音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

こどものために

2024-08-21 21:06:00 | 国民楽派
亀メロンパン。時々夫がお土産を買って帰りますが、実質重視か、おチャラカ系が多く、かわいいものは珍しい。
珍しかったので写真を撮りました。


月曜は2時間ほど赤ちゃんのサポート。
お盆休みの間に、一回り大きくなって、寝返りまでもう少しになっていました。
目も合うようになって、「おすわりどっせ、いすどっせ…」と歌うとにた〜っと笑うようになりました。
かわいい💖

今日はダブルヘッダーで
夕方は5歳児のサポートでした。
私が幼稚園に迎えに行くと
「やった、飛行機!」とガッツポーズをしました。
2週間前の遊びをよく覚えていました。
なんかうれしい。

ベラ バルトーク(1881-1945年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ナジセントミクローシュ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン没

1907年バルトーク
子どもや初心者を対象としたピアノ曲集「子どものために」は、ブダペスト音楽院のピアノ科教授に就任した後の20歳台後半に作曲しました。

旋律にはハンガリーとスロバキアの民謡がほぼそのままの形で使われていて、音楽教育を目的とした作品としても民謡の編曲作品としてもバルトークの最初の大規模な曲集です。

バルトークは自分の足で歩いてハンガリー民謡を集めています。
その中の310曲を編曲しています。

1910年頃のオーストリア=ハンガリー帝国の民族分布。緑色がマジャル人(ハンガリー人)、ハンガリー北方の茶色がスロバキア人、ハンガリー東方のオレンジ色がルーマニア人

民謡の採集は全土に渡り、2000曲ほど採譜しています。

スロバキアの農村で民謡を録音するバルトーク(左から4人目)(1907年)
1908年コダーイと共著の歌とピアノのための民謡編曲集『20のハンガリー民謡(ハンガリー語版)』を作成し、その年の12月にブダペストのロジュニャイ・カーロイ社(Rozsnyai Károly、以下「ロジュニャイ社」)から出版しました。

しかし、この曲集はほとんど反響が無く、バルトークは

「『20のハンガリー民謡』それは幅広い層の人々に、探し当てた宝の一部分を紹介するために書いたのです。(略)しかしみんなは何のことだかわかりませんでした。長い間、反響もありませんでした。」と言っていたそうです。— セーケイ・ユーリア、『バルトーク物語』p.157

『20のハンガリー民謡』の失敗は、バルトークが大人達への「啓蒙」をあきらめ、将来の聴衆となる子供たちの耳を養うことに目を向ける契機となりました。

また、後年のバルトークは、

「ピアノを学習する子どもたちに、「民謡のもつ簡素で感傷的ではない美しさ」を知ってもらうために『子どものために』を作曲したと言っています。

『子供のために』の初版は1908年から1910年にかけて、まずハンガリー編が、次いでスロバキア編が作曲・出版されました。

作曲当時のバルトーク

第28番合唱曲「雄鶏を生かしておこう、生かしておこう」
第29番「おかあさん、ブーツが破れちゃった」 
第30番 「冷やかし歌」 
第31番 「星よ、星よ!恋人のもとへたどり着けますように、夜の道を照らしてください」
第32番 「白い豆の花」
第33番 未婚のまま歳を重ねた女性の、自嘲気味な開き直り(譜例・上)と、孤独(譜例・下)が表現されています。
第35番 兵役で任地へ赴く若者がブダの山から街を見下ろしながら恋人のことを想い、「これから僕は森の中にある兵舎に閉じ込められる」と前途を悲観する歌
第36番 「酔っぱらいのうた」 
第38番 「冬至の歌」
第42番 「豚飼いの踊り」「雄鶏を生かしておこう、生かしておこう」




ボルト

2024-08-20 21:00:00 | 近代
月曜は次男の骨折箇所のチタンのボルトを抜く手術前検診でした。

病院の駐車場に咲いていた都草ミヤコグサ ロータス ジャポニカ。
遣唐使が伝えた「新修本草」に659年には都草の記述があるそうです。


レントゲンの「照射中」の文字だけ昭和です。
血液検査、尿検査、
これは心電図を回って、整形の先生の診察。入院相談。
それから麻酔科医の先生と面談。
初めの手術に続いて2回目なので動画によるレクチャーは省略。

「アルコールは飲みますか?」
「アレルギーはありますか?」などなど何度も確認されました。

看護師さんによる入院の説明。
最後に入院受付をして、会計。
「あれ?診療科での印鑑が抜けてます。ちょっとまってて下さい。」と事務員の方が回ってきてくれました。

朝一番から、お昼過ぎまで「お腹すいた。」ということで、1号線沿いを走っているとびっくりドンキーが見えたので行ってみました。  
次男初ドンキー。私も2回目。
ハンバーグにS、M、Lのサイズがあります。
次男はMサイズ、私はSサイズのセット卵のせ。
「カリフラワーライスに変えられるよ。」と次男。
変えてもらいました。
カリフラワーライス、カリフラワーを茹でて刻んだものです。
サラダはキャベツが高いからか、大根とにんじんの千切りとミニトマトでした。
Sサイズでもハンバーグは充分に大きくて、カリフラワーライスでもお腹いっぱい。 
Mサイズ、白ご飯の次男もお腹いっぱいだそうでした。 

ドミトリー ショスタコーヴィチ(1906-1975年)ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

バレエ音楽「ボルト」
脚本はウラジーミル・スミルノフ
振付フョードル・ロプホフ
指揮アレクサンドル・ガウクで
1931年4月8日、レニングラード・キーロフ劇場で初演されました。

バレエ「ボルト」の衣装デザイン
バレエ音楽「ボルト」

怠惰で大酒飲みの労働者レーンカ・グールバは、その性格のために勤めていた工場から解雇されます。
グールバは復讐を企み、ゴーシュカを騙します。

若い見習労働者のゴーシュカが機械の中にねじ(ボルト)を差し込んで機械を壊してしまいます。

守衛達は、グールバの密告によって無関係な共産主義者の若者ボリスを捕らえます。

やがて事態を理解したゴーシュカは罪を悔いて工場長らに騙されてしたことを告白します。ボリスは釈放され、陰謀を暴かれたグールバが代わって逮捕されます。





ハーモニーの不思議 純正律と平均律

2024-08-19 21:00:00 | 音楽様式
日曜日は、プロージット室内管弦楽団
10月20日(日)フェニーチェ堺 大ホール
ベートーヴェン「第九初演200周年記念」コンサート
ー1824年、初演プログラム再現公演
指揮木許裕介さん、 ソリスト杉浦希未さん、 谷田奈央さん 清原邦仁 さん、池田真己さん
の、練習でした。
サンスクエア堺で午前中は管セクションと弦セクションに分かれて練習しました。

管セクションのトレーナーは深谷武生先生

弦セクションは横山亜美先生

先日、富久田先生に言われて抜き気味、内側に向けて吹くようにしたら
今度は低い。
あれれ?
たぶん言われた通りの吹き方になっていないかも。
仕方ないのでもとに戻して吹いたらあっているようでした。 

午後からは深谷武生先生指揮で全員合奏。と言っても声楽はまだですが。
なかなか音程は難しい。

本番は
「ここは純正律で吹いたら、合唱の人混乱するからね。」管は音がうねらないように長い音や他の音と和音を取る時に細かく調整していますが、歌の人はそれぞれの旋律で覚えて歌っているので、細かく言うと和音は平均律なのですが少々の波打ちは気にならないのです。

合唱とする時は調整が必要というお話しでした。

第九は四楽章だけですが、ミサ・ソレムニスはほとんど合唱と一緒なのでより難しい。
私は降り番なので関係ないですが、第九の第四楽章合唱つきは演奏するのでそこらあたりを気をつけたほうがいいのです。

と言ってもなかなかみなさんは実感がないと思います。

純正律と平均律の違いをピアノで実験されているYouTubeチャンネルがありました。

すごくわかりやすく解説されているので見るとおもしろいです。

ピアノは1音ずつ変えるというわけにはいきませんが、管楽器や弦楽器は場所によっては純正律が良いところと、平均律を取ったほうが良いところ。
少し明るめにしたい時は和音の真ん中の音を少し上げたり、暗めに寄せたい時は下げてみたり、そういう操作をしています。



単弦マンドリンなるもの

2024-08-18 21:00:00 | 古典
土曜日は、今津公民館で西宮ギター練習会でした。


阪神電車で行ったら向かいのホームに、甲子園ラッピング電車。

ギター川原久美子さんとジョプリンのジ エンターティナー、サン=サーンスの見えない笛、ピアソラの「アヴェ マリア」を演奏しました。

今日は高井さん


と河塚さん

が19世紀ギターを弾いてくれました。
今のギターより小ぶりで、チューニングも439Hz。張りすぎると反るそうです。
大きな音は出ませんがとても優しいまろやかな音です。 

マンドリンの稲田さんも古楽器マンドリンを持ってきてくれました。

マンドリンと言えば復弦ですが、これは単弦をピックで弾きます。


リュートも使う弦なので、現代マンドリンよりもかなりまろやかな音です。

ブレーシャ/クレモナ型4単弦マンドリン

と言われるもので、ミラノのスフォルチェスコ城楽器博物館

に展示されている、フランシス·ルポー1760年の復刻楽器だそうです。

製作者はティツィアーノ.リッツィ、古楽器研究者で復元製作者です。2012年には京都に来られたこともあるそうです。

ホームページも教えてくれました。
https://tizianorizzi.wordpress.com/pubblicazioni/

「マンドリン」は、1600年代からあり、4弦、6副弦、5コース等等が地方などで呼び名が変わり、ずっと平行してあったそうです。

マンドリンの奏法としてトレモロというのは昔からありましたが、この頃の楽器は単弦であるため、トレモロをしようとすると「単音の連続」になってしまうので、現代のマンドリンのようなトレモロとは少し違っていました。

稲田さん、木そのものが歌っている様な音色は奏者の心をとらえ、演奏の際は右手も左手もノンストレスで、もうモダンマンドリンに戻れないかも…ですって!

ボルトラッティはこの楽器のために曲を書きました。
他にもモーツァルトやフンメルもこの楽器のために書いているそうです。

バルトロメオ ボルトラッティ(1772-1846年)北イタリアロンバルディア州プレシア県トスコラーノ=マデルノ生まれ、




マンドリンとギターの演奏家で作曲家。

マンドリンは、1730年代または1740年代に発明されて以来、人気が上がったり下がったりしてきました。

この楽器は19世紀初頭に衰退し、その衰退については、 1880年頃にマンドリンが再び人気を集め始めたときにこの楽器のために曲を書いていたサルバドール・レオナルディによって言及されています。

ボーンによると、ボルトラッツィの演奏は、人々がこの楽器を手に取り、この楽器のために曲を書くきっかけとなったそうです。

「この芸術家は、その並外れた才能によって、当時はこれほど小さな楽器ではほとんど不可能と思われていた、最も素晴らしく前代未聞の音色のニュアンスと表現の魅力を生み出した。 

それまでに生み出されていた単調で鼻にかかった音色の代わりに、彼は弦とピックを巧みに操り、楽器の可能性を広げた。 

マンドリンがポピュラーな楽器として復活したのは、ボルトラッツィのおかげである。その人気は約30年間続き、当時の偉大な音楽家のほとんどがマンドリンのために作曲した。」

マンドリンメソッドAnweisung de Mandoline by Bartholomeo Bortolazzi、1805 年頃にライプツィヒでブライトコプフ & へルテルから出版。

ピアノとマンドリンのためのソナタop .9アンダンテとロンド


グーグル先生もダジャレ好き?

2024-08-17 21:00:00 | 現代
12日にお墓参りをした後、
母が「生駒スカイラインに行きたい。」というのでそのままドライブ。
どうも次男と姪と母でお正月に一度来たらしいです。
行くことにしました。
生駒の尾根を通るラインで、信貴山まで通じています。

緑深い。 

生駒山上遊園地があります。
リスのロープウェイが見えましたが、近寄るのを断念。

生駒山上遊園地ホームページより

渋滞になるほどではありませんが、結構駐車場いっぱいでした。

そして淡路島まで見えます。
展望台

「前来た時は寒すぎてよく見れんかった。」と次男。
確かにここは寒いでしょう。
今回は暑すぎ

幸せの鐘と恋人たちの南京錠をかける場所があるそうです。母と私は麓で待機。

夫と次男、二人で鐘をついてきてくれました。

そして信貴山出口。外で遊んで帰ってきても良いそうで、大きなダム湖を見て…なんとそこでバンジージャンプをしていました。生を見たのは初めて!
しかし遠くて写真も撮れない。

見に行きたいなと駐車場を探したら全部1日料金。
温泉や神社もあるので、長居する気がない私たちには無理かもとUターン。
すると、小さなダム湖。

少し駐車して、寄ってみました。

ダム湖の反対側。



少し上流に吊り橋があるのを発見。
歩いて行ってみました。

人が1人通れるだけの吊り橋。

しかも、他の人が歩くと結構揺れます。
これは高所恐怖症の人には無理かも。





亀や魚が泳いでいるのが見えました。
あまり人もいなくて、得した気分。

Look at the World
ジョン ラター(1945年〜)

ロンドン生まれ。ハイゲート校に入学し、聖歌隊員としてブリテン『戦争レクイエム』の最初の録音(1963年)などに参加しました。

その後、ケンブリッジ大学のクレア・カレッジで音楽を学びます。

在学中から既成のクリスマス・キャロルを編曲するとともに、自ら作詞・作曲した新作キャロルを発表します。

卒業後、1975年からケンブリッジ カレッジの音楽科主任を務め、合唱団の指導にあたりました。

1979年、作曲活動に専念するためカレッジを辞し、1981年には教え子を中心としたプロの合唱団ケンブリッジ・シンガーズを結成。 

1984年には専用レーベルのコレギウム・レコードを設立、自作を含めた合唱曲を多数録音しています。

1980年、プリンストンのウェストミンスター合唱大学の名誉フェローに就任。

1985年から1992年にかけて、慢性疲労症候群に罹患。この影響によって契約を守ることが保証できなくなったため、1985年から委嘱による作曲をストップしました。

1988年、教会音楽家連盟のフェローに就任。1996年、教会音楽への貢献を認められ、カンタベリー大主教からランベス音楽博士号を授与されました。

「橋 クラッシック作曲家」で検索したら、ラターの「Look at the world」がヒットしました。
?と思って読んでみたら、ケンブリッジシンガーズの為にクリスマス・キャロルとして作曲された曲。

ケンブリッジ→ブリッジ→橋
ばんざーい!
グーグル先生もダジャレ好き?
とにかくこの曲、合唱団で世界中に流行っているそうです。

「Look at the world」
世界を見て、私たちの周りのすべてのものを見てごらん。
世界を見て、毎日驚きを感じるだろう

世界を見てごらん。
私たちの道にはたくさんの喜びと驚き、たくさんの奇跡があります。

主よ、あなたに賛美を。
私たちが分かち合うすべての贈り物とあらゆる祝福が見えるように、
感謝の心を、
すべてはあなたから来ます。

実りや花を生み出す大地を見て、
太陽の光や雨を空に見て
丘を見て、木々や山々を、
谷と流れる川、野原と平原を見てごらん。
春を思い、夏の暖かさを思い、
冬の寒さの前に収穫をもたらします。
すべてのものは成長し、すべてのものには季節があり、
すべては父の愛に包まれています。

すべての良い贈り物、私たちが必要とし大切にしているものはすべて、
与えられます。
私たちは神の手、神のすべての恵みの源です。
神は地で、神は天です。

ジョン ラター自身の指揮で「Look at the world」


朝から停電の余波

2024-08-16 21:00:00 | 古典
木曜日は京都の富久田晴彦先生のレッスンてした。
ところか
朝から「停電で京阪京橋から淀屋橋不通。」のニュース。
「京橋から向こうだから大丈夫。」
と、樟葉まで送ってもらってホームにのぼったら…。
「特急は運休、準急のみ運行します。」
「えっ!」
それもいつ来るかわかりません。
5分待ってこれはいけないと富久田先生に電話。
「電車がいつ来るかわからないので、先生この後、ご用事があったらキャンセルさせていただいたほうがいいかと思って、いかがでしょうか?」
すると「今日は何も無いから待っていますよ。」
「すみません〜!」というわけで、樟葉で電車が来るのを待っていると

大阪方面から樟葉止まりの電車が来てホームがいっぱいに…。


ようやく来た電車、名前は準急ですが樟葉からは各駅。人もいっぱい。
やっと京都市バスに乗り

出町柳大橋。

11:30 約束の時間より30分遅れで着きました。

京阪電車のせいではなく、関西電力の守口、大阪方面の停電のせいでした。24万戸が停電したとか…。

モーツァルトの頃は、電気と言えば雷位でした。電車もなく、停電もありません。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

は、1787年12月7日、念願の宮廷作曲家になることができました。

グルック(1714-87)の死で空席となった宮廷作曲家のポストが回ってきたのでした。  

宮廷内に反対する者たちの工作があった中でヨーゼフ2世


一人の推薦を受け、待望の職にありつけたのでした。が、前任者の給料は2,000フロリンだったのに対して、半分以下の800フロリンに過ぎませんでした。

さらに、後任者となるボヘミア生まれのコゼルフ(Leopold Anton Kozeluch 1752-1818)のときには、再び2,000フロリンとなりました。

モーツァルトの場合、宮廷作曲家とはいっても、その仕事は毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作ることでした。

「音楽の分野での稀なる天才が外国で勤め口や給料を求める必要が起らないような」称号に過ぎなかったのです。(ヴェンツェル)

ちょうどその頃、プラハからオペラ作曲の依頼を受けたハイドンがその申し出を断り、依頼すべき相手として

「ドン・ジョヴァンニ」を書き上げたモーツァルトこそがふさわしいと推薦しました。

「プラハはこの貴重な人物をしっかりつかまえておくべきです。 それだけの報酬を払うべきです。 それがないとこの偉大な天才の運命はあわれなものになります。 後世に対しても努力を奨励することになりません。 あのかけがえのないモーツァルトがまだどこの帝室、王室にも雇われずにいるとは私には腹立たしいことです。」
[ドイッチュ&アイブル] p.211

しかし、モーツァルトが手にいれた定職はこのようなものでした。

また、ウィーンの聴衆がモーツァルトから離れ、彼の個人演奏会は開かれなくなり、やがてモーツァルトはフリーメーソンの同志プフベルクに借金を重ねるようになっていきます。

モーツァルトはこのコントルダンス K.534 を一連の舞曲の第一作として、書きました。

その後、その職のために5つのメヌエット、10のコントルダンス、9つのドイツ舞曲を作ることになります。

自作目録に日付とともに標題「雷雨 Das Donnerwetter」と書かれました。
その自筆譜は行方不明となっています。 また、ピアノ編曲版も2種類残されていますが、その自筆譜もありませんでした。
が、近年総譜が発見されました。

この曲の初版はモーツァルトの死後1798年にアルタリアから出版されました。それはピアノ譜でした

コントルダンスKV.534 「雷雨 Das Donnerwetter」




オペラ パークオーケストラ初参加しました!

2024-08-15 21:01:00 | ロマン派
塚口t-raumでオペラ パーク オーケストラ、初合わせでした。

指揮はギオルギ バブアゼ先生。コンサートマスターは友永健二さんです。

9月7日(土)13:30開場 14:00開演
DMG MORI やまと郡山城ホール 大ホール
奈良県音楽芸術協会 主催
ファインアーツコンサート'24〜オーケストラと共に〜 

の練習です。

ソリストを迎えて
メゾソプラノの堀口梨絵さんで
カルメンより「ハバネラ」、「セギディーリヤ」、「ジプシーの踊り」

ソプラノ上山弥容子さん
ルサルカ「月に寄せる歌」
道化師「鳥の歌」

ソプラノ小林有里さん
こうもり「公爵様、あなたのような方ならば」
ウィーン気質「おはよう、懐かしき我が愛の家よ」

マリンバ丸谷千夏さんで
石井久美子作曲「マリンバ協奏曲」初演

クラリネットの三宅洋子さん
モーツァルト 「クラリネット協奏曲第一楽章」

ピアノ北村裕子さん
ショパンの「ピアノ協奏曲 第一番 第一楽章」

ヴァイオリン岩谷弦さん
「バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲」

今回、パークオーケストラ私は初参加、主にピッコロで参加。
2小節だけコンサートフルートも吹きます。どこで吹くのでしょうか?

ビッコロは出番は少ないのに、鳴らしたら隠れて吹くと言うことはできません。

一音集中、一音入魂で吹きました。
本番もこんな感じで吹ければ良いのですが…。頑張ろう。

バブアゼ先生、穏やかで優しくて、大阪弁でした。

参加は短いけれど緊張して疲れました。
練習は後1回と当日リハのみです。
ソリストも、みんなうまくて素敵です。
ぜひ、いらしてください。

ヨハン シュトラウス二世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、ハンガリーオーストリア帝国ウィーン没

ポルカ・シュネル「愛と踊りに熱狂」(「女王陛下のハンカチーフ」より)
Sturmisch in Lieb' und Tanz, op. 393: Polka schnell

ポルカ・シュネルは3分類のひとつ(ポルカ・シュネル、普通のポルカ、ポルカ・マズルカ)高速ポルカと言う意味で、通常のポルカよりも速いテンポで演奏されます。

2022年オペラ パーク管弦楽団 ギオルギ バブアゼ指揮 コンサートマスター友永健二でポルカ・シュネル「愛と踊りに熱狂」


イギリスから来た女の子

2024-08-14 21:00:00 | バロック
13日は家族は職場に帰り、私はイギリス在住で夏休みだけおばあちゃんのいる日本に帰っている5年生のOさんの楽器を見に、梅田ドルチェ楽器へ。

夏休みだけれど、イギリスのグレードテストを受けるということで、レッスンを受けたいと言うことでした。

そこで、レッスン3回だけ見ていました。

2回終えたところで
ニューミュージックという子ども用のU字管のついた楽器で練習されていましたが、高音の時に力を入れて吹き過ぎる、Eの音が出にくい。など問題があり、楽器を吹かせてもらうと、タンポがヘタっていて、高音も出にくい楽器でした。

そこでそのことをお母様に伝えると、新しい楽器をそろそろ買い替えようと思っていたそうで、楽器屋さんで楽器を見せてもらうことになりました。

イギリスの先生に総銀製、リングキー、オフセットキーでときいてきたそうで、その条件に合う楽器を揃えておいてもらいました。

金額は知らなかったのですが、最後に残ったのが、ミヤザワとアルタスでした。
中でもアルタスはバランス、レスポンス、申し分なかったので、これでと金額を聞いたら、やっぱり出してもらったフルートの中では一番高かった…2番がミヤザワ。

お値段通りの結果でした。ちょっと残念。
なかなか安い掘り出し物って無いです。

免税と値引きをしてくれると言ってくれましたが
予算と、イギリスでのメンテナンスのことを考えると、今回は購入を断念されました。
残念。

それになんとニューミュージックに問い合わせてみたら、無料修理の上に治らなかったら、無料で1本送ってくれルということでした。…びっくり!
正常な状態のものを見ていないのでなんとも言えませんが、今の鳴りを考えたら新しい楽器もどうかな?と思いますが、これ以上、踏み込めません。

調整のまずい楽器で練習していると癖がついて困ります。が、イギリスで購入した方が、メンテナンスもついていると思うので、イギリスの先生にお任せすることにしました。

牧野に帰って3回目。最後のレッスンをしました。

本人はいいフルートを吹いた後なので、より現在のフルートを吹きにくく感じたようですが、時間も無いのでこのフルートでできることを最大限に引き出さなくてはなりません。

しかも1時間で。 

中身は言えませんが、気になる方は体験レッスンを受けてください。
体験は無料です。良ければ続けてください。(宣伝です。)

終わった後、熱心にメモを取られていたお母様から「音が変わりました。びっくりしました。」

「来年の夏休みも来ると思うので、その時はまたよろしくお願いいたします。」と言われて帰られました。

テストのためだけでなく、美しい音で楽しくフルートを吹いてくれると嬉しいです。
祈っています。 

グレードテストの課題曲
の1つはヘンデルのフルートソナタです。
フリードリヒ ヘンデル(1685-1798年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選定公領ハレ生まれ、グレートブリテン王国イングランドロンドン没

のフルートソナタ ロ短調( HWV 367b) はフルートと通奏低音のための作品です。

このソナタはリコーダーソナタ ニ短調 (HWV 367a)として1712年頃に作曲されたものです。
ヘンデルの音楽の他のカタログでは、この作品はHG xxvii, 32; およびHHA iv/3,42と呼ばれています。

この作品は、1730年に「作品1、第9番」として初めて出版されましたが、これは無許可の「恥ずべき失敗作」でした。

実際にはロンドンのジョン・ウォルシュ

ウォルシュの 1732 年の出版物の表紙。
1730 年に出版された「ロジャーズ」の表紙。


によるものでしたが、偽造された表紙にはアムステルダムのジャンヌ・ロジェが出版者であると記載されていました。

この版では、元の調性であるニ短調からフルート用にロ短調に移調され、第3楽章と第4楽章は省略されていました。

ウォルシュ版とクリサンダー版

クリサンダー版

クリサンダー

は両方ともこの作品がフルート(「トラヴェルサ」)のためのものであることを示していて、ソナタIXとして出版されました。

現在ではヘンデルの真正作品が確認されています。




 

11歳で作曲「聖墓の音楽」

2024-08-13 21:03:00 | 古典
12日は母と約束通りお墓参りに行きました。

父のお墓に行って

平和堂のフードコートでお昼食べて

犬のメイちゃんのお墓
それから

祖母のお墓
お墓を洗って手を合わせるとすっきりしました。

今年も無事お参りできました。
ありがとうございます。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

モーツァルト11歳石版画

「聖墓の音楽 K.42 (35a)」は
ザルツブルク大司教の依頼により、1767年4月17日の聖金曜日に上演する目的で作曲された受難カンタータ(パッション・カンタータ)です。 すべての曲にレチタティーヴォが付いています。

当時、ザルツブルクで復活祭に、教会の礼拝堂などにキリストの埋葬を型どった「聖墓」が作られ、そこで聖金曜日にキリストの受難と復活の宗教劇が演じられていました。
この曲はそのために作られました。

1772年頃再演する機会があり、モーツァルトは新たに終りの4部合唱を追加して改訂しました。

この曲には次の有名な逸話があります。

ザルツブルク大司教ジギスムント(1747 - 1823年)
ジギスムント・クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ伯爵(大司教在位1753年 - 1771年)
の依頼によりモーツァルトはオラトリオ「第一戒律の責務 K.35」(第1部)を作曲していました。

が、大司教は11歳の子供がこのような作品を本当に独力で作曲できるものか怪しく思い、僧院の一室に閉じこめました。

ザルツブルク大聖堂

ロンドンの法律家兼自然科学者だったバリントン卿(Daines Barrington, 1727-1800)は

「大司教はこれほど見事な曲がほんとうに幼児のものだとは信用せず、彼を一週間のあいだ閉じ込め、この間だれにも会わせずに、五線紙とオラトリオの歌詞だけ与えてひとりにしておいた。

するとこの短い期間に、彼は非常にすばらしいオラトリオを作曲し、これは上演されてまことに烈しい拍手喝采を得たものだった。」[全作品事典] と報告しています。

「聖墓の音楽 K.42 (35a)」
天使と霊魂の対話になっています。

Ⅰ.アリア「岩よ、お前たちの口を開けよ」 Felsen, spaltet euren Rachen Allegro ニ長調

Ⅱ.アリア「この胸を眺めて、私に問いかけて」 Betracht dies Herz  
Andante ト短調

Ⅲ.二重唱「イエスよ、私は何をしたのでしょうか」 Jesu, was hab'ich getan? 
Andante 変ホ長調

Ⅳ.合唱「イエスよ、真の神の子よ」 Jesu, wahrer Gottessoh  ハ長調 

「聖墓の音楽 K.42 (35a)」より
Ⅱ.アリア「この胸を眺めて、私に問いかけて」ソプラノ 天使の応答です。




2024-08-12 21:01:00 | バロック
夫と次男とお墓参りに行こうと母を誘いに行ったらお客様。

お墓参りは明日にして、京都亀岡方面にドライブ。
スカイラインを動かさないとまたバッテリーが上がるから…。
例によってあてどない出発。
「どこ行くの?」
「…。」
本人にもわからないらしい。

結局亀岡の巨大建造物ガレリア亀岡に駐車。

ピアノも置いてありました。


道の駅もあるので野菜を買って、


うなぎ寿司半額。
撮る前に食べてしまいました。
残り1個!。

さくらプリンは母にお土産。

この後、亀を探して川へ。
うなぎは採れません…。

うなぎは
古代ギリシア、アリストテレス(BC384-BC322年)

は本種が降河回遊をしていることを記しています
沿岸や河川で捕獲される個体が成熟した卵をもっていないことは当時から知られ、本種がどこから来てどこへ行くのか、さまざまな憶測を生んできました。

アリストテレスは地中からヨーロッパウナギ


が生れると信じていました。
古代ローマの博物学者であった大プリニウス(23-79年)


は、体から剥がれ落ちた皮膚の破片から稚魚が生まれると考えていました。

これらの荒唐無稽な仮説は、1887年にイタリアのメッシーナ海峡で成熟卵をもつ雌が発見されたことにより、初めて科学的に否定されました。

さらに、それまで別種の魚類と考えられていたレプトケファルスが、ウナギ類の仔魚であることも判明し、ヨーロッパウナギの生活史は、急速に明らかになりました。

食用魚としての歴史も長く、欧州各地で干物・塩漬け・燻製・フライ・煮込み・焼き魚など、さまざまな調理方法で利用されてきました。

ロンドン・イーストエンドのウナギゼリー寄せなど、郷土料理として知られるものもあります。 

鰻のゼリー寄せ

日本のウナギと同じように、捕獲したシラスウナギを成魚まで育てる養鰻場も、ヨーロッパ各地に存在します。

19世紀には河口に大量に押し寄せたヨーロッパウナギでしたが、乱獲や工業化に伴う生息環境の攪乱によって資源量は著しく減少し、近年では絶滅が危惧されています。

ヨーロッパウナギについては、1990年代に稚魚を中国で養殖し日本へ輸出する販路が定着し、輸出が本格化すると資源は激減しました。稚魚の乱獲が主な原因と指摘されています。

フランソワ クープラン(1668-1773年)フランス王国パリ生没

(1735年)アンドレ・ブイの原画に基づくジャン=シャルル・フリパールの銅版画。
フランソワ・クープランの父親のシャルル・クープラン (1638-1679) はルイ・クープランの弟で、1661年からはルイの後任としてパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めていました。

1662年2月20日にシャルルは理髪師の娘マリ・ゲランと結婚し、1668年11月10日にフランソワ・クープランが生まれました。

1679年、彼が10才の時に父シャルルが亡くなります。

サン・ジェルヴェ教会のオルガニストとなるにはクープランは未だ幼すぎ、教会評議会は彼が18才の誕生日を迎えた時に父親の地位を引き継ぐことに同意し、それまではミシェル=リシャール・ドラランドが代理を務めることになりました。

クープランの教育はサン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会のオルガニストで国王のオルガニスト (organiste du roi) でもあったジャック・トムラン (en:Jacques Thomelin) が引き受けました。

クープランは約束の日が来るのを待たずに実質的にサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めるようになり、1685年11月1日には教会評議会はクープランに対する報酬の支払いを決定しています。

1689年にクープランはマリ=アンヌ・アッソーと結婚、

1690年には最初の出版作品である2つのオルガン・ミサからなるオルガン曲集を出版し、
1693年にはルイ14世


によってトムランの後任に選ばれました。

国王のオルガニストとして宮廷との結びつきを強めたクープランは、教師として多くの王家の人々にクラヴサンを教え、王室楽団では常任クラヴサン奏者を務めました。

さらに宮廷作曲家としても活動するようになり、室内楽だけでなく王室礼拝堂用の宗教音楽も手がけました。

国王の命を受けた3組のヴァーセット集が1703年から1705年にかけて出版されています。

多数のモテットが1690年代後半に書かれました。
この頃からクープランはイタリア風のトリオ・ソナタの作曲に取り組みはじめており、最初のうちは
それらをイタリア風の偽名で発表していました。

1713年に『クラヴサン曲集第1巻』出版されました。

クープランは序文で「これらの楽曲を作曲する際、私の頭のなかにはさまざまなおりに得た対象があった。私が何を考えたかを標題が示しているので、それ以上に説明をする必要はない。」と記しています。

1716年にはクラヴサン演奏論である『クラヴサン奏法』 (L'art de toucher le clavecin) を出版しました。
またクラヴサンにふさわしい音楽について実例を示すためのアルマンド1曲と、自身のクラヴサン曲集で使用されている調によるプレリュード8曲が収録されています。

1717年には『クラヴサン奏法』の第2版が出版され、おそらく同じ年に『クラヴサン曲集第2巻』が出版されました。

第2巻の組曲は(第8オルドルを例外として)組曲の定型はほとんど放棄されており、描写的な標題を持つ作品の比重が増しています。

クープランの重要な宗教声楽作品である『ルソン・ド・テネブレ』 (Leçons de ténèbres) もこの頃に出版されています。全部で9曲中、現存するのは3曲のみです。

1722年に『クラヴサン曲集第3巻』が出版され、『王のコンセール』 (Concerts Royaux) がその第2部として出版されました。

さらに1724年には『王のコンセール』の続編として『趣味の融合、あるいは新コンセール』 (Les Goûts réunis ou Nouveaux Concerts) を出版 、1725年に『比類なきリュリ氏の思い出にささげる賛歌のコンセール』 (Concert en forme d'apothéose à la mémoire de l'incomparable M. de Lully)、1726年に『諸国の人々 - トリオによるソナードとサンフォニー組曲集』 (Les Nations - Sonades et suites de simphonies en trio)、1728年に『通奏低音付きヴィオール曲集』 (Pieces de violes avec la basse chifrée) と、この時期クープランは続々と室内楽作品を出版しています。

1730年の『クラヴサン曲集第4巻』の序文でクープランは健康状態が悪化していることを記しています、

「三年程前これらの作品は書き上げられた。しかし私の健康は日々弱るばかりなので友人たちは仕事を休むよう忠告してくれた。それでその後何も大きな仕事をしていない。諸賢が今日まで私の作品に喝采を送らんとせられたことに御礼申し上げる…」

その3年後の1733年9月11日にクープランはその生涯を閉じました。

『クラヴサン曲集第4巻』
Quatrième livre de pièces de clavecin (1730) - 第20から第27オルドル
の第21曲目「鰻 」L'anguille