人生、消去法
世捨て人のつぶやき




自分の人生を振り返ってみて、挫折がその岐路を決定づけたというのはよくある話だと思う。
人生を決定づけるくらいだから、それは少なくとも当人にとっては「大きな」挫折だということになる。
そうして、自分もまた、そういうよくある類型のうちに含まれるのだろうとも思う。

しかし、そこで「いや、ちがう」と言うもうひとつのペルソナが私のうちに現れる。

じゃ、なにがちがうんだろうか?

大きい、小さいというのは主観に依存するものだが、それ以外の要素がある。
いわゆる上昇志向で挫折したのか、下位安定志向で挫折したのか、というのがそれだ。

上昇志向で挫折するのはわかりやすい。
プロ野球選手を目指すとかそういうのである。

人には持って生まれた分というものがあり、どう頑張ってもそこから先へは進めないというのは、いくらか人生を生きてみれば誰もが思い知らされるところである。
これも、場合によっては深刻な挫折となることはもちろんあるだろうが、大部分の人は大過なくその挫折をやり終えてその人生を生きているように見える。

一方、下位安定志向で挫折した場合、まぁ私のことなわけだが、事情は少しばかりややこしいことになる。
そもそも下位安定志向というのは、挫折を嫌うことから派生しているようだからだ。
下位でもいい、それは裏を返せば、挫折の苦しみから逃れたいという、のっぴきならない感情から来ているのではないだろうか。

私の場合、下位ではあるが真面目にやっているとか、下位ではあるが一生懸命やっているというのを言い訳にして、自尊心を保つべく、ルサンチマンとも呼べるであろう一種の価値観操作を自分自身に対して行っていた。
しかし、これが中学の後半から高校の前半にかけて維持できない事態になった。
これは困った。
私は恐慌に陥った。

欲を捨て、世間的な成功に背を向ける事でなんとか維持されていた私の脆弱な自我は音を立てて崩れ落ちた。
もちろん、今から見れば、まだまだ子どもだったこともあり、多少の承認欲求というのは残っていたが。

そうして、私の人生は歪みだした。
正確に言えば、少しの歪みでは済まない人生になった。

これは誰のせいでもない。
強がりでも、迂遠な自己保身でもなく、ある種の諦めのようなものとして、そう感じるようになった。

しかし、それはそれで逃げ場のない苦しみでもある。

自己責任、でもない。
自己責任とは、果たさなかった義務に比例するものとしてのみ理解されるべきだからだ。
私は何か義務を放棄しただろうか?
否。

自分の内面の価値観操作で自尊心を保つというのは、ニーチェが喝破したように、欺瞞による自己正当化なのだ。
そして私が陥った状況というのは、どうもその先だったようである。

ようやくそんな状況から抜け出せたと思えるようになったのは、大学生活も終わりに近づいてからだろうか?
「メタ絶望」という言葉を思いついたころがそうだったような気がする。

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