先日、親戚一同が集まる出来事があり、私の年老いた叔母から、
上賀茂の昔話を聞いたのであるがその中でも印象の深い話をする。
その中でもすごく苦労した叔母の話である。
私の父親の姉で83歳でいたって元気で、京都市北区の山中のとある
山村に在住している。
昭和20年にその山村へ嫁いだのであるが、
昔、その山村へは、雲ヶ畑から岩屋不動を超えて薬師峠を越える山道を
徒歩で行き来をしていたらしい。
今なら、京都市内からなら高雄を経由したり、京見峠を越えて杉坂を経て、
向かうのが常套な手段であるが昔の交通事情なら直線的に徒歩でなら
この道筋が一番早かったのであろう。
父親も、その叔母に物を届けるのに、
自転車で岩屋橋まで行きそこから徒歩で山越えを幾度となくしたと語る。
家業は樽を作る職人であったようである。しかし夫が早くして亡くなり、
息子二人を育てる。
北山杉の手入れや、床柱を製作する作業で収入を得ながらである。
この叔母が言った言葉が耳につく。
その山村の人に
《上賀茂で使いもんにならんへんから、こんな山奥に嫁いできたんや。》と、
言われたという。
その言葉が反骨となってがんばれたのかもしれないと言っていた。
でも、何度もその山村から岩屋不動へいたる峠道まで来ては、
帰りたいと思い涙し、山の仕事で、桟敷ヶ岳から京都の町を遠望する度、
泣いていたと言っていたことが印象的であった。
今なら女性はとっとと次の生活を構築できる環境であるが、
当時の女性はそんなことは許されなかったんであろう。
そんな、叔母や父親が通った昔道は北山ハイクの絶好のフィールドであり、
多くの森林資材に恵まれていた北山山中は杉の植林で整備されているか、
まったくの地権者が放置の状態で嘆かわしい限りである。
で、その叔母をいじめた家は高度成長期に没落し、消え去った。
名前を聞いたが明かせない。
叔母の当時の感傷は、北山の山中に隠居し、桟敷ヶ岳から都を眺めた
惟喬親王の気持ちに通じるな。これは私の印象である。
私は小学生のころ、この山村の叔母の家で夏休みを長くすごした。
大人の世界でない自然の世界がすばらしく涼しかったからだ。
大阪で生活していたのでなおさら、全てが新しく新鮮であった。
水道がなく、井戸と山水が絶えず出ている台所は特に不思議の宝庫であった。
藁でくるまれたご飯を入れるおひつ。電子ジャーといったものなどは無い。
全ての都会生活に逆行する不便が楽しい。
私にはたまらない世界であったことは間違いない。
叔母は今も働き者である。こちらが頼むので座ってくれといわないと、
ほうきを持ち、掃除する。母親が放置した実家の庭の花木の世話を始めだした。
ついに父親が《止めろ!》と懇願し中止する。
惟喬親王については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
上賀茂の昔話を聞いたのであるがその中でも印象の深い話をする。
その中でもすごく苦労した叔母の話である。
私の父親の姉で83歳でいたって元気で、京都市北区の山中のとある
山村に在住している。
昭和20年にその山村へ嫁いだのであるが、
昔、その山村へは、雲ヶ畑から岩屋不動を超えて薬師峠を越える山道を
徒歩で行き来をしていたらしい。
今なら、京都市内からなら高雄を経由したり、京見峠を越えて杉坂を経て、
向かうのが常套な手段であるが昔の交通事情なら直線的に徒歩でなら
この道筋が一番早かったのであろう。
父親も、その叔母に物を届けるのに、
自転車で岩屋橋まで行きそこから徒歩で山越えを幾度となくしたと語る。
家業は樽を作る職人であったようである。しかし夫が早くして亡くなり、
息子二人を育てる。
北山杉の手入れや、床柱を製作する作業で収入を得ながらである。
この叔母が言った言葉が耳につく。
その山村の人に
《上賀茂で使いもんにならんへんから、こんな山奥に嫁いできたんや。》と、
言われたという。
その言葉が反骨となってがんばれたのかもしれないと言っていた。
でも、何度もその山村から岩屋不動へいたる峠道まで来ては、
帰りたいと思い涙し、山の仕事で、桟敷ヶ岳から京都の町を遠望する度、
泣いていたと言っていたことが印象的であった。
今なら女性はとっとと次の生活を構築できる環境であるが、
当時の女性はそんなことは許されなかったんであろう。
そんな、叔母や父親が通った昔道は北山ハイクの絶好のフィールドであり、
多くの森林資材に恵まれていた北山山中は杉の植林で整備されているか、
まったくの地権者が放置の状態で嘆かわしい限りである。
で、その叔母をいじめた家は高度成長期に没落し、消え去った。
名前を聞いたが明かせない。
叔母の当時の感傷は、北山の山中に隠居し、桟敷ヶ岳から都を眺めた
惟喬親王の気持ちに通じるな。これは私の印象である。
私は小学生のころ、この山村の叔母の家で夏休みを長くすごした。
大人の世界でない自然の世界がすばらしく涼しかったからだ。
大阪で生活していたのでなおさら、全てが新しく新鮮であった。
水道がなく、井戸と山水が絶えず出ている台所は特に不思議の宝庫であった。
藁でくるまれたご飯を入れるおひつ。電子ジャーといったものなどは無い。
全ての都会生活に逆行する不便が楽しい。
私にはたまらない世界であったことは間違いない。
叔母は今も働き者である。こちらが頼むので座ってくれといわないと、
ほうきを持ち、掃除する。母親が放置した実家の庭の花木の世話を始めだした。
ついに父親が《止めろ!》と懇願し中止する。
惟喬親王については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B