人生、消去法
世捨て人のつぶやき




なんか、鬱な気分がひどかったが、書いてたら元気になってきた(笑)
あんまり飛ばしすぎるのは危険だが、もうちょっと書いてみる。

そもそもなんで「有用性」というものが幅を利かせるようになったんだろうか。
元々そうだったのではないことは多分確かだろう。

じゃあ、いつ頃からその傾向が出てきたのか。
個人的な感覚だが、バブル崩壊からだろう。

バブルがはじけて長期不況に突入し
日本全体に「今までの自分たちではダメなんだ」という気分が生まれ
それは、不況が長引けば長引くほど広く共有されるようになった。
そして、じゃあどうするんだということで持ち出されてきたのが
いわゆる新自由主義的な競争社会の導入ってやつだった、とわたしは思っている。

競争社会では、「実力」が問われる。
「実力」に応じて報酬が支払われると言われたら
至極まっとうなことなので、誰も文句は言えない。

しかも、誰もがそうなればこの絶望的状況が何とかなると、
なぜか盲目的に信じ込んでいた節があるように思う。

だから、小泉首相は2005年の衆院選挙で圧勝することができた。
かくいう私も、あの選挙では自民党に入れてしまった。
後の祭りだが。

今から思えば、あの選挙で既得権益層を倒すために自民党に入れたひとびとは
かつての日本型社会主義とも言われたシステムからはじき出されたひとたちだ。
その、いまや社会システムに守ってもらえなくなった人たちが
自分たちと同じかそれ以下の実力しかない(ように見える)
いまだ守られている人々への「近親憎悪」の表現として
小泉自民を応援したのではないかと思われる。

ま、小泉自民の分断統治は大成功だった、と。

話を戻す。

そもそもバブルがはじけたあと、長期不況があったとはいえ
なぜ、「実力社会」を選びとることになったのだろうか?

別にバブルなど
「いやぁ、調子に乗りすぎちゃったね。もっかいまじめにやろうや」
という軌道修正をすればよかったのではないだろうか。

しかし、そうはしなかった。できなかったというべきか。

長期の不況にしたって、
「むかしみたいにコツコツやろう」という対策だってあり得たはずだが
(その有効性は別問題として)
そういう議論はあまり聞かれなかったように思う。

プロジェクトXみたいな、過去のノスタルジーに浸る番組が人気を博したりしたが、
あれも「むかしはよかったね~」というスタンスであって、
今からもう一回あんなふうに頑張ろうなんていう感じは(少なくともわたしは)受けなかった。
失われた青春を懐かしむ、みたいな感じだったと思う。

確かに個々のエピソードの多くは胸を熱くするものだったのだろうが
なんか喪失感の漂う、悲壮な番組だったともいえなくはない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜこうなったのかは、正直よくわからない。
陰謀論めいたこともいえそうだが、根拠になるようなものもないし。

「有用性」それ自体は悪ではない。
むしろ、それまでの日本にしみついた悪平等をただす上では、
キッチリと導入して定着させるべきものではあっただろう。
ただ、それが全てということにしてはマズい。
まして、人間として必要な最低限の尊厳までも切り崩してしまうような
そんな「有用性」の使い方は、やはり間違っているだろう。

いま重視されている「有用性」というものは、
かなりの短期的視点によるものだ。
とりあえず、今のこの不況から脱するために「役に立つ」こと。
しかし、これをもっと長期の視点から
人間全体、そして個々の人々の幸福というものを考えれば
少しは違う働き方をするようになるのではないか?
(なんかありきたりな意見になってきてしまったな・・・)

ま、なんかオーバーヒート気味なので、今日はこのへんで。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする


« 有用性だけで... 記事一覧画像一覧読者一覧フォトチャンネル一覧 絶望2.0 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。