<行雲流水 悠々閑々 一酔千日> 追憶~(その3)~下宿
上野駅が開業130年、発車ベルを「あゝ上野駅」に。
JR上野駅が28日、開業130周年を迎え、寝台特急などが発着する13番線ホームの発車ベルが、井沢八郎さんのヒット曲「あゝ上野駅」のメロディーに変わりました。
高度成長期に集団就職で上京し、「北の玄関口」の上野駅に降り立った多くの若者の心の支えになりました。
つらく寂しいときに口ずさんだ懐かしいメロディーがよみがえり、記念式典に駆けつけたその世代のひとの心に、それぞれの思いが…。
~就職列車にゆられて着いた 遠いあの夜を思い出す 上野は俺(おい)らの心の駅だ~
小学生の頃だったと思いますが、中学を卒業して集団就職で東京へ行くのを駅まで見送りに行った覚えがあります。
小さな田舎町では町を上げて、当時”金の卵”と呼ばれた彼らを送り出すセレモニーが行われていました。
小生は、これよりちょっとだけ後の世代になります。
小生もやがて中学を卒業して高校へ進学しました。
生家は山形県南部の置賜地方、県立高校の普通科 に合格。汽車で通えない距離じゃなかったんですが、進学校で勉強が大変だからという理由で3年間下宿生活をしました。同郷の中学の同級生はほぼ100%下宿してました。
親元を離れて暮らすのは初めて、慣れるまで大変だったのを覚えています。何が一番大変かって、自分は好き嫌いが激しかったんで、とにかく困ったのは食いもんでした。それまで家で好きなものを食って、わがまましてたわけだから。もちろん自分の家のようなわけにはいかないと覚悟をしていたものの、食いもんは違う、嫌いなものは出る、味付けが違う。一日二日なら我慢も出来るが、毎日だからきつかったですね。しかも学校に持っていく弁当も詰めて貰う訳で… 毎日お昼に弁当を開くのが、大げさなようですが恐怖でさえありました。
ある日、学校から帰ると「弁当を食べてなんともなかった?」と下宿のおばさんにいきなり聞かれたんです。話を聞くとどうやら食あたりだったようです。煮魚が原因だったようです。もちろん小生の弁当にも入っていました。これを食べた全員が下痢や嘔吐で往診を頼んで寝込んでいました。喜んでいいのか、はたまた、小生は全くなんともなかったんです。それ以来自分の胃腸に変な自信を持ってしまいました。いいことなのか悪いことなのか…?
3年間の下宿生活、高校生活、いろんなことがありました。「追憶~(その2)~のど自慢」もその一つです。それらの一つ一つを思い出しながら折に触れ綴っていこうと思っています。いずれにしても青春という時代のいい思い出でした。もっとも頭が柔軟な時期で、いろんなことを吸収できたのもまさしくこの頃です。
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ありがとうございました。