
昨日、この村の教育委員会が誘致した県文化財保護協会の歴史講演会が役場庁舎で催された。
隣町の古文書の仲間から誘われて(自分の村での古文書講座では告知も誘い合わせもなかったので誰もいなかった

その仲間が6名参加されていて、去年古文書で加藤清正の文書を勉強したということもあって講座の半分以上の出席であった。
講演者は九州文化財研究所の研究部長 花岡興史という方で初めて話を伺うことになる。
講演は1時間半。3枚のレジメとパワーポイントを使って多くの写真、史料を使っての話で飽きることなく熱心に受講した。

熊本では熊本城を築城した当地の戦国大名であり人気が高い

清正のことを「清正公(せいしょこ)さん」と呼んで親しんでいる

さて実際に清正がどういう人物であったのかー
最初の話は彼が豪胆で勇猛果敢な人物であったという評価があり、一時秀吉の勘気に触れ謹慎させられる状況の中、大坂を襲った大地震の際、わが身(閉門中)を省みずお城の秀吉の下に安否を気遣い誰よりも早く駆けつけたということで秀吉が「閉門」を解いたという有名な事件?がある。
先生はこれに対して、清正は豪胆で直情径行型の性格だったという評価に異論を唱える。
清正の家来に大木土佐という人物がいるのだが、かれの「大木家先祖附」という古記録が細川文書に残っていて、これに「
この節は格別の事候間、登城これあるべく候よし、土佐へ内談に及ばれ候につき、早々登城の儀すすめ申し、略主軽頭(かずえのかみ=清正)殿登城これ有り候・・・」
流石の清正も緊急時、自分の行動に自信がなかったのか腹心の家来に相談するという神経の細やかさを持っていたということ。
一方で朝鮮出兵の際、同僚細川忠興が清正を評して書いている。(寛永9・12・17)
「親肥後(清正)ほど上下之法度のなき仁は希なる事に候つる、かくのごときに候故、高麗のかたにても見苦しき事ども見申し候事」
相反する人物評価。時代は400年以上も前の事実際にはどうだったのかわからないが、歴史上の人物への評価はあまり簡単に行うべきではないということだ。
この後、清正が作った肥後支配のための支城=端城(はじろ、はしろ)の説明が続いた。
これはフィールドワークの成果を石組みの実際の写真で説明。視覚的に説明されたのでわかり易く面白かった。
やはり学習は一生続けるべきだということだ。まさに「生涯学習」だ。機会があったらまた参加しようと思う。
