音楽の喜び フルートとともに

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モーツァルトのすみれ

2022-03-31 21:48:34 | 古典
うちの玄関のパンジー。たくさん咲いてきました。





3色娘。
北向で寒さでもうだめかと思ったこともありましたが、元気に咲いています。

1785年29歳のときに「すみれ」K.476という歌曲をウォルフガング モーツァルト(1756-1791年に)は書いています。
Das Veilchen すみれとドイツ語で書いてあります。
マンハイムからウィーンに来ますが、上司ともめて就職に失敗。

ウィーンに定住して、フリーでいろいろな仕事を引き受けます。

1782年コンスタンツェ ウェーバー(1762-1842年)

と結婚。
ライムント レオポルド(夭逝)とカール トーマス(1784-1858年)が生まれています。その後4人の子どもをなしていますが、成人したのはカールの他には末っ子のフランツ クサーヴァだけです。

わたしのいとしいコンスタンツェのために(per la mia cara Constanza)というソルフェージュの曲を書き、ソプラノをコンスタンツェを想定したてあろう大ミサ曲K427(1783年)を書いています。

歌詞はヨハン ウォルフガング フォン ゲーテ(1749-1832年)

神聖ローマ帝国フルンクフルト 自由帝国都市アン マイン生まれ、ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ大公国ヴァイマール没
1972年23歳の時に自らの体験をもとに書いた「若きウェルテルの悩み」で一躍有名になります。

熱狂的なファンができ、主人公にならって自殺者も多発したそうです。

音楽史的にいうとベートーベンの第九の詩を書いたシラーの年長の友人で、いろいろなアドバイスをしていたそうです。

「すみれ」は、その頃の流行り、恋に破れて死ぬストーリーで、モーツァルトはソプラノのために書いていて、詳細はわかりませんがコンスタンツェのための曲のように思います。

悪妻と名高いですが、やっぱりモーツァルトは好きだったと思います。

Ein Veilchen auf der Wiese stand
gebückt in sich und unbekannt;
es war ein herzig's Veilchen.
Da kam ein'junge Schäferin
mit leichtem Schritt und munterm Sinn
daher, daher,
die Wiese her, und sang.
一本のすみれが牧場に咲いていた
ひっそりとうずくまり、人に知られずに。
それは本当にかわいいすみれだった!
そこへ若い羊飼いの少女がやって来た
軽やかな足どりで、晴れやかな心で
こっちの方へ近づいてくる
牧場の中を、歌をうたいながら。
Ach denkt das Veilchen, wär'ich nur
die schönste Blume der Natur,
ach, nur ein kleines Weilchen,
bis mich das Liebchen abgepflückt
und an dem Busen matt gedrückt!
ach nue, ach nur,
ein Viertelstündchen lang!
ああ、とすみれは思った、もしも自分が
この世で一番きれいな花だったら、と
ああ、ほんのちょっとの間だけでも
あの少女に摘みとられて、
胸におしあてられて、やがてしぼむ
ああ、ほんの
十五分間だけでも
Ach, aber ach! das Mädchen kam
und nicht in Acht das Veilchen nahm,
ertrat das arme Veilchen.
Es sank und starb und freut' sich noch;
und sterb'ich denn, so sterb'ich doch
durch sie, durch sie,
zu ihren Füßen doch!
ああ、それなのに!少女はやってきたが、
そのすみれには眼もくれないで、
あわれなすみれを踏みつけてしまった!
すみれはつぶれ、息絶えたが、それでも嬉しがっていた
ともあれ、自分はあのひとのせいで
あのひとに踏まれて




最古のカノン

2022-03-30 21:16:57 | 音楽様式
近所の木蓮がきれいです。





紫木蓮と、白木蓮。
どちらが好きですか?
私は…決められない😅
欲張り!

世界最古のカノンの楽譜は、イギリスの「夏は来たりぬ」Sumer is icumen inと言われてきました。

1240年に書かれたものと長く思われて来ましたが、最近の厳密な研究によると1280年〜1310年頃のものと言われるようになりました。

カノンは複数の声部が、同じ旋律を異なる時点から初めて、重ねていく様式です。

カエルの歌が日本では知られていますが、輪唱 ロンドと言ってカノンの一部です。
カノンは、違う音からはじまるものも含まれています。
リズムが2倍になったり、上下が逆になったりする特殊なものも含まれます。

楽譜はイギリスに残っていましたが、発祥は大陸由来、主にフランスのものが移動して行ったそうです。



初見アンサンブル

2022-03-29 20:59:22 | 音楽様式
ここに来るとなんだか異世界に来たような気がします。

ダイビル中之島
近代的、機能的ビルに変わった紋様の柱がついているなぁ?
と思っていましたが、

1924年に建った大阪ビルヂングの門だったものです。
1937年にダイビル新館になり


2009年に解体され、ダイビル中之島
に建て替えられた時もこのエントランスだけは残したのです。

商都大阪の歴史が渡辺橋辺りに残っています。

この近くのサロン ド プリンシパルでアンサンブル体験レッスン3回目。

今日は榎田先生がバスフルートを持参。

コンサートフルート3本とバスフルートのカルテットになりました。

曲はボワモルティエのフルート四重奏。
その場で楽譜を渡されます。
これは原典手書きの譜面なので読みにくいです。

調号は縦に♭2つ並んでいます。
E#と書いてあると♮が使われる以前の記譜なので、♭が無くなってEを吹きます。

付点があってもなくても同じ間隔で書いてあります。

これは読みにくい!
ナチュラル♮が使われるようになったのはモーツァルト以降だそうです。

印刷譜ばかり見ていると、手書き譜が読めません。
ちょっと失敗でした。

ボワモルティエのあとは、ライヒャ。

こちらは、小節の途中で次の段になったりしていてこれも読みにくいです。

ヴィヴラートの振幅を合奏のときは
深くしすぎないようにというのが、今回のアドバイスでした。

初見のハンディをなくすためか?
ライヒャの楽譜も、動画も見つけられませんでした。
うひゃ〜。



サリエリ噂の真相!

2022-03-28 21:35:41 | 古典
昨日、いずみホールの帰りに金重さんと京橋のカフェ ド リマージユでケーキセットを食べました。
コロナで減ったお客様を、値下げでまた呼び戻しました。

セットで1000円。
外にもたくさんお客様が並んでいました。
どこもなかなか大変ですね。

外で友だちとお茶なんて何年ぶりでしょうか?
久しぶりにゆっくりしました。

アントニオ サリエリ(1750-1825年)

ヴェネツィア共和国レニャーゴ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

といえば、映画「アマデウス」でモーツァルトに嫉妬し援助しながら、毒殺したのでは?と嫌疑をかけられた人です。

モーツァルトが清貧のうちに若くしてなくなるのに対比して、甘いものが好物で、金に明かして食べ過ぎ、歯がボロボロになって年老いるまで精神病院で過ごしたことなどがクローズアップされました。

事実はわかりませんが、生前から陰謀論に苦しめられ、殺していないと弟子に訴えたら、かえって殺したのだと思われました。

実際の彼は経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しみませんでした。

職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどなど、善行を積んでいます。

13歳で孤児になり兄に助けられながら作曲を学び、15歳でウイーンのガスマンに認められウイーンに移り、1774年
フランツ ヨーゼフ2世


により、宮廷作曲家、イタリアオペラ監督に任命されます。
1888年には宮廷楽長にまで上り詰め、36年間その地位にあり、ウイーンやイタリアで多くのオペラを作曲しました。

モーツァルトのレクイエムを初演するなどモーツァルト助けていたのも事実で、盗作や毒殺の、証拠は一切ありません。

彼自身が嫉まれる地位にあり、ドイツ学派とイタリア学派の間にあったことなど噂されやすい位置にいたということも注目されます。



テノールのコンサート

2022-03-27 20:25:06 | 名曲
母からチケットが回ってきたので、金重さんを誘って錦織健さんのコンサートに行ってきました。
金重さんおすすめのお店てランチしてから、行きました。





飲み物とパン食べ放題、サラダがついて1200円。
味もよかったのでまたきたいです。
金重さんによると20年前は1000円だったそう。
残念ながら来月から100円値上げだそうです。

錦織健さんのコンサートはいずみホール。
ビアニストの河原忠之さんはコンサートホールのオーケストラ指揮者だそうですが、ピアノすごくよかったです。
打楽器というより音が繋がっていて呼吸するような演奏でした。

それに歌が乗って、より遠くへ飛べるような感じでした。
今日は、イタリア特集と言うことでプッチーニ、ロッシーニ、スカルラッティなどとカンツォーネを歌われました。

アンコールはなんとクィーン!
お話もうまくとってももりあがりました。
Braboという渡された紙を上げて、素晴らしさを伝えました。

ジョッキアーノ ロッシーニ(1792-1868年)ペーザロ生まれ、フランス共和国パリ没


の「踊り」は、1835年に作曲した独立した歌曲の1つです。
タランテラとも呼ばれています。

歌詞はカルロ ペポリ伯爵(1796-1871年)。

ヴェローナの貴族として生まれましたが、オーストリア帝国のイタリア支配に反対してパリに追放され、ロッシーニと出会いました。

ロッシーニにイタリア語の家庭教師をし、曲の歌詞の依頼を受けました。

その頃、パリはイタリアからの亡命者で溢れていて、王女クリスティナ トゥリヴルツィ ディ ベルジオホソ(1808- 1871年)ミラノ ロンバルディア

のサロンではイタリアの革命家たちの出会いの場になったり、ヴィクトル ユーゴーやハインリヒ ハイネ、フランツ リストも出入りし、文化的な交流の場となっていました。

ここで、ベッリーニとも出会い、ペポリ伯爵の最高傑作オペラ「清教徒」の台本も書いています。

王女は、生涯を通じてイタリアの共和制政府の設立のため資金を提供したり、新聞を作って投稿したりしてイタリア統一に貢献しました。

そのサロン中で生まれた一曲が、「踊り」です。

歌詞
さあ、月は海の真上
恋人よ、踊ろう
ダンスにはうってつけの時間だ
恋に落ちた者たちには逃せない時が

早く、輪になって踊れ
娘たちよ、ここへおいで
かっこよくて明るい若者が
一緒になって踊るから

空に星がきらめき
月がかがやいている時に
一番の美男と美女同士
夜通しずっと踊り続ける

恋人よ、恋人よ
さあ、月は海の真上
恋人よ、恋人よ
恋人よ、踊ろう

フリンケ・フリンケ、フリンケ・フリンケ、
娘たちよさあ踊ろう
ララララララ


跳んで跳んで回って回って
カップル同士輪になって
に進み、前に後ろに下がり
そしてすばやく元に戻る

金髪を抱いて
黒髪と行ったり来たり
お次は赤毛
青ざめた子とは一休み

ビバ、回れ回れ
私は王様、私は貴族
この世で一番楽しいこと
一番素敵なこと

恋人よ、恋人よ
さあ、月は海の真上
恋人よ、恋人よ
恋人よ、踊ろう

フリンケ・フリンケ、フリンケ・フリンケ、
娘たちよさあ踊ろう





雨だれ

2022-03-26 20:26:24 | 名曲
今日は友だちのフルーティスト今田聡美さんのコンサートに行ってきました。
高槻は、淀川を挟んだ枚方の向い側。

あいにくの雨でしたが、プログラムの最後のフルートカルテットは若手作曲家の鶴薗明人「あめ」

舞台は用意されていたようにバッチリでした。
新作なので音源はありませんが素敵な曲でした。

やっぱり、生演奏はいいなぁ~!
 
フレデリック ショパン(1810-1849年)
ワルシャワ公国ジェラゾワ ヴォラ生まれ、フランス共和国パリ没

の雨だれは、前奏曲集の第15番目の曲です。

ショパンは生涯に26曲の前奏曲集を書いています。

そのうち24曲が曲集になっていて、1839年マヨルカ島で完成しました。
フランス版をカミーユ プレイエル、ドイツ版をヨゼフ クリストフ ケスラーが出版しました。

バッハを尊敬していて、彼の「平均律クラヴィーア曲集」にならって、5度ずつ変えて、すべての調で書いています。

結核を患っていたショパンの容態が悪くなり、ジョルジュ サンドと保養のためにマヨルカ島に行きます。



この島のヴァルデモッサ修道院に滞在します。

ところが、冬の悪天候で気候が悪く3ヶ月で去ることになるのですが、その頃がもっともショパンが創作に集中した時期になりました。

修道院に今も残るショパンのピアノ。







ドップラーのアメリカ

2022-03-25 13:08:05 | ロマン派
車検でディーラーさんに来ています。写真は今イチ押しの車です。
うちは家族が少ないし、細い道でもスイスイ行ける系のコンパクトカーですが…。
車検の間暇なので、ここのwifiで書込み。

コンサートの宣伝します。
3月26日友だちの今田聡美さんのコンサートがあります。
開演13:30総持寺
アマービレホール
Luxury Spring Consert

フルート4本とピアノのコンサート。
ドップラー、プーランクのフルートのから、今、流行りのショッカーまで、どう料理するのか楽しみです。

フランツとカールドップラー兄弟

左フランツ、右カール
は、
その息のあった超絶技巧を駆使した曲を作ってヨーロッパ中を演奏してまわり、大人気でした。

兄のフランツ ドップラー(1821-1883年)

オーストリア帝国領ガレツィア レンベルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国バーデン バイ ウイーン没
オーボエ奏者の父からフルートを学び、18歳でブダペスト歌劇場の首席フルート奏者に採用されます。


その後ウイーン宮廷歌劇場の首席奏者になり、1864年ウイーン音楽院のフルート科の教授になり教えました。

ハンガリー語のオペラを書くなど作曲家としても成功していました。

弟のカール(1825-1900)オーストリア帝国レンベルク生まれ、ドイツ国シュトゥットガルト没は、兄と一緒にデュオでフルートを吹いてヨーロッパ中を回りました。

指揮者としてブダペスト、シュトゥットガルトで活躍しました。
オペラエリザベスを書いています。

二人はベーム式フルートを使用せずに旧式のフルートをつかいつづけたそうです。

アメリカの主題による二重奏曲op37は、ピアノとフルート二本のための曲です。
元々はピアノとフルート、ヴァイオリンのために書かれました。
第1テーマは「コロンビアを呼ぶ」。この曲は初代大統領ワシントンを讃える行進曲としてされ、アメリカの最初の国歌となりました。
イギリスとフランスが戦争中で、両者から味方になればアメリカの独立を認めると迫られ、国内は参戦派と中立派に二分しました。
それを機に愛国心と結束を強めるために書かれました。結局アメリカは参戦せず、イギリス軍が勝利しました。

第2テーマは「星条旗」。アメリカとイギリスの戦いの最中に生まれました。

イギリス軍による攻撃が一晩中続いて迎えた朝、星条旗が砦で無事な姿で翻っているのに感激して書き上げた詩が歌詞となっています。当初のタイトルは「マックヘンリー砦の攻防戦」。法律上国歌と制定されたのは20世紀になってからのこと。

第3テーマは「船漕ぎのダンス」。南北戦争時代の歌でコープランドが編曲したことでも知られています。 
黒人をからかったショウが流行った時代で、白人が肌を黒く塗って舞台で披露された歌が起源だそうです。

第4テーマは「ヤンキー・ドウドウル」。 
元々はイギリス軍兵士が垢抜けしないアメリカへの入植者をなじった歌でした。
この歌を歌いながらイギリス軍が進軍して来ましたがアメリカ軍に大敗しました。
逆にアメリカ軍がこの歌を歌いながらイギリス軍を追い払いました。
それ以来 アメリカ人を嘲笑するはずの歌は歌詞を変えてアメリカ人の誇りを表す歌になってしまったそうです。



ウイーン国立歌劇場から

2022-03-24 21:44:07 | 音楽
実家のサンシュユ(山茱萸)が咲いていました。
もう暖かいと思ったら、雨が降って気温が下がって肌寒いです。


植えっぱなしの球根からムスカリも出てきました。

ウイーン国立歌劇場が、ウクライナを支持すると同時にロシアの音楽家を国籍で排除しないと言いました。

【人々をその出身に基づいてのみ「良い」または「悪い」に分類する世界観を厳しく拒否します。現在の発展は、国籍のみに基づいて文化的創造から個人を排除することにつながるべきではありません。】(末尾に記事全文を記載)

この劇場は1863年オーストリア=ハンガリー帝国によって着工されました。
フランツ ヨーゼフ一世(1830-1916年)

68年の在位期間、国民の敬愛も深く「国父」と呼ばれています。
彼によって、市庁舎などとともに国の威信をかけてつくられました。
「ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場」が前身です。

1863年着工時の歌劇場。

1869年こけら落とし

1898年
コンペによりニルとジッカルツブルクのネオルネッサンス建築が採用されました。
総工費600万グルデン、客席数2324、面積8709平方メートルの大劇場。
こけら落としはモーツァルトの「ドン ジョヴァンニ」でした。
1897年 グスタフ マーラーが総監督になりました。
彼は上演時に客席の照明を落とす慣例を作りました。
オペレッタを初めて上演したのも彼でした。

1945年第二次世界大戦で連合軍の爆撃を受け、舞台と、ホワイエ、舞台衣装15万着が燃えました。

ザルツブルグ音楽祭は、もとはウイーン国立歌劇場で行っていましたが、この時からザルツブルグで行うようになりました。
1955年、カール ベームの「フィデリオ」で再開されました。






現在のウイーン国立歌劇場




引っ越し、引っ越し

2022-03-23 21:29:40 | 名曲


近江といえばクラブハリエ。
食べる前にレンジで温めて食べるバウムクーヘン。
チョコレートがいい具合に溶けて、温かくてトロトロ。

近江富士にも大満足。
ようやく長男の引っ越しも終わりました。

引っ越しといえば、あの人。
1770-1827年
神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没。
散らかし放題できれい好き。部屋を汚くなしては嫌になって引っ越すこと60回。

1798年から1799年にかけて作曲されたピアノソナタ第8番op13は、パトロンのカール アロイス フォン リヒノフスキー侯爵


に献呈されました。
すぐに大成功して、楽譜もたくさん売れて、自立への足がかりになりました。
28歳の時に作曲されたので「青春の哀傷感」と表現されたこともあります。

特に二楽章は、そんな不潔でだらしない生活をしていた人が作曲したとは思えない美しさで、もっとも好きなピアノ曲ランキングに入ってきて、今もなおアレンジされて演奏され続けています。

曲名「悲愴」は、当時としては珍しく作者本人がつけています。

そう、引っ越し好きな汚し屋は


ルートヴィヒ ヴァン ベートーベン

のことでした。


すべてはシャンパンの泡のせい

2022-03-22 22:42:01 | ロマン派
萩原天神の馬酔木が満開でした。
うちの庭にも馬酔木が植えてありましたが、白一色。
ピンクの馬酔木は見たことがありませんでした。

繋いでおくと馬が毒で酔っ払ったようになるという馬酔木はこちらのほうがそれっぽい気がします。

ヨハン シュトラウス2世(1825-1899年)

オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没。

彼が1874年作曲した喜歌劇「こうもり」大帝国オーストリアが日々崩落していく中、ヨハン シュトラウス2世が、書いたのは、ドタバタ喜歌劇で民衆も喝采でむかえ、最後の日々を楽しみました。

役人を殴って5日間の禁固刑を申し渡されたアイゼンシュタイン。
刑を取り消してもらおうと頼んだ弁護士は下手で刑期がのびてしまいます。

妻のロザリンデは、かつての恋人アルフレードから夫のいない間に逢引しようと誘われていますが、世間体が気になって迷っています。  

そんな中、友人ファルケがやってきて舞踏会を楽しんでから牢に入ればいいと誘います。
「妻はどうする?」というと
「奥さんなんて黙っていれば、いくらでもごまかせる。」とそそのかします。
最後には二人で歌いながら小躍りします。


友人が去ると妻に礼服を出すようにいいます。
ロザリンデは自分だけ楽しみに行くようだと察し、自分もと決心し小間使いアデーレに暇を出します。

元恋人のアルフレードと1杯飲んで楽しんでいると、刑務所長が夫を連行しようとやってきます。

夫のいない間に男を引き入れたことがわかると困ると、アルフレードを夫に仕立てて、後でなんとかするからと身代わりに刑務所にいかせます。

一方舞踏会には、女優を装った小間使いアデーレがアイゼンシュタインをからかって楽しんでいます。

ロザリンデは、アデーレが自分の服を着て夫と楽しんでいるのに腹を立て、仮面のハンガリーの伯爵夫人に扮して舞踏会に乗り込みます。

するとアイゼンシュタインは、妻とも知らずに自慢の懐中時計を取り出して口説きだし、ロザリンデは言葉巧みに懐中時計を取り上げます。

舞踏会もたけなわ、ファルケがやってくると、客たちが「こうもりの話をしてくれ。」と頼みます。

3年前、ファルケとアイゼンシュタインは舞踏会でこうもりの扮装をして酔っぱらいます。
森まで来るとアイゼンシュタインは、酔っ払ったファルケを置いて一人で帰ってしまいます。

朝になって気がついたファルケがこうもりのまま家に帰ると近所のこどもたちから「こうもり博士」と変なあだ名をつけられてしまいました。

歌ったり食べたりしていると朝になり、出頭の時間だとアイゼンシュタインは出ていきます。
さて、牢屋についてみると「アイゼンシュタインはすでに牢屋にいます。」と看守に言われます。

牢にいるアルフレートは、弁護士を呼びます。

アイゼンシュタインはやってきた弁護士の服を剥ぎ取り、弁護士に扮してアルフレートの面会に行きます。

そこにロザリンデもやってきて昨日の一部始終を打ち明け相談します。

怒ったアイゼンシュタインは、扮装を解き妻をなじります。

ところがロザリンデは昨夜の懐中時計を取り出し、逆に追い詰めます。

そこに、ファルケが舞踏会の客を連れてやってきて「これは3年前のこうもり事件の復讐です。舞踏会に誘ったのも全て私が仕組んだことです。」と種明かし。

アイゼンシュタインは「浮気も芝居だったのか。」と一安心。

アルフレードは「ちょっと事実とは違うけど、まあいいか。」とつぶやき、ロザリンデを始め一堂、「すべてはシャンパンの泡のせい」と歌います。

当時のオーストリア帝国は、いろいろな国とゆるい連合関係になっていて、いろいろな問題を棚上げにして決定的な争いをしないでいることで分裂の危機を避けていたのでした。