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チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

サングラス

2013年07月21日 | 身の回りのもの

曇り、27度、93%

 そんなに使いもしないのに、手元に溜まってしまったもののひとつがサングラスです。沖縄より南の香港です。サングラスは目の弱い人には、必需品。昨今、紫外線の目への影響も言われ始め、香港人も少し日が照ればサングラスをかけます。そのうえ、女優眼鏡ともいわれる大きめサングラスの流行です。確かに大きめなサングラスは、顔の大半を隠してしまうので、すれ違う人がきれいに見えます。

 私がサングラスをかけないのは、しばらくかけていると鼻に当たるパッドの所がシミのようになります。残りはしないもののやはり気になります。よくサングラスをかける主人は、無くすこともしばしばです。つまり、私がサングラスを蓄えたのではなく、使わないからなくさない、傷めないだけのことことかもしれません。

  細めのサングラス、手前の黒は手に取ってみていただけなのに、主人が買ってくれたもの。いずれはグラスを入れ替えて老眼鏡にするつもりです。後ろのはスポーツタイプ、汗止めもついていますし、頗る軽く、山登りのとき持って行きます。ともにプラダのものです。

  女優眼鏡といわれる大きめのもの。タダでさえ顔が小さいので、すっかり隠れてくれます。ところが、手前のものは実に30年以上前のサングラスです。写真の色がよくないのですが、上の色の薄い所はピンクに近くグラーションがかっています。当時、このサングラスをしていると、逆さまにかけているよとか、変な顔をしてみられたものです。退色もなく、状態のいいまま現役で車に乗っています。奥のは4、5年前のもの。グリーンのフレームにいたく心惹かれて買ってしまったものです。手前がディオール、奥はマルニのものです。

 10年以上前、目の周りに大きな痣を作ってしまいました。いわゆる打撲です。顔が曲がってしまったように、腫れ上がりお岩さんそっくり。鏡を見ては笑っていました。でも、仕事に出かけなくてはなりません。打撲は腫れが引いても、青紫のうっ血が残ります。家を出て家に戻るまで夜でもサングラスをかけていたのは、3ヶ月程におよびました。直射を遮るためのサングラスが、私にとっては痣隠し。とっても助かった覚えがあります。

 30年前のサングラス、最近のものと比べても重たくありません。なんだか、いつまでも使っていそうな気がします。

 


ピクルス

2013年07月20日 | 料理

小雨、27度、97%

 私、あまりお漬け物を食べません。お漬け物と真っ白いご飯という組み合わせでは、物足りません。お漬け物があればお茶請けになってしまいます。それでも気が向けば、せっせとぬか漬けを作ったり、キムチを漬けたりします。決まって、自分が食べたい時です。香港には、日本の大手の漬け物屋さんがコーナーを作って売っています。もちろん香港地場ものの漬け物もあります。高菜漬けなんて、日本のそれとほとんど変わりません。もちろんご飯とも食べますが、炒飯や炒め物の隠し味に使います。

 考えてみれば作り置きが出来て、ご飯に塩分を補って、野菜の繊維質も取れる漬け物は、日本の食生活にマッチしたものです。昔からある食べ物は、それなりの理由があるものです。

 お漬け物がないので、朝のご飯の時に野菜がないなんて事になります。そこで、時折ピクルスを作っておきます。塩揉みした野菜の水気を切って、甘酢で漬けるだけです。一晩も置けば食べれるようになります。野菜は身近なものばかり、夏大根、セロリ、人参、キュウリ。彩りを考えて拍子に切ります。甘酢も中華風や洋風と気分で。中華風の時は、 鷹の爪と実山椒を入れて、主人の好みに合わせて我が家は少し甘めです。人がみえる時なども、ピクルスを当てに、ビールをお出しして、次の用意にかかれます。作り置きの食べ物は、何かと便利です。

 キュウリばっかりのピクルス、色取り取りのピーマンのピクルス、ピクルスなんていってももお漬け物の一種です。冷蔵庫で、4,5日持ちます。


朝焼け

2013年07月19日 | 日々のこと

曇り、26度、88%

 長いこと午後3時頃から仕事をしていたので、夕焼けを見ることが少なかったように思います。とはいっても、高いビルに囲まれた香港よほど視界の拡がった場所に行かなくては夕焼けなど見えません。夕焼けには縁遠かった私ですが、早起きなおかげで朝焼けには、度々出くわします。

 もっと詳しく言えば、朝焼けの前の漆黒の空から空の色の変わりゆく様を楽しんでいます。この不夜城のような香港ですが、さすがに深夜を過ぎたあたりから高いビルの照明は消されます。夜と朝の間の時間です。星すら見て取れる空が、徐々に薄れて行きます。群青色、本当に字の如く青が群れなしたような空色が、青の群れが次第に散って行き、赤みを帯びてきます。実際はこんなに簡単な表現では表されないほど微妙、しかも日によって色のはけ具合が違います。

 どなたかが夕日も朝日も、お日様が作るダイナミックな演出だと言うのを読んだことがあります。日々変わり、見る者に何も怖いものはないんだよ、と教えてくれる朝日や夕日です。夕日の力強さやエネルギッシュなのに比べると、どんなに強い陽を放っていても、朝日はやさしく感じます。

 家に帰り着く頃、いよいよ朝陽が上ります。 家の窓が東向き、高台にあるので見上げずとも楽しめる朝焼けです。 見出し写真を含めて、同じ窓から同じ時期に撮った朝焼けの写真です。ビルとビルの間、九龍サイドの山の上に上がり始める太陽、時には、ビクトリア湾に映る朝焼けも見て取れます。

 この後、陽の光は空中を満たして行き、すっかり空と同化してしまいます。もちろん毎日見ることが出来るわけではありません。一日が始まる朝の時間に一寸した余裕ができます。

 旅先でも、時差に関係なく早起きです。休んでいる主人を起こすまいと、窓辺に椅子を寄せて空を見ています。私の取って置きの一枚、インドコルカタの朝焼けです。


マカロン

2013年07月18日 | 香港

晴れ、24度、97%

 香港でも、日本同様マカロンのブームが続いています。Le Gouter Bernardaud,Jean Paul Hevin,Paul Lafayet,LADUREE,Pierre  Herme. パリの有名なお菓子屋さんのマカロンは全て手に入ります。しかも、我が家からテクテクと歩いて20分以内に全ての店があります。だからといって、マカロンを買いに行くことはありません。いいチョコレートとマカロンは、なぜか頂き物と思い込んでいます。それでも、お店のショーケースの前にじっと佇んで、あのきれいに並べられたマカロンを見るのは大好きです。色合いから外のメレンゲの味を想像します。中のクリームはなんだろう?またしても想像が膨らみます。

  最近頂いたのは、Jean Paul Hevinのマカロンです。この店は、二階建ての路面店、2階ではチョコとお茶が頂けます。

  しっかりと泡立てた卵白にアーモンドプードルを入れて焼くマカロン。外のホロッと崩れる口当たりの次にクリームのやさしさが拡がります。ふた口程で食べれるのも人気の秘密かもしれません。本場フランスでは直径10センチ程のマカロンもあるそうです。抹茶、柚子風味もあります。あずきの風味のものにはまだお目にかかりません。

 流行り廃りがあるお菓子の流れですが、マカロンは随分歴史の長いお菓子です。何かで日本ほど食べ物の流行がめまぐるしく変わる国はないと書かれていましたが、ここ香港も同様です。このマカロンとどこがいいのか私には解らないデコレーションされたカップケーキが今香港では流行です。マカロン、しばらくはお店のウィンドウを飾ってくれるはずです。


ブーケ

2013年07月17日 | 

小雨、25度、95%

 ブーケを頂きました。香港セントラルにある老舗の花屋さんのブーケです。自宅で使う花ではなく、贈り物としての花は、世界中同じような機会が選ばれます。お誕生日、お見舞い、開店祝い、結婚式にお葬式。強いていえば、香港ではバランタインデーに男性から女性に花束が贈られる機会があります。

 もちろん手土産にも、 ギュウッとかためられた花は、どんな花であれ豪華に見えるブーケです。すぐに解かずにブーケのまま花瓶に挿しました。シャクヤク、バラ、アリストロメリア。薄いピンクの花が肩を寄せあって納まっています。 

 さて、お持ちくださったお客様が帰られたので、花束を解いて生け直します。このままギュッとが一番素敵ですが、花同士が近すぎて蒸れてすぐに傷んでしまいます。ブーケを解かれたことのある方は、お解りいただけると思いますが、ブーケになった花を生け直そうとすると、うまくいかないことがままあります。

 ちょうど、同じような色合いのアリストロメリアが家にありました。それといただいたブーケの花で2つの壷に生けてみました。 これは、手持ちのアリストロメリアが主体です。シャクヤクがアクセントになりました。

 見出し写真はブーケの花中心に、 バラの色とシャクヤクの色が近すぎて、バラが映えてくれません、ただこのバラ、きっとオランダからのシャンパン香の種類です。早朝の部屋にすっとこのバラが香ります。

 ブーケにする花は、咲き始めか咲き誇っている頃を選びます。私などが市場で買って来る、堅いつぼみではありません。堅いつぼみのシャクヤクは、思うように咲き切らないで枯れることもありますが、ごらんのように満開のシャクヤクは、惚れ惚れします。

 香港の花屋のブーケ、兎角レモンリーフを多く使います。今回のブーケ21本のレモンリフーが使ってありました。きれいな緑の葉っぱですが、あの堅さがどうも私には馴染めません。生け直す時は、1本も使わず仕舞いです。いつも自分が選ぶ花だと、決まり切ってしまいます。人から頂くものが、時に部屋の雰囲気を変えてくれます。


ラズベリーとバナナのアイスクリーム

2013年07月16日 | 菓子

曇り、25度、90%

 このアイスクリームに似ている食べ物、作り方からするとアイスクリームではありません。氷らせて作る菓子と言う意味で、パルフェの方が正確な言い方です。でも、食べるとアイスクリームそのまま。アイスクリームより溶けるのが早いので、サッサと食べなくてはいけません。

 ラズベリーでもストロベリーでもいいのですが、ラズベリーのあの酸っぱさがバナナとマッチします。色合いも、ラズベリーのプツプツが混ざっている様子も、まるで可愛い女の子のようなクリームです。

 ラズベリー、100g。生でも冷凍でも、今回はニュージーランドの冷凍を使いました。バナナ2本。砂糖100g。をボールに入れ、フォークでつぶします。これに、生クリームを200g合わせてアイスクリームメーカーで大きく膨らむまで、かき回します。

 アイスクリームメーカーがない時は、生クリームをしっかりと泡たてて、バナナとラズベリーを潰したものと合わせるだけです。これを冷凍庫で固めると出来上がり。いたって簡単ですが、食べると病みつきになります。

 キルッシュをアクセントに入れるといいのですが、手持ちがなかったので省略。キルッシュを入れなかったので、バナナの香りを感じることが出来ました。 

 なんにも言わないと、バナナが入っているとは誰も気付かれません。アイスクリームにしても冷たくして食べるものは、砂糖を減らさない方がいいかもしれません。バナナも入っていますから、このクリームはやや砂糖は少なめです。

 バナナが入っていることを黙って、お出しください。んん?誰一人、バナナのバの字も仰らないこと請け合います。


もの乞い

2013年07月15日 | 日々のこと

曇り、26度、97%

 香港のセントラル、ちょうどお昼時の人通りが多い頃、交差点近くに座り込む物乞いのおばさんがいます。ぼろを身にまとい、マスクをいっぱいしているので顔は見えません。発泡スチロールの弁当箱に投げ入れられた硬貨は、すぐさま胸にしまい込みます。20年程前までは街のあちこちに見られた物乞いです。きちんとしたなりをした子供の物乞いもいました。急にスカートを引っ張られ振り向くと、小学2年くらいの男の子が立ってます。手のひらを出して、パンを買うから$2くれ、と言います。まだ、$2でパンが買えた頃の話です。

 初めて、香港と隣接のシンセンに行ったのは春節の休みでした。一番寒い頃です。シンセン駅を出た途端、ほとんど服らしい服も着ていない裸足の子供の一団が主人と私に付きまといます。主人は、決してお金を渡してはいけないよ、と言います。渡すとこの子供たち倍に膨れ上がってどこまでも付いて来るのだそうです。目を合わせまいと空を見て歩きます。道端には、生まれたばかりの赤ん坊の手や足をわざと折って、物乞いをする若い母親の姿も見えました。もう20年以上前のことです。

 まだ、中学生だった私が初めて行ったヨーロッパ、イタリアのローマで観光バスに乗りました。トレビの泉の近くでバスは、裸足の子供たちの集団に囲まれました。手を窓辺に差し出し物乞いをします。その時の私よりほんの幾つか下の子供たちでした。ガイドさんが、お金を投げないように注意しています。投げたお金を追って、車にはねられるからだそうです。

 インドのニューデリーの交通渋滞は、地下鉄が出来た今も、車を買う人が増えたおかげでひどいものです。のろのろと進む車の流れを縫って、黒のアンバサダーのタクシーをめがけて子供たちがやって来ます。ふっと気付くと窓にへばりつくように中を覗き込んでいます。主人が、お金を渡してはいけないと言うので、目を合わさないように、車の天井を見つめています。そして、最後はいつも、やはり耐えきれなくなった主人が、お金を渡してしまいます。

 私の物乞いの思い出の一番はじめは、昭和30年代の私の生まれ育った福岡でのことです。あの頃は、まだ軍服を着た物乞いがいた時代です。軍帽に軍服。軍の病院の白い着物の寝間着、そんなものを着て負傷兵ですと、物乞いをしていました。あるとき、軍服を着た物乞いのおじさんは、サルと犬を使って芸を見せていました。自分は松葉杖をついています。どんな芸を見せていたか、さっぱり記憶にありません。サルはちゃんちゃんこを着ていました。そして時折キーっと、白い歯を見せます。サルには興味がわきません。なかなか、動こうとしない私に、母が珍しく小銭を握らせてくれました。小銭を缶かなにかに入れたのでしょうか、そのとき私はどうかこの犬にご飯を食べさせてやってください、と願いました。

 その何時間か後、急に唐津の呼子に夕飯を食べに行くことになり、父が運転する車で、唐津街道を西に向かいました。福岡の市街を抜けると、生の松原という両側が高い松の防風林の間を抜けます。この生の松原にかかった頃、助手席の母が、前方を指差し後ろの私に振り返りました。見ると前には自転車が一台。こいでいるのは軍服を着たおじさんです。おじさんの肩にはちゃんちゃんこのサルが乗っています。後ろの荷台の箱には犬の頭が見え隠れしています。さっきまでついていた松葉杖は自転車の横にしっかりとくくってありました。軍服を着た、騙りの物乞いだったのです。車が、自転車を追い抜くとき、私がやはり気になるのは犬のことでした。母が、何を言ったかも忘れました。ただ、そういう時代だったのです。

 どんなに世の中が進歩しても、世界のどこかの街角で物乞いをする人が、無くなることはないような気がします。この5月、生の松原を久しぶりに通りました。あの道を通ると、私には軍服を着たおじさんがこぐ自転車が見えます。


萬行寺のとら その3

2013年07月14日 | 日々のこと

曇り、29度、82%

 生きているものは、老いを迎え病を持ち、命を全うして行きます。動物たちのそのサークルは、人間のそれよりもずっと早廻りします。短いスパンの中で、私たち人間にいろいろなことを教えてくれています。

 今回の帰国は、母の保険の更新、主人の実家の用事と帰国前から時間がタイトなのは解っていました。自分なりに2日間の時間割が出来上がっています。どう考えても、父の墓参りには行けそうもありません。実は嬉しい知らせを父に報告したかったのです。

 母の施設の担当者の方達との会談が済み、主人への土産物も調達しました。飛行場へ向かうのにほんの少しだけ時間が出来ました。梅雨明けに伴う猛暑の中を山笠を横目にお寺へ一目散です。

 山門をくぐると左手の寺務所の前に、家飼いされている2匹のクロネコがリーシュを付けて涼んでいます。近くの檀家の方も寺務所のおじさんと猫談義に話が弾んでいるところでした。この2匹実によく似ていますが、兄弟ではありません。毛の色も若干違います。目の色は全く別です。 すり寄ってくるので、目が写せませんね。2歳になったぐらいです。冷暖房完備の寺務所の中でお大尽に生活しています。 皆さんこの2匹の話ばかりです。私が、とらが元気だった頃は、この猫たちより大きくきれいな猫でしたよね、と言うと皆さん、深く頷きます。とらを知らない人はいませんから。いつものごとく寺務所のおじさんは、インターネットで「萬行寺のとら」と調べると、沢山写真が出て来て香港の人までが書いてくれてますからね、とおっしゃいます。あっ、それ私です、ともちろん口にはしませんでした。時間がありません、境内の中を、とらさーん、とらさーんと呼びながらお墓に向かいました。

 木陰の涼しいところをよくご存知なとらさん。病気のせいでよだれが多くなっています。何年ぶりかに、とらと目と目が合いました。か細い、ニャーと言う声を聞きました。人間でも応える程の暑さです。お水を一杯飲むのよと言って、別れました。

 お寺の裏の墓地に入った途端、猫の習性を思い出しました。家付きの猫でも、出入りが自由な猫は、自分の死期が近づくと家の者の目から見えない所に、死に場所を求めるのです。確かに知人の猫が、姿が見えなくなってしばらくして隣家の床下で亡くなっていました。とらは病院通いをしています。ご飯は、時間通り毎日食べています。でも、17歳です。もう何があってもおかしくありません。

 きっと、とらは猫の習性にそって、姿を消すように思います。死に目を人に晒さない、猫らしい潔さを感じます。

 これ以上とらの弱った姿を皆さんにお見せするのは、私も忍びません。今朝の福岡は、少し涼しいと聞きました。とらが境内を歩く姿が見えるようです。


客家(はっか)

2013年07月13日 | 香港

晴れ、28度、86%

 中国には漢民族と55の少数民族がいると言われています。つまりあわせて56民族です。人数的には80%以上を漢民族を占めているそうです。ここ香港に随分永く住んでいますが、広東語すら満足に話せない私には、顔を見ただけで北の人か南の人なのかも解りません。しかも、私自身よくチュウチャオ地方の人に間違えられます。日本語でも話していれば、どこかの少数民族と思われているに違いありません。しかも、香港は広州一帯、遠くは上海からの移民も多い地方です。そのうえイギリスの支配下にありましたから、民族衣装など来ている人はほとんどいないわけです。

 香港に来たすぐの頃、落馬州という、中国シンセンが見渡せるという香港北の小高いところに行ってみようと家を出ました。香港も北に進むと次第に山の形が違ってきます。なだらかな丸みのある山の形です。中国に近くなるせいか、私はその山の形をみると、中国的だと一人思い込んでいます。今と違って中国にほど近い街に行くのすら2時間もかかりました。そこから落馬州に行くには、14人乗りのミニバスに乗らなくてはなりません。流石の私も、広東語が全く解らない時のことでしたから、諦めてその街を歩いてみました。

 香港の中心部とは違いゆっくりした空気が流れています。日差しも強く感じました。道端で自家製というか山から採って来たようなものを売っているおじいさんおばあさんも沢山います。週日の昼間でしたから、街は年よりか子供ばかりでした。

 その街で、面白い竹でできた被り物を頭にのせている女性を多くみました。力仕事、掃除をしています。その被り物、つばの広い麦わら帽子のようで、縁には黒い薄手の生地で日除けがついています。その後すぐに知ったことですが、この帽子をかぶっているのは客家と言う民族の女性でした。

 客家は、正確にいうと漢民族の一派だそうです。つまり少数民族でかありません。歴史の長い民族で,秦の時代には中国東北部にいたもののその後次第に南に移動して来て、今では、広東省、福建省の山岳部に定住しているそうです。その流れが香港の北にもをなして住んでいます。客家語が会話の母体だそうですが、まだ耳にしたことがありません。

 客家、と名前のように、どこに行ってもよそ者の客として扱われて来た歴史を背負っています。南下した彼らの一族は、果てはシンガポールにまで住み着いているそうです。

 香港の町中でもレストランに客家料理と名をうった店が数件あります。こうして移動を重ねた民族の食べ物です、使う食材はその土地にあったもの、味付けは労働者が多いので味が濃いそうですが、香港のレストランの客家料理は、味にメリハリがありませんでした。ただ、蒸し煮料理が基本で、鳥1羽を蒸し煮したスープは有名です。

 香港の田舎町の黒い縁取りのある被り物をかぶっている人たちからも、中国の大きさ、民族、言語の多さ、ひとつの国で一見すれば変わりない人種のようですが、実はそうではない、奥の深さをつくづく知らされます。


巴富花園 香港

2013年07月12日 | 香港

晴れ、27度、82%

 海外赴任者の多い都市ではどこでも同じようですが、ここ香港も日本人が多く住む地域があります。日本人村とまではいわれませんが、私が住むようになってこの25年、日本人が多く住む地域も変わってきました。20年以上前は、九龍サイドでは、ホーマンティン一帯に日本人が多く住んでいました。ホーマンティンは、高級住宅街です。しかも、日系のデパートなどがあるトンローワンへもトンネルバスを使うと、20分もあればつくことが出来ます。その一角にあるマンションが、巴富花園、二棟以上のマンションが建っていると花園と呼ばれます。この巴富花園は、私にとって思い出深いマンションです。

 私が家庭教師の仕事を始めたとき、初めて伺ったお宅がこのマンションにありました。その後、ここだけで5世帯、11人の子供たちを教えました。初めはお兄ちゃんだけお姉ちゃんだけが、長くなると下の子もみるようになるのです。私もまだ、30代でした。元気はよかったし、一番子供たちを叱りつけていた頃でもあります。その子供たちも、お父さんお母さんになりました。

 ホーマンティンは、私がよく行く九龍サイドの花市から歩いて15分くらいのところです。巴富花園以外にもこの辺りでは、8人ほどの子供を教えに行きました。花市にほど近いところにある教会です。 初めて伺う日に、この教会の階段で待ち合わせをした子供がいます。今では、有名なお笑い芸人になってよくテレビに出ています。階段に座っていた 中学生の彼の顔が今でも思い出されます。今日は、車に乗らずに、花市からホーマンティンまで歩いて、バスで家に戻るつもりです。九龍サイドは、香港島と違って道幅がとても広く、以前のカイタック空港が、すぐ近くにあったので建物の高さ制限があり、空が顎をあげずとも見渡せます。と言っても、今では随分高層ビルが建ち並んできました。

 巴富花園に行くのに小道を通ります。 ずっと来ていないのに、自然とこの道にたどりついています。あれ?こんなところに靴の修理のおじさんが、昔からいたっけ?

 実はここに住んでいたご家族に、巴富花園の写真を送る約束をしていました。彼女たちが帰国する前は、白っぽい建物だったはずです。それともこのピンクになってすぐに、帰国したのかな?

 マンションの窓辺から、私が見えなくなるまで見送ってくれた子供の顔も、ここに来ると窓辺に見えるようです。この巴富花園の少し外れにポストがあります。 以前は、赤でした。返還後、緑に塗られました。今でもエリザベス2世のマークは残ったままです。私が次に教えに行く家にこのポストの前を通ることを知っている子供は、私にお手紙を出してくれと頼みました。一度ではありません。宛先は日本のおばあちゃん。

 ここにこうして立っているだけで、つぎつぎに思い出すことばかり。

  少し歩くバス停も以前と変わりのない場所に立っています。パス標識も変わっていません。100番台のバスが、トンネルをこえて香港島に連れて帰ってくれます。このバス停で、30代から40代にかけて私は、夜の9時過ぎに30分に1本のバスを待ちました。バス停に寄りかかり、何を考えていたのでしょう。つい昨日のことのようです。