
脱構築といっても本気でポストモダンの話をするのではないが、前のブログに今の延長線上でよいのだろうか?ということを書いた。天下国家の話だと楽だけど、自分に振り返ってみると、結構難しい話だ。前の成功体験に引きずられるという話はよく聞くが、そんなに成功していなくても、よく慣れたやり方を変えるって、かなり勇気がいる。留学もそうだけど、環境を変えるというのは、なれたやり方を一度見直してみるきっかけという意味で意義深いのではないか?イチローとか松井もそうだけど、大リーグで成功した野球選手をみていると、何らかの形でこれまでのやり方を脱構築している気がする。
最近村上春樹のインタビュー本を読んでいるが、彼もその辺よくわかっていて、常に新しいものを取り入れるということをよほど気にかけているらしい。脱構築ということを強調するコメントがほんの端々に散見される。
(マイルスディビスを評して)
一九四五年から八〇年ごろまでの三十五年間、彼はつねにだ一線でやってきた。なぜそれができたかというと、つねに後ろは振り返らず、新しいものをインテイクし、それを煮詰め、煮詰めきったところで新しいインテイク、というダイナミズムを維持していたから。
マイルス・ディビスの素晴らしさは、新しいものをの取り入れ方のダイナミックさとネジの締め方の厳しさ、その二つにあったんです。
(文学の方向性について)
結局、今の世界が経験していることは何かというと、再編成ですよね。冷戦後の世界体制の再編成や経済の再編成、テクノロジーの再編成があって、当然文学というものも再編成されていかざるを得ない。
世界の多くの人々にとっては、フィクションなんて読まなければ読まないで済ませられるものものなのです。だから、フィクション問い物自体が、根本的なところで変化を遂げているのです。僕らは読者の首根っこをおさえて、こっちまでひっぱってきて無理にでも本を読んでもらわなくてはならない。
(中略)
現代の小説家はあらゆる手法を用いることを求められています。音楽だとか、ビデオゲームだとか、とにかくほかのいろんな分野における固有のテクニックをね。
「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より
脱構築自体も難しいし、「改革なくして成長なし」ではないけれど、脱構築しないと環境の推移に適応できないとしても、脱構築した後うまく適応できるとは限らない。
自分自身に当てはめても、変えなければいけないという漠然とした思いはあるものの、どの方向へ、どんな形でというクリアな考えは浮かばない。
いろいろとあり方を考える時期ではあるのだけれど。。
文体を変更した作家カポーティがその後の文筆活動に成功しなかったエピソードに村上春樹は
創作家は、別に幸福な状況がもたらされることを第一義として人生の方向を選び、前に進んでいくわけではない。(「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」より)。
身のひきしまる言葉だと思う。