
◎2011年2月5日(土)
今日、明日は時間の余裕がなく、当初から山を歩く予定はなかったが、暖かげな陽気が気になって、3時間程度の山歩きならいいだろうと、今日の用事は中途半端なままにして出かけた。行き先は佐野のアド山。旧葛生町になるのだろうか。そういえば、一昨日、テレビで原人ラーメンなるものを紹介していた。そのせいだろうか、帰りがけに見たラーメン屋の駐車場はどこも車でいっぱいだった。さて、このアド山、初めてではあるが、何でこんな山の名になっているのか不思議。広告代理店をついイメージしてしまう。後で調べると、やはり、気になる方もいるようで、その記事によれば、元々は「阿土山」と記すようで、明治時代、陸軍の測量部の地図作成時に、漢字不明のままとりあえずカタカナのアド山にしておき、以来、アド山表記になっているとか。山全体が城址になってもいるようだ。ここは、佐野氏関係の城らしく、その末裔は世直し大明神の佐野政言。刺された田沼意知もまた、皮肉なことに、佐野氏の流れを汲む血筋。系図のからんだ恨みが原因らしい。
(山門に続く道)

金蔵院の駐車場に勝手に車を置く。アド山城址の入口にもなっているから、とがめられはしまい。他に車はない。この金蔵院もまた、佐野氏に関わる古刹。案内板には、1494年の開山と記されている。もう、時間も11時になってしまっている。こんな時間の歩き出しは初めてだ。とりあえず、寺を拝見する。たいして古さは感じないが、墓石やら石仏を見ると、寛保、宝暦、享保と、江戸中期の年号が並んでいる。「アド山城址1.7km」の案内にしたがって進む。さて、城址である以上、解説板が欲しいところだが、山中でそれを見つけることはできなかったし、「●●跡」という標示もまったくなかった。素っ気ない城址だ。だから、帰ってから調べることになってしまった。やはり、詳しい方がいるようで、かなり勉強になった。
(堀切跡)

(石積み跡)

(山頂直下の石祠)

(アド山山頂)

山頂まではゆるやか。明るい、まばらな雑木の中を登る。途中、堀切を3か所横切る。石積みとともに、城址の名残を感じる。歩きながらの景色はさして良くはない。まして、今日は、全体にかすみがかかって、遠望が効かない。石祠が1基。字は彫られていないのか、消えているのか、年代が不明。すぐ真上に山頂。25分もかからずに到着。拍子抜け。正面に昨年歩いた三峰山が見えた。他の山は確認できない。今日は暖かいせいか、それなりに汗はかいた。急なところはなかったが、息切れも何回かした。毎週のように歩いているわりにはなまくらだ。
(三峰山)

(こんな標示が)

(こんな物、何で持ち帰らないのだろうか)

来た道をそのまま下ったのではさらにあっけない。南尾根から西尾根を経由して下ることにする。明瞭な道にはなってはいないが、そこそこ歩かれているようだ。山頂のちょっと先に展望地がある。石灰を採掘する山があちこちに見えるだけ。ここからの下りはロープ、鎖と、ちょっと慎重になる。枯葉で滑る。あとは至って楽なコース。地元の小学生が作ったのだろうか、標識もある。標識に記された「林道」とは、地形図で南側を東西に走る林道のことを指すのだろうか。ということは、林道からのルートもあるのだろう。しかし、ゴミの多いルートだ。空き缶やペットボトルを枝に挿しているのがかなり目立つ。ゴミもかなり捨ててある。
(イノシシ捕獲用?)

西尾根に向きを変える。ここが、林道に至るコースの分岐だろう。ピークをいくつか越えて植林の中に入る。しっかりした踏み跡はなく、適当に勘で下るしかない。やがて、右手下に沢が見え、墓地が見えてきた。沢には水がチョロチョロと流れていた。沢を上がると、「有害鳥獣捕獲等」を目的にした檻があった。エサもないのに、こんなところに入るのだろうか。鳥が出入りしていた。
(ここにも石仏がずらり)

(金蔵院)

金蔵院に出る。ここにも、古い墓碑や地蔵がずらりと並んでいる。このエリアは、歴代の住職関係のようだ。延享、天明、寛政と、ここも江戸時代の中期。こんなのをだらだら見たり、ひなたぼっこをしながら時間をつぶして歩いたが、さして時間つぶしにはならず、出発から1時間半もかからずに駐車場に着いてしまった。それにしても、今日の陽気の中、こんな里山に人が訪れないのは何とももったいない。
今日、明日は時間の余裕がなく、当初から山を歩く予定はなかったが、暖かげな陽気が気になって、3時間程度の山歩きならいいだろうと、今日の用事は中途半端なままにして出かけた。行き先は佐野のアド山。旧葛生町になるのだろうか。そういえば、一昨日、テレビで原人ラーメンなるものを紹介していた。そのせいだろうか、帰りがけに見たラーメン屋の駐車場はどこも車でいっぱいだった。さて、このアド山、初めてではあるが、何でこんな山の名になっているのか不思議。広告代理店をついイメージしてしまう。後で調べると、やはり、気になる方もいるようで、その記事によれば、元々は「阿土山」と記すようで、明治時代、陸軍の測量部の地図作成時に、漢字不明のままとりあえずカタカナのアド山にしておき、以来、アド山表記になっているとか。山全体が城址になってもいるようだ。ここは、佐野氏関係の城らしく、その末裔は世直し大明神の佐野政言。刺された田沼意知もまた、皮肉なことに、佐野氏の流れを汲む血筋。系図のからんだ恨みが原因らしい。
(山門に続く道)

金蔵院の駐車場に勝手に車を置く。アド山城址の入口にもなっているから、とがめられはしまい。他に車はない。この金蔵院もまた、佐野氏に関わる古刹。案内板には、1494年の開山と記されている。もう、時間も11時になってしまっている。こんな時間の歩き出しは初めてだ。とりあえず、寺を拝見する。たいして古さは感じないが、墓石やら石仏を見ると、寛保、宝暦、享保と、江戸中期の年号が並んでいる。「アド山城址1.7km」の案内にしたがって進む。さて、城址である以上、解説板が欲しいところだが、山中でそれを見つけることはできなかったし、「●●跡」という標示もまったくなかった。素っ気ない城址だ。だから、帰ってから調べることになってしまった。やはり、詳しい方がいるようで、かなり勉強になった。
(堀切跡)

(石積み跡)

(山頂直下の石祠)

(アド山山頂)

山頂まではゆるやか。明るい、まばらな雑木の中を登る。途中、堀切を3か所横切る。石積みとともに、城址の名残を感じる。歩きながらの景色はさして良くはない。まして、今日は、全体にかすみがかかって、遠望が効かない。石祠が1基。字は彫られていないのか、消えているのか、年代が不明。すぐ真上に山頂。25分もかからずに到着。拍子抜け。正面に昨年歩いた三峰山が見えた。他の山は確認できない。今日は暖かいせいか、それなりに汗はかいた。急なところはなかったが、息切れも何回かした。毎週のように歩いているわりにはなまくらだ。
(三峰山)

(こんな標示が)

(こんな物、何で持ち帰らないのだろうか)

来た道をそのまま下ったのではさらにあっけない。南尾根から西尾根を経由して下ることにする。明瞭な道にはなってはいないが、そこそこ歩かれているようだ。山頂のちょっと先に展望地がある。石灰を採掘する山があちこちに見えるだけ。ここからの下りはロープ、鎖と、ちょっと慎重になる。枯葉で滑る。あとは至って楽なコース。地元の小学生が作ったのだろうか、標識もある。標識に記された「林道」とは、地形図で南側を東西に走る林道のことを指すのだろうか。ということは、林道からのルートもあるのだろう。しかし、ゴミの多いルートだ。空き缶やペットボトルを枝に挿しているのがかなり目立つ。ゴミもかなり捨ててある。
(イノシシ捕獲用?)

西尾根に向きを変える。ここが、林道に至るコースの分岐だろう。ピークをいくつか越えて植林の中に入る。しっかりした踏み跡はなく、適当に勘で下るしかない。やがて、右手下に沢が見え、墓地が見えてきた。沢には水がチョロチョロと流れていた。沢を上がると、「有害鳥獣捕獲等」を目的にした檻があった。エサもないのに、こんなところに入るのだろうか。鳥が出入りしていた。
(ここにも石仏がずらり)

(金蔵院)

金蔵院に出る。ここにも、古い墓碑や地蔵がずらりと並んでいる。このエリアは、歴代の住職関係のようだ。延享、天明、寛政と、ここも江戸時代の中期。こんなのをだらだら見たり、ひなたぼっこをしながら時間をつぶして歩いたが、さして時間つぶしにはならず、出発から1時間半もかからずに駐車場に着いてしまった。それにしても、今日の陽気の中、こんな里山に人が訪れないのは何とももったいない。
川越も城跡でお堀など、小学校の周りにありましたけど、考えてみれば、日本のお城はどうして、壊されてしまったのでしょう。負けたら、城を壊す?戦争で破壊された?ヨーロッパのお城は残っているのにと思いました。
イノシシの檻があると言う事は、被害が出るほどいるのでしょうか、襲ってくるというイメージがあるから、恐い。あのゴミに誘われて出てくるのかも。ゴミは持ち帰りですよね。
まず、アド山のカタカナ表記ですが、ネットで調べると、地元の方も阿土山の表記を知らない方が多いようです。「欲しい」と思っている方はそんなにいるとは思えません。むしろ、カタカナだから、物珍しく訪ねる人も多いのでは。阿土山では、ただのその辺の山といった存在になるのでは。
次に、城の破壊について、詳しくは知りません。江戸時代の一国一城令、明治の廃城令、前後して戊辰戦争といった政治的なものがあったでしょうし、広島城のように、原爆や空襲による倒壊といった要因もあるのではないでしょうか。アド山城については、よくは分かりませんが、山城の性格からして、存在の意義がなくなったといった面もあるのではないでしょうか。いい加減なことも記せませんが。
ゴミの件ですが、空き缶、ペットボトルの投棄は多かったですね。あれでは、食い物もかなりあるのでしょう。イノシシの掘った穴は随分と見かけましたよ。
こんなものでよろしいでしょうか。
またまた、全く判らない山です。いつもながら思うのですが、用事がある日でもチョコット山を歩ける環境は大変羨ましいです。城址というのもいいですね。定年後は、そんな所に住んでみようと妄想してしまうのです。
途中に挿入されている「三峰山」の画像が気になりました。この山も「西方PA」の西南ですよね・・・。
ぶなじろうさんがご存知ない山を歩くことが、正直のところ、すごく恥ずかしい思いをしています。いかに、自分がマイナーな山を歩いているのかといった後ろめたさにも似た感情でしょうか。
ちょこまか行ける山は無数にありますから、次回もおそらくはぶなじろうさんを悩ますことになるでしょう。宇都宮にある篠井富屋連峰なんてのはご存じないでしょうね。別名、宇都宮アルプスと称されているようですが。
足尾の山も、雪解けまでお待ちください。
さて、三峰山ですが、西南というよりも、真西ですね。昨年行っていますので、よろしかったら、ご参照ください。
→http://blog.goo.ne.jp/mailaddress-1234/e/4752f89a8024478a66284c6955257feb
余談ですが、真田太平記にはまり込んでいます。NHKのDVDを買うことまで考えたのですが、5万円もするのでは手が出ない。蔦屋に行ったら、5巻1000円でした。ちゃっかりとコピーし、今日はその作業を終日やっていました。いつ見られるかも分かりませんが、これからの暇つぶしの楽しみができましたよ。これも、ぶなじろうさんのお陰ですわ。
土曜のひなたぼっこ山歩きはアド山でしたか。
2時間くらいの山と思っていましたが、たそがれさんには1時間半も掛からないようですね。
無理矢理伸ばすとすれば275ポイント経由で周回かなとも思いますが、それほどまでするほどの魅力的な尾根でもなさそうですね。
石積み跡には気がつきませんでした。ボケてますね。
檻には昨日も鳥がはいってました。餌は鳥が食べてしまったのでしょうか。
たそがれさんとはコース取りが似ているので、またどこかでお会いするかもしれませんね。
三床山に比べてアド山の方が若干、標高は低いのですが、急登はなく、かなり楽でしたが、息切れはしましたね。三床山の方がむしろ、達成感のようなものがありましたし、おかしなもので、息切れもありませんでした。
山頂からの下りはさらに至って楽で、275mポイントもただの高みといった感じで、変化に乏しいことは確かですね。アド山しか見えませんし。
魅力が有る、無いといった感覚では、確かに無いとも言えましょう。他に変化に富むようなコースも想定できないし、ルツボのヘリを歩いているようなものでした。
やはり、陽気のせいですね。気分が良かったのは。三床山から金原山への尾根をポカポカの中を歩いていたら、気持ちのいい尾根歩きになってもいたでしょうね。ところがどんよりした中を歩いていれば、気分も滅入りますよ。
石積み跡は、野球親爺さんが歩かれた昨日のどんよりした天気の中では、気づかれなくても当たり前かも。それよりも、駐車場から一旦、戻って登られたようで、そこに、城跡の説明板があったとしたら、少々、残念です。
野球親爺さんとは、古賀志山でお会いしたことになっていますし、いずれまたですね。
野球親爺さんの、精力的な栃木県内の山歩きにはいつも感心しています。それも、結構、オッサンさんのルートを素材にしているのがいいですね。私も同じようなものですから。
たそがれオヤジさんらしからぬ歎きではありませんか!人の知らない山やコースを歩いて、こっそりとほくそ笑む。マイナー、大好き。私はそんな歩きが好きです。
篠井富屋連峰は、知っていますよ!だって、宇都宮・日光有料道路から鋸歯状に目立って見えますもの。但し、この山に登ったという人には、1人しか会った事がありません。交通が不便で車の回収が大変だったと言っていました。
NHK真田太平記は、ムチャクチャ面白いと思いますよ。暇つぶしなら良いのですが、寝不足にならない事をただただお祈りするよりございませんです。昌幸は丹波哲郎顔。本田忠勝は加藤武顔で、完全に摺りこまれております。
加えて、新潮文庫収録の「真田軍記」を強くお勧めいたします。押し付けがましく申し訳ありません。が、言わずにはいられなかた・・。のであります。
早速、真田太平記へのリアクション、ありがとうございます。「真田軍記」ですか。また次の候補が増えてしまいましたね。「真田太平記」も、ようやく5巻目に入ったばかりです。年内いっぱいかかりますねえ。幸い、通勤時間が長いですから、時間確保には事欠きませんが。