おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

そんなに首相の座っておいしいの?

2011年06月30日 07時25分14秒 | 日記
こんなムカつくことはない

民主党の両院議員総会の模様。

筆頭責任者のカン、座の途中で退席してしまった。己の発した「ことば」の責任を追及されて、答えはのらりくらり、しかも解散・総選挙を匂わせる意図的な発言もあった。民主党議員にとって解散は厳しいのだ。だけど自信たっぷりに見えるけど、カンだって同じ党員、敗北は目に見えている。その責任は誰にあるのかー

そんなのカンケイネーか!

ソフトバンクの孫さんに励まされ、とてもいい気分になったのよねーまた新しい政党作るか

カン・ソンコンビで・・・金は腐るほど持っているし



しかし、あの浜田某ってのもすごいなあ。

自民党にじっとしておりゃあ、時期選挙では再び政権取れるのは目に見えているし、そうなったらおこぼれに預かれるかもしれなかったのに。人間にとって「変節」、「裏切り」、「欲に走った」など烙印が押されたらもう終いだよ。
カンと握手しながらじっと見つめ合っていた姿はイヤラシカッタ。

だれかこの人は誠実で国民を裏切らないという人はいないのか?

東北の地方行政の首長=町長には信頼のおける人達がいる。

あんまり言葉巧みでなくてもいいんじゃないか。ぎゃあぎゃあと五月蝿い大阪や東京の知事など言葉が軽すぎるし、弁護士、小説家で言葉を操るのは専門であるとしても、機関銃のごとく繰り出される言葉の群れ、自分の語る内容は「神のお告げ」の如く自信満々で上から押し付けるように叩きつけてくる。だれも聞かないよ。

あーあ政治社会状況には幻滅する。

今日も汗だらだらの一日になりそう・・・






四谷怪談ー「嗤う伊右衛門」を読んで

2011年06月29日 10時59分20秒 | 日記
いよいよ夏本番というところ。

あの豪雨が嘘のように晴れ上がって、青空とじりじり照りつける太陽。

鹿児島は梅雨明けというのに熊本はまだー

入梅も各地より遅かった。熊本気象台は足元の天候を見ないで各地の予報に左右されているのではないか疑ってしまう。

どう見ても梅雨は明けている。

それにしても「夏色」というのがある。山の緑が鮮やかで、少し霞がかかっている。高地なので風が吹くと実に爽やか。

夏時間に移行した。楽しみにしているNHK朝ドラ「おひさま」を見ながら朝食を取るのだが、昨日からその前に畑に下りて一仕事。7時45分に一まず切り上げてシャワー。食事。

8時40分にはまた畑へ。

雑草との戦いが続く。雑草は逞しい。摘んでも毟ってもすぐに生えてくる。

畑のいると仕事は尽きない。あそこは追肥したろうか?土寄せは?スナックエンドウの跡地を何にするかー

昨日は妻の実家から母親と姉、姪達が訪れた。一緒に昼食を食べて、畑に下りてカブを抜いた。

干している玉ねぎ、じゃがいものキタアカリ、春菊、カブ、キャベツをお土産に持たせた。

まだ夏野菜ができていないので、あるものだけだが喜んでくれた。

                  

お昼は休むようにしている。炎天下で作業を続けると熱中症の恐れがあるし、無理はできない体なので3時間位はゆっくり過ごす。
この間、読書とお昼寝タイム。

京極夏彦の「嗤う伊右衛門」(中央公論社)を読んだ。

口語と文語の真ん中くらいの表現で、難しい言葉もたくさん出てくるのだが、やっぱり面白かった。昔から
恐ろしい話といえば「四谷怪談」だが、映画で見た記憶と違ってストーリーが想像とすごく異なっていた。

伊右衛門とお岩の仲は決して冷え切っていたわけではなく、上司である伊東某という根っからの悪者の陰謀で別れさせられる。
伊東のお手つきの娘梅をその後釜に据えさせられるのだが、伊右衛門はお岩のことを忘れられない。

お岩の顔つきの醜くさも元を辿れば、伊東の謀で薬草と偽って毒を飲ませて、顔貌の半分を崩してしまった。
その顔も伊右衛門には苦にならないどころか美しいとさへ思うのだ。

背中がひんやりする場面はあるのだが、それは皆ヘビが絡んでいる。随所にヘビが出てきて、これが恐さを倍増するのだ。

小説は怪談というよりも実はラブストーリー。

さてもう一冊、「横井小楠」がもうすぐ読了する。いい本だ。


「肩透かし」から一転集中豪雨に!

2011年06月27日 07時28分12秒 | 日記
まだ空から細かい雨粒が落ちてくる。

昨日書いた「肩透かし台風5号」のその後ー

にわか雨はあったものの、夕方には村の歩こう会にも出たし、夕食後何時間か天候はうす曇り程度でもっていた。

NHK11時からの韓流ドラマを見ようと思ったがプロローグで眠ってしまった。

明け方4時、トイレに起きた時外はすごい豪雨と風が吹き荒れていた。

あーあ、また・・・

この前の集中豪雨で畑はエライことになってしまった。

表土が流れ、植えたばかりの種も洗い流された。伸びようとしている各種の作物の根が雨で表れ表面に晒されている。

この後始末を昨日朝6時からやっていた。そして、一昨日には流れされてしまったゴマを新たに別の畝を作って植えたばかり。

種は浅く土をかけるから豪雨だと流される。

まだ畑には下りていないので状況がわからないが、恐らくダメだろう。まだ、ゴマの種保存しているのでまた蒔けばいいのだが、しかしいい加減に勘弁してほしい

台風の進路は予想外に北上して、九州には殆ど影響しないコースを辿っていたはずなのに・・・

朝飯食ったら、カッパ着て状況の観察をしようと思う。被害が僅かならいいのだが・・・

肩透かし台風5号と日曜美術館

2011年06月26日 14時53分46秒 | 日記
台風が接近していて、朝から空は曇って風が少しずつ強くなってきた。

前回の台風ではほとんどなにも準備しておらずに、大分被害を蒙った。

そうだ、作物には細かな愛情を注がないと育たない。

朝6時15分には覚悟を決めて畑に降り立った。

伸びてきたトウモロコシを風から守りグラグラしないように、杭を立て茎の中間付近にぐるりとロープを巻きつけた。

これも伸びて来ている枝豆には一本一本支柱を立てガード。

昨日種を蒔いた紫蘇の低畝には上から黒ビニールマルチを敷いた。

朝飯前に一仕事を終え、シャワーして食事。食後にはまた雨が降り出さない内にとまた畑へ降りて作業。することは一杯ある。

昼まで百姓仕事をやってまたシャワーして、昼食。

午睡の後今に至るのだが、風は止んだ

雨も止んでいる。

「なんじゃこりゃあー

朝食時、NHK教育の「日曜美術館」という番組を初めて見た。美術には疎く、若干馬鹿にしている部分も無きにしも非ずで(身の周りの美術家というのがどうも縁遠いというか生き方に賛同できない人が多いということもあるのだがー)、だけど意想外に感動した。

諏訪敦という新進気鋭の画家が、娘を南米ボリビアで不慮の事故で喪ってしまい失意の底から喘ぐように、救いを求めるように諏訪氏に「娘の絵を描いてほしい」という依頼を受ける。

描く主体とは接点のない、そしてすでに他界していて、生きたモデルとして描けない。写真を取り寄せ、義肢製作所に出向き写真によって手を再生してもらったり、両親と直接面会して話を聞いたり・・・

両親は知的な方々で、独身のまま世界を駆ける娘に自由を与え続けた。そして事故。結婚も決まり式の10日前だったという。

両親は娘の死から立ち直れない。時間がいくら経過しようが娘の死を実感できないでいる。

はじめ諏訪はリアルに娘の姿を描いた。しかもその顔は似ているのだが暗く、寂しげで父親から贈られた腕時計を外そうとしている姿だ。腕時計を外すポーズは「死」を意味するという。彼は絵をジーっと見つめ、「だめだ!」これでは両親は絵を見ても心が励まされない。

諏訪は「生と死を考える会」の事務所に出向き示唆を求める。

「親が求めるのは、リアルな肖像ではなく、思い出の中に生きる肉感的で情緒的な、絵の中に生きた人間である娘を見たいのではないでしょうか」という同じ子供を喪った女性の語りに耳を傾ける。

アトリエで画布に描き上げた「死んだ娘」の姿を消してしまう。そして書き直し。

できた絵をもって依頼者鹿嶋恵里子さんのご両親のお宅を訪れる。一見して父親が叫んだ。「恵里子ーっ」、その後ろで母親が泣いている。

芸術とは写実性の追求だけでは写真と変わらない。人間の中に蠢く情念とか魂を描くこと、それはモデルが生存していようがいまいが関係なく、真実生の実存があって時間を超越した人間の叫びを汲み取る事ができるかどうかが芸術の真骨頂なのだ。

そうだよ、音楽でも同じだ。やっぱり歌は魂の叫びだ。

人は飼い犬で心が癒されるか?

2011年06月25日 06時42分17秒 | 日記
朝日がやけに眩しい。この明るい朝の匂いは子供時代の夏休みの朝寝の匂いだ。
もしかしてもう梅雨シマイ??

昨日街から長距離バスで帰ってきた。県道28号で木の香温泉前で降りたのだが、そこは温泉ではなく馴染みのパン屋「ヴドネ」さんの前。ここから5,600m歩くのだが、ふと卒業生のいる喫茶店「ガレット」の前に来た時、丁度彼女が出てきた。
「やあ、元気してる?」と声を掛けたとき目の隅っこにチラッと小さな「物」が見えた。よく見ると紐に繋がれた柴犬ではないかー

昔市内にいた時「ラン」という名の柴の雑種を飼っていた。15歳まで生きたから割と長生きしたのだろうが、亡くなった寂しさ、悲しみを思い出すとどうしても再度犬を飼う気持ちになれないでいる。穴の開いたような空隙を別の犬で補うことは「ラン」に対して申し訳ないような・・・

その犬を見た時に体が動けなくなってしまった。その可愛いことったらないのだ。

生まれて2,3ヶ月だろう、小ちゃくてポチャーッとしてて目が細く垂れ、前足を揃えて座っている。夏毛に生え変わる前みたいにフカフカ毛に覆われている。「お手!」の状態だ。名を聞いたけど忘れてしまった。「ロッキー」だったか外国の名だったような・・・
聞いてすぐ、名を呼ぶとまだ自分が呼ばれているのかよく認識できないのか小首を傾げるのだ。ちょこっと首を横に傾ける仕草が何ともいえない。有頂天になってしまった。

携帯を取り出して写真を撮ったけど、遠くてよくわからない。近くに寄って撮ればよかったと今深く後悔する。

この時初めて思った。たしかに人は愛玩動物で心が癒されるのだ。

きっと猫でも小鳥でも、水槽の熱帯魚でもそうだろう。

こんな可愛い犬だったら、また飼っても良いぞと思う。どこにも行けなくなったっていいさ。いつも一緒にいられるなら愉快だろうな

                                                         

中島義道の「カイン(自分の弱さに悩むきみへ)」(講談社)を読んだ。
哲学者でカントの専門家。哲学書なのだろうが難解な用語はあまり使わなくて、一般の悩める若者に向けて書いた本で、すんなり読めた。
若者の自立について、雁字搦めになっている世間という常識の桎梏、家族親の「愛」という名の束縛から自分を解き放たない限り自分は解放されない。アダルトチルドレンのまま。
「強くなるためには、きみは膨大な数の他人を捨てねばならず、彼らを無視しなければならず、彼らの期待にそむかねばならず、彼らから嫌われなければならず、彼らに迷惑をかけなければならず、あえて言えば彼らを(精神的に)殺さねばならない
過激な哲学者の弁ではあるが、よくわかる。どうも親から自立できない年だけ食った大人が増えているような気がする。母親とペアのシャツを着て街を歩いている親子を見ると吐き気がする。
引きこもりの時代、親の庇護=甘えから脱却してそろそろ外に出てきて一人の人間として自分の食い扶持くらい自分で稼ぎ、一人で生活を始めたらどうだ。他人をあてにするな、あてにできるのは自分だけだ。その自分を鍛えよ。