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アップル スティーブ・ジョブズIII

2014-04-12 | Weblog

 


ビデオ:「サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco e Vanzetti)・死刑台のメロディ」の主題歌

:ジョブズが青春を過ごした60年代から70年代にかけてのミュージシャンたち。ネット版朝日新聞に「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」と題した記事がでている。

この10月に出版された伝記「スティーブ・ジョブズ」のなかで紹介されているようだが、お決まり歌詞のポピュラーソングソングではなく、社会的弱者の立場から政治的抗議メッセージを込めたプロテストソングを歌いあげる知的なミュージシャンを好んだようだ。

一方がIT業界のジョブズなら、彼らもまた音楽業界で一時代を創り上げてきたプロ(芸術職人)たちだ。単にフォークソングの一部門にとどまらず、ロックなど他のジャンルにも多大な影響を及ぼしてきた。

ジョーン・バエズもその一人だ。かってジョブズの恋人だった彼女はメキシコ系の家庭で育ち、兵器開発に協力を拒否する物理学者の父親に影響され、公民権運動や反戦活動に積極的に参加するようになった。60年代フォーク・ブームの象徴的な存在だ。彼女の美しくも力強い歌声は聴衆に真実を問いかけ、世代を超えて共鳴の輪を広げていく。ジョブズの信条と相通じさせるものがある。

その彼女が歌う「勝利への讃歌(Here’s to you)」という曲、1971年に、実話をもとに伊&仏合作で映画化された「死刑台のメロディ」の主題歌だ。

1920年、強盗殺人容疑でイタリア移民の靴職人二人が検挙され、十分な証拠開示や公正な審理が行われずに電気椅子に送られる。当時、全米の移民たちばかりか著名人までも巻き込んで国際的な抗議運動へと発展した。

この実話はマサチューセッツ州サウス・ブレーンツリーにおける「サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco e Vanzetti)」と呼ばれ、米国裁判史上、最大の冤罪事件といわれている。ジョーン・バエズは二人の生前の書置きをもとに作詩したという

 

:以下は朝日新聞「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」からの引用である。
ザ・ビートルズ
ジョブズとアップルにとって、ビートルズは二重の意味で重要な存在だった。
一つは、「アップル」の商標をめぐっての裁判の被告として。もう一つは、ジョブズ自ら親しみ、音楽配信サービス「iTunes」への収録を長い間望んでいて果たせなかったミュージシャンとして、である。

ビートルズの著作権管理会社、アップル・コアは「アップル」の商標をめぐって1991年以降数回にわたってアップルを提訴、最終的に決着したのは、2007年のことだった。訴訟終結を受けて、ビートルズ楽曲のiTunesからの配信が始まったのは2010年11月17日のことである。
 

ボブ・ディラン
ジョブズにとってのヒーローであり、海賊版のテープを多数収集するなど、心酔していたのがボブ・ディラン。アップルの共同創設者、スティーブ・ウォズニアックに感化され、二人一緒に海賊版テープを探し回った。

ジョブズの証言によれば、集めたテープは100時間を超え、1965、66年に行われたコンサートの録音は、すべて所持していたのではないかという。
 

 

ジョーン・バエズ
ジョーン・バエズはアメリカの代表的なフォーク・シンガーの一人。1961年、62年の二度、ゴールドアルバム(100万枚)を獲得している。


バエズはボブ・ディランの恋人として、彼を世に出したことでも知られる。バエズはその後ジョブズと出会い、1960年代の初め頃、数年間にわたって交際した。

伝記には、バエズの前夫との間の子供、ガブリエルがタイピングを習おうとしていることを知って、発表前のマッキントッシュを見せるシーンがある。ガブリエルにはアップルIIを、バエズにはマッキントッシュを個人的にプレゼントしたという。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_15556.htm



グレン・グールド
伝記著者が第二巻の終盤、音楽について取材したときに、ジョブズがiPad2のプレイヤーで再生してみせた曲の一つ。


ジョブズはクラシックの中ではバッハを好み、中でもグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」の二つのバージョンを聞き比べるのが好きだった。グールドは「ゴールドベルク」を無名時代の1955年、死の直前の81年の二度録音しており、まるでロックのように激しくグルーブする前者と、静かに盛り上がる後者の聞き比べはクラシック・ファンにはおなじみ。

ジョブズは最後の病気療養に入ったころ、著者にこう述べたという。「グールド自身はあとのほうがずっといいと思っていた。僕は若いころの方がいいと思っていた。元気なほうだ。でもいまは、彼がどうしてそう思ったのかわかる気がするよ」
 (試聴)http://listen.jp/store/trackList_16379.htm


ヨーヨー・マ
ジョブズが人間としても音楽家としても尊敬していたのがチェロ奏者のヨーヨー・マ。二人の出会いは1981年、米コロラド州のアスペン。その後ジョブズの自宅を何度か訪れて演奏している。あるときジョブズは演奏の後、こんな賞賛の言葉を口にした。「あなたの演奏ほど、神の存在を示す論拠として優れたものを聴いたことがありません。


 人間ひとりでこれほどのことができるとは信じられないからです」。ヨーヨー・マはジョブズ自身の依頼で、2011年10月16日、スタンフォード大学内のメモリアル・チャーチで開かれた告別式でライブ演奏を行った。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_73781.htm


参考::音楽サイトからの引用
The Beatles(1960-1970)
http://listen.jp/store/artist_10184.htm
ビートルズ、彼らの存在そのものが地球を丸ごと飲み込んだ巨大な現象だった。ジョン・レノン(g&vo)、ポール・マッカートニー(b&vo)、ジョージ・ハリスン(g&vo)、リンゴ・スター(dr&vo)というリヴァプール出身の4人組は、50年代R&Rを基調としたスタンダードで馴染み深いロックを展開し、空前絶後の大ヒットを飛ばし続けた。また、5枚目のアルバム『ラバー・ソウル』から、特に音楽的に革新性が際立つようになった。66年にリリースされた『リボルバー』で発芽したインド音楽への接近や逆回転テープ録音などの実験精神は、67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で一気に開花。コンセプチュアルな視点から、クラシック、インド音楽、前衛音楽などさまざまな要素を取り入れたサイケデリックな音世界を展開した。それでも、彼らの音楽に対する探究心は飽くことなく、68年の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(俗に言うホワイト・アルバム)では、自らのルーツを再確認するかのようにブルースやフォークを、さらにはスカやハード・ロックにまで手を伸ばし、底なしの創作意欲を発揮した。この頃になると、メンバーそれぞれの個人活動も増え、ジョンとポールの不仲などが取り沙汰されるようになり、69年に事実上のラスト・アルバム『アビイ・ロード』が発表された。およそ10年足らずの活動ではあったが、音楽界のみならず、あらゆる社会現象に大きな影響を与えた功績は、4人という希代の才能(そして5人目のビートルズといわれたプロデューサーのジョージ・マーティン)が地球規模のスパンの中で偶然的に合致した奇跡の産物といえるものである。そして、彼らの「歴史」は、単なる歴史としてそこにとどまることなく、後生のあらゆるバンドやアーティストによって何度も書き換えられ、常に「現在」として生きつづけている。
 
Bob Dylan(1941/5/24 - )
http://listen.jp/store/artist_10126.htm
フォーク/フォーク・ロック界のロンリー・ゴッド、ボブ・ディラン。ライト&メロウなAOR、カタルシス全開のハード・ロック、ダンサブル&スウィートなR&B……といった、いわゆる「使える音楽」から、数千マイル離れた極北に位置し、その孤高の存在感でもって全世界に(私財をなげうつほどの)熱狂的なファン/マニアを数多く有する。ぼくらは何度、彼の“コクのある歌”に救われたことか。ぼくらが彼を敬愛して止まないのは、ひとえに「自己の表現欲求に対する猛烈なまでの真摯さ」ゆえだろう。例えば、保守的なフォーク・ファンから猛烈な罵声を浴びつつも、勇敢にエレキ・ギターを手にして生み出した、65年発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』『追憶のハイウェイ61』、ちなみに当時、ロック・バンドを率いた初のツアーにおいて、名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」はジミ・ヘンドリックス並みの爆音でカッコよく演奏されたという。そして、ザ・バンドとの魂の交流が生み出した『プラネット・ウェイヴズ』、結婚生活の破綻による苦悩に満ちた『血の轍』などなど(挙げれば本当にきりがない)……。それら至高の作品群に触れれば、彼がいかにシリアスに音楽と向き合っていたか、一目瞭然である。また、メロディ/アレンジは演奏するたび大胆に変更され、熱心なファンでさえその曲が何なのか即座に判断できないらしい。つまり、己にもっともジャストな表現を求めて止まないのだ。現在も依然、輝き続ける生涯現役のロック詩人ボブ・ディラン、この先最高傑作を生み出す可能性は十分にある。
 
Joan C. Baez(1941/1/9- )
http://listen.jp/store/artist_15556.htm
ボブ・ディランと共に60年代フォーク・ブームの象徴である、ジョーン・バエズ。その処女性を秘めた清らかなソプラノ・ヴォイスは、"天使の歌声"と評され、絶大なる支持を得た。弱冠18歳でニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージに立ち、劇的なデビューを飾ったバエズは、翌60年に1stアルバム『ジョーン・バエズ』を発表。これがポップス・ファンをも巻き込む大ヒットを記録し、一躍"フォークの女王"と祭り上げられる。ディランとも親密な交際を重ね、幾度となくステージを共にするなど、フォーク・ブームの推進力となった。70年代には、ロック的なサウンドも取り入れ、幅広い聴衆にアピール。いまも現役フォーク・シンガーとして活動中である。
 
Glenn Herbert Gould(1932/9/25-1982/10/4)
http://listen.jp/store/artist_16379.htm
とてつもない天才ピアニスト。「とてつもない」とは?その演奏を聴けば、その意味は誰にも一目瞭然。リズム/テンポ/アクセントどれもが強烈で躍動感に満ち、痛快とさえ感じられる。「ジャズ風」などと評されることもあるが、もっとも彼にはそういった意識はない。奇抜な新しい演奏を目指したのではなく、作品や作曲家を愛するがゆえの解釈なのである。それは、彼の全生命や限りない愛情が、一つ一つの音に込められているのを聴けば、納得がいくだろう。1932年トロントに生まれ。14歳でトロント交響楽団と共演し、デビュー。55年に、当時誰も取り上げることのなかったバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてアメリカ・デビューを果たし、57年にはカラヤン/ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューを飾る。しかし、64年からは一切のコンサート活動を停止、レコーディングに専念することとなった。レパートリーは幅広いが、バッハ演奏はとりわけ高い評価をされており、バッハといえばグールドを思い浮かべる人も多い。また作曲家としても、いくつか作品を残している。夏でも冬並みの支度をして外出したりビタミン剤を常用したりと、健康には異常なほど気を配っていたが、82年、50歳で急逝した。演奏をしながら歌い、体を揺すり(しかも曲に合っているとは限らない)、椅子の高さを極端に下げ、背を丸め、今にも壊れそうな愛用のピアノからは驚くほどデリケートな音色。この独特の世界に魅せられる人は後を絶たない。
 
Yo-Yo Ma(馬 友友、1955/10/7-)
http://listen.jp/store/artist_73781.htm
TV-CMへの出演で、クラシック・ファン以外にもすっかり人気となった、現代を代表するチェリストの一人。傑出した技巧、色むらのない豊かな音色で、叙情に溢れる感傷性、洗練された美しさ、深い表情を、自在に歌い上げている。レパートリーも広く、バロックから現代にまで及ぶが、近年はプロコフィエフやショスタコーヴィチといった近現代のロシア作品に重きを置いているようだ。そしてソロと並行して室内楽にも力を注いでおり、スターン、アックスなどと共演、高評を得ている。その他、クラシックの枠にとらわれず、ジャズ・ミュージシャンや、舞踊家などとも共演、またタンゴ演奏はCFでもおなじみとなり、CDは爆発的な売り上げを記録した。ヴァイオリニストの父とメゾ・ソプラノ歌手の母のもと、1955年パリに生まれる。6歳でパリ大学芸術考古学研究所にてリサイタルを行いデビュー。62年に家族で渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュルツ、レナード・ローズに学んだ。63年バーンスタイン指揮のテレビ番組に出演した後、アメリカ各地でコンサート活動を始め、アメリカの主要音楽祭にも参加。77年からはヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流オーケストラとも共演を果たしている。

 

(続く)

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