おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

水を、地域環境を守る

2011年07月31日 15時54分31秒 | 日記
70万都市熊本市ん真ん中を貫流している1級河川「白川」の源流が南阿蘇白水にある。白川水源である。ここから少し流れ下ったところで今朝7時半から「白川の日」と銘打った一斉清掃を行うイベントに参加した。

高等学校に勤めていた時、学校のある坪井川周辺を生徒が登校する前に、毎日ゴミ拾いをしていたことくらいでボランティアには積極的に参加するということはなかった。

この村に移住して、少しずつ地元の人とのコミュニケーションを深めるために村が参加を呼びかける行事や活動に参加し始めた。

いつもの畑作業の格好に草刈り払い機、鎌、レーキーなど重装備で早めに行った。

この村に来て一番先にお参りに行った神社の横を流れる白川上流の河川敷を掃除する。

男達が草を機械で刈り払って、その後をゴミ拾いする。悲しいかなペットボトル、ビニール袋、ロープ、カップ、日常生活のゴミがこんな田舎にも一杯捨てられている。

田舎だから気安く捨てるのかもしれない。消費資本主義社会が進み、金が神様となり、不要なものは次々に捨てられていく。捨てられるものが自然に帰っていくものであればいいのだが、プラスティック、ビニールなど便利な品物は容易く作られ、便利さだけが利用されるや使用後はポイ。

これが景観を悪くし、水を、自然環境を汚染していく。

現代に生きる者としてその「業」を背負っている者の小さな罪滅ぼしで清掃活動をしなければと思った。

1時間ちょっとの活動だったけれど、軽トラック一杯のゴミが集まった。

熱中症を予防するために水を持参して時々、口に含みながら汗ジックリになりながら終わった。終わると随分付近が綺麗になって疲れはあったものの気持ちが晴れるようであった。

3週前は村の自慢の「井出(水路)」の掃除にも参加した。みんな頑張る時には頑張るのだ。

しっかり昼寝をしたので、疲れも取れた。さあ、これから歩こう会で「地域めぐり」のイベントだ。今日は一寸しんどいかもしれないが、みんなと一緒に歩くのは楽しいから元気を出して行こうと思っている。
湧き水のあるところを歩くらしい。

ほのぼの人情裏話

2011年07月30日 06時55分16秒 | 日記
今日も暑くなりそうな日差しが強烈な朝を迎えた。

妻が某日、86になる義母を病院に連れて行った帰りにデパートに寄ったという。

年寄りにはちょっとした「非日常」が必要だ。のんべんだらりと続く日常では変化がなく、精神が撓んでしまう。

病院からデパートへ向かう道中でそれは起こった。

義母は腰が曲がってうまく歩けないので、車椅子を使うようにしている。それでその駐車場に到着前にデパートに電話を入れたというのだ。

そのデパート立体駐車場に行く時、大通りを曲がって交番の前を通る。丁度曲がり角を曲がったとき、おっさんが何故かしゃがんでいたという。

「あれっ

すると交番から警官が出てきた「今携帯使っていたでしょう」と聞いた。

妻は「はいデパートに依頼する車椅子の都合があって、携帯を使いました。すみません」と殊勝にも誤ったという。そうした状況下、デパートから男性職員と案内の女性が車椅子を持ってきてくれた。

警官はそれを確認すると、黙って交番に入っていった。

妻は書類を取りに行ったと思って、砕けた気持ちで待っている。

なかなかその警官が出てこない。???

痺れを切らした妻、覚悟を決めているので堂々と「すみません、私のことどうなっているのでしょうか?」

すると・・・・

ちらっと顔を出して、「もう行ってよかばい」と行って「行け」という合図をしたという。

警官としてもあまり目立ちたくなかったのだろう。

こういうのを「粋な計らい」というのだ。

これを読んで誰か警察にタレこまないで欲しい。

法律遵守=社会秩序の確保が警察の任務。わかりきったことだ。しかし、警官・刑事・検察官・裁判官も同じ血の通った人間だ。老いた親と一緒に暮らしている律儀なポリスマンもいよう。

老いた両親を田舎に残して、街で働いている息子だって多い。

老いた親のことを思えば、コンパッション(共感)が胸に湧き上がるのが当然だろう。規則を楯にあくまで法令遵守、一切に違反も見逃さない任務に忠実な警官もいるだろう。しかし、人情厚いその警官は実にだった。

こういう一コマの人情劇が殺伐とした現代社会=都市生活を潤すのだ。

「なかなかやるじゃん熊本県警






美人は自然の役得だよー寺川の銀

2011年07月29日 06時45分12秒 | 日記
世界水泳を楽しみに毎日見ている。

鉄人北島が100mで敗れ、不敗神話なんて人間界ではありえないことを示した。諸行は必ずや無常也

憂色濃い日本選手団にあって入江が100背で銅、そして昨日寺川綾が50m背で銀メダルに輝いた。

寺川はメダルなしの女王で、100m背では今年の世界ランク1位で出場したもののメダルに手が届かなかった。

しかし、50mはスタートから素晴らしい泳ぎで、1位にはわずかの差であったもののどうどうの2位。

彼女は背が高く、しかも超美人で涙顔の美しさは銀メダルよりも輝いていた。日本には伊藤華英という強くこれまた美人がいる。

女子水泳を見ていると、世界の選手のなかには美人メダリストの多いこと。これっていつも水の中で練習していることと関係あるのかしら?

特に背泳ぎって美人を輩出する。萩原選手もそうだった。

私達の時代には郷土に「田中聡子」という金メダリストの先輩がいた。東京オリンピックで100背銅メダリスト。この人は嘉島中学出身。時代が違うのかー現代人の顔ではない昔の日本にどこにでもいるようなタイプの女性だった。
食い物が違うからなのか、顔が丸顔から瓜実型どっちかというとノッペリタイプになっている。
まるでアニメに出てくるような顔、”銀河鉄道なんとか”に出てくるキャラクターの美人(アニメは子供時代以来見たことがないが)。

所謂ソース型から醤油型に変わってきたということだろう。男で言うと福山とかキムタク、かつらを被せたら女性でも通用する。AKBで話題になった合成写真の女の子、まるで生きてるような感じで誰だろうと随分騒がれた。それほどCGというのかバーチャルでもリアルと変わらないような人物像が作られるほど、現代人は没個性(その人らしい独自性=アイデンティティー)になっているといえるのかもしれない。

私は南方型、むかしむかしご先祖が黒潮に乗って、やしの木かなんかの一木を刳り貫いたカヌーで海を渡り、この島国に渡りついたと思えるような顔をしている。武蔵丸とか曙とかを見るとどことなく「郷愁」を覚えたものだ違う話になってしまった。

美しさがどことなく一つの基準で計っているような感じがする。韓流のスターを見ているとどうもその感が強い。業界で求められている基準に近づくために整形大流行とか・・・そういえばどの子も同じような顔をしていて没個性。

渥美清とか金八先生の武田鉄也とか顔にその人格がそのまま出ているようなタイプがいなくなっていくのでは・・・

話を元に戻してー
これから北島の200mがある。どうどうたる世界のスイマーになっているし、彼には存在感がある。100バタのマツダも個性的。彼は練習の基点を宮崎に置いて、今はどうかわからないが以前は畑の中に作られた温室用のビニルハウスのプールで練習していた。彼には主張がある。生き方考え方に個性があってとても共感するのだ。がんばれ!

マルーイお腹になってしまったが村内のプール村民はただだというから泳ぎに行こうかな・・・

水の味ってわからない・・・

2011年07月28日 07時26分44秒 | 日記
村にある10を超える湧水池めぐりをした。

マイクロバスに乗って村の水に関わる旧蹟と湧水池を丸一日かけて廻った。久しぶりの社会科巡検のようであった。

案内人はよく知っているJさん。村会議員でもある。いろんな活動をしていて面白い人物だ。

一番有名なものは「はくすい」の白川水源。湧き水をボトルに入れて全国販売している。

明神池、小池、寺坂、川地後、塩井、竹崎、湧澤津、妙見社・・・

500mlのペットボトルに訪れる湧水池のラベルを貼り、それぞれで水を汲んだ。

どこも川底からブクブクと泡を伴って湧いている。それを一本一本とボトルの汲んでいく。

湧水池であまり村外に知られていないところで綺麗だったのは塩井社の池だった。



昨晩、ボトルの水をコップに少量ずつ注いで飲み比べてみた。


ところが、これが全然わからない。冷蔵庫に冷やしているのでどれも冷たくて美味しい。私の舌の感覚が鈍いのだろう。

焼酎で舌の味覚が擦り切れてしまったのだろうか・・・?

水は人間の生存に欠かせない。数年前上海に行った時、ナイトクルージングをするというの出かける時、注意があって皆ペットボトルの水を飲むようにとー

住む地域でそこから汲み上げる水が飲めないのは悲しいことだ。今の福島を考えればわかる。

水はすぐ汚染される。阿蘇だったら火山灰もあるし、農薬を使えば土壌汚染だけでなく水質汚染もある。たとえば蛍が住めなくなった田舎の環境を考えればよい。




水は水質をきれいに保つ努力をしないとすぐだめになる。
この隣町で鶏の処分場建設の話があった。白川水源の毎分3万トン湧き出る水を利用するという。雇用が3、400人出るからという謳い文句で計画が進められていた。排水を上流の川に流す。これは各地の水源を汚染することになると反対した。

町長が代わって計画は中座しているらしいが、いつまた顔を出すかわからない。
今生きている者の為でもあるし、子孫の為でもある。この地域の為で、もあるし全国の為でもある。

水は大事にしなければならない。strong>

仏陀の「捨身飼虎」と現代個人主義

2011年07月27日 12時26分55秒 | 日記
永瀬隼介の「罪と罰の果てに」(光文社)を読んだ。

導入から本の中に吸い込まれるようにして長編小説を一気に読んでしまった。

これは恐らく「オウム真理教」の事件をベースに書かれたものだろう。教団の道場という一種の収容所みたいな施設で育てられた兄妹が道場から離れ、身近にいた「キリストさん」という「神」に対面して、神の不在を突きつけてとうとう殺害するに及ぶ。

宗教的な重い題材を扱って純文学かと思ったけれど、成人した登場人物たちが繰り広げたものは、現代的な企業サスペンス。

暴力、破壊衝動、推理サスペンスで最後にはどんでん返しが用意されていてとても面白かった。

神の存在・不在を問う重い宗教的、哲学的な考察は殆どなくてやっぱり大衆小説だった。

仏教に関する山折哲雄の「日本人の宗教感覚」という本も合わせて読んでいたが(再読)、その中で「捨身飼虎」のことが気になった。仏陀が飢えた虎にわが身を餌に提供するというものだが、先の本のなかで「キリストさん」という謎の人物が少年たちに「神」として崇められる。しかし、オウムらしい教団にいてその酷いリンチや搾取から脱走した兄妹の兄に金属バットで殴られ殺されるのだが、その時臨終の際に殺した犯人を庇い全然違う架空の人物を警察に話す。殺した少年を庇う行為が果たして「捨身飼虎」に当たるのかどうか?

実は最後に「キリストさん」が殺した兄の父親であったことがわかるのだ。

日本ではこの考え方はあまり社会に受け入れられなかったという。法隆寺にある玉虫厨子に描かれたものだが、以来その画材題材は消えていったという。

何故だろうか?

今だったら徹底した個人主義の時代になってしまったので、よくわかるのだが・・・

しかし、東北のボランティアを無心に無欲そして匿名で働き続けている人々を思うとそうなのかと思ったりする。彼らは確かに身を削る思いをして尽くしている。

戦時中の「散華」の思想とは若干趣きをことにするのだろうがー