今回と次回は、1985年のプラザ合意によって円が『急激に高騰』したために経営が悪化した、私の勤めていた会社の話しです。 会社は生き延びるために”禁断の手”を使いました。 民主化度は悲惨な状態になり、福利厚生施設の殆どは売却されてしまいました。
【日本にとって、今後も工業は大切です】
近年の日本の経済について、極めて大雑把な話をします。 日本に有る富を100とします。その内90は国内で生産した富で、10は外国から輸入された富です。 国内生産の90の内、10は外国に輸出されます。 従って、国内では90が消費されます。(国内消費90の内、80が国産と言う事になります。) これは、現在の世界では、非常に健全な経済の国だと言えます。
日本には地下資源(原油、鉄鉱石・・・)が殆ど有りませんから、工業製品を輸出して得た金でそれらの資源を輸入し続けなければなりません。 国際競争力の有る工業分野の企業が、頑張って資源を買う金を稼がなければなりません。
優れた工業製品でも、製造方法を工夫して『安価』に製造しないと、国際競争には勝てません。 例えば、プレス加工の加工費は安いですが、一回に200個~400個以上製造したら少し安くなります。 開発費用は、予想販売台数で割った値が製品単価に加算されます。 日本は、(キーエンス社が代表例ですが、)計測器/分析器/センサー等の分野が強いですが、新製品を上市するまでに膨大な開発費が必要になります。 ある機種を開発するのに10億円掛かったとします、1万台で回収する計画の場合は、製品に10万円上乗せする必要があります。
工業製品が国際競争力を維持する為には、国内だけで無く海外に沢山輸出して、生産台数を増やす事が不可欠なのです。 日本には、生産台数の30%以上を輸出している企業が沢山有ります。 (若者よ!英語をマスターして、将来そんな企業で活躍して下さい!)
為替の変動は、輸出割合の大きな企業にとっては重大な問題です。プラザ合意で1ドル=240円台が→120円台に、円が急激に上昇しましたが、将来同様の事が起こった時は、政治家と官僚は「安易な対策を二度としてはならない!」と私は思います。
(補足説明) 上に、「国内消費90の内、10が輸入」と書きましたが、皆さんが買う品物の多くは輸入品ですから、皆さんは奇異に思われるかも知れません。中国が10円で輸出した製品でも、商社や問屋の取り分、輸送費、販売店の取り分、保険料等々が加算されて、皆さんは30円とか40円で買う事になります。 その差額の20円~30円は国内生産した富とカウントされます。 そんな理屈で、意外と日本の輸入依存率は低いのです。
【日本を襲った経済ショック】
私が務めた会社は、売り上げの50%以上を鉄鋼部門が担っていました。 入社した頃はまだ、『鉄は国家なり』と言う言葉は死語にはなっていませんでした。 1985年のプラザ合意で、急激な円高になり、鉄鋼会社が犠牲になる事を政治家や官僚は理解していたと思われます。 鉄鋼産業は今でも日本にとっては重要です。 政府は、鉄鋼産業を存続させたいと種々動いたと思いますが、小手先の対策を取ったために、鉄鋼業界を駄目にしたのです。
当時、我が国には世界に誇れる超大形の高炉が沢山建設されていました。 超大形高炉の操業には高度な操業技術が必要なのです。 (単に、大きな高炉を建設しても、操業出来ません。) 円高が少しずつ進んでいたら、日本の鉄鋼業界は世界を制していたと私は考えています。 韓国のホコウ製鉄所(現・ポスコ)と、中国の宝山鋼鉄を建設したのは日本です。
(稲山嘉寛氏) ホコウ製鉄所と宝山鋼鉄の契約時、新日鉄の会長の稲山氏がサインしました。 (多くの先人達の努力の結晶である、) 製作図を含む図面一式、操業マニュアル等の貴重な資料を渡し、運転員のトレーニングまでしてしまいました。 それによって日本の鉄鋼業界が被った損失は計り知れません。 国賊だと言っても過言では無いと私は思います。 なんと、稲山氏は責任を問われる事無く、その後、経団連の会長になったのです!
(余談) 戦前は、鉄鋼と同様に石炭は、重要な産業だった様で、優秀な人材が集まっていたのです。 私が社会人になった頃は、石炭産業は”青息吐息"の状態でした。 三菱石炭鉱業から引合/注文を頂いて、旧丸ビルに有った本社に何回もお邪魔しました。 担当の方達は40歳台~50歳台の旧帝大卒で、技術屋として非常に優れていました。 斜陽産業に固守されないで、他社に移られたら大活躍されそうな方達でした。
★★ 私が務めた会社の経営状態が悪化し、民主化度が低下したのは、日本の政治家、官僚、稲山氏の安易な指示を受けて、悪知恵の働く社員達が活躍したためです。★★
★ 1973年 :第一次オイルショック /変動相場制に移行(1ドル=360円台→↓↓↓)
★ 1979年 :第二次オイルショック
★ 1985年 :プラザ合意 ;急激な円高ドル安 1ドル=240円台→120円台へ
★ 1986年 :円高不況 →→産業の空洞化
★ 1986年~90年 :平成好景気
★ 1993年 :バブル崩壊
★ 1995年 :阪神・淡路大震災
★ 2008年 :リーマンショック
【経費節減運動】
最初の経費節減運動は、1973年の第一次オイルショックの後に始まりました。 ある日、部長が社員を集めて「経費を節減」する様に訓話しただけでしたが、その部長は”至って”真面目な方で、率先して実行されました。 当時、既に夜間の高速バスが走っていましたが、現在の様に快適な座席では有りませんでした。 高齢の部長が利用されるので、私も仕方なく乗りました。 最初に乗った時、隣席のイビキが凄くて寝れ無かったので、次からは酒を買ってきて、私は早く寝る様に努力しました。(多分、イビキをかいたと思います。) 東京に着く時間が早すぎて、難儀した記憶が有ります。
二回目の経費節減運動は、1985年のプラザ合意の後に始まりました。 実に”くだらない”、恥かしい内容でした。 各自が所有して良い事務用品を、鉛筆赤と黒各1本、黒と赤のボールペン各1本、シャープペン1本、消しゴム1個とし、その他はグループで一組と決め、余分(?)な事務用品は廃棄したのです。
(余談) その前の4年間、私は東京本社勤務でした。社長が、社長の派閥の重役数人を引き連れて、週に二三回超高級クラブで、豪遊されているのを知っていました。 一人一時間遊ぶと100万円もしたのです。 (この話は、社員の士気に関わると思ったので、会社では誰にも話しませんでした。)
三回目の経費節減運動は1988年です。 当時、私の所属していた部の運動の責任者は、”酸いも甘いも知る”方でした。 運動の内容は3年前と同じでしたが、彼は”余分?”な分を廃棄しないで、紙の箱に入れて、誰でも手の届く所に置いたのです。 (この時、社長は別の方になっていましたが、友人の話しでは、超高級クラブでの豪遊はもっと盛んだった様です。)
【昇給ストップ→ダウン】
1985年のプラザ合意によって、輸出が難しくなり、日本経済は一時停滞する事になってしまいました。 一年程で、日本の経済は回復しましたが、私の会社の経営状態はドンドン悪化して、昇給が完全にストップしました。 誰が考えたのか? 巧妙な手を使って少しずつ給与を下げ始めました。
1986年から日本は『平成好景気』に入り、他の業界の会社では少しずつ給料が上がりましたが、私の会社は逆に下がり続けたのです。 先ず、ボーナスを下げ、定期昇給をストップしました。 (私は、人事上の職場で働く事が少なく、他部署に貸し出されて難しい開発の仕事をしましたので、ボーナスは下がりませんでした。それでも、1995年に出向する迄の10年間で、年収は20%近くダウンしました。)
【係長制度の廃止】
私が入社した頃は、課長の下に係長がいました。 係長の重要な仕事の一つは、(新入社員を含め)経験の浅い社員の教育でした。 然し、1975年までに、係長制度は廃止されました。 職場での教育は”不要”、"する必要は無い”としたのです そして、新入社員等の社内教育を始めました。 大きな工場では、立派な研修所を建てて、大学の復習の様な教育を始めたのです。
この制度は一見良さそうに思えますが、設計などの職場のレベルを低下させただけで無く、雰囲気も悪くしたと、私は思いました。 日本の理科系の大学教育は、学問の基礎を教えているだけです。 (文科省の考え方は、「仕事は、会社で適当に教えなさい」です。) 医学部の様に、卒業して国家試験に合格したら一人前(?)に働ける様に学生を教育していないのです。
私より数年後に入社した社員の中には、飛んでもなく技術レベルの低いままで管理職になったのがいました。 私は、そんな管理職の部下を何人も教育する事になってしまいました。
【課長を廃止しました】
課長を廃止て”主任”を設けました。主任は一応は管理職で、組合員では無くなるのです。 主任の部下はドンドン減って来ました。 私が働いていた開発部署では、部下のいない主任も沢山いました。 管理職の会議は、(昔の習慣を引きずって)主任も参加するので、管理職の会議が始まると部屋はガランガランになりました。
主任制度になって少し後に、主任の給与は評価で大幅に上下する事になりました。 主任に昇格すると必ず昇給するのですが、私の周りの主任達は次の年も、その次の年もダウンして、3年もすると昇格前か、それ以下の給与になっていました。 人事部の知り合いの主任に、「給料がアップした主任はいるのですか?」と聞いてみました。「全社で数人いるから、評価していないとは言え無い、僕もダウンした!」と言いました。
主任は組合員では有りませんから、春闘の対象にはなりません。 悪賢い人間が考え出した”妙案(?)”だったのです!
【平社員にも評価制度を導入しました】
私が出向する少し前には、平社員のベテランと主任の給与の差が殆ど無くなっていました。 逆転している主任も出てきました。 多分、その問題を解消するのが目的だったと思うのですが、平社員の給与にも評価制度を導入する事になりました。
社員を集めて、「頑張った人の給与はアップする」と説明しましたが、多分誰も信用しなかったと思います。 私は、幸いにも、直ぐに出向したので被害は受け無かったのです。
【日本にとって、今後も工業は大切です】
近年の日本の経済について、極めて大雑把な話をします。 日本に有る富を100とします。その内90は国内で生産した富で、10は外国から輸入された富です。 国内生産の90の内、10は外国に輸出されます。 従って、国内では90が消費されます。(国内消費90の内、80が国産と言う事になります。) これは、現在の世界では、非常に健全な経済の国だと言えます。
日本には地下資源(原油、鉄鉱石・・・)が殆ど有りませんから、工業製品を輸出して得た金でそれらの資源を輸入し続けなければなりません。 国際競争力の有る工業分野の企業が、頑張って資源を買う金を稼がなければなりません。
優れた工業製品でも、製造方法を工夫して『安価』に製造しないと、国際競争には勝てません。 例えば、プレス加工の加工費は安いですが、一回に200個~400個以上製造したら少し安くなります。 開発費用は、予想販売台数で割った値が製品単価に加算されます。 日本は、(キーエンス社が代表例ですが、)計測器/分析器/センサー等の分野が強いですが、新製品を上市するまでに膨大な開発費が必要になります。 ある機種を開発するのに10億円掛かったとします、1万台で回収する計画の場合は、製品に10万円上乗せする必要があります。
工業製品が国際競争力を維持する為には、国内だけで無く海外に沢山輸出して、生産台数を増やす事が不可欠なのです。 日本には、生産台数の30%以上を輸出している企業が沢山有ります。 (若者よ!英語をマスターして、将来そんな企業で活躍して下さい!)
為替の変動は、輸出割合の大きな企業にとっては重大な問題です。プラザ合意で1ドル=240円台が→120円台に、円が急激に上昇しましたが、将来同様の事が起こった時は、政治家と官僚は「安易な対策を二度としてはならない!」と私は思います。
(補足説明) 上に、「国内消費90の内、10が輸入」と書きましたが、皆さんが買う品物の多くは輸入品ですから、皆さんは奇異に思われるかも知れません。中国が10円で輸出した製品でも、商社や問屋の取り分、輸送費、販売店の取り分、保険料等々が加算されて、皆さんは30円とか40円で買う事になります。 その差額の20円~30円は国内生産した富とカウントされます。 そんな理屈で、意外と日本の輸入依存率は低いのです。
【日本を襲った経済ショック】
私が務めた会社は、売り上げの50%以上を鉄鋼部門が担っていました。 入社した頃はまだ、『鉄は国家なり』と言う言葉は死語にはなっていませんでした。 1985年のプラザ合意で、急激な円高になり、鉄鋼会社が犠牲になる事を政治家や官僚は理解していたと思われます。 鉄鋼産業は今でも日本にとっては重要です。 政府は、鉄鋼産業を存続させたいと種々動いたと思いますが、小手先の対策を取ったために、鉄鋼業界を駄目にしたのです。
当時、我が国には世界に誇れる超大形の高炉が沢山建設されていました。 超大形高炉の操業には高度な操業技術が必要なのです。 (単に、大きな高炉を建設しても、操業出来ません。) 円高が少しずつ進んでいたら、日本の鉄鋼業界は世界を制していたと私は考えています。 韓国のホコウ製鉄所(現・ポスコ)と、中国の宝山鋼鉄を建設したのは日本です。
(稲山嘉寛氏) ホコウ製鉄所と宝山鋼鉄の契約時、新日鉄の会長の稲山氏がサインしました。 (多くの先人達の努力の結晶である、) 製作図を含む図面一式、操業マニュアル等の貴重な資料を渡し、運転員のトレーニングまでしてしまいました。 それによって日本の鉄鋼業界が被った損失は計り知れません。 国賊だと言っても過言では無いと私は思います。 なんと、稲山氏は責任を問われる事無く、その後、経団連の会長になったのです!
(余談) 戦前は、鉄鋼と同様に石炭は、重要な産業だった様で、優秀な人材が集まっていたのです。 私が社会人になった頃は、石炭産業は”青息吐息"の状態でした。 三菱石炭鉱業から引合/注文を頂いて、旧丸ビルに有った本社に何回もお邪魔しました。 担当の方達は40歳台~50歳台の旧帝大卒で、技術屋として非常に優れていました。 斜陽産業に固守されないで、他社に移られたら大活躍されそうな方達でした。
★★ 私が務めた会社の経営状態が悪化し、民主化度が低下したのは、日本の政治家、官僚、稲山氏の安易な指示を受けて、悪知恵の働く社員達が活躍したためです。★★
★ 1973年 :第一次オイルショック /変動相場制に移行(1ドル=360円台→↓↓↓)
★ 1979年 :第二次オイルショック
★ 1985年 :プラザ合意 ;急激な円高ドル安 1ドル=240円台→120円台へ
★ 1986年 :円高不況 →→産業の空洞化
★ 1986年~90年 :平成好景気
★ 1993年 :バブル崩壊
★ 1995年 :阪神・淡路大震災
★ 2008年 :リーマンショック
【経費節減運動】
最初の経費節減運動は、1973年の第一次オイルショックの後に始まりました。 ある日、部長が社員を集めて「経費を節減」する様に訓話しただけでしたが、その部長は”至って”真面目な方で、率先して実行されました。 当時、既に夜間の高速バスが走っていましたが、現在の様に快適な座席では有りませんでした。 高齢の部長が利用されるので、私も仕方なく乗りました。 最初に乗った時、隣席のイビキが凄くて寝れ無かったので、次からは酒を買ってきて、私は早く寝る様に努力しました。(多分、イビキをかいたと思います。) 東京に着く時間が早すぎて、難儀した記憶が有ります。
二回目の経費節減運動は、1985年のプラザ合意の後に始まりました。 実に”くだらない”、恥かしい内容でした。 各自が所有して良い事務用品を、鉛筆赤と黒各1本、黒と赤のボールペン各1本、シャープペン1本、消しゴム1個とし、その他はグループで一組と決め、余分(?)な事務用品は廃棄したのです。
(余談) その前の4年間、私は東京本社勤務でした。社長が、社長の派閥の重役数人を引き連れて、週に二三回超高級クラブで、豪遊されているのを知っていました。 一人一時間遊ぶと100万円もしたのです。 (この話は、社員の士気に関わると思ったので、会社では誰にも話しませんでした。)
三回目の経費節減運動は1988年です。 当時、私の所属していた部の運動の責任者は、”酸いも甘いも知る”方でした。 運動の内容は3年前と同じでしたが、彼は”余分?”な分を廃棄しないで、紙の箱に入れて、誰でも手の届く所に置いたのです。 (この時、社長は別の方になっていましたが、友人の話しでは、超高級クラブでの豪遊はもっと盛んだった様です。)
【昇給ストップ→ダウン】
1985年のプラザ合意によって、輸出が難しくなり、日本経済は一時停滞する事になってしまいました。 一年程で、日本の経済は回復しましたが、私の会社の経営状態はドンドン悪化して、昇給が完全にストップしました。 誰が考えたのか? 巧妙な手を使って少しずつ給与を下げ始めました。
1986年から日本は『平成好景気』に入り、他の業界の会社では少しずつ給料が上がりましたが、私の会社は逆に下がり続けたのです。 先ず、ボーナスを下げ、定期昇給をストップしました。 (私は、人事上の職場で働く事が少なく、他部署に貸し出されて難しい開発の仕事をしましたので、ボーナスは下がりませんでした。それでも、1995年に出向する迄の10年間で、年収は20%近くダウンしました。)
【係長制度の廃止】
私が入社した頃は、課長の下に係長がいました。 係長の重要な仕事の一つは、(新入社員を含め)経験の浅い社員の教育でした。 然し、1975年までに、係長制度は廃止されました。 職場での教育は”不要”、"する必要は無い”としたのです そして、新入社員等の社内教育を始めました。 大きな工場では、立派な研修所を建てて、大学の復習の様な教育を始めたのです。
この制度は一見良さそうに思えますが、設計などの職場のレベルを低下させただけで無く、雰囲気も悪くしたと、私は思いました。 日本の理科系の大学教育は、学問の基礎を教えているだけです。 (文科省の考え方は、「仕事は、会社で適当に教えなさい」です。) 医学部の様に、卒業して国家試験に合格したら一人前(?)に働ける様に学生を教育していないのです。
私より数年後に入社した社員の中には、飛んでもなく技術レベルの低いままで管理職になったのがいました。 私は、そんな管理職の部下を何人も教育する事になってしまいました。
【課長を廃止しました】
課長を廃止て”主任”を設けました。主任は一応は管理職で、組合員では無くなるのです。 主任の部下はドンドン減って来ました。 私が働いていた開発部署では、部下のいない主任も沢山いました。 管理職の会議は、(昔の習慣を引きずって)主任も参加するので、管理職の会議が始まると部屋はガランガランになりました。
主任制度になって少し後に、主任の給与は評価で大幅に上下する事になりました。 主任に昇格すると必ず昇給するのですが、私の周りの主任達は次の年も、その次の年もダウンして、3年もすると昇格前か、それ以下の給与になっていました。 人事部の知り合いの主任に、「給料がアップした主任はいるのですか?」と聞いてみました。「全社で数人いるから、評価していないとは言え無い、僕もダウンした!」と言いました。
主任は組合員では有りませんから、春闘の対象にはなりません。 悪賢い人間が考え出した”妙案(?)”だったのです!
【平社員にも評価制度を導入しました】
私が出向する少し前には、平社員のベテランと主任の給与の差が殆ど無くなっていました。 逆転している主任も出てきました。 多分、その問題を解消するのが目的だったと思うのですが、平社員の給与にも評価制度を導入する事になりました。
社員を集めて、「頑張った人の給与はアップする」と説明しましたが、多分誰も信用しなかったと思います。 私は、幸いにも、直ぐに出向したので被害は受け無かったのです。