23回挑戦、61歳で弁護士になった神山昌子さんーー法律家としての「10年」を語る
挑戦すること23回、ついに司法試験に合格し、2005年に61歳で弁護士になった神山昌子さん(第二東京弁護士会)。苦労の日々を乗り越えたあとの10年間、弁護士として活躍してきた。なぜそこまでして、弁護士になりたかったのか。弁護士になってから、どんな思いで、仕事に臨んできたのだろうか。
●34歳で手にとった「法律の入門書」がきっかけ
神山弁護士は「今まで担当件数がもっとも多いのは、離婚の案件です」と説明する。
自身も離婚経験がある。長男が生まれて間もなくのことだ。生計を支えるために就職先を探したが、バツイチで子持ちという立場もあってか、正社員としてはなかなか採用されない。やむなく、パートやアルバイトを転々とする日々を過ごす。
34歳のある日、パートが始まる前に立ち寄った書店でたまたま手に取った法律の入門書が、司法試験に挑戦するきっかけとなった。「勉強すれば、私も弁護士や裁判官になれるのではないか、と思ったのです」
育児と仕事に追われる日常の中、どうにか勉強時間を生み出すものの、それでも司法試験の壁は厚い。10回目の司法試験に落ちたとき、断念しようと考えたが、当時小学生だった長男から、「続けたら? お母さんの夢なんでしょ」と励まされ、翻意した。
それ以降も毎回落ち続けた。ただ、不合格の直後こそ落ち込むものの、すぐに次の試験に向けた課題の検討やスケジュールの立案などに没頭し、前を向くのが常だった。物事をあまり悲観的に考えない性格がプラスに働いた。家族もチャレンジを支えた。
そして、受け始めてから23回目でついに合格。法務省に張り出された自分の受験番号を見つけたとき、「ちゃんと合格できる試験なんだと思いました」。無論、喜びは計り知れない。ようやくスタートラインに立つことができたのだった。
●北海道で取り組んだDV被害者の支援
弁護士になってから約1年後、法テラスの1期生として北海道旭川市に赴任する。さまざまな事件を担当したが、比較的多かったのが、DV(ドメスティックバイオレンス)がらみの離婚案件だった。DV被害に関する保護団体と連携し、旭川のDVシェルターに逃げてきた人の相談を受け、離婚調停などの手助けをした。
法テラスには、稚内や紋別など、シェルターが存在しない遠方の人も逃げてきた。しかし、調停や裁判は、居住地を管轄する裁判所に行かねばならない。もし電車を使ってDV被害者を連れていこうとした場合、本数が少ないために到着時間をDV加害者に読まれて、押し掛けられてしまう可能性がある。このため、自動車で数時間かけて連れていったこともあった。
「事務所にやってきたDV加害者に、『殺すぞ』とすごまれたこともありました」
ほかにも、裁判の進め方や依頼者との接し方など、旭川での3年間は多くのことを学ばせてくれた。貴重な経験を積み重ねたあと、2011年に東京に戻った。
持ち味は、何といっても豊富な人生経験だ。会社でのトラブルやSNSでの誹謗中傷、浮気、金銭問題など、日々訪れる人々の相談の中身は、人間関係に関するものが多い。
「皆さんの気持ちが良くわかるんですね。昔、お金がなくなったときに思考が止まってしまうことも経験しましたし、だまされた人が人間を信じたいと思った気持ちもよく理解できます。自分とかけ離れた感じがしないので、話もスムーズに聞けるんです」。豊かな人生経験が、さまざまな人の心に寄り添える「共感力」の源になっている。
●長男に引退勧告するように依頼した
その共感力は、ときに諸刃の剣となることもある。ある殺人事件の裁判では、追いつめられた被告人の心境に共感し過ぎて、精神的に深く疲れてしまった。東日本大震災の被災者から相談を受けたときも、困窮極まる人々の心痛を強く感じてしまい、しばらく何も手につかなくなった。
人々の心に敏感に反応しすぎて疲れることもあるが、この仕事は天職だと確信している。
「人間に興味があり、世話をするのも好き。本が好きで勉強が苦にならない。弁護士を目指したときから、この仕事に向いていると思っていましたが、それは間違いではありませんでした」
最初、相談に来たときは元気をなくしていた依頼者が、最後に元気を取り戻す姿を見るとうれしくなる。裁判や調停を通じて依頼者の役に立つことに喜びを感じる。できれば、90歳まで現役弁護士として働きたいと思っている。
もっとも、周囲から「辞めたほうが良い」と言われてまで続ける気はない。そのときは、長男に引退勧告をするよう、すでに依頼しておいた。「もしそのときが来れば、ちゃんと言ってくれると思います」
弁護士になって今年で10年。90歳まで現役なら、司法試験に挑戦し続けたあの長い歳月を超えることができる。
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