音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

お花見のルーツ

2024-04-10 09:01:00 | 日本
第2火曜日10:00からは会館との2で子育てサロンです。

コロナ以来利用者が減っていましたが、4月新しい年度になったからか、人が戻ってきました。

今回はたまたまおやすみだったというお父さんも来ていました。
それから、8月出産予定の妊婦さんも。

サロンをやっていて、「お父さんも、来てくれたらいいのになあ。」といつも言いあっていますが、初めて。
とっても爽やかでお母さんたちともこだわりなくお話しされていて、大げさかもしれませんがサロンにも新しい時代が来たような気がしました。

たくさんのお父さん、お母さんが子どもを連れて来てくれるとうれしいなぁ。
もちろん妊婦さんや、おじいちゃん、おばあちゃん、保護者の方、誰でもお子さんと来てください。大歓迎です。
事前申込み不要、無料です。

来月はふれあい遊び、絵本の他、透明うちわを子供たちと作ります。
ぜひ、おいでください。

片付けも、打合せも終わって、帰ろうとしたら、玄関に桜の花びらが





会館前の桜でした。

散る花を 惜しむ心や とどまりて
また来ん春の たねになるべき
        山家集 西行

日本人の花見好きのルーツは、西行にあると私はみています。

つい最近まで謡いや地歌を嗜む人は多くいました。

結婚式などでは、近所に上手な謡い好きのおじさんが1人はいて「高砂」を頼まれたりしたそうです。

「日本の文化を大切に。」とかいう偉い方たちに、年に一度も邦楽や能を聴きに行ったことのない人が多くいて笑ってしまいますが、そういう私も情けないことに謡いの1つも歌えません。

芸術はどこの国のものも大切。

人の生命を生き生きさせるものならば


西行(1118-1190年)京都府京都市生まれ、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川(紀伊国田仲荘(紀の川市)説もあります。)
北面の武士として活動していましたが、1140年22歳の時に出家して僧侶になります。

戦乱の時代にあって、戦うことを放棄して各地に草庵を結び、何度も放浪の旅に出ています。
和歌を約2,300首読み。
勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。



家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があります。

世阿弥(1363-1443年)
は、日本の室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。父の観阿弥(觀阿彌陀佛)とともに猿楽を大成し、多くの書を残す。観阿弥、世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれてます。

世阿弥像 正法寺像 
世阿弥作「西行桜」

都の外れ、西山にある西行の庵は桜の美しいことで有名でした。

毎年、花見の客が訪れ、賑わいました。西行は、静かな隠遁生活が破られることを快く思わず、能力(従者)に花見を禁止する旨を周知させるよう命じます。

ところが、禁止令を知ってか知らずか、都の花見客が訪れ、案内を乞うてきました。

西行も無下に断れず、庭に入るのを許します。

しかし静かな環境を破られてしまったという思いから、


花見んと群れつつ人の来るのみぞ、

あたら桜のとがにはありける


(花見を楽しもうと人が群れ集まることが、桜の罪だ)と歌を詠みました。

その夜、西行が桜の木蔭でまどろんでいると、夢の中に老人が現れました。


老人は、「草木には心がないのだから、花に罪はないはずだ。」

と先ほどの西行の詠歌に異議を唱えてきます。

西行は納得し、「そういう理屈を言うのは、花の精だからであろう。」と老人に語りかけました。

老人は、「自分は老木の桜の精であり、花は物を言わないけれど、罪のないことをはっきりさせたくて現れたのだ。」と明かします。

桜の精は、西行と知り合えたことを喜び、都の花の名所を紹介し、

「春の夜の一時は千金に値する。」と惜しみながら、舞を舞いました。

やがて時は過ぎ、春の夜が明け初めるなか、西行は夢から覚め、桜の精の姿は、散る花とともに静かに、跡形もなく消えていきました。





世界遺産「雲中供養菩薩」の演奏

2024-03-02 21:00:00 | 日本
平等院に行ってきました。
牧野から1時間ほど電車に乗れば、着くのですが、なかなか行けません。
小学校の写生会で行った覚えもあるところです。

10円玉の建物は平等院鳳凰堂のこのアングルです。

年末にGさん、Mさんに伏見稲荷に誘われたのだけれど、骨折していたため参加できずお断りしたのに、また、懲りずに誘ってくれたのでした。

その間にコロナにかかり、次男が骨折したので「ついでに八幡で厄落としもしたら良いよ。」と、誘ってくれたのでした。

曇っていましたが、宇治橋から見た宇治川。

中は写せませんが、池の向こうの2階の丸窓から阿弥陀如来坐像さまのお顔が見えるようになっています。
1053年藤原頼通によって建てられました。


中には阿弥陀如来坐像を中心に頭上に絢爛豪華な美しい天蓋と壁には52躯の雲中供養菩薩像がいらっしゃいます。
これも写せませんがクリアファイル買って帰りました。

これは黒くて地味ですが、当初は豪華な色がついていました。
すべて檜で彫られているそうです。

柱にも極彩色の柄が描かれているそうです。
なぜこの柄を買ったかというと、菩薩様の1人が笛を吹かれているからです。

もう一枚はやっぱり

雲中供養菩薩像は人が亡くなる時、天上から楽器を演奏しながら菩薩たちがやってきて天上世界に迎え入れられる。という信仰に基づいて作られています。

当時の楽器の姿が見られます。

箏(そう こと)


曲頸(きょっけい)琵琶

腰鼓(ようこ)


揩鼓(かいこ、すりつづみ)
 
この楽器は、皮をこすって音をだしますが、現代中国にももう失われて、正倉院に一つ残されているだけだそうです。

鼓、

排簫


簫、鈴、

鉦鼓(しょうこ)

桴(バツ)、
鐃鈸

編鉦、
箜篌(クゴ)、



拍板

、笙、鼗、楽太鼓。

『信西古楽図』(京都市立芸術大学芸術資料館所蔵) 図の右上の楽器は写真で紹介された腰鼓、その下には揩鼓が描かれています。

日本に伝えられて平等院鳳凰堂に響くことになるのは、下の地図の赤丸のあたりにある涼州*(りょうしゅう)という所の「西涼楽(せいりょうがく)」、それにさらに西方の音楽が融合した「胡部楽(こぶがく)」とよばれる音楽なのだそうです。

*現在の中国甘粛省武威市


敦煌第220窟壁画


敦煌の壁画に同じような楽器が描かれています。

シルクロードが日本まで繋がっていたことを彷彿とする世界遺産です。

「越天楽」は唐楽と言われる
雅楽の曲の中では最も有名な曲です。舞はかつて存在したが廃絶し、曲のみ伝わっています。

楽器は正式には龍笛、篳篥、笙、箏、琵琶、鞨鼓、鉦鼓、楽太鼓の8種類で合奏されます。

唐楽の曲で古くは曲名を「林越天」また「林鐘州」とも称しました。

『楽家録』では中国前漢の皇帝文帝
の作曲、「一説」に高祖劉邦の軍師張良

の作であると伝えられています。(巻之二十八・楽曲訓法、巻之三十一・本邦楽説)

しかし日本で作られた曲ともいわれ、実際のところその由来については定かではありません。
本来は盤渉調の曲だったといわれていますが、『和名類聚抄』では平調の曲としています。

『扶桑略記』康保3年(966年)10月7日の条には、宮中で公卿たちが退出するとき「越殿楽」が奏されたとあり、また古くは法会の際に、盤渉調の曲として用いられていました。

『扶桑略記』
平調の『越天楽』に、

「春の弥生の曙に 四方(よも)の山辺を見渡せば 花盛りかも白雲の かからぬ峰こそ無かりけれ」慈円(1155-1225年)

の歌詞をつけて唄うのが『越天楽今様』(えてんらくいまよう)です。

鳳凰堂の雲中供養菩薩が持つすべての楽器があるわけではないですが、雅楽の「越天楽」が966年には日本で演奏されていたことから

このような音楽を菩薩が演奏すると考えられていたかもしれないと想像するのもそう遠くないと思うのです。

「呪能」天王寺舞楽

2023-11-28 21:02:00 | 日本
フェスティバルホールで四天王寺さんの「呪能」を拝見しました。
「青海波」は雨乞いの舞、「二の舞」は振りすぎた雨を治めるための舞で、ユーモラスなもので卑賤のものが舞うとされ、「二の舞を踏む」という語源になった舞です。

四天王寺では聖徳太子が自ら作ったという龍笛と高麗笛が収められています。その笛に、太子をお迎えするための舞「蘇利古

お帰りになる時の舞「太平楽急」

これは、槍や刀を振り回して舞われますが、平和を祈って振るので刀や弓は逆さまについているそうです。

舞の終わりの方で抜刀すると篝火か点灯し、太子の魂はお社にお帰りになられます。

5世紀の笛が残っていることが驚きですが、それが現役で活躍することはもっと驚きです。

室町時代、この笛を見たいと、後花園院が京都へ運ばせたところ粉々になり、四天王寺に持ち帰ると元に戻っていたという伝承から「京不見御笛(きょうみずのおふえ)」と呼ばれています。

舞や音楽、衣装もその頃インドなどから入ってきてそのままの形で受け継がれています。

おそらく本国では失われたのではないでしょうか?

ゆっくりとしたリズムは四拍子ではじめから終わりまで全く変わりません。

しかし、丹田に力が込められ、惹きつけられて目が離せません。

源氏が舞ったという舞や、厳島神社にも同じ舞が残っていたり、おそらく春日大社にも…長い歴史を感じます。

ガムランや、トルコの軍隊の音楽の響きも含まれているような(おそらくあちらの方は変化してしまった)不思議な感じです。
金銀に朱色や濃い緑、藍色など色彩豊かな衣装や舞台にも魅せられます。
しかも、あのお面!あれは何??

楽しかった〜!調べても記述のないものばかり。


砧物

2023-09-04 21:01:00 | 日本
日曜日の朝は実家でレッスン。


9月に入りましたが、一向に気温が下がりません。
母は出かけていました。お稽古です。

机の上にコンサートのチラシ置いてありました。

10月15日(日)10:00〜
箏曲宮城会近畿支部演奏会
大阪日本橋 国立文楽劇場
きぬた、虫の武蔵野、秋の初風、花紅葉などなど秋の曲が並んでいます。
まだまだ、秋の気配も無いですが…。

「きぬた」砧は1928年宮城道雄(1894ー1956年)34歳の時に作曲されました。
8歳で失明、生田流2代中島検校に入門し、11歳で免許皆伝。

仁川で家計を助けるために箏曲を教えます。
1913年喜多仲子の入り婿となり、宮城姓を名乗ります。

1926年32歳で帰国しますが、すぐに、妻が亡くなります。
その2年後「きぬた」を作りました。

砧とは、洗濯して生乾きの布を台にのせて、棒や槌で叩いて柔らかくしたり、シワを伸ばすための道具のことや、その作業のことを言います。

台の方を絹板キヌイタと呼んでいたものが「きぬた」になったと言われています。1900年代半ばまで砧を打つ音があちらこちらに聞こえていたそうです。

漢詩に詠まれてきましたが、百人一首にも

み吉野の 山の秋風小夜ふけて
ふるさと寒く 衣打つなり
         参議雅経

と、読まれました。

葛飾広為「月下砧打美人」

室町時代には世阿弥の能「砧」でそのイメージが広がり、音楽や詩に「砧物」というジャンルが確立していきます。

能「砧」

都に3年いる芦屋何某が侍女夕霧に、故郷九州にもう帰るので先に行って妻に知らせて来るようにと命じます。

帰国した夕霧は妻に会います。
妻は田舎暮らしの寂しさを訴え、「すぐ帰るという夫の言葉を頼りに待つ私の心は愚かだ。」と言います。

そこに砧の音が聞こえてきます。
中国の故事に因んで寂しい気持ちを砧に託して落ち着かせましょうと、夕霧が砧を打ち、それに合わせて妻が舞います。

舞い終わりに近づいて来た時に、夕霧が、新しく来た伝言を伝えます。
「この年の暮れにもお帰りにならない」と言うと、妻は「ああせめて年の暮れにはと、苦しい心をいつわって待っていたのに…。」と病にふせってやがて息絶えてしまいます。

芦屋何某は、知らせを聞いて故郷に帰ります。
しかし時すでに遅く、梓弓(古くから霊を呼び戻せる巫具と思われていました)を鳴らして死者の声を聞こうとします。

すると妻が亡霊となって表れ、「恨みは葛の葉の…。」と舞い始めます。
「夜寒の砧を打ったのにうつつにも夢にも思い出してくれたでしょうか」と恨みごとを言います。

夫が心から悔いて、合掌すると妄執が晴れ、「打ちし砧の声のうち、開くる法の華心、菩提の種となりにけり」と謡い、妻の霊は成仏して終幕となります。



恩師

2023-08-24 21:10:00 | 日本
今日午後から、ギターの米谷俊子さんと本番前、最終合わせでした。

レニャー二編
曲のオペラ「エルナーニ」から3つの歌。

大学のマンドリンオーケストラの時の先輩なのでお茶をしながら、部活時代の話しをしていたら、指導くださっていた川口優和先生が、今年1月31日に亡くなられていたことを知りました。
89歳だったそうです。

厳しい先生でしたが、フルートを気に入ってくださり、卒業してからも先生主催の関西マンドリン合奏団に呼んで頂いたこともありました。

先生の恩師の菅原明朗先生の曲を演奏したことを覚えています。
指揮でも厳しい指導についていこうといつも必死でした。
とっても追いつけなかったですが…。

「樟蔭マンドリンクラブの30周年の指揮、私でした。」というと米谷さん驚いておられました。

本当にいろいろ遠くなりました。

川口先生の在りし日の指揮の動画ありました。関西マンドリン合奏団の定演。1分少しほどです。ご冥福をお祈りします。



童謡の勃興期

2023-08-15 21:02:00 | 日本
昨夜からのリアクションボタンの不具合治ったようです。ありがとうございます。
お盆の中日。
朝、実家でグノーの「白鳥」をレッスン。
その後、「トイレのアースが切れたから、夫になおしてくれない?」
「新しいホースがくっつかないから、それも…。」
と、いうことで、夫を呼びました。
車で、20分、お盆渋滞で30分。
トイレのアース、ドライバーとハサミで

治りました。

ホースは、単に押したらカチッと入るものでした。
ご褒美は、お昼ごはんに錦糸卵ではなくてゴロゴロスクランブルエッグの冷麺いただきました。
「こっちのほうが美味しいでしょ。」っと母。
確かに…。

雨が降ってくる前に帰りました。
家では昨日のお父さんへのお供えのお下がりをいただきました。


スーパーのお菓子ですが、あなどれません。あわしま堂製作です。
京都伏見に工場があります。

近くなので、行ったことがあります。
工場なのでその日のB品とかを安く出されていて買うことができます。

お菓子はどうしても必要ってわけではないかもしれないですが、私たちを幸せな気持ちにしてくれます。特に子どもたちを。

宮城道雄(1894-1956年)

「チョコレィト」は子どものために書かれた曲です。
作詞は童謡詩人の葛原しげる作詞です。

大正6年1917年から昭和31年の間に童謡を100曲以上作っています。

大正末から昭和にかけて、児童中心主義の教育思想が広がり、童謡運動が活発になります。
そのもとに長唄では稀音家浄観と吉住慈恭が「桃太郎」「舌切雀」を書きます。箏曲では鈴木鼓村が「雁と雀」
を明治39年に書きます。

それらの運動が大正半ばに本格的に始まります。
「赤い鳥」大正7年
創刊号表紙
「金の船」大正8年

が出版されます。

宮城道雄は朝鮮から帰国。
大正6年、葛原しげる(1886-1961年)広島生まれ、東京没

に出会います。
彼は100曲近い童謡を宮城道雄と書きました。
彼は女学校で、教鞭を取っていて「童謡教育の理論と実践」
という本を書いています。そこには小学生の作った詩が掲載されていて、実際に、どのような詩を子どもがつくり、好むのかを知った上で詩を書いていたと思われます。

また、宮城道雄は慈観、鼓村と同時期に東京音楽学校の講師、教授になっています。

本居長世は野口雨情と「金の船」で童謡を何曲も書いた作曲家ですが、彼は大正8年宮城道雄の第一回作品発表会に足を運び、大正9年合同の作品発表会「新日本音楽大演奏会」を発表しています。
長唄の町田嘉章もこの演奏会に関わり以後童謡を多數作曲しています。

昭和5年にはラジオ番組「お琴のおけいこと童曲」(全12回)の放送が宮城道雄を講師に行われています。

日本の童謡の勃興期にいて、宮城道雄も生涯100曲以上の童謡を書いています。


チョコレイト 葛原しげる

ぎんぎらぎんの銀紙を
そうっとあけると でてくるは

こげ茶の色の チョコレイト
苦そな色した チョコレイト

見れば見るほど こげ茶色
見るほど苦そな チョコレイト

お口に入れると すぐとけて
ほっぺのおちそな チョコレイト






あと2回

2023-06-12 21:00:00 | 日本
日曜日はいずみホール「宮城道雄をしのぶ夕べ」コンサートに行ってきました。
母、4月23日に肩を剥離骨折してからお箏どころか食事も作れず、5月18日にギブスがとれ、リハビリ開始。

まだ、痛いそうですが、自分で置き針を打って6月11日本番。

82歳、ようやります。
そして、母の師匠中島警子先生97歳。
昨年脳梗塞で倒れられた後、復活。
心配していましたが、最後の舞台挨拶で車椅子で出てこられました。
支えられながらも立ち上がり、スピーチされました。

「新音、昔は労音と言っていましたが、およそ50年前に毎年宮城道雄先生をしのぶ夕べをと、お話しがあった時に50年くらいなら続けられるでしょうと言うことでお受けしました。みなさまにお願いです。」
「今回で第48回。48年目なのです。なので、後2年。後2年。続けさせて下さい。

この年代の方は強いです。
終演後、出て来られて
「みんな、100歳まで元気にいましょうね。」と、みんなと握手しておられました。
きっとあと2回、いやもっと続けられるでしょう。

私も応援しています。

今日のプログラムではありませんが、

「日蓮」
昭和29年宮城道雄が7世上人佐野前光の詞に作曲しました。
日蓮の生涯を「胎動、黎明、予言、旋風、自覚、静寂」に分けて描かれています。
箏、三絃、十七弦、笙、胡弓、尺八、合唱、打物による大合奏曲です。
胎動:
御法のままに 生くべしと
御仏の道 証しゆく
若き聖の 祈りこそ
汚濁の現世 寂光(じゃっこう)の
花の香りに 包むべし

黎明:
卯月も末の 暁天(ぎょうてん)に
大日天子 おろがみて
啓(ひら)く七字の 秘密こそ
人世を救う 大真理
宇宙を照らす 大光明

予言:
迷うともがら 正法を
謗(そ)しれば招く 国難に
日輪かげり 国昏し(くらし)
ただみさとしに 還る時
天地に光 和らぎて充つ

旋風:
街に巷に 説くところ
いよよに募る 大旋風
やぶれし肌の 血潮さえ
真紅にたぎり 常しえに
聖火と燃えて 消ゆるなし

自覚:
雪に閉されし 北海の
流され人の そのかみに
御使いとして 御仏の
末法流布の みむねをば
かしこみ受けし 人ぞかし

静寂:
父母を弔う 経声に
鹿も和し啼く 山の庵
いよよに澄める 御心に
記す真理の 御さとしは
末法濁世に しみるなり




宮城道雄14歳の初作曲

2023-04-21 21:15:00 | 日本
木曜日は母を京都医療センターに連れて行く日でした。
心臓手術後の定期検診。
今日はだいぶ状態がよかったです。
病院の駐車場は山の中みたい。
1908年に設立されて、1937〜1945年まで旧陸軍病院でした。ちょっと怪しい祠もあります。

現在はサツキが咲いています。


診察してもらって帰ろうとしたら、先生に「先生、これ行かれませんか?」
と、母、先生を自分の出るコンサートにお誘いしていました。
「宮城道雄をしのぶ箏の夕べ」
第48回水辺の情景
6月11日(日)午後三時〜いずみホール

名曲「春の海」から「水の変態」「水三題」、「さらし風手事」「道灌」と宮城道雄の足跡をたどります。

看護師さんが「私、お琴やってたんです。」と言われて、早速彼女にもチラシを渡しました。

病院の後は、イオン久御山で買物。
ランチを食べて、駅前薬局で薬を出してもらって帰ったのは4時すぎ。
なかなかハードです。

宮城道雄(1894〜1956年)兵庫県神戸市生まれ、東京刈谷豊田総合病院没
韓国在住の頃の宮城道雄
神戸三宮、外国人居留地


1872年神戸外国人居留地
の中で生まれます。生後200日に眼病を患い、4歳の時に母と離別して祖母ミネのもとで育てられました。

7歳の頃に失明。
この失明が転機となり、音楽の道を志します。

8歳で生田流箏曲の2代菊中検校に師事します。その後、兄弟子の菊西繁樹の紹介により2代中島検校に師事しました。
2年後に師匠死没したため、以降は3代中島検校に師事して11歳で免許皆伝となります。

師匠の「中」の字を貰い受け、中菅道夫と名乗りました。
13歳の夏一家の収入を支えるため、父の滞在する。
朝鮮の仁川


へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けました。
道雄は既存の曲の演奏だけでは満足せず、新しい作曲を目指し、1909年には14歳で第1作の箏曲、「水の変態」


を書き上げます。この時、伊藤博文

に評価されます。

彼は道雄を上京させて支援することを約束しましたが、同年に伊藤は暗殺されたため、叶いませんでした。

「水の変態
道雄は弟が朗読していた「高等小学読本」(小学校の教科書巻四 第十三課)


の中の短歌に興味を持ち、作曲にしました。
水が霧、霰、雲、露、雨、霜、雪と姿を変える様子を七種の短歌に読まれたものです。


小山田に霧の中道踏み分けて 
人来(く)と見しは案山子(かかし)なりけり

むら雲の絶え間に星の見えながら 
夜行く袖に散る霰(あられ)かな

明け渡る高嶺の雲にたなびかれ 
光消え行く弓張りの月

白玉の秋の木の葉に宿れりと 
見ゆるは露のはかるなりけり

今日の雨に萩も尾花もうなだれて
うれひ顔なる秋の夕

朝日射すかたへは消えて軒高き
家のかげに残る霜の寒けさ

更くる夜の軒の雫(しずく)のたえゆくは 
雨もや雪に降りかはるらん

宮城道雄自身の演奏がありました。
字が間違っています。「道夫」→「道雄」
この頃は今のナイロン弦ではなく、絹の弦です。失われた音です。



曼珠沙華の季節

2022-10-02 20:40:12 | 日本
光明寺お寺ライブやってきました。
羽田住職とも3年ぶりです。
村野支援学校の生徒さんたちも元気に歌ってくれました。

次に私たち。


クラッシック音楽ばかり6曲なのに子どもたちもしっかり聴いてくれました。

ありがたいなぁ!



境内には彼岸花が咲いていました。

「曼珠沙華」(彼岸花)は
山田耕筰(1886-1965年)東京府東京市本郷生まれ、東京都成城区没

が、1911年
北原白秋(1885-1942年)
熊本県玉名郡関外目村生まれ、東京府東京市杉並区阿佐ヶ谷没

の詩に曲をつけたものです。

詩集「思ひ出」の中の1つです。
こどもを亡くした母親の歌という解釈や

思ひ出の序に

美くしい小さな Gonshan.忘れもせぬ七歳(ななつ)の日の水祭(みづまつり)に初めてその兒を見てからといふものは私の羞耻(はにかみ)に滿ちた幼い心臟は紅玉(ルビイ)入の小さな時計でも懷中(ふところ)に匿(かく)してゐるやうに何時となく幽かに顫へ初めた。

という、文章が載っていることから、白秋の幼い初恋の思い出と
白秋から感染ったチフスで死んだ乳母の思い出が混在しているという解釈などいろいろな説があって定まっていません。

ちなみにGONSHANというのは、柳川の方言で「良家のお嬢さん」という意味だそうです。
みなさんはどの解釈が合うと思われますか?

曼珠沙華

Gonshan,Gonshan 何処へゆく
赤い お墓の曼珠沙華 曼珠沙華
けふも手折りに来たわいな

Gonshan,Gonshan 何本か
地には七本 血のやうに 血のやうに
丁度 あの児の年の数

Gonshan,Gonshan 気をつけな
ひとつ摘んでも 日は真昼 日は真昼
ひとつあとからまたひらく

Gonshan,Gonshan 何故泣くろ
何時まで取っても 曼珠沙華 曼珠沙華
恐や 赤しや まだ七つ






日本のオペラ勃興期

2022-07-25 22:10:39 | 日本
大阪 中之島の中央公会堂。
フェニックスホールの途中、淀屋橋の上から写しました。
1909年渡米した株式仲買人の岩本栄之助


が、アメリカの事業家が功成り遂げると社会に還元することから学び、株で儲けた150万円(数十億)を寄付し中央公会堂が建てられました。

その後、岩本は第一次世界大戦の暴落で事業を失敗。
莫大な負債を抱えます。
一部でも返してもらったらという周囲の勧めに「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」と断固として断り、1916年ピストルで自殺します。
39歳でした。

中央公会堂のホームページを見ると年表があり、
クラッシック音楽では
1919年ロシア歌劇団来日公演で「アイーダ」を、
1922年三浦環主演プッチーニの「お蝶夫人」
1923年イタリア歌劇団によるヴェルディ「椿姫」と書いています。

他の出し物は記録されていませんが、内外の音楽家が公演し、テレビなき時代、その影響は凄まじかったと思われます。

三浦環(1884-1946年)日本東京都京橋区生まれ、東京帝国大学附属病院没。

東京音楽学校在学中の1903年、日本人歌手による初めてのオペラ公演に出演。卒業後、1911年日本初のクラッシックレコードを吹き込みます。

1913年ドイツ留学、第一次世界大戦の戦火を逃れイギリスへ、そこでプッチーニの「蝶々夫人」を演じ、成功。アメリカへ渡りボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで公演。好評を博します。

1920年ヨーロッパに戻り、モンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリで客演します。

1922年長崎に帰国、蝶々夫人ゆかりの土地を訪ね演奏会を開きます。
レコードは東京市だけで8万枚を売上たそうです。

1924年再び渡米。サン・カルロオペラ団に出演、その後イタリアで歌手活動を続け、

1936年シチリア島のパレルモで「蝶々夫人」出演2000回を達成します。

これを期に帰国。
リサイタルや、オペラ、レコーディングを重ねますが、1944年太平洋戦争で山中湖に疎開します。


戦後すぐにシューベルトの歌曲でリサイタルを開くなどしていましたが、1946年5月亡くなります。

トッレ デル ラーゴのプッチーニ博物館やローマ歌劇場には歴代のプリマドンナと共に三浦環の写真が今も飾られています。