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企業の民主化 (その4)

2019-11-16 11:06:49 | 民主主義
 前稿に続いて、プラザ合意後の会社の話しです。 会社の民主化度はドンドン低下して、私の友人関係はズタズタになってしまいました。 早期退職を強いられた社員には、離婚した人もいました。 そして、会社と社員達の多くに、『止めの禍』の阪神淡路大震災が襲ったのです!

【資産の売却】
 前々回『企業の民主化(その2)』に書いた様に、プラザ合意の後、会社の経営が傾くまでは、社宅、独身寮、大きな体育館、運動場、保養所などなど、福利厚生施設が充実していました。

 K氏が、1987年に社長に就任され、→会長→1998年に辞められるまでの約10年間で、十か所程の工場を閉鎖して、跡地を売却しました。さらに、殆どの福利厚生施設も売却しました。 震災で壊滅的な被害を受けた神戸本社の跡地さえ売却したのです。

(余談 ①) 私は転勤が多かったので、独身寮と社宅(4か所)に住みましたが、出向した時(1996年)には5か所とも全て売却されていました。

(余談 ②) 1995年の阪神淡路大震災の後に、東京から某平取(ひらの取締役)が私の所属していた部署に来られて、社員の前で訓話を始めました。「地震の時、○○ホテルの××階に宿泊していた・・・」と話し出した時、ドヨメキが起こりました。 超高級ホテルのスイートルームの様な部屋だと社員達は知っていたのです。 私達は、東京へ一泊二日の出張する時は夜行バスを利用して宿泊代を節約していました。 震災前に、沖縄から引き合いが入り、技術説明の為、飛行機での主張を申請したら、往復・フェリーを乗り継ぐ案しか許可され無かったのです。(余りにも時間が掛かるので、断念しました!)

【ブルーカラーの残業代】
 ブルーカラーの社員は残業代が100%出て、ホワイトカラーは基本的には0%でした。(部署によっては少し出ました。) 経営が苦しくなってきて、ブルーカラーが(例えば100時間)残業すると、80時間分の残業代は支払うが、残りの20時間分は積み立てて、後日長期有給休暇を取得させる制度になりました。 そして、支払う残業時間は、80時間→70時間→60時間→段々少なくなって来ました。

 社員規定で、アルバイトは禁止されていたのですが、残業代を支払う時間が少なくなったので、1か月とか2か月の長期休暇を取る社員が出てきました。 それで、社員規定からアルバイト禁止条項が削除され、器用な社員達はアルバイトで結構儲けた様でした。

 私が入社した頃は、英語の読・書・会話の出来る、ブルーカラーは結構沢山いました。 彼らは海外に出張して、大掛かりな機械を据付/試運転/引渡をしていたのです。  出向が始まると、古手社員から出されたので、英語の出来る社員はドンドン減ってきていました。 一度出かけると数か月間帰らないケースも多々あり、海外での据付工事は殆ど休日が取れなかった様で、残業も多かった様です。 一度の海外出張で、残業が数百時間・溜まるケースは珍しい事では有りませんでした。

 その中に愉快な社員がいて、時々会社で見掛けたら、夜呑みに行っていました。 残業時間の積み立て制度が始まると、海外出張から帰ると二三日は出社するのですが、その後、二三か月の長期休暇を取り、二三週間出社して、また海外出張に出掛けていました。 それで、彼との飲み会は出来なくなり、私が出向する時、彼は海外に出ていたので挨拶も出来ませんでした。

(余談) 昔から、時々雑談をしていた、気の良い電気工事担当の社員が、部下2人の班長になっていました。 ある日、友人と居酒屋の座卓で飲んでいたら、彼が隣の席に部下2人を連れて来ました。 「残業代は出ないけど、残業してくれ」と頼みだしたのです。 残業時間の積み立ては、”ポイント”の様に期限があり、期限が過ぎると無効になりました。 部下2人では長期の休暇は取れません! 「班長は給料が良いから、僕らは・・・」と言い出すと、班長は鞄から給与明細とボーナス明細等を出して見せていました。 その班長は自分の残業代を減らして、その分を部下に廻していたのです。 ただ働きしたブルーカラーも沢山いたのです。

【出向の嵐が吹き始めました】
 1985年に昇給を停止するのと、ほぼ同時に出向や遠隔地の工場への配置転換が始まりました。 段々出向で去っていく社員が増加して来ました。 設計担当者は、設計の子会社に出向させられ、給与が大幅にダウンしました。 出向しても仕事は同じでしたが、出向した日から作業服が変わり、社員食堂を利用出来無くなりました。

 直ぐに、殆どの設計のベテラン社員は子会社に出てしまい、本体には若手社員が大半を占める様になってしまいました。 子会社の社員が、親会社の若手社員を教えながら仕事をする、異常な状態になたのです。

 大きな工場を閉鎖する時には、早期退職を少し募集した様でしたが、基本的には国の方針で、社員を出向させたのです。 (退職させると失業率が高くなります。) 早期退職制度では、退職金の水増しが必要になります。 時の政府の意図では無かったと思いますが、60歳で定年になった時の退職金を大幅に下げて、会社はリストラ費用を削減出来ました。(退職金は勤務年数で決まる月数に、定年時の月給を掛けた値でしたから、給与を毎年下げれば退職金は削減出来ます。)

 出向が始まる前の正社員数は2.5万人ほどでしたが、10年程で1.3万人ほどになっていました。  出向を進めながら、新入社員を採用したので、50%以上の社員が出向したり、退職した事になります。 出向が始まった頃は、グループ単位で送別会をしていましたが、余りにも頻繁に行われる様になり、二三人で一人を送るケースも出てきました。 それで、部単位で、二三か月分纏めて送別会をする様になったにのです。)

 本社に評判の悪い社員を集めて、50人程の出向先を探す部隊が出来ました。 非常に汚い手段まで使って、出向や退職をさせたのです。

【親友の出向】
 同期でグルメの親友が、出向が始まった頃、たまたま同じ職場にいました。 片道切符の出向(会社に戻れない出向)と、往復切符の出向が有りました。 部長から、「往復切符の出向だから、某子会社で2年間我慢してくれ」と言われたのです。 私は、部長と長い付き合いで、東大卒だけど仕事が出来ず、でも性格は良い人だと思っていました。 私は、人事部の情報に詳しい知り合いがいたので、片道切符の出向だと言う事を知っていました。 でも、出向リストに載ってしまうと、本人の希望は通らない事も知っていたので、彼には何も言わずに、二人で別れの酒を飲みにいきました。 (彼の出向先は、彼の家から200kmほど有りましたので、単身赴任した様でした。)

 私の想像でですが、部長は『2年後には自分は転勤になっているだろうから」と噓を言ったのです。 2年近く経った頃、彼から部長に電話が掛かって来る様になりました。 部長は、「君が帰れる様に種々頑張っている」様な話をしていました。 彼から余りにも頻繫に掛かって来るので、私は電話で”片道切符の出向”だと教えたのです。 彼は、私に烈火の如く怒りました。 それ以来、彼からの連絡は途絶えて、彼のグルメの誘いは無くなってしまいました!

【自分で辞めさせる出向】
 社員30名程の機械加工の協力会社が有り、出向者を受け入れてくれるので、優先的に仕事を出す様に言われました。 仕事の知識が全く無い女性の社長でした。 製品の運搬・納入と営業をする担当者がいましたが、彼も機械加工の知識が殆ど有りませんでした。 少し複雑な加工が必要な場合は、職人に直接説明する必要が有り、私は何回も出向きました。 私の会社からの出向者が何時も一人いましたが、半年も経たない内に新しい出向者に変わっていました。

 不思議に思って情報通の人に聞くと、気の弱い社員を選んで出向させ、その会社で「仕事が遅い、ミスが多い」等と徹底的に虐めて、自分で辞める様にするのだそうです。 私の会社が、社長に指示していたのです。

 時々会ったら雑談していた、気の良い職人さんがいたのですが、ある日、その会社に出向する事になったと挨拶に来ました。私は、言葉を失ってしまいました。彼は、2か月程で退職しました。 この手で、10年間に30人~40人辞めさせて、会社は億単位の金を節約出来たのです。(社長達の豪遊は続いていましたので、本当に腹が立ちました!)

【御用組合の暗躍】
 ブルーカラーの社員を出向させる場合、会社が出向者のリストを作り→組合に渡す→出向予定者の職場の常議員(組合の会議の議員)が、『脅したり、すかしたり』して説得するのです。 万一、説得に失敗すると常議員は責任を取らされる仕組みでした。 常議員は自分が地獄に落ちない様に必死になって頑張る分けです。

 組合は職場の人事権の一部を握って、誰が見ても適任で無い社員を職長や班長に昇格させました。 力を誇示したかったのです。 こんな事をしてたら、会社の将来に如何に大きな傷を残す事になるか?誰にでも分かると思いますが!

【私の出向】
 私は出向の嵐が吹いていた時、暗礁に乗り上げた開発を何件も引き継いでやりました。 阪神・淡路大震災で更に会社の経営状態が悪化して、開発費を大幅に縮小する事になり、1996年に私も出向する事になりました。

 私の同期は450名ほどいましたが、出向する時には10%程しか残っていなかったと思います。 私の後輩達も沢山退職したり出向していました。 私は、無理を言って、技術屋として武者修行に出してもらう事にしました。

 出向者をフォローする担当者がいて、私の係は真面目な方でした。出向先に、年に2回様子を見にきてくれました。 ある日、会社で悪評の高かった男が来て、「私が貴方の担当になった、今夜飲みましょう!」と言うのです。 彼は、出向先の社長が「本心では君が嫌いだ!・・・君を返したいと言った」などと言うのです。 それから、数日おきに来社して、社長には「私が社長から酷い扱いを受けていると言った」と言い、私には”社長の悪口を”言い続けました。 社長と私は根負けして、彼の要求を呑む事にしました。 既に、私の新しい出向先は決まっていました。

 新しい出向先は私の会社と取引が全く無いのに、出向者を数人受け入れ、OBも数人雇っていました。 (出向後に知ったのですが、)その会社の開発部長が脳血栓になり、私の会社に「開発部長を派遣して欲しい、出来なければ出向者を全員返す」と強く要求していたのです。