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マスコミがあまり報道しない様な問題を、私なりに考えてみます。

企業の民主化 (その6)

2019-11-30 14:45:49 | 民主主義
 今回は、私にとって思い出したくない、会社での『不条理』な経験を書きます。 私の可愛い孫達が社会に出る前に、政治家やジャーナリストが頑張って、企業の民主化度を改善する事を願っています。

【直立不動を要求した重役】
 私の経験では、重役に昇格すると三人に一人は”人格異常”になりました。 その典型例がM氏です。 M氏は大きな工場駐在の平取になり、ガラス張りの広い重役室に入りました。M氏は、重役室ではメモを取る事を禁止して、直立不動を要求するのです。 そして、長時間掛けて細かな指示をするのです。

 その時の体調によると思いますが、人間は30分ほど直立不動で立っていると、意識が朦朧となって倒れるそうです。ガラス張りの部屋ですから、「今日は、○○さんが倒れた!」と言う話が、直ぐに広まりました。 私はM氏の部下では無かったので、「○○さんでは無く、M重役が悪いのだ」と女性社員達に言いましたが、「ふーん、そうかしら?」と言う様な反応でした。

【無茶苦茶な工場長】
 私が所属していた工場(K工場)の工場長にT氏が着任しました。 着任した時の挨拶で、「私の座右の銘は”朝令暮改”です」と話しました。 「自分の言動が間違っていたと気付いたら、直ぐに訂正す勇気を持て」と言うのです。 一見、正論の様に見えますが、T氏は思い付きで指示を出し、頻繁に180度違う指示を出すのです。

 当時、私は東京本社勤務でしたが、設計部員全員に訓話をする時はK工場まで出張させられました。 金正恩が指示を出している映像が報じられますが、まさに同じ様な光景でした。私ともう一人(G氏)以外は、全員、頷きながら聞く異様な光景だったのです。 T氏は、G氏と私を睨み付けながら話していました。 数か月後にG氏はアメリカの子会社に飛ばされ、私は研究所に貸し出されて難しい開発を担当させられました。

 T氏は設計部長兼務でした。設計部は課制度が廃止され、4つの室になっていました。一番古手の管理職が”室長”になっていましたが、T氏は若手を室長に抜擢して、古手は殆ど出向させました。抜擢された室長達は、長くて半年、最短は1週間ほどで交代させられ、その後は営業に飛ばされたり、出向させられたりしました。 1年ほどすると、私より年長の社員だけで無く、数年後に入社した社員達も殆どいなくなってしまいました。”人減らしの嵐”が吹いていたので、T氏の無茶苦茶な人事は会社の方針に合致していたのです。

(余談) 『禍福は糾える縄の如し』とはよく言ったものです。T工場長が移動になった後、G氏は帰国しました。K工場には、殆ど人材が残っていなかったので、G氏はトントン拍子に出世して、最後は専務になられました。 私は、難しい開発を次から次に担当する事が出来、技術者として悔いの無い、素晴らしい人生を送る事が出来ました。

【東大で銀時計を貰った社員】
 私は、ノルウェーの兵器廠から技術導入してガスタービンを国産化している課に勤務していました。 私より十歳ほど年上で、東大で銀時計を貰ったというエリート?(S氏)が配属されました。S氏は着任早々、「僕は社長になるために、この会社に入った」と公言して、殆ど仕事をせずに、東洋経済やダイヤモンドなどの経済の雑誌を読んでいました。

 課長が時々仕事を言いつけるのですが、報告書の作成、工学の計算、計画図の作成など、何をやらせても出来ないのです。S氏は社内の英語のリスニングテストは抜群の成績でしたので、ノルウェーからのお客さんの応対を任されました。お客さんから、「せめて、大学卒の方に代えて頂きたい」と言われたそうです。「幾ら英語の成績が良くても、日本語の出来ない人間ではだめだ!」と言って、お偉方達は笑っていました。 S氏は暫くして配置替えになりましたが、60歳の定年まで給料を貰いました。

 たいていの大企業には、仕事をしない社員はいます。私はS氏以外にも、①出社して10分程したら、何処かに出掛けて、定時の10分程前に帰社する社員、②目が悪くなって文字が読めなくなった社員、③工場の隅で空き缶を叩きながら、一日お経を唱える社員、④電話の無い席で、一日新聞を読む社員(彼には話しかけるなと言われていました。)等々・・・十人ほど知っています。終身雇用ですから、辞めさせられないのです。

(余談) 私はS氏と数年間同じ課の所属でしたが、その後、十年以上会っていませんでした。私が小さな会社に出向して、近くの顧客を訪問する途中で、バッタリ・S氏に会ってしまいました。 S氏は私の出向先を調べて、居室に入って来る様になってしまいました。 S氏は県営住宅の管理人になっていて、暇を持て余していたのです。 「忙しいので帰ってくれ、忙しいのでもう会えない」と言っても駄目でした。

【弱視になった社員】
 私が入社した時、歯車の設計をしていた社員が二人いました。一人は定年まじかで、30歳代の若手(H氏)を育てていました。 私はスイスのマーグ社が設計した減速機の国産化を担当する事になり、二人に親切に色々教えて頂きました。  その後、何回も歯車の設計が必要になり、この時・教えて貰った事が役立ちました。  (当時の定年は55歳でした。)

 それから15年ほど経って、私が転勤になった部にH氏がいました。 H氏の席は、広い部屋の隅にポツンと置かれていました。 直ぐに挨拶をしましたが、彼は殆ど目が見えなくなっていました。 それで、新聞も読まずに一日座っているだけだったのです。時々、私がH氏に話し掛けるのを見て、女性社員達は「なんで?」と不思議がりました。彼女達は、”不要物/ゴミ”の様に接していました。

 既に、出向の嵐が吹いていましたが、引き取って貰える会社が無くて、H氏はまだ会社にいたのです。 元気な頃に、多くの社員がH氏のお世話になったので、辞職を迫る人はいなかったのだと思いました。 多分、いたたまれ無い心境だたのでしょう! 彼は数か月後に(自ら)辞表を出し、送別会も辞退して辞めた様でした。 私は、彼の様に働け無くなった人は、労災の様な制度で国が面倒を見るべきだと思います。

【現場社員の虐め】
 私が最初に出向したのは、機械の設計/製造をする小さな会社でした。 仕上げ・組立・現地据付をする現場社員(仕上げ工)が五六名いました。リーダーの30歳代前半の社員(A氏)が、常に部下の一人をターゲットにして、チクリチクリと虐め、一人が辞めると別の人がターゲットになるのです。 年に一人か二人辞めました。

 それから、10年ほどして定年になり、私はその会社に再就職しました。 仕上げ工は全員新しいメンバーになっており、A氏は癌で亡くなっていました。 やはり30歳代前半の社員(B氏)がリーダーでしたが、B氏は取り巻きの二人を除いて、徹底的に虐めるので、年に二三人辞めていました。 その都度、製造部長がハローワークに求人を出していましたが、部長はギブアップしてしまいました。

 社長、部長、私の三人で対策を話し合い、私は「B氏を辞めさせる」案を推奨しましたが、二人は反対されました。 結論は、「B氏に面接させて、彼が納得した人を採用する」でした。 B氏、部長、私の三人で数人面接して、B氏が最も適任で無い、従順そうな二人を選びました。

 居酒屋で店員をしていた20歳代の男性(C氏)と、大手電機会社に出向して家庭電気製品の組立ラインで働いていた40歳ほどの男性(D氏)です。 早速、C氏を虐め始め、C氏は2か月目の給料を貰って辞めました。それからは、D氏の番でした。D氏は、妻子がいたので、半年ほど頑張りましたが、結局辞めました。 部長はハローワークに行こうとしませんでしたし、取り巻きの一人を虐め始めたので、私が辞める時には、仕上げ工は二人になっていました。

【沢山、部下を辞めさせた社員】
 私はブルーカラー社員の世界は良く知りませんが、ホワイトカラーでは数十人の中に一人は、『虐める事が出来る地位(管理職)になると、虐め始める』人が出て来る様に思います。 そういう人は、年とともに苛めがエスカレートしてくる様でした。

 自分の失敗を入社二三年目の社員に押し付けたり、些細な事で部下を怒鳴って辞めさせた管理職を十人程知っています。部下を十人以上辞めさせた失格管理職を二人知っていますが、(なぜか?)会社は、部下が辞めると、若い部下を新たに付けるのです。 「貴方の子供か孫が、そんな失格管理職の部下になる」と想像して下さい。 法律では罰する事は出来ませんが、失格管理職と人事部の担当者は一種の犯罪者です。

【オームの村井秀夫氏】
 1995年に阪神淡路大震災が有りましたが、その年の暮れに、1985年頃に同じ部署で働いていた仲間・三人で飲みました。 私が「○○部長から毎日怒鳴り付けられていた二人はどうしているか?」と聞いたら、「○○部長の席から数メートル離れた所に、殺されたオームの村井氏の席が有った、覚えているか?」と言うのです。村井氏は、数メートル離れて私と向かい合って座っていたらしいのでですが、私には全く記憶が有りませんでした。 (村井氏がオームに入信したのは、その後の1987年だそうです。)

 日本の1社とヨーロッパの2社でしか製造していない機械が、国立の研究所や大学で使用されていました。 入札が出来ないので、私の会社に、文部省から期限4年で開発を依頼していました。流体機械を研究していた管理職(P氏)の下に、精密加工を研究していたF氏、図面工のJ氏と実験工2人の合計5名のチームで開発していました。 開発は暗礁に乗り上げ、P氏は逃げてしまい、F氏が毎日の様に責められて、ノイローゼになって1984年の1月頃に退職してしまい、開発は中断してしまいました。

 約束した開発期限まで1年を切った時に、私はK工場から貸し出されて、その開発を担当させられたのです。悪賢い人達が考えた妙案でした。『私が失敗しても、幽霊社員ですから私を首にしたら、偉い人達は誰も責任を取らなくても良い』と言うグッドアイデアです。 私は、子供が小さかったので会社を辞める分けにはいかず、一か八かで必死になって頑張りました。 (もともと髪の毛が少なかったのですが、酷い円形脱毛症になって、以来、ほぼ坊主頭になりました。)

 辞めたF氏と村井氏は、二人とも加工の研究者で、席が10メートルも離れたいなかったので、多分面識が有ったと思います。F氏が辞めた経緯、私に無茶苦茶な責任を負わせる状況、○○部長が連日部下を大声で虐めるのを見て、更に”人減らしの嵐が吹き出した”のを見て、村井氏は会社と人生に失望したのでは?と私は思いました。 (村井氏を擁護するつもりは有りませんが、)当時、村井氏は二十歳代でしたから、こんな環境には耐えられ無かったでしょう!

(余談) 奇蹟が起こって、私は開発に成功しました。研究開発を担当していた重役から表彰状を頂ける事になったのですが、式の冒頭に重役が、「チョット協力したからと言って、他部署の人間を表彰する当社の体質は問題である、辞退すべきだ!」と言い出しました。私が席を立って退出しようとしていると、実験工の一人が「それはあんまりだ、僕も辞退する」と言って立ちました。 残りの実験工達も立ち上がり、お偉方が制止するので、私も席に戻りました。 開発の手柄は、最後まで逃げ回ったP氏が受け、私は紙切れ一枚もらっただけです。 (会社を辞めずに済んだので、私は満足すべきでした!?)

【最悪のケース :1】
 大昔(1970年代)の話しです。 ある機械の拡販を狙って、重役主催の大パーティーを開きました。 コンパニオンを沢山雇って、大いに盛り上がっていたのですが、客の一人が重役に、「招待状の名前が誤っているのでは?」と言ったのです。 招待状を確認した重役が、沢山の客の前にも拘わらず、烈火の如く怒り出したのです。 (これは、私の目の前で起こりました。)

 担当部長と課長が、部下の新入社員(U君)を呼び付けて、重役の前でU君を、”こっぴどく”怒鳴り付けました。 U君は会場から出て行って、そのまま退職してしまいました。

 パーティーの後、真面な連中と打ち上げ会をしたのですが、「U君が作った原稿を、部長と課長がチェックしたはずだから、U君だけの責任では無い」と言いながら、飲みました!

【最悪のケース :2】
 三人の重役が連名で顧客に出した文章の話しです。 出した後に、重役の一人が担当部署に来て、「序列が間違っている!」と部長と課長を怒鳴ったのです。 →部長と課長は、その場にいた担当の新入社員を怒鳴り付け→彼は数日後に辞表を提出しました。

 会社務めの経験の無い方には分からないかも知れませんが、重役には序列が有ります。 同じ平取(専務や常務でない取締役)でも序列が有ります。 重役の名前を列記する時は、会社が決めた序列に従う事が重要なのです。 「あいうえお」順は以ての外です。 私は若い時から重役絡みの仕事をしたので、重役の序列が大事な事だと教えられていました。 然し、一般には、そんな教育はされていませんでした。

(余談) 日本の法律には会長、社長、専務、平取の規定は有りません。株主総会で選ばれた取締り役達が、会社の規定で序列を決めているのです。 大企業では「会長」は代表権を持つ権力者ですが、中小企業では「御隠居さん」の意味で、代表権の無い会長も結構います。

【困った顧客】
 私は種々の機械の設計や開発を担当したので、種々の顧客に売り込みました。顧客の中には悪質な人が結構いました。その代表例を書きます。

 女性を要求する顧客は時々いましたが、営業がソープランドに連れて行ったりして、旨く対応していました。 某社の30歳代後半の独身の担当者に、私の作成した図書を、営業の庶務担当の20歳代の女性に持って行ってもらいました。 彼は彼女が好みだった様で、デートのアレンジを要求するのです。彼女に話すと、”けんもほろろ”に断りました。この案件はほぼ受注出来る状態まで進んでいたのですが、彼が「彼女とデート出来無いのなら・・・」と言って、他社に発注してしまいました。

 某大手の設計事務所から呼ばれて行くと、40歳代の男性が「昨日、某社から40万円渡すから仕事をくれと言われた。僕は賄賂は受け取らない・・・」と言い、賄賂の話しばかりして、「今日は、忙しいので、仕事の話は次回に」と言って、打合せ室からサッサと出て行きました。数日後、また呼ばれて行くと、「賄賂は受け取らない・・・」と話すだけでした。三回、訪問しましたが、仕事の話にはなりませんでした。

 某大手の超ベテラン営業マンに相談すると、氏名も要求金額も知っていました。40万円は、特に”吹っ掛けた”金額では無かったのです。この件は、営業が丁重にお断りした様でした。