おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

夜中のトイレと読書

2011年09月30日 07時05分38秒 | 日記
夕方から雨が降り出して、一晩中シトシトと降り続いた。

作物にとってはいい雨だった。天の恵みに感謝。

昼寝をするので、夜中にトイレに立つとそのまま眠れなくなって本を読む。

今朝は3時にトイレに起きて、目が覚めないように半分目を瞑ってトイレを往復したのだが、昨日の午睡が長かったせいかパチッと目が覚めてしまった。

今雫井脩介の「栄光一途」というミステリーを読んでいて、とうとう読み上げてしまった。

昔「柔道一直線」というドラマがあった。柔道は日本の古武道であり、今やれっきとしたオリンピック種目になっている。

その柔道の世界で世界の頂点を狙う選手やその周縁のスタッフ、上層部が「勝つために」薬物に手を染めているというフィクション。

この本は賞を受けたものだ。

確かに奇想天外のプロットがあり、飛ばし読みしたりすると筋が分からなくなる。

テーマはスポーツ界、それも日本の伝統競技柔道界で「勝利至上主義」が蔓延り、いつの間にか筋肉増強剤、成長ホルモン等薬に手を出す。

しかもオリンピック代表を目指す選手が密かに薬をやっていて、それを告発する文書が日本柔道協会あてに届くことで物語がスタートする。

たしかにオリンピックで金メダルを取った選手がその後ドーピングでメダルを剥奪されるということは現実に多い。

室伏選手のハンマー投げでも、花の100m競走でも有名な選手が起こした。

ストーリーには付随して薬に手を染めている選手とトップを競っている選手がアスリート=競技者として精神の緊張を解放するため、或いは逆に試合前に気持ちを高揚させるために街に出て行って、暗がりで人を襲うということを書いている。

柔道界全体の堕落を書いているのだが、この本その世界に波紋を与えなかったのだろうかー

ダーティーなイメージを植えつけるような物語だが、フィクションとはいえ大丈夫なのだろうか?

その前に読ん荻原浩の「神様からのひと言」が業界小説(サラリーマン小説)で最初は最後まで読むに値するかなと思いながらだったけれど、あにはからんや実に面白く一気に読んでしまった。

しかし食品業界内の業務で苦情処理係りとは仕事とはいえシンドイものだ。

いいたい放題の文句を並べられ、それにただただ頭を下げ続けなければならない。

ストーリーに面白い展開が待ちうけており最後まで楽しく読めた。

スカッとした日本晴れ

2011年09月28日 07時29分51秒 | 日記
今朝はやま(阿蘇烏帽子岳、おかまど山)の頂上付近に雲がかかっているけれど、その雲も薄く、青空が広がっている。

天気がいいとこうも気分が変わるものか

          

ゴマを収穫した後、広い空きスペースができてしまった。

11月にはタマネギを植えつけるので、それまで寝かせるか・・・

しかし、性格だなーどうも待ちきれない。昨日ニンニクを200g、畝1列とさらにチンゲン菜を1列植えつけた。


この1,2週間で種を蒔いた品種。ニンジン、春菊、ライ麦、かぶ、秋大根、ゴボウ、それより少し前に白菜とキャベツ、冬菜を植えている。

防虫対策がむずかしい。

今朝畑に下りてみたら、キャベツの葉っぱ、白菜の葉もレース状になっている。

そしてよーく見ると丸丸太った青虫がいる。

蝶々が卵を産みつけてこれが孵化したもの。強力な殺虫剤を撒けば一度に解決するのだろうが、農薬だけは避けたいのだ。

店に出ている野菜が何と美しいか

そんな筈は絶対ない

虫や病気は竹酢液、木酢液などではまったく歯が立たない。牛乳に赤唐辛子を入れ、焼酎を混ぜて云々・・・うまくいかない。

自然栽培の逆説的弁解
虫に食われていることは、危ない農薬散布をしていないことの証明で「安全だ」という証し

もらった皆さん、安心してレース野菜をお食べください。ただよーく見て食べないと青虫などを一緒に食べることになりますので、あしからず

日常の檻

2011年09月27日 07時11分38秒 | 日記
仕事が詰まっていて忙しくても、何にもなくて暇に暮らしていても、生きてそこで生活している限り人間は日常性の檻の中にはめ込まれてズブズブと沈み込んでいく。

仕事の現役時代、人間関係の軋轢で毎日がぎすぎすしていた時、生徒指導上の問題で親からの苦情への対応で気持ちが沈んでいた時、晴れ晴れしい席に立って嬉々として挨拶や講話をしていた時、すなわちそれぞれの悲喜交々の時間、「日常性」は時間を追う毎に定着していった。

慣れや感覚の鈍化は人間が自然に身につけたストレスへの自己防衛策でもあるのだろう。

しかし、この「日常性の檻」に填まると、どんなにもがいてももがいても抜け出せなくなる。

その隘路に中で生きる方向性を見出そうと焦れば焦るほど、ズルズルと時間の罠に填まってしまう。

世の中には常に新しいことを求めるロマンチストがいる。

太平洋をヨットで横断する冒険家、マラソンで地球一周したお笑い芸人もいた。

キリマンジャロに登った盲目のタレント?もいた。

この地方にも最近4万キロを歩いたという人がいて、丁度その4万メートル達成記念の日に、歓迎祝賀のために彼を村を歩くコースで出迎え一緒に歩こうという企画があって、お誘いを受けたことがある。

その日は豪雨の日だったのでもちろん行きはしなかったが、心中「何でそんな個人的なこと(自分の健康のために歩き始めた結果の数値に過ぎない)に大騒ぎするのだろう?」という疑問があった。もちろん口に出しはしないけれど・・・

みんな「なにか」を求めているのだ。

生きている実感。

歳を重ね、仕事も定年で退職し、毎日が追われるような生活とはオサラバした。

自由で悠々自適な生活は一つの憧れでもあった。

田舎暮らしを自ら求めて、大自然の真ん中に家を建て、そこを終いの住処として暮らし始めた。

新しい出会い、出来事、チャレンジもある。しかし、だんだん感じるようになってきた。

「日常の檻」。

何で生きるのだろう。

もう目に見えている。次第に体が老化で衰えていく。足が萎え、腰が曲がり、杖を必要としてくる。口が悖らなくなる。

記憶力が退化し、同じ言葉を繰り返し始め、聞いたことを何度も聞き直す。

そろそろ終の棲家としての「老人ホーム(老養、老健)」探しが始めるだろう。

自分史を書き上げる。そこにどんな意味がある?

私は自殺という行為は愚かなことだと思っているので壁にぶつかったって自分で死んだりはしない。

深いところにある苦悩を自覚して夜中に目が覚めるようなことがあっても、それも次第に日常化されていく。

惰性的な日々の送り方は容易い。のんべんだらりが一番いいという人もいよう。

そんな人は幸せな人かもしれない。

そうはいかない。

一番恐いのが平板化。人は一人で生まれそして一人で死んでいく。この孤独を都会人も喧騒に紛れているだけで根底にはどかっと居座っているのだ。

彼岸の墓参り

2011年09月26日 10時57分02秒 | 日記
今日はいい天気になりました。

朝晩はだいぶ冷え込んできましたので、ついに布団にチェンジしました。

かなり厚めの掛け布団なので夜中ちょっと熱くなって脚を出していました。

神戸の弟に採りたての野菜を食べて元気を出して(病気療養中)もらおうと今旬の野菜を収穫しました。

カボチャ、ピーマン、トマト、シシトウ、ナス、インゲン豆、保存しているジャガ、タマネギもダンボールに入れてこれから送りたいと思っています。

村の料理クラブの友人が電話をくれて、「里芋採ったから持って行ってあげよう」といってくれました。感謝感謝です。

これからクロネコに寄って野菜を送り、そのまま玉名市に墓参りに行きます。

家の花壇にある花を摘んで供えようと妻が今用意をしています。

此岸と彼岸、こちらの生きている生の世界と死んでいくあちら側。三途の川で仕切られているこの世とあの世。

生きていると時間に追われ、自分もいつかあちらに移っていくことを忘れているのですが、実は一歩一歩と彼岸に向かって進んでいるのです。

そのことを胸にいつも置いておかなければなりません。これが「メメントモリー(死を思え」といいます。

「思うこと」によって生は輝きを得、一瞬一瞬が貴重なものとなるのです。

さあ気をつけて行ってきまーす。

塩茹で落花生

2011年09月25日 11時42分39秒 | 日記
昨日は落花生を収穫した。

葉が枯れてきたので、もう「いい加減」だと判断。

2畝作った内、1畝だけを収穫。よくできていた。

掘ったものを実を落とし、盥に入れてよく洗う。

3回ほど水を替えて洗ったら、茹で用を取っておいて、後は天日で干す。

調理は妻任せ。

塩加減が難しそうだし、灰汁が出るので注意とのこと。

出来上がったのを食したら、うまいこと。

昔の人はこれを「あとひき豆」と呼んだそうだ。後を引くくらいに美味いということ。たしかに

昨日は朝からお向かいさんのHさんのお孫さんの運動会。保育所なのだが、開会の挨拶をするというので応援にいった。

Uちゃん、見事に大役を果たした。応援席から大拍手

お遊戯も上手だし、40m走では前日、○○ちゃんにはいつも負けるのと弱気な言葉を吐いていたのだが、蓋を開けてみると堂々の1着。

Uちゃん、私のことを「飲んでのおじちゃん」と呼んでいる。

以前、近所集って飲み会をやったとき、河島英吾の「酒と泪と男と女」を歌った。♪♪♪

それを聞いてたUちゃん、一回しか聞いていないのに一番の歌詞を覚えていて、正確に歌い始めたというのだ。

Uちゃんはなにしろ賢い。学校の校長先生だった私がいうのだから間違いない

それから「飲んでのおじちゃん」だ。

夜はHさんのお宅でバーベキューで遅くまで楽しんだ。

久しぶりの「お肉」、感激でした。ありがとうございました。