパーにはならなかったようです。)

乗り合いタクシーで帰りましたが、足の悪い父がいなければ歩いても戻れる距離でした。こんな近くにあったとは! K君からLindaの実家がコチャバンバにあると聞かされた時もそうでしたが、その時以上に何かの縁を感じない訳にはいきませんでした。

おまけ
 コチャバンバにいる間にこの方にもお会いしたいと思っていました。一昨年この番組を観て感銘を受けていたので。(それにしてもボリビア第3の都市を「辺境の地」はひどいなあ。)こちらで紹介されているように私と同じ協力隊OBということで親近感も湧きました。しかしながら、その方が校長をされている音楽学校があいにく休業期間中で門は閉ざされたまま。面会は叶いませんでした。
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メチャ疲れた

2016-01-04 | 結婚@Bolivia〜来日
式の翌日は朝食後に庭園内を散歩しました。

Lindaは時々こんなコケットな表情を見せます。かわいい。

一方、私の表情は全く冴えませんねえ。下痢が止まらないので無理もありませんが。

この日はカメラマン2人を連れて近郊のタラタ(Tarata)という町を訪れることになっていました。目的は例のDVD用の撮影です。しかしながら体調はほとんど最悪でキャンセルしたらどうかとも言われたのですが・・・・・それだと後のスケジュールにしわ寄せが来るため強行することに。1時間ちょっとの間に3回トイレに行きました。(なお父も同行することになっていましたが、やはり体調がすぐれないということで残りました。前日のパーティーでは急ピッチで酒杯を重ねていましたから、おそらく二日酔いと思われます。)


町の中心部にある修道院です。改修工事中でしたがいい雰囲気。

石畳の通りや家の壁などもいい感じです。が、それを眺めて楽しむ余裕はとてもありませんでした。

電線に鳥が巣を作っているのかと思いきや、実は植物のようです。どうやって栄養を摂ってるんだろう?

撮影中に「なんだなんだ?」という表情を浮かべた通行人が立ち止まっていました。そして私たちをスマホで撮っていました。もしかしたら誰かのフェイスブックに出ているかもしれません。

ここでは(通行人に借りた)自転車に乗せられました。何のために? 私はその写真をまだ見ていませんが、Lindaによればとても良く写っているとのことです。

帰りはトイレ休憩なしで済みましたが、家に着いた時はクタクタでした。翌日はコチャバンバ市内から出ないので少しは休めるはずです。
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マジ疲れた

2016-01-03 | 結婚@Bolivia〜来日
やはり当事者になってしまうと写真を撮る余裕はほとんどありませんね。それゆえ前日の数分の一しか載せられませんがご容赦下さい。(追記:式場の人が撮った写真がフェイスブックにアップされていると後日Lindaが教えてくれましたので、それらも使わせてもらうことにしました。)


午後1時頃に迎えが来るということで、それまでテレビを観ていましたが、たまたま「フレンズ」を放映していました。もちろん音声はスペイン語。ただし私が持っているBlu-rayやDVDの声優(おそらくスペイン人)とは全く違っていました。ラテンアメリカ独自の吹き替え版でしょうか? また、映像ソフトではシーズン1のみテーマソング開始直後に "Colega"(仲間、同僚)というナレーションが入りますが、この日聞こえたのは "Amigos" でした。

その後、Lindaのご親族(姉妹のどなたかの旦那さん)の運転する車で "sueño"(夢)とか何とかいう名前の式場へ。(今調べてみたら正しくはHacienda Ensueñoでした。こちらにプロモーションビデオがアップされています。)


ちなみに上と下はそれぞれ招待状の封筒と中身。既にニューヨークで結婚しているので "Mrs."なんですね。(なお後者は銀文字で下に桜の花があしらわれた豪華版ですが、スキャンでは凹凸が出ないためカメラで撮りました。)


婚礼のパッケージに入っていると聞いていましたが、プロのカメラマン2人が付きっきりで写真とビデオを撮影していました。後日それらを編集してDVDを作るとのこと。(着替えの場面も撮られたのでビックリ。そんなのまで使うとは!)

午後2時開始の予定が1時間過ぎても始まらず、気の短い父は「もう帰る」などと駄々をこね始めましたが、これぐらいで怒ってはいけません。結局1時間15分遅れでしたが、ラテンアメリカ時間としては上出来でしょう。ちなみにLindaと私がそれぞれ選んだ入場曲はこれ(世界的に大ヒットしたデュエット版でない方)とこれで音源は私が持って来ました。わざと避けた訳ではありませんが、どちらもスペイン語の歌詞ではありません。



野外に設営されたチャペルの天幕は防水性とのことでしたが、空はドンヨリと曇り、時に強風も吹きつけていたので心配しました。が、天気は何とか持ってくれました。

牧師さんが旧約聖書の創世記と("San Pablo" と言っていたのでたぶん)新約聖書のパウロの手紙から引用して説教をしました。タップリ30分はあったでしょうか。続いてLindaと私がVoto(誓いの言葉)を読み上げました。

出発前にLindaから頼まれていたのですが、私は軽く考えていてどこかのサイトに出ていたものをそのまま使うつもりでした。が、前の晩に彼女のを読んで、そのような手抜きはよろしくないと思ったためオリジナルの文章を少し加えました。以下両人の全文ですが、私は少し噛みました。(本番に弱い。)

【Voto de Linda】
Cariño,
  Dios es el único fiel y a él le doy las gracias por unirnos este día. Tú eres uno de los milagros que espere por años. Desde que escuché tu persona hace muchos años atrás te mantuve en mi mente y cada fin de año pensaba en ti. Y poco a poco te atesoré en mi corazón. Gracias por todos paseos y momentos que pasamos juntos por medio del Skype.
  Eres muy inteligente, divertido, sencillo y humilde. Siempre aprendí mucho de ti.
  Pido a Señor me conceda sabiduría para ser una buena esposa. Sea tu mejor amiga y apoyo en toda la circunstancia. Apoyarte en tu trabajo, viajes y toda la circunstancia que tú me necesites. Tu país será mi país y dondequiera tú vayas yo estaré contigo.
  Entrego a Dios nuestra unión y futuro hogar y que nos ayude a vivir juntos. Te amo, Yasuhiro.


【Voto de Yasuhiro】
  Estoy muy contento de recibir una mujer tan guapa, cariñosa y graciosa como mi esposa. Tú eres la única y la suprema existencia en este mundo para mí.
  En un proverbio de Japón dice que "entre esposos la alegría se aumentará doble y la pena se aliviará a la mitad." Por eso me entrego a ti este día, para compartir mi vida contigo. Puedes confiar en mi amor, porque es real.
  Prometo serte un esposo fiel y compartir y apoyarte en tus esperanzas, sueños y metas. Mi voto estará contigo para siempre. Cuando caigas, te levantaré, cuando llores te confortaré, cuando rías compartiré contigo tu gozo. Todo lo que soy y todo lo que tengo es tuyo desde este momento hasta que Dios nos recoja. Te amo, Linda.



その後の指輪の交換とキスはニューヨークでの式(Civil)と一緒。続く牧師の宣言をもってReligiónの結婚式は無事終了し、私たちは退場。

しばらく休憩(当事者は撮影タイム)の後、赤屋根の建物のパーティー会場へ移動しました。



招待客の座るテーブルが予め決められているのは日本の披露宴と同じです。違うのは各テーブルが壁際に置かれていること。理由は簡単。ダンスのスペースを作るためです。

パーティーはまずLinda、続いて私の挨拶で始まり、次にLindaのお父さん、そして私の父のスピーチが続きました。(父のは長くて訳しにくい言い回しもあったので適当に端折りました。)

同じテーブルに隣り合って座っている2人ですが、もちろんコミュニケーションはほとんど取れません。退屈そうにしていた私の父を見てか、Aさん(H君の奥さん)のお兄さんがやって来て、二人で何やら盛り上がっていました。(最後には「スキヤキ」ソング (上を向いて歩こう) まで飛び出しました。)ちょっと怪しい英語でのやり取りでしたが(苦笑)。

当事者二人によるダンス用の音楽は彼女が選びましたが、Andrea Bocelliの歌う "Can't Help Falling In Love" の入ったCDを私がたまたま所有していたので、これも日本から持参しました。私はLindaの肩に手を置いて、彼女は私の腰に手を回してゆっくり体を動かすだけなのでラクでした。次にLindaは私の父と、私は本来なら彼女のお母さんと踊るはずでしたが逝去されているので代わって長姉のAna Maríaさんと。式場側が用意した曲目は、なぜか古典的なワルツの「ドナウ川のさざ波」(イヴァノヴィッチ)でした。前日の練習が役立ったとしておきましょうか。続いて招待者から次々にお祝いの言葉と品(もしくはお金)をいただき、その後ビュッフェ形式の食事となりました。




それからは(休憩を挟んで)ひたすらダンスタイム。大音量の音楽とともに踊りが始まると30分は止まりません。(伝統的な舞曲が代わる代わる再生されましたが、私には「何となくリズムが違うなあ」ぐらいしか判りませんでした。)よく疲れないものだと呆れ、いや感心しました。


実は私の体調はあまり良くはありませんでした。当地に来てからずっと便秘だったのが一転して下痢になってしまいトイレに何度も駆け込むことに。(緊張から来たのではなく食べ物、たぶん果物が原因だと思います。切ってから何日も過ぎたものを朝食に出すのですからね。)そのため途中で疲労がピークに達し、ケーキカットが済んでから着替えの部屋でしばらく休ませてもらいました。戻ってみたら私の持ってきた日本酒をLindaが皆に注いで回っているところだったので合流し、あとは最後まで何とか持ちこたえました。

昔の婚礼は三日三晩続いたという話なので、この日も夜を徹して行われるのかと思って訊いてみたら23時に終了予定とのこと。私たちはお礼の挨拶をして一足先に失礼させてもらいました。


ということで、二人を収めた写真で出来の良いもの(ピントがあって霞んでいないもの)は今のところLindaの姪御さんからいただいた下の1枚だけです。先述のカメラマンが撮った写真は1000枚近くあってLindaが100枚選ぶ作業を続けているらしいのですが、それらには会社のロゴが入っており、著作権の関係で外には出せないのだとか。もし使用可能になればそれらも載せたいと思います。

(追記:これもLindaからの情報ですが、私たちの婚礼の模様を撮影していたフォトスタジオのフェイスブックでもアルバムが公開されていますので、よろしければそちらもご覧下さい。)
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盛りだくさん(画像40枚超+動画4)

2016-01-02 | 結婚@Bolivia〜来日


私たちにあてがわれている住居のリビングとキッチンです。前の晩ずっと雨が降り続いていたなと思いつつ窓の外をみたら・・・・・・

山の上の方に雪が。夏なのに。聞いてみたら山に雪が降るのは8月か9月のことが多く、この時期の冠雪は非常に珍しいということでした。







この日は朝からコチャバンバ市内を案内してもらうことになりました。まず向かったのはMercado de Campesino(農民市場)です。(移動途中に買ったチェリモヤを車内で食べました。口にしたのは24年ぶりだと思いますが、感動するほど美味でした。)






あちこちから運び込まれた農産物がこれでもか、と売られていました。とくに多かったのが果物ですが、売れ残りは持ち帰らずに置いておき、後で市が片付けるのだそうです。

大きな豆の莢のようですが、どうやって食べるのでしょう?

ココナツを買ってもらい中のミルクを飲みました。殻は捨てずに持ち帰って中の胚乳部分(コプラ)を利用するのだそうです。


Lindaとご家族もこれでもか、と買い込んでいました。



続いて丘の上に立っているキリスト像へ。リオデジャネイロの方が有名だとは思いますが、今調べて判ったことには規模はこちらが上回っており南米最大とのこと。



像はもちろんのこと、雪山や街並みをバックにこれでもかと写真を撮ってもらいました。



帰りはロープウェイで麓まで。(その後、市の中心部を数ヶ所廻りましたが省略します。)



家に戻ったら既にパーティーの準備が始まっていました。肉類以外にバナナも焼いていました。



すっかり仲良くなったGordaは私の顔を舐めに来ましたが、ご家族の家で飼われているミニ・ドーベルマンはせわしなく動き回るため、なかなかうまく撮れませんでした。



いよいよパーティー開始。料理は牛のアサード(焼肉)その他です。



先に買った豆の莢が登場。中で既に発芽しています。この種子ではなく、それを包んでいる綿の方を食べるのだとか。確かに上品な甘さがありました。癖になりそうな味です。



食事の後、ご家族が入れ替わり立ち替わりで民族舞踊を披露してくれました。前に芸達者と書きましたが、とにかくお客さんを歓待するのが好きなんでしょうね。

あ、何のパーティーか言ってませんでした。この日は私の誕生日。ということでケーキが出てきましたが、板チョコはフットボール4個とレイダーズのロゴが刻まれたヘルメット。ここまでしてくれるとは!(後でロウソクが立てられましたが、51本ではなく大きな1本だけでした。)

これまで1月2日といえば正月のさなかということもあって家から出ることはほとんどなく、誰かに祝ってもらった記憶もほとんどありません。(そういえばパラグアイに居た頃、同じ誕生日の人からプレゼントを贈られたことがありました。物はスペイン語の新約聖書でした。)ということで、嬉しかったのはもちろんですが恐縮するばかりでした。



Lindaがくれた素敵なバースデーカードです。¡Gracias!

以下おまけ

上はこの日の夜に撮りました。この渡航では少し前にブックオフの108円コーナーで購入した文庫本8冊を持って行きましたが、既にこの時点で(行きのフライト中や乗り継ぎ時間に)読破した3冊を捨てていました。(もっと持って来るんだった!)

右端の2冊はフットボールを題材としていたので買いました。(ちなみに原題は日本語のサブタイトルに相当する "Playing for Pizza" のみで、「奇跡の・・・・」云々はありません。)NFLの万年控え選手が主力の怪我で急遽超重要なゲームに出場することになったものの、致命的ミスを連発して戦犯となり解雇され、都落ちの形でイタリアのアマチュアリーグでプレーするというストーリーです。私は非常に楽しく読めましたが、フットボールのルールやプレーが分かっていないと辛いかもしれません。でもグルメ(イタリアンのファン)の方にはお薦めできるかな?

あと真ん中の赤い本は帰りの機内で読みましたが、金原さんは分裂症であれ偏執狂であれ病的な女性を描くのがとても上手いですね。読後に疲れがどっと出ますけど面白い。
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豪快なのか?

2016-01-01 | 結婚@Bolivia〜来日

1日はゆっくり過ごしました。上は朝食のはずですが、食べた記憶がありません。左上には多様な色と形のジャガイモが乗っており、さすがは原産地の国と唸らされました。


この住居には2匹の犬が飼われています。(ご家族の家では4匹。よほど犬好きの家系と思われます。)うち1匹はいつも恐い顔をしていたため気に入りませんでしたが、この "Gorda"(「おデブさん」の意味)という雌犬はいつも尻尾を振りながらすり寄ってくるので好きになりました。

この日はとくに予定がないということで夕方からご家族の家へ行って招待客に配るプレゼント(要は引き出物)のラッピングをしました。中身はLindaがニューヨークで買ってきた買い物袋、そして私の妹の嫁ぎ先である仏壇仏具店で要らなくなったため捨てるというのをもらってきた木彫りです。

その後、パーティーで披露するダンスの練習をしました。私は全く心得がなかったので一番上のお姉さん(Ana Maríaさん)に指導(ダメ出し)してもらいました。



ところで上画像ですが、砕いた氷の入った器に瓶ビール(この日はMéxicoのCorona)とストローを突っ込んで回し飲みするというもの。もちろん父も私もこんな飲み方は初めてで面食らいました。一見豪快なようでも少しずつしか飲めないので、こういうのは何と形容したらいいのでしょうかね?
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