というわけで、
今回は『末世成仏本尊経講義』から、
ポイントになる部分があります。
それを抜き出して、
成仏についてのワンポイントレッスンにしたい
と考えています。
本の中の49ページに、
「一体、成仏とはなんなのか?」
そういう書き出しで、師は述べておられます。
「バッタチャリヤ博士は、涅槃について、
仏陀は不思議な沈黙を守っていたという。」
そうお話されています。
つづけて、
「さて涅槃である。
私が考えるのに、Vata(風)は輪廻をあらわしたものであり、
さらに、
輪廻の原動力である業(カルマ)をあらわしたものなのである。
これをnir(止・滅)するのである。
この、業からの脱出、輪廻の止滅が、nirvana(風の止滅)なのである。」
「L・ワトソンが、彼のもっとも新しい著書の中で述べている、
風に関する意見は、
私のこの考えの正しいことを立証しているように思われる。」
「古代において、あらゆる民族を通じ、
風は、生命、霊を意味していたと、彼は述べている。」
「ラテン語に(風)と(霊)の双方を表わすアニマanimaという語根があるが、
そこには傾聴すべき叡智が含まれている。」
「アニマから「魂」を表すアニムスanimus,
「息」を吹き込むという意味のアニマ―レanimareなどの語が生まれ、
ついには英語のanimalにまで来ている。」
「(息をするspirare)という語根からは、(霊魂spirit,) (熱望するaspire)
さらには、(霊感,鼓舞inspiration)という語が発生している。」
おおかたの言語には、
生命と息と霊とは空気と一体のものである。
そして、
風こそそうしたものの神である、
という暗示を含んだ民族それぞれの表現があり、
そこには考え方の上で似たような螺旋構造がある。
(L・ワトソン『風の風物詩』)
「さらに、ワトソンによると、古代の記号である卍(スワスティカ)
は誰でも知っているように、仏教の象徴であるが、
それは同時に、
東西南北の風の象徴であるという。
「スワスティカの語源はサンスクリット語で善をあらわす(ス)、
存在を表す(アティ)、それに名詞を作る後置詞(カ)で、
合わせて「それが運命」という意味になる。」
「起源はアーリアにあるらしいが、
早くも青銅器時代には確かに使われていた。」
「インド文明の原点であるアーリアにおいて、
「運命」という意味を表す“スワスティカ”が、
同時に、風を意味するものであるとしたら、
風を止滅するという意味のニルバーナnirbanaは、
運命を止滅する、という概念をあらわすものであり、
運命の原動力である業(カルマ)からの脱出をあらわす宗教語として
考えるべきではないだろうか?」
そして、
「ニルバーナという概念は、仏教のみでなく、
当時のインドの主な宗教が、こぞってその目標とし、
究極の理想としたものである。」
「例えば、ジャイナ教がそうである。
ニルバーナという言葉の中に、
炎や火焔を意味するものは何もないにも関わらず、
焔を吹き消した状態として、古来、解釈されてきたのは、
まことに奇妙なはなしといわねばならない。」
ニルバーナとは、そんな空漠なものではないのである。
釈尊が説かれたニルバーナというのは、
そんなわけのわからないものではなく、
「輪廻からの脱出」なのである。
★その輪廻は業によるものであり、その業からの解脱がニルバーナなのである。
仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ジャイナ教の開祖マハーヴィラも、
そんなわけのわからないものを、命がけで求めたのではなく、
「業」と「因縁」からの脱出を、その宗教の究極の理想として、
必死に求めたのである。
そう述べられている。
現在の仏教が、かくも本来の姿からかけ離れてしまったのは、
初期大乗のナーガルージュナから始まった
「涅槃」の解釈を間違えたのが始まりである。
彼は涅槃を「空」と解釈した。
それに飛びついたのが、初期大乗の連中であるが、
その空を、いまだに後生大事に抱えているのが、
今の日本の仏教教団であり、
各宗旨・宗派の仏教なのであるという事実。
これを私たちは、しっかりと頭に刻み込まなければならない。
本来有りもしない架空の「成仏」に振り回されている仏教という宗教。
それを私たちは、
本当の宗教を取り戻すことが重要だ。
すべてはこういうことなのである。
本末顛倒で、頭の中はいっぱいなのである。
嘘を信じさせられて、私たちは日々を生かされている。
真実に目覚めなければならない。
本当の人生を生きたいのであれば、だ。
今回は『末世成仏本尊経講義』から、
ポイントになる部分があります。
それを抜き出して、
成仏についてのワンポイントレッスンにしたい
と考えています。
本の中の49ページに、
「一体、成仏とはなんなのか?」
そういう書き出しで、師は述べておられます。
「バッタチャリヤ博士は、涅槃について、
仏陀は不思議な沈黙を守っていたという。」
そうお話されています。
つづけて、
「さて涅槃である。
私が考えるのに、Vata(風)は輪廻をあらわしたものであり、
さらに、
輪廻の原動力である業(カルマ)をあらわしたものなのである。
これをnir(止・滅)するのである。
この、業からの脱出、輪廻の止滅が、nirvana(風の止滅)なのである。」
「L・ワトソンが、彼のもっとも新しい著書の中で述べている、
風に関する意見は、
私のこの考えの正しいことを立証しているように思われる。」
「古代において、あらゆる民族を通じ、
風は、生命、霊を意味していたと、彼は述べている。」
「ラテン語に(風)と(霊)の双方を表わすアニマanimaという語根があるが、
そこには傾聴すべき叡智が含まれている。」
「アニマから「魂」を表すアニムスanimus,
「息」を吹き込むという意味のアニマ―レanimareなどの語が生まれ、
ついには英語のanimalにまで来ている。」
「(息をするspirare)という語根からは、(霊魂spirit,) (熱望するaspire)
さらには、(霊感,鼓舞inspiration)という語が発生している。」
おおかたの言語には、
生命と息と霊とは空気と一体のものである。
そして、
風こそそうしたものの神である、
という暗示を含んだ民族それぞれの表現があり、
そこには考え方の上で似たような螺旋構造がある。
(L・ワトソン『風の風物詩』)
「さらに、ワトソンによると、古代の記号である卍(スワスティカ)
は誰でも知っているように、仏教の象徴であるが、
それは同時に、
東西南北の風の象徴であるという。
「スワスティカの語源はサンスクリット語で善をあらわす(ス)、
存在を表す(アティ)、それに名詞を作る後置詞(カ)で、
合わせて「それが運命」という意味になる。」
「起源はアーリアにあるらしいが、
早くも青銅器時代には確かに使われていた。」
「インド文明の原点であるアーリアにおいて、
「運命」という意味を表す“スワスティカ”が、
同時に、風を意味するものであるとしたら、
風を止滅するという意味のニルバーナnirbanaは、
運命を止滅する、という概念をあらわすものであり、
運命の原動力である業(カルマ)からの脱出をあらわす宗教語として
考えるべきではないだろうか?」
そして、
「ニルバーナという概念は、仏教のみでなく、
当時のインドの主な宗教が、こぞってその目標とし、
究極の理想としたものである。」
「例えば、ジャイナ教がそうである。
ニルバーナという言葉の中に、
炎や火焔を意味するものは何もないにも関わらず、
焔を吹き消した状態として、古来、解釈されてきたのは、
まことに奇妙なはなしといわねばならない。」
ニルバーナとは、そんな空漠なものではないのである。
釈尊が説かれたニルバーナというのは、
そんなわけのわからないものではなく、
「輪廻からの脱出」なのである。
★その輪廻は業によるものであり、その業からの解脱がニルバーナなのである。
仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ジャイナ教の開祖マハーヴィラも、
そんなわけのわからないものを、命がけで求めたのではなく、
「業」と「因縁」からの脱出を、その宗教の究極の理想として、
必死に求めたのである。
そう述べられている。
現在の仏教が、かくも本来の姿からかけ離れてしまったのは、
初期大乗のナーガルージュナから始まった
「涅槃」の解釈を間違えたのが始まりである。
彼は涅槃を「空」と解釈した。
それに飛びついたのが、初期大乗の連中であるが、
その空を、いまだに後生大事に抱えているのが、
今の日本の仏教教団であり、
各宗旨・宗派の仏教なのであるという事実。
これを私たちは、しっかりと頭に刻み込まなければならない。
本来有りもしない架空の「成仏」に振り回されている仏教という宗教。
それを私たちは、
本当の宗教を取り戻すことが重要だ。
すべてはこういうことなのである。
本末顛倒で、頭の中はいっぱいなのである。
嘘を信じさせられて、私たちは日々を生かされている。
真実に目覚めなければならない。
本当の人生を生きたいのであれば、だ。