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おはようございます!中小企業診断士の青木公司です。
今週は超大手企業からの直受注の企業研修講師2日、大手企業の企業研修講師が2日。その間を大量の企業研修テキスト作成、大手企業人事評価制度作成、添削。飛ばします!
さて、今週もポジティブにすごしていけるようにいい言葉をお贈りします。
「山あいの町の子供たちに、一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」
・・・蔦文也(池田高校野球部元監督)
高校野球の歴代のチームで青木が最も好きなのが、82年、83年の時の池田高校です。
82年の時は畠山(その後、南海、横浜)、水野(その後巨人)、83年は水野、片山という好投手を擁し、畠山、水野、江上(日本生命)、吉田、山口、高橋・・・という強力な打線。
すさまじい破壊力でたたきつける強力な打法で「山びこ打線」といわれました。
1982年夏には、のちにヤクルトで活躍する好投手早稲田実業の荒木大輔投手から水野のバックスクリーンに叩き込むホームランを含め3ホームラン14-2の圧勝。度肝を抜くパワーで結晶も、当時までの高校野球の象徴、名門広島商業にも12-2の圧勝。
1983年春には、豪腕水野のスリークウォーターからの145キロの剛速球(春、全て1点以内におさえました)、そして江上、水野、吉田の強力クリーンアップで滅多打ちで圧勝していくパワー野球で春を圧勝。
その時の監督が蔦監督です。
攻めダルマといわれ、打って打って打ちまくる豪快な野球で高校野球を変えました。
当時の池田高校の練習は
15:00から バッティング練習
16:00から ランナーを二塁において一点打撃練習
17:00から 投手をたたせたシート打撃
(爆笑)柔軟運動は?晩と練習は?守備練習は?
18:00から30分だけ、しかし強力なノックによる守備練習 だったようです。
当時、いち早く筋肉トレーニングマシーンを導入。それ以外の時間で鋼鉄の体をつくらせ、金属バットの特性を生かして、パワーで粉砕する。
蔦監督が打者へ求めたのは「遠くへ飛ばせ」。
1982年夏には、85安打、7ホームラン。下位打線まで豪快にホームランを打つその打棒には他の高校は震え上がりました。
ある時、相手チームがフェンス前に張り付いて、長打コースがすべて外野フライになってしまう。その時、蔦監督が選手にたった一言いった言葉が
「(しぶい声で)あの上をこせ!」(爆)
爽快なチームでした。
そんな蔦監督でしたが、最初甲子園に出るまでは苦労したそうです。
池田高校は徳島県の山間の小さな町、池田町にある高校です。
名門徳島商業出身の蔦監督は、戦時中は「特攻隊員」。かろうじて生き残った蔦監督は東映フライヤーズで1年プロ生活を送り、その後、弱小だった池田高校の監督に。周囲の高い期待をよそに、強豪ぞろいの四国の予選をなかなか突破できませんでした。
1971年。はじめて甲子園に出たとき、その時、蔦監督がいった言葉がこれです。
「山あいの小さな町の子供たちに、一度でいいから大海をみせたかったんじゃ」
この言葉は今、蔦監督がなくなった後も、池田高校に石碑として残っているそうです。
「一度でいいから大海を見せたかったんじゃ」
すばらしい言葉ですよね!
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・・・蔦文也(池田高校野球部元監督)
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82年の時は畠山(その後、南海、横浜)、水野(その後巨人)、83年は水野、片山という好投手を擁し、畠山、水野、江上(日本生命)、吉田、山口、高橋・・・という強力な打線。
すさまじい破壊力でたたきつける強力な打法で「山びこ打線」といわれました。
1982年夏には、のちにヤクルトで活躍する好投手早稲田実業の荒木大輔投手から水野のバックスクリーンに叩き込むホームランを含め3ホームラン14-2の圧勝。度肝を抜くパワーで結晶も、当時までの高校野球の象徴、名門広島商業にも12-2の圧勝。
1983年春には、豪腕水野のスリークウォーターからの145キロの剛速球(春、全て1点以内におさえました)、そして江上、水野、吉田の強力クリーンアップで滅多打ちで圧勝していくパワー野球で春を圧勝。
その時の監督が蔦監督です。
攻めダルマといわれ、打って打って打ちまくる豪快な野球で高校野球を変えました。
当時の池田高校の練習は
15:00から バッティング練習
16:00から ランナーを二塁において一点打撃練習
17:00から 投手をたたせたシート打撃
(爆笑)柔軟運動は?晩と練習は?守備練習は?
18:00から30分だけ、しかし強力なノックによる守備練習 だったようです。
当時、いち早く筋肉トレーニングマシーンを導入。それ以外の時間で鋼鉄の体をつくらせ、金属バットの特性を生かして、パワーで粉砕する。
蔦監督が打者へ求めたのは「遠くへ飛ばせ」。
1982年夏には、85安打、7ホームラン。下位打線まで豪快にホームランを打つその打棒には他の高校は震え上がりました。
ある時、相手チームがフェンス前に張り付いて、長打コースがすべて外野フライになってしまう。その時、蔦監督が選手にたった一言いった言葉が
「(しぶい声で)あの上をこせ!」(爆)
爽快なチームでした。
そんな蔦監督でしたが、最初甲子園に出るまでは苦労したそうです。
池田高校は徳島県の山間の小さな町、池田町にある高校です。
名門徳島商業出身の蔦監督は、戦時中は「特攻隊員」。かろうじて生き残った蔦監督は東映フライヤーズで1年プロ生活を送り、その後、弱小だった池田高校の監督に。周囲の高い期待をよそに、強豪ぞろいの四国の予選をなかなか突破できませんでした。
1971年。はじめて甲子園に出たとき、その時、蔦監督がいった言葉がこれです。
「山あいの小さな町の子供たちに、一度でいいから大海をみせたかったんじゃ」
この言葉は今、蔦監督がなくなった後も、池田高校に石碑として残っているそうです。
「一度でいいから大海を見せたかったんじゃ」
すばらしい言葉ですよね!
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