音楽の喜び フルートとともに

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悪趣味の極みと言われた交響詩

2024-02-29 21:00:00 | ロマン派
火曜日。
次男の膝の手術でした。


前日行ったら、次男「これはゼリーじゃなくてアイスだよ〜。」と点滴したままでデイルームまでやってきました。

「おおっ!」
前日病院のコンビニで次男と買いに行ったら「高い!ヴィターinゼリー的なやつならなんでも良いから、安いから業務スーパーで買って来て」
と言われて、すぐに業務スーパーに行ってペットボトルのお茶とゼリー的なやつ買いました。

冷凍庫に入ってたからどうかな?と思ったけど…的なやつでも違ったみたい。

買ったことなかった。いつも息子か夫が買ってくるので…。
私は食べないし…。

帰って今度はコノミヤさんにいってみたら、冷凍ではなく、常温の紅茶やコーヒーの売り場にありました。
しかも、いろんなメーカーや種類が…。
ビタミン強化、鉄分補強、プロテイン。
どれを買ったらいいかわからないので、上記の3種を1個ずつ買いました。

全身麻酔がとけたあと、立てないし、食事も時間が遅くて出ないので、ペットボトルとゼリーをベッドの横に置いておいて、それを食べて飲んで乗り切れ!ということらしい。
ゼリーに交換。

午後16:00に終わるので来て下さい。と言われて家に帰って待機…というか用事を済ませていると15:00に電話があり「早くベッドが降りてくるので来られますか?」と言われたので『ベッドが降りる?独特な言い回し…医療用語?』と思いながらも、すぐに車で向かい15:30に着いたら、看護師さん「そこで待ってて下さい。」
そこってナースステーション前のエレベーターホール。
『えっ!ここ?』
と思いながらも待っていると本当にエレベーターでベッドが降りてきた!
ベッドの上には爆睡中の次男。

その頭の上で先生が
「思ったより、状態が良くて。
膝蓋骨は骨だけあるのではなくて膜に包まれているのですが、その膜が破れていると、骨がバラバラになって結構やっかいなのですが、くっついていたので早く済みました。」

ホッとしました。
それで終わり。
とにかくコロナで面会は最小限で帰されます。
気持ちとしては目覚めるまで付き添いたいですが、仕方ありません。

夜LINEで「5時まで寝てた。」と来ました。

目覚めてよかった。
実は信心もないのに、初めて盛り塩しました。おバカですね。

カミーユ サン=サーンス(1835-1921年)フランス王国パリ生まれ、フランス領アルジェリア アルジェ没

1875年サン=サーンス

の交響詩「死の舞踏」作品40R.171
フランスの詩人アンリ・カザリスの奇怪で幻想的な詩に霊感を得て、1872年にまずは歌曲として作曲され、1874年に管弦楽曲としてまとめられました。

初演は1875年1月24日にパリのシャトレ座


にて、エドゥアール・コロンヌ


指揮、コロンヌ管弦楽団によって行われ、友人でピアニストのモンティニ・ルモーリ夫人(Caroline Montigny-Remaury)に献呈された。

しかし初演は失敗に終わり、特にシロフォンによる骨のかち合う表現などは作曲者の「悪趣味の極み」との非難を受けました。が、繰り返し演奏されるうちに現在のような好評を勝ち得ていきました。


アンリ カザリス(1840-1909年)フランス王国パリ生まれ、スイス ジュネーブ没
医師で象徴主義の詩人、ショーソン デュパルク、ハーンも音楽に使っています。
ジャン ラホールの名前でも詩作しています。

ジグ、ジグ、ジグ、墓石の上
踵で拍子を取りながら
真夜中に死神が奏でるは舞踏の調べ
ジグ、ジグ、ジグ、ヴァイオリンで

冬の風は吹きすさび、夜は深い
菩提樹から漏れる呻き声
青白い骸骨が闇から舞い出で
屍衣を纏いて跳ね回る

ジグ、ジグ、ジグ、体を捩らせ
踊る者どもの骨がかちゃかちゃと擦れ合う音が聞こえよう

静かに! 突然踊りは止み、押しあいへしあい逃げていく
暁を告げる鶏が鳴いたのだ

この2週間、骨のことばかり考えていたので…「悪趣味の極み」!!かも。










できるのなら一度目から!

2024-02-28 20:50:00 | ロマン派
月曜日の18:00〜渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

筑前橋から大阪湾方面を見たところです。
今日はアルトがお休み。
曲はドビュッシーの小組曲。
「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」をメンバーがフルートアンサンブルに編曲してくれました。
コンサートフルートが1〜6パートまで、アルトフルート、バスフルートが2部ずつとコントラバスフルート。

コントラバスフルートは神戸にしかないので、無しで。
1stフルートも神戸が担当するのですが、今日はYさんが、吹いてくれました。

榎田先生、指揮しながら、言えば修正できるのに、漫然と吹いているメンバーにお冠り。

やがて大フィル時代の話しをしてくださいました。

カール・ベームの指揮でチャイコフスキーの交響曲第5番をリハしていたときのこと、
やはり漫然と吹いていたフルートの1人に「1人で吹いて下さい。」と言われました。

そのフルーティストは完璧に演奏してみせました。

すると、カール・ベームは激怒して「できるのに、なぜはじめからやらないんだ!」
と言われたそうな。

さて、一回目から緊張感を持って音を出すようにというありがたいエピソード。私も肝に銘じたいところです。

そんな榎田雅祥先生のコンサート
「オレの話を聞け!」
チェンバロは千葉真由美さん。

2024年3月31日(日)14:00〜
リーフホール(兵庫県三田市)

ぜひおいでください。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1888年チャイコフスキー

交響曲第5番 ホ短調 作品64は、ロシアの作曲家ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが作曲した交響曲です。

1888年出版交響曲第5番表紙

チャイコフスキーの円熟期にあたる1888年の作品であり、交響曲第4番ヘ短調作品36とは作曲時期に10年の隔たりがあります。

4つの楽章からなり、演奏時間は約42分。一つの主題が全ての楽章に登場し作品全体に統一感を与えています。

この主題は「運命」を象徴しているとされており、第1楽章の冒頭で暗く重々しく提示されますが、第4楽章では「運命に対する勝利」を表すかのように輝かしく登場します。第1楽章と第4楽章は序奏とコーダがあるソナタ形式。緩徐楽章である第2楽章は極めて美しい旋律をもち、第3楽章にはスケルツォの代わりにワルツが置かれています。

チャイコフスキーは初演を含めて6回この曲を指揮しましたが、作品にただし、放浪中のチャイコフスキーが自由を謳歌していたかと言うと決してそうではなく、精神的な支えであった友人ニコライ・ルビンシテイン
(1835-1881年)

の死、経済的な後ろ盾であるフォン・メック夫人(1831-1894年)

破産の噂、妹アレクサンドラの家庭崩壊、進展しない離婚問題などはチャイコフスキーの精神を不安定にしていました。

やがてチャイコフスキーはロシアの村で残りの人生を過ごしたいと考えるようになり、1885年2月にモスクワから北に約80km離れたマイダーノヴォ(Майданово)に家を借り、6年以上に及んだ放浪生活に終止符を打ちました。

その後、1888年5月にはさらに良い環境を求めてマイダーノヴォからフローロフスコエに移り住みました、交響曲第5番はこの地で作曲されました。

交響曲第4番から交響曲第5番までの間の10年については、チャイコフスキーがスランプに陥っていた「低迷期」であるとする評価がかつてあり、管弦楽のための組曲や『弦楽セレナーデ』といった複数の楽章で構成される作品は、交響曲を書きたくても書けなかったことから生まれたものであるとも言われてきました。

しかし、実際には多くの作品が完成しているように、着実に創作は続けられいて、この時期のチャイコフスキーは、晩年における更なる飛躍のために試行錯誤を続けていたと考えられています。

チャイコフスキーが音楽のアイデアや生活に関するメモを記した作曲ノートは19冊が残っていて、1887年夏から1888年春にかけて書かれた4冊目のノートには、同じ時期に作曲が進められた『ハムレット』
1890年出版 劇付随音楽「ハムレット」
に基づく舞台音楽と交響曲第5番の構想が記されています。

そこに見られるワルツ主題(第3楽章)の原案は1887年8月に書かれたもので、作曲の約1年前に着想があったことになります。また、後に「運命の主題」と呼ばれる主題の原案もあり、これは同年秋のものと考えられています。
ノートには楽譜のみならず言葉でもアイデアが記されており、第2楽章の原案の一部と見られる楽譜には次のような言葉が添えられています。

「慰め、ひとすじの光……いや、希望はない」

チャイコフスキー自身は、交響曲第5番に 標題は存在しないと後に述べていますが、以下に示すノートの書き込みは交響曲第5番につながる標題であると考えられています。

「序奏。運命の前での、あるいは同じことだが、人に計り難い神の摂理の前での完全な服従。アレグロ、I. XXXに対する不満、疑い、不平、非難。II. 信仰の抱擁に身を委ねるべきではないか??? もし実現できれば、すばらしい標題だ」

この標題については『ハムレット』との関連や、次に述べる1887年夏のアーヘンにおける体験との関連が指摘されています。

アーヘンでの体験
1887年7月、かねてからの友人ニコラーイ・ドミートリエヴィッチ・コンドラーチエフが病のために死期が近づいていると知ったチャイコフスキーは、コンドラーチエフが療養中であったドイツのアーヘンに向かいました。

アーヘン大聖堂

アーヘンには7月27日から9月6日までの約40日間滞在し、ここで終末期のコンドラーチエフに付き添いました。チャイコフスキーはアーヘンから戻った後に以下のように書いています。

「アーヘンでの六週間、命運がつきながら死ぬこともできず、ひどく悩み苦しんでいる人間との生活は、言葉にならない程苦しいものでした。これは私の人生の最も暗い部分の一つでしょう。人生に疲れ、悲しい無気力に陥り、私自身ももうすぐ死ぬかもしれないという感情と、死が近づくことで私自身の人生において重要で本質的なものを成している全てが、小さな詰まらない、そして全く目的の無いもののような気がしているのです。」
— 1887年9月12日付けでフォン・メック夫人に宛てた手紙

「僕の宗教は限りなく明白になった。この間、僕は神について、生と死について、とくにアーヘンでは、何のために、どうやって、なぜ? が、私の中でしばしば起こり、不安気に飛びかうのかという、宿命的な問題についてたくさん考えた。」
— 1887年10月3日付けの日記

アーヘンでは、死に怯える病人に接し続けたことでチャイコフスキー自身も精神的に不安定になり体調も壊しました。しかし、ここでの体験はチャイコフスキーが死や宗教に対する思索を深めるきっかけとなり、そのことが以降の作品や、前述した交響曲の標題に影響を与えていると考えられています。

ヨーロッパ演奏旅行の帰路、チャイコフスキーは弟アナートリィが控訴院の検察官として赴任していたティフリス(現在のジョージアの首都トビリシ)に立ち寄り、4月7日から4月26日までの3週間をそこで過ごしました。

ここから弟モデストやフォン・メック夫人にあてた手紙では、夏に新しい交響曲を作曲するつもりであると述べていますが、
5月27日モデストにあてた手紙では、様々な校訂作業があるために交響曲にはまだ着手できていないと報告しています。

ところが、そのわずか4日後に書かれた5月31日付けのモデストあての手紙には
「目下、役に立たなくなった自分の脳味噌から、苦心惨憺して交響曲を絞り出すことを始めようとしている。」とあることから、この日以降、作曲の作業に取りかかったものと考えられています。

チャイコフスキーはここから約1か月の間に全曲のスケッチを完成させ、引き続きオーケストレーションに取りかかり、8月26日に作品を完成させています。

11月8日には楽譜の初版がユルゲンソーン社から出版されました。
また、四手ピアノ版がセルゲイ・タネーエフによって編曲されており、その第2楽章と第3楽章が11月6日、モスクワにおいてタネーエフとアレクサンドル・ジロティのピアノによって披露されています。

「私の新しい交響曲をペテルブルグで二度、プラハで一度演奏した結果、この曲が不成功であるという確信に達しました。ここには何か余分で雑多なもの、不誠実でわざとらしいものがあります。
昨晩私達の〈交響曲第四番〉を再検討してみました。
何という差があることでしょうか。なんと立派によく書けていることでしょうか。これは大層悲しいことなのです。」

しかしその後ハンブルクでアルトゥル ニキシュ指揮 で演奏。
リハーサルを聴いたブラームスは、「交響曲の第1楽章から第3楽章までは良いが第4楽章は気に入らない」とチャイコフスキーに伝えましたが、演奏会自体は大成功で、自信を取り戻したチャイコフスキーはモデスト

モデスト チャイコフスキー(1850-1916年)台本作家 スペードの女王など兄の作品にも参加しています。
にあてて

「嫌いになりかけていたこの曲がまた好きになった。」と書き送っています。
カール・ベーム指揮のチャイコフスキー第5番はアップロードできなかったので、バーンスタインで








ジュピターと呼ばれる交響曲

2024-02-27 21:00:00 | 古典
次男が入院して、明日手術です。
9:00に病院まで送って、説明を受けました。
手術の手順の説明ビデオ。
全身麻酔でするので、麻酔科医さんの説明、聞き取り。

病棟案内。説明。
…とあれ?
先生によれば2.3日から、1週間の入院といわれましたが、病棟看護師さんから早くても、3月12日まで入院。
リハビリを入れたら3月19日。
長い!
説明とは違うと言ったら、「どういう状態で退院したいかによりますね。」
ということでした。
「自宅2階に上がれるようになってから。」というと、
「先生に聞いておきますね。」
ということでした。
あれれ?どちらが本当かな?

明日は13:00〜4時間の手術だそうです。付き添いに行きますが、コロナ対策で病院にはいられないそうです。
初めに行って一旦帰って、また行くかな?

交響曲第41番 ハ長調 K. 551 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク㈹司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
1789年モーツァルト
が1788年に作曲した交響曲で、最後の交響曲です。
『ジュピター』(Jupiter)の愛称で親しまれています。

1788年8月10日に完成し、同年に作曲された『第39番 変ホ長調』(K. 543、6月26日完成)、『第40番 ト短調』(K. 550、7月25日完成)とともに「3大交響曲」と呼ばれています。
他の2曲とともに作曲の目的や初演の日時は不明です。

モーツァルトを尊敬していたリヒャルト・シュトラウス


は、1878年1月26日にルートヴィヒ・トゥイレに宛てた手紙に「私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」と称賛しています。また1926年には自身の指揮で録音も行なっています。

自筆稿は現在ベルリン国立図書館
にあります。

『ジュピター』(ドイツ語では『ユーピター』)という愛称はモーツァルト自身によるものではなく、本作のスケールの大きさ、輝かしく荘厳な曲想からローマ神話の最高神ユーピテル(ギリシア神話でいうゼウス)にちなんで付けられたもので、標題的な意味合いはありません。

これは同時代のヨハン・ペーター・ザーロモン(1745年 - 1815年)

ボン生まれのヴァイオリニスト
が名付けたとヴィンセント・ノヴェロ(1781年 - 1861年)の『モーツァルト巡礼』(1855年)に紹介されています。

またイギリスのタイムズ紙(1817年5月8日)

には、翌5月9日にハノーヴァー・スクエア・ルームズ

で開催される演奏会の広告に "Grand Sinfonie (Jupiter), Mozart" と記載されていることから、19世紀半ばにはすでに広く知れ渡っていたと考えられます。

また一説には、ヨハン・バプティスト・クラーマー(1771年 - 1858年)

が自ら設立した出版社「J・B・クラーマー& Co.」で楽譜を出版する際に付けたともいわれていて、伝えられるところによると、第1楽章冒頭の和音がクラーマーにユーピテルが落とす雷を連想させたからといわれています。

ユーピテル(ジュピター)・トナンス像
プラド美術館所蔵
『ジュピター』という愛称が定着するまでは、ドイツ語で「最終フーガを伴った交響曲」といった意味の "Sinfonie mit der Schlussfuge" という愛称でも呼ばれていました。こちらは現在では完全に廃れてしまっています(1937年に出版されたケッヘル目録の第3版では、副題として表記されています)。

また、日本ではごく稀に『木星』と訳している媒体もありますが、明らかな誤訳です。

第4楽章で使われる「ジュピター音型」と呼ばれる(C - D - F - E、ド・レ・ファ・ミの4音符)は、モーツァルトがたいへん好んだモチーフです。

これを使ったモーツァルトの曲は
『交響曲(第55番)変ロ長調』(K. 45b) - 第1楽章
『ミサ・プレヴィス ヘ長調』(K. 192) - 第3曲「クレド」
『ミサ曲 ハ長調《クレド・ミサ》』(K. 257) - 第4曲「サンクトゥス」
『交響曲第33番 変ロ長調』(K. 319) - 第1楽章
『3つのバセットホルンのための5つのディヴェルティメント』(K. 439b) - 第4番 第1楽章
『ヴァイオリンソナタ第24番(旧第33番) 変ホ長調』(K. 481) - 第1楽章
があります。




1846年ドイツ音楽の復興

2024-02-26 21:06:00 | 音楽
うちの裏庭の金柑。今年は実が少ないです。

土曜日の朝は梅田ドルチェ楽器で伊藤公一先生のレッスンでした。
例によってスケールとアルペジオから…。
音程が厳しいのはいつも通りですが、Fの平行調を吹いていきますが、Fから短三度下のDmの主音を吹く前に頭の中で音を出してみてから吹くように、次は長三度下のB♭を歌ってからというふうにさらって、相対音感を育てましょう。ということでした。

音程や滑らかに演奏するために、研究されています。毎回行く度にいくつかの替え指を提案されます。
覚えるのが大変です。
が、80歳オーバーの先生が新しい指使いを覚えて使いこなしておられるので、言い訳してられません。 
頑張って覚えようとしますが…なかなか😱
いや、頑張ります。



梅田クックハウスで次男と食べる昼食買って帰りました。
カレーパンが美味しかったです。

キンカンは中国南部が原産の植物です。
キンカンの歴史的言及は、少なくとも 12 世紀以降の中国の文献に現れています。
東アジア、南アジア、東南アジアの他の地域では何世紀にもわたって栽培されてきました。

それらは1846 年にロンドン園芸協会のコレクターであるロバート フォーチュン(1812-1880年)スコットランドのプラントハンター

によってヨーロッパに導入され現在では世界中で見られます

1826年から1827年に、シューベルト、ウェーバー、ベートーヴェンは亡くなり、1830年までに第一期ロマン派は終わりました。

1840年代に故郷のドイツ地域(ザクセン王国・ドレスデン)に戻ったワーグナーは

リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)

1845年にオペラ『タンホイザー』(WWV 70)
Otto Knille画『タンホイザーとヴェーヌス』

を作曲し上演しました。しかし、当初は不評でした。しかし上演し続けるうちに評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになりました。

夏休暇にはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』 、ゲオルク・ゴトフリート・ゲルヴィーヌスの『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』 を読みました。

それに影響を受けたワーグナーは
1846年には演奏会の曲目としてベートーヴェン
ベートーヴェン(1770-1827年)
の「第九」の演奏を計画します。

当時「第九」は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対を受けますが、徹底した準備によって大成功し、以降「第九」は名曲としての評価を確立することになりました。

このように、ここでも巨匠の作品の「再発見」と「復活」が起こっていたのです。

19世紀フランスでは王政復古時代(1814~1830)と七月王政時代(1830~1848) の両宮廷を頂点として一大音楽文化圏が展開されていました。女性貴族たちを中心とする音楽サロンの集合体が、音楽家たちを受け入れ、評価し、援助し、成功へと導く母体としての役割を果たしていたのです。

彼女たちにとって、サロンコンサートの開催は単なる暇つぶしではなく、貴族としての威信をかけて行う公の活動でした。自らのステータスのために、競い合うようにサロンコンサートが開催されていました。

当時800以上のサロンがあったそうです。

そこで活躍したのはショパン、リスト、パガニーニというヴィルトゥオーゾと呼ばれる繊細なテクニックを持つ作曲家です。

そして自ら踊るための音楽が求められ、シュトラウス親子、兄弟


が活躍しました。

一方ドイツでは、パリやウィーンの傾向は軽薄な音楽ととらえられ、「真面目」な音楽が求められました。 

こうして、フランスやイタリアに対抗するため、自国の大作曲家たちを称揚する空気が生まれます。

発掘作業によって「大作曲家」「名作」「批評」「伝記」という概念が誕生し、その文化が音楽学校で「保存」「教育」されていきました。

そのような傾向の中でワーグナーの第九発掘が行われました。

この時代、メンデルスゾーン(1809~1847)


が、バッハの「マタイ受難曲」
を再演しました。

とっくの昔に忘れ去られた100年以上前のバッハの楽譜がまわりまわってメンデルスゾーンの祖母の手に渡りました。



クリスマスプレゼントとしてその楽譜をプレゼントされたのがメンデルスゾーン。

これを演奏会で披露したことで、「バッハ」は「再発見」されました。

また、1835年にメンデルスゾーンは演奏会のプログラムを改革していきます。「歴史的演奏会」を開き、バッハからベートーヴェン、ウェーバー、シューベルトに至るまでのドイツ音楽の流れを紹介します。

1846年はドイツ音楽の潮流が、変わった時です。
ワーグナーのオペラ「タンホイザー」



優雅なインドの人々

2024-02-25 21:00:00 | バロック
ココロ・オクル・ショコラ。
ギターの川原久美子さんのお土産。


とジュリアーニの協奏的大二重奏曲op85。
とりあえず3月9日西宮ギター練習会で第三楽章と第四楽章を演奏します。

なんと川原さん、ころんで膝の裏の靭帯を傷めたとか…。
昨夜フルート友だちのOさんからも、コケて胸を打って軟骨折れて、歯茎の手術をして唇が腫れて、フルート吹けないって。

うちだけじゃないんですね。
みなさん、1日も早い回復をお祈りします。
それと、転倒しないように気をつけましょう。

『レ・ザンド・ギャラント』(フランス語:)「優雅なインドの人々」は、フズリエの台本によるジャン=フィリップ・ラモー(1683- 1764年)フランス王国 ディジョン生まれ、フランス王国パリ没
ジャン=フィリップ・ラモーとそのチェンバロ、1760年、シャンティイ城のコンデ博物館にて
のオペラです。

これは、プロローグと (最終形式では) 4 つのアントレ(幕) からなるオペラ バレエの形式で書かれました。

プロローグに続いて、4 つのシーンには個別の筋がありますが、エキゾチックな場所 (オスマン帝国、ペルー、ペルシャ、北米) での愛のテーマによって統一されています。

プロローグと 4 つのアントレ(幕) のうちの最初の 2 つだけを含む初演は、 1735 年 8 月 23 日にパリのパレ・ロワイヤルにある劇場でアカデミー・ロワイヤル・ド・ミュージックによって上演されました。

1725年、アメリカ、イリノイのフランス人入植者はミッチガメア族の酋長アガピット・シカゴウと他の5人の酋長をパリに派遣しました。

1725年11月25日、彼らはルイ15世と会見しました。

シカゴウは王室への忠誠を誓う手紙を読まされました。彼らは後にイタリアの劇場で 3 種類のダンスを踊り、ラモーにロンドー『レ・ソヴァージュ』を作曲するきっかけを与えました。

印刷された台本への序文の中で、ルイ・フュズリエは、最初のメインテーマ「Le Turc généreux」
オスマンの寛大さの物語は、「明らかに、1734年9月にメルキュール・ド・スイスに掲載されたマルセイエーの商人ヴァンサン・アルニオーに関する物語に基づいています。

彼はマルタで奴隷状態から著名なオスマン帝国の若者を救います。後に寛大な大宰相トパル・オスマン・パシャとなるこの青年によるものです。

あらすじ
インドの優雅な人々

1736年出版の台本

若さの女神ヘーベは、祭りに参加するよう信者を呼び出します (Air: Vous, qui d'Hébé suivez les lois )。若いフランス人、スペイン人、イタリア人、ポーランド人が駆けつけ、ミュゼットを含む一連の踊りで祝います。

バレエはドラムとトランペットの騒音によって中断されます。旗を掲げた戦士たちを引き連れて舞台に登場するのは、戦いの女神ベローナです。

ベローナは若者たちに軍事的栄光を求めるよう呼びかけます(空気と合唱:La Gloire vous appelle)。

ヘーベ
ヘーベはキューピッド(ラムール)に、自分の力を使って彼らを引き留めるように祈ります。キューピッドは従者たちとともに雲に乗って降臨します。彼はヨーロッパを捨て、愛がより歓迎される「インド諸島」を選択することを決意しました。

Entrée I – Le turc généreux

(寛大なトルコ人)

海に面したオスマン・パシャの庭園

オスマン・パシャは奴隷の若いエミリーに恋をしていますが、彼女の恋人は山賊の一団に誘拐されたと伝えます。

オスマンは、婚約者がまだ生きているという希望を捨てるようエミリーに勧めますが(Air: Il faut que l'amour s'envole )、エミリーはこれが真実だとは信じようとしません。



嵐が起き空は暗くなり、エミリーは荒れ狂う天候を彼女の絶望のイメージとして見ています (Air: Vaste Empire des mers )。

難破した船員たちの合唱が聞こえます (合唱: Ciel! de plus d'une mort )。エミリーは自分たちも捕虜になってしまうと嘆きます。
しかし、彼女は船員の一人が彼女の婚約者ヴァレールであることに気づきました。再会の喜びは、二人とも奴隷になってしまったという悲しみをともなっています。

オスマンが入ってきて、カップルが抱き合っているのを見て激怒します。
しかし、彼は彼らを解放すると発表しました。ヴァレールはかつて、彼の主人でしたが、寛大にも彼を解放してくれたことがあったのでした。

オスマンはヴァレールの生き残った船に贈り物を積み込み、夫婦は彼の寛大さを称賛します。
彼らは風に吹かれてフランスに帰るように呼びかけます(デュエットとコーラス:Volez、Zéphyrs)。この幕はヴァレールとエミリーが出航の準備をするお祝いのダンスで終わります。

Entrée II – Les incas du Pérou (ペルーのインカ)
火山を背景にしたペルーの砂漠

スペイン人将校カルロスはインカの王女ファニに恋をしています。

ファニ
彼は彼女に一緒に逃げるよう勧めますが、彼女は太陽の祭りを祝う準備をしているインカ人の怒りを恐れています。それにもかかわらず、彼女は彼と結婚する準備をしています(Air:Viens、Hymen)。

インカの司祭ワスカル
ワスカル
もファニに恋をしていますが、彼にライバルがいるのではないかと疑い、策略に訴えることにします。ワスカルは太陽崇拝の儀式を主導しますが、突然の地震によって中断されます。
ワスカルは、これは神々がファニに自分を夫として選んで欲しいと願っていることを意味すると宣言します。

カルロスが入ってきて、地震はワスカルが人為的に作り出したトリックだとファニに告げます。
カルロスとファニは愛を歌い、ワスカルは復讐を誓います(Trio: Pour jamais )。しかし、ワスカルは火山の噴火を引き起こし、燃える岩によって押しつぶされてしまいます。

アントレ III – Les fleurs (花)
アリの宮殿の庭園

タクマス王子は、自分の奴隷の少女ファティメがいるにも関わらず、お気に入りのアリの奴隷であるザイールに恋をしています。

インド人の女性の衣装

タクマスは商人の女性に変装してアリの宮殿に現れ、気づかれずにハーレムに滑り込み、ザイールの自分に対する気持ちを試します。

その時ザイールが入ってきて、自分が不幸な恋をしていると嘆きます(Air: Amour, Amour, quand du destin j'éprouve la rigueur)。

タクマスは彼女の話を立ち聞きし、ライバルの名前を調べようと決意します。

ポーランド人奴隷を装ったファティメがやって来て、タクマスはザイールの秘密の恋人を見つけたと信じています。
激怒した彼は変装を脱ぎ捨て、ファティメを刺そうとしたとき、彼女もまた正体を現します。

ファティメがアリに恋をしていたように、ザイールもずっとタクマスに恋をしていたことが判明し、2 組のカップルはこの幸せな解決を喜び (カルテット: Tendre amour )、ペルシア人が花祭りを祝う場面で幕を閉じます。

Entrée IV – Les sauvages (野蛮人)

舞台は、フランスとスペインの植民地国境にあるアメリカの森にある木立。そこでは平和のパイプの式典が祝われようとしています。

ネイティブアメリカンのアダリオ
野蛮人
は、先住民族の酋長の娘ジーマに恋をしています。
スペイン人のドン・アルヴァとフランス人のデイモンの対立を恐れています。(Air: Rivaux des mes Explos, rivaux des mes amours)。

ヨーロッパ人たちはジーマに愛を懇願しますが、ジーマはデイモンは気まぐれすぎる、アルヴィは嫉妬しすぎると言います。

彼女はアダリオの自然な愛を好み(エア:Sur nos bords l'amour vole)、カップルは結婚を誓います(デュエット:Hymen, viens nous unir d'une Chaîne éternelle)。この幕は、ヨーロッパ人が原住民とともに平和の儀式に参加することで終わります(合唱:Forêts paisibles)。




クロッカンブッシュとレジスタンス

2024-02-24 20:57:00 | 近代
2月のイベントといえばヴァレンタインデー。

取り上げるのが遅くなりましたが、
うちでは例年のように、母と妹から次男と夫が義理チョコを頂きます。
1個食べてしまいましたが、パティスリーシロモトのキャラメルクロッカン。

この量が丁度いい感じ。

クロッカンは元々は
フランス語の"croque en bouche"で、糖衣やシューが口(bouche)の中(en)でカリッと(croque)崩れる様子を表したものだそうです。


"Croquenbouche"または"croquebouche"ともいわれます。

「サント・ノーレ」(Saint-Honoré)と呼ばれることもあります。

ウェディングケーキ版クロカンブッシュは、台の上に、カスタードクリームを入れた小さなシューを飴やカラメルなどの糖衣で貼り付けながら円錐型に積み上げた飾り菓子です。

フランスではウエディングケーキとして使われます。

シューはキャベツを表し、子孫繁栄の願いと豊かな収穫を願う物です。二人で持った木槌で割りながら分けて参列客に配ります。

クロカンブッシュの頂上には夫婦の像やドラジェや飴細工のバラを飾ります。
シューが祝福してくれる人々をあらわすとも言われ、できる限り高くする傾向にあります。


また洗礼式やクリスマスケーキなど、結婚式以外のお祝い事にも使われる祝い菓子です。

「ピエスモンテ」(Pièce montée組み立てられたピース)の一種とされます。

チャールズ ランホーファーの1894 年の本『エピキュリアン』から引用した、サボテンを表すピース モンテのイラスト。サボテン自体を形成するピスタチオヌガーを含む、さまざまな種類のヌガーで作られます。

クロード・デルヴァンクール(1888 - 1954年オルベテッロ)フランス帝国 パリ生まれ、イタリアオルベテッロ没


は、フランスのピアニスト・作曲家です。
外交官のピエール・デルヴァンクールを父に、マルグリート・フレーを母にパリに生まれます。

1906年よりパリ音楽院

1795年当時の初代校舎、パリ9区
に学び、当初はレオン・ボエルマンに、次いでアンリ・ビュッセルの指導を受け、さらに対位法とフーガをジョルジュ・コサードに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールに師事しました。

1910年にローマ大賞に入賞し、次いで1913年にはカンタータ《ヤニッツァ(Yanitza)》によってローマ大賞の次点に選ばれました。

ローマ・ボルゲーゼ庭園内のメディチ荘 (Villa Medici)。フランス政府が設置した奨学制度で今日でも奨学生が寄宿しています。

第1次世界大戦の勃発によってローマ留学が打ち切られると、徴兵され、1915年に重傷を負いました。

1919年よりローマ留学を再開させる。1926年にリュドヴィク・パーンの後任オルガニストとしてモンマルトル聖心教会

に勤めました。

1932年にヴェルサイユ音楽院の院長に任命され、1940年のアンリ・ラボーの辞任に伴い、1941年よりパリ音楽院の院長に就任しました。

フランス国時代にデルヴァンクールは、ヴィシー政権(ヒトラーがフランスヴィシーに置いた傀儡政権)
1940年10月24日のモントワール駅でのペタンとヒトラー。中央の制服姿の人物は、ヒトラーの通訳官パウル=オットー・シュミット(ドイツ語版、英語版)、ヒトラーの後方の制服姿の人物は、ドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップ
の人種法をパリ音楽院に適用して、ユダヤ系の教授や学生を閉め出しました。

しかし、一方で「パリ音楽院学生オーケストラ(Orchestre des Cadets du Conservatoire)」を設立し、長年にわたり、60名以上の学生のドイツ行きと強制労働を防ぎました。

また、 マリー=ルイーズ・ボエルマンやジャック・シャイー、ロジェ・デゾルミエール、イレーネ・ヨアヒムといった音楽家も参加したレジスタンス団体「音楽家の国民前線(フランス語: Front National des Musiciens)」を結成。積極的に活動していました。

そのためゲシュタポの脅迫を受け、ナチス・ドイツによるフランス占領が終わるまでに辞職に追い込まれました。

1954年に自動車事故によりイタリアに客死しました。




「クロッカンブッシュ」は1926年にピアノ曲として作曲されました。
他にも美味しいお菓子の名前がついた6曲が並んでいます。

プラムプディング、
ピュイット ダムール、
ネーグル アン シュミーズ、
リンツァー タルト、
グレナディン、
ラハット ルクフーム

ジャン=マリー・ル・ロンデによってサクソフォンとピアノの曲に改定されました。


ギターの天才

2024-02-23 21:00:00 | 古典
近所に椿の紅唐子が咲いていました。

木瓜の花

郵便局から6月エスカルの発表会で演奏する曲の伴奏譜を送りました。
またしてもブリジアルディの「ローエングリン幻想曲」
今度は安達萌さんのピアノてす。

楽しみにしています。

おっと!その前に3月9日(日)ギターの川原久美子さんと西宮ギター練習会で演奏。それから3月31日(日)阪南ギタークラブ 第7回発表会に出ます。

阪南市文化センター サラダホール 
11:45開場 12:15開演
第三部にギター前田恵理さんと出ます。
曲は「ジュリアーニの協奏的大二重奏曲op.85」

むかしむかしにやったことがありますが、もう忘れてます。
練習しなくっちゃ。
川原さんとも同じ曲。
川原さんとやってなかったのが不思議な位有名曲です。
それから
前田さんと合わすのは初めてなので楽しみです。

マウロ・パンタレーオ・ジュリアーニ( 1781 - 1829年)ナポリ王国ビッジェーリオ生まれ、ナポリ王国ナポリ没

ウィーンで活躍したナポリ王国のギタリスト・作曲家。19世紀初頭におけるクラシック・ギターのヴィルトゥオーゾの一人とされています。

早くから兄ニコラスとともにバルレッタに移り、その地を学習の拠点としました。

初めはチェロの指導を受け、ヴァイオリンも学んでいました。
その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長しました。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)とガエターノ(1803年〜?)の2人の子どもを授かります。
その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していました。

1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、家族を残したままウィーンに出向きます。
ウィーンでヴィルムート嬢(Fräulein Willmuth)という女性と関係を結び、1807年にはマリアをもうけ、1813年エミリアをもうけました。

ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かります。

ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、行く先々で、その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛されました。大成功をおさめて音楽界の名士となり、19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、最高の一人に数えられました。

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において、ギターの新たな役割を洗練させた音楽家です。

オーストリア帝国の上流社会や、ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、ウィーンで最も活動的な演奏家と共演しました。

1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、シェーンブルン宮殿

の植物園

で(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)一連の室内楽の演奏会を行ないました。
ジュリアーニはこれに出演したことで、ウィーンで名声を馳せました。

同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となりました。
また、1813年12月8日には、ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加しています。

ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功しました。
ジュリアーニは、楽譜出版社アルタリア(1770年ウィーンに創立した出版社)と提携していて、ジュリアーニのギター曲の大部分を出版しました。

その他の地域ではあらゆる出版社と取り引きし、自作をヨーロッパ各地に広めました。
また、ギター教師としても名声を得て、ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出しました。

1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にします(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていました)。

イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアで過ごし、ついにローマに落ち着きました。

ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、1度きりの演奏会を開いただけでした。

この間、1813年生まれの娘エミリアは、1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに、1823年7月、重病の父親を見舞いに、たびたびナポリを訪ねています。

両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、その他のギター曲を出版することができました。

1826年には、ポルティチにてフランチェスコ1世

とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露しました。
この頃がジュリアーニのナポリ時代であり、同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリアとしばしば共演するようになりました。

1828年の末までに体を壊し、1829年5月8日にナポリで生涯を閉じました。ジュリアーニの訃報は、ナポリの音楽界に大きな驚きを与えたといわれています。

協奏的大二重奏曲op85は1817年アリタリア社から

出版されています。





女奴隷ジャミレ

2024-02-22 21:00:00 | ロマン派
月曜日は、星ヶ丘病院で次男の入院前検診。
これがなかなか。
MRI撮って、レントゲン撮って、診察。



もう一度入院前検診で、入院前相談、尿検査、血液検査、MRI、レントゲン、診断。
もう一度入院前相談、入院手続き、会計。

初めは松葉杖で行ってましたが、看護師さんにお勧めされ車椅子で移動。
院内ですが3000歩位歩いてました。
それぞれ待ち時間はあるし、途中で院内コンビニでお昼食べるように言われて、会計まで終わったら3時でした。

これだからなあ~病院。
1人で来てたら心配は募るし、嫌だろうなぁ。
同じような検査巡りの途中のおじさん。途中でご飯食べたあと眠くなったのか待合の椅子で寝て、看護師さんに起こされてました。
「嫌やねん、わし。検査しても一緒やろ!もう帰る!」とごねてました。

『ちょっと引きながらも、気持ちわかるよ〜。』と、心の中でつぶやいてました。

ギプスは新しくマジックテープで着脱できる黒色のになりました。

後ろ半分に液が入っていて、時間が経つと熱くなってきて脚の形に固まるのです。
すごい!
お風呂の時は外せるし、これだとズレにくいし、ギプスの上から定規で掻かなくていいですね。

さて、手術は来週の火曜日。
入院は月曜日からになりました。
各方面日程調整。ご迷惑おかけします。
しかし、ビゼーほど思い通りにならなくもないので大丈夫です。

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス王国ブージヴァル没

1860年頃
パリ音楽院での学業成績は華々しく、栄えある1857年のローマ賞をはじめとして数々の賞を獲得しました。
傑出したピアニストとされていたものの、ビゼーはこの技術で金儲けをするという選択はせず、公の場で演奏することも滅多にありませんでした。

イタリアでほぼ3年間を過ごした後パリに戻った彼は、パリの主要歌劇場では新人の作品よりも確立された古典的演目の方が好まれていると知りました。

彼の鍵盤楽器作品も管弦楽作品も同じく大半が無視されました。

キャリアは失速し、主として他者の音楽を編曲する仕事で生計を立てることになりました。

成功への挑戦に暇がなかったビゼーは1860年代に多くの歌劇場の仕事を開始しますが、その多くが頓挫してしまいました。

この時期に上演にこぎつけた2つのオペラ『真珠採り』


と『美しきパースの娘』

、いずれもすぐに成功を収めることはありませんでした。

1870年から1871年の普仏戦争
フランスドイツカリブ海の対立ドイツが勝ち、フランス第二帝政の崩壊、アルザス・ロレーヌ地方の割譲
の時に国民衛兵として従軍し、戦後には1幕のオペラ『ジャミレ』


を発表するも評判は芳しくありませんでした。

一方、アルフォンス・ドーデの同名の戯曲に付された付随音楽『アルルの女』から編まれた管弦楽組曲はたちまち人気を博しました。

最後のオペラとなる『カルメン』の上演は、作品の主題となる裏切りや殺人が聴衆の心証を害する懸念から延期されます。

1875年3月3日にパリのオペラ・コミック座で初演されますが、聴衆の理解を得られずに不評に終わります。

その3か月後に心臓発作によって命を落としたビゼーは、この『カルメン』がその後ウィーンで大成功を収め、フランス・オペラ史上画期的な傑作とまで評されることを知ることなく、失意のうちに没しました。

ジュヌヴィエーヴ・アレヴィとの結婚はとぎれとぎれながらも幸福をもたらし、1人の男児に恵まれました。

死後、『カルメン』を除く彼の作品はほとんど無視されてきました。草稿は他者の手に渡るか散逸してしまい、出版された作品にも頻繁に他人による改訂や改変が加えられました。

ビゼーは派閥を形成することなく、それとわかる弟子や後継者もいません。
忘れられていた年月を経て、20世紀に入ると彼の作品はそれまでより多く上演機会を得るようになります。

後世の評論家は華麗で独創的な作曲家として彼を賞賛し、その早すぎる死はフランスの歌劇場にとって計り知れない損失であったと評しています。

「ジャミレ」はルイ・ガレ

がアルフレッド・ド・ミュッセの長詩の『ナムーナ』(Namouna 1831年)を素材として書いたものです。

初演は、アリーヌ・プレリ(Aline Prelly)

がジャミレ役を歌い、コミック座の支配人カミーユ・デュ・ロクルが舞台装置を手掛けました。

エルネスト・レイエルはその音楽を称え、特にその異国的要素とリアリズムの巧みな結合を誉め、ビゼーを〈若い連中のリーダー〉と評しました。

しかし、リブレットの劇的な面での弱さもあり、『カルメン』のように個性的な魅力もなかったことから、本作は永続的な人気を獲得することはできず、10回公演されただけで、フランス国内では1938年まで再演されませんでした。

しかし、カール・ベーム、マーラー、リヒャルト・シュトラウスなどがこのオペラを再評価し、近年上演回数も増えています。

「ジャミレ」
時代は19世紀、舞台はエジプトのカイロ

日が暮れつつある邸宅で金持ちの息子アルンは、彼の従僕スプレンディアノと一緒に横になり、タバコを吸っています。



舞台裏からナイル川の船頭たちのエキゾティックな「日が沈むぞ」という合唱が聞こえます。

奴隷女のジャミレはアルンの目に見えない少し離れた物陰から彼を優しく見つめています。

アルンがスプレンディアノにジャミレの所在を尋ねると、近くにいるのでしょうと応えます。スプレンディアノは密かにジャミレに恋心を抱いているのでした。

アルンは毎月奴隷女を買い替えていました。一ヵ月で役割を終えるとアルンは女奴隷に金品を与えて、解放していたのでした。

間もなくひと月が経つので、女奴隷の交代の時期が迫っています。砂漠のような心のアルンはジャミレに恋をしていることを否定し、スプレンディアノに「おまえの好みの女を選んで来い」と奴隷市場に遣わして新しい女奴隷を連れてくることを要求します。

スプレンディアノはアルンが女性を愛さず、自由な生活を愛するだけなので、捨てられたジャミレを自分のものとすることができるだろうという希望を抱くのでした。

アルンが召使いに夕食を出すように準備をさせます。ジャミレが現れて、海に溺れて死にそうになったという悪夢を見たという話をします。

アルンはジャミレに首飾りをプレゼントしようとすると、ジャミレは贈り物よりもそれをくれる方の手のほうが望みだと言います。

夕食が終わるとアルンの友人達が、ゲームをして夜を過ごすためにやって来ます。友人達はジャミレを見ると、彼女の美しさを称賛します。

スプレンディアノはジャミレに間もなく解放されるから、そうしたらスプレンディアノの女にならないかと提案します。そこでジャミレはスプレンディアノとある約束をします。

それはアルンが新しい奴隷女を物色する際に、その女達の中にジャミレを紛れ込ませてもらう。もし、アルンがジャミレを見染めて、心からジャミレを愛するようにならなければ、スプレンディアノのものになるというものでした。

ジャミレは自分の運命と愛の弱さを嘆くが、ダンサーの衣装を着て、羞恥心に苛まれながらも、奴隷商人のところへ出向くのでした。

やがて、アルンの邸宅にスプレンディアノと奴隷商人がやって来ます。
奴隷商人は「宝物をご覧ください」と奴隷女たちにダンスを踊らせます。

アルンはヴェールを被って踊るジャミレに気がつかないまま、ジャミレを気に入り、自分のものになるように迫ります。
ジャミレは泣いてしまうが、アルンは彼女を慰めます。
月光が部屋を照らすと、アルンは彼女の正体がわかり、ジャミレが彼を愛していることに気づきます。

アルンは「束縛された生活は嫌だ」と自分の気持ちに抵抗しようとしますが、彼女の情熱的な愛が彼の心を優しく解きほぐし、愛の二重唱となり、二人は結ばれます。



ユースオーケストラ

2024-02-21 21:00:00 | 国民楽派
日曜日の午後は、大阪四つ橋線花園町駅近くの瀬楽スタディオでプロージット室内管弦楽団のお楽しみ会でした。
まあ、初顔合わせです。
花園町商店街。
安い八百屋さんやベトナムの人のお店やおもしろそうなお店がいっぱい。
見たことのない野菜が並んでいました。

今日はベートーヴェン「献堂式」、「命名祝日」「交響曲第5番運命」から第4楽章。
お隣のフルートFさんは、声掛け人の1人で私とはコロナ前からのお付き合いですが、お久しぶりでした。
合わない間に結婚して可愛い子どもさんを連れての参加です、

左隣はオーボエ女子。クリアファイルが可愛い。

和気あいあいのクラリネット群。
献堂式は遅れて参加だったのであまり吹けませんでしたが、命名祝日からはガッツリ。
あまり演奏されない作品ですが、ベートーヴェンの特徴がよく出ていて面白い曲でした。

運命の4番はみんなよく知っている曲なので1番音が出ていました。

Fさん2歳児さん、長い間1人で静かに遊んでパパの指揮者横で指揮したり、おもちゃで遊んでいたりしたかと思うと指揮台を枕に寝てしまったり、本当に可愛かった。
それにしても長い時間、静かにしていたのは驚きました。

初顔合わせ、楽しかったです。
体調がよろしくないので、例によって打上げは失礼しました。
4月から、本格始動、10月本番です。

できたばかりの若いオーケストラですが、意気軒昂です。
このオケはメンバーは大人ですが、
若い人たちを応援するユースオーケストラが世界中にあります。
日本では大阪、東京、京都、横浜などが有名ですが、他にもたくさんあります。

小中学生から20歳までだったり、大学出るまでの22歳までだったり29歳までだったりいろいろです。
会場代や、指導の先生などを会費割って運営していたり、支援を受けていたりいろいろです。

ヴァイオリンをやっている姪は、アメリカの大学に経営学で留学していた頃、ボストンユースオーケストラにオーディションに合格して入っていました。

運営は指揮者のバッハさんが豊富な人脈を持っておられて寄付を募り運営されていたので会費はありませんでした。

ニューヨーク、カーネギーホールでのコンサートに私も妹と母と一緒に聞きに行きましたが、あちこちに募金箱を持ったメンバーがたっていました。

演奏は楽しそうでレベルも高かったです。この中から世界的に活躍する人が出てくるかも。と楽しみでした。

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ(1804〜1857年)ロシア帝国スモレンスク近郊ノヴォスパスコイェ生まれ 、プロイセン王国ベルリン没

は、ロシア国外で広い名声を勝ち得た作曲家の一人で、「近代ロシア音楽の父」と呼ばれました。

1842年作曲のオペラ「リュスランとリュドミラ」初演は演奏がまずく評価は散々でした。
しかし、このオペラは徐々に人気が上がり後世のロシアの作曲家に大きな影響を与えました。

あらすじ
キエフ大公国のスヴェトザール大公の娘・リュドミラ姫と騎士・ルスランの婚礼の宴席の途中、魔術師・チェルノモールが現われ、リュドミラをさらっていきます。

大公は、リュスラン、およびその場にいた若者らに、娘を無事に取り戻した者に娘を与えると宣言します。

そのため4人の若者が助けに行きます。

大頭に立ち向かうリュドミラ ビリービン画1918年
魔術や誘惑、他の若者の妨害などを切りぬけ、リュスランがリュドミラを連れて帰り、2人は無事に結ばれます。


オペラ「リュスランとリュドミラ」序曲 ボストンユースオーケストラの演奏で




小麦一族

2024-02-20 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の朝は地域交流会でうどん作りをしました。
大人も子どもも参加して小麦粉から作りました。
子育てサロンの主催ですが、私は製作会議中コロナになったので、ほとんどスタッフのみんなが準備してくれて、当日お手伝いだけでした。

しかも、午後からオーケストラの初合わせがあったのでお片付けの途中で退出しました。
スタッフのみなさん、ありがとうございます。

塩水を作っておいて、それをビニール袋に入れた中力粉に少しずつ、まとまる程度に加えます。

ベチャベチャにしてはいけません。

しかし、このへんの感じが難しく、5人テーブルの3人の子どもたちがベチャベチャに…。
「あかんわ…。」とがっかりする子どもに「大丈夫、大丈夫。」と声をかけながら粉を足し、適正な柔らかさに戻します。

その後、ビニール袋の上から丸めて、もう一枚加えて、足で踏みます。
できるだけ、薄くなったら、もう一度丸めて踏みます。
この作業を3回繰り返したら、丸めて30分置きます。

その間にねぎ、薄揚げ、かまぼこ、出汁の準備。

プラストッピングに今回は切り落とし牛肉をスタッフのKさんが、甘辛く煮てくれました。

ベンチタイムが終わるとネタを麺棒で薄く伸ばして細く伸ばします。

この時ベチャベチャ過ぎるとくっついて伸ばせません。
今回は途中で修正したので大丈夫。
打ち粉の薄力粉をまな板に振って、薄く切ったうどんにも粉を振りつつ仕上げました。
ここで隠れた実力を発揮したのが、中1男子。
真っ直ぐに細いうどんをしっかり作ってくれました。
茹でて器に移したら、トッピングをして温めた出汁をかけてできあがり!

家庭科室にはうどん用のどんぶりが無いのでお椀を使っています。

「うまい!」
「固いうどん好き、こんなうまいうどん食べたこと無い!」
「肉もうまい!」
みんなお変わりして食べました。
中1男子は4杯。
いいなぁ!これが聴きたくて…。

用務員さんにもおすそ分け。
「美味しかったです。ありがとうございます。」頂きました!

麺の原料の小麦は東地中海沿岸(イラン西部、イラク東部、トルコ南部および東部)がその起源とされています。 

寒冷地から熱帯地方まで広範囲で栽培が可能だったこと、水と混ぜることでグルテンが生成され、粘り気と弾力性に富んだ性質が多様な食品への加工に適していたこと、という大きな二つの理由により世界的な普及を見せました。

最初に栽培が行われるようになったのはメソポタミアで、紀元前9000年~7000年頃と考えられています。

BC3000年メソポタミア文明

栽培当初は粥として食されていたと考えられていますが、食感などを求めて小麦粉を練って生地を作ってパン(無発酵パン・発酵パン)や、練った生地をちぎってすいとんのように食べる方法が広まると、様々な形状への加工が行われるようになり、その過程で細長く形づくられたものが麺にあたると考えられています。

中国大陸に小麦が伝わったのは前漢(紀元前1世紀前後)時代に西方との交易路が開けてからだと言われていますが、他の穀物を使った麺が地中海地域で小麦粉のものに変えられた可能性も考えられています。

現在までに発見された最も古い麺類の遺物は、中国青海省民和回族トゥ族自治県

の喇家遺跡で発見されました。 
これはおよそ4000年前のものであり、麺は小麦粉ではなく粟で作られていました。

現在カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンなど中央アジアで広く食られているラグマンはラーメンの語源とも言われています。
シルクロードを伝播し中国大陸に広まった際に鹹湖(塩水湖)

の水を使用してラグマンを作ったのが中華麺の始まりとも言われ、現代においても製麺工程で使用される塩基性塩をかん水と呼ぶのもこの名残からとされています。

他に、栽培小麦発祥の古代メソポタミアから遊牧民によって餃子の形(アフガニスタンのオシャク、新疆ウイグル自治区のジュワワ)で伝わり、華北で皮が分かれて麺條(生地を細長く伸ばしたもの)が生まれたとするものもあります。

一方でヨーロッパで広まったデュラム小麦からはパスタが作られるようになります。

イタリアのチェルヴェーテリにあるエトルリア人の遺跡からおよそ2400年前の製麺器具の絵が発見されています

他、古代ローマ時代の文献の中でラガーナと呼ばれる焼いて食べるパスタについての記述が見つかっていることなどから古くから食文化として麺を食す習慣が広まっていたと考えられています。

しかし4世紀頃のゲルマン民族の侵攻により食肉文化が広く浸透してパスタなどの食文化は衰退し、再び登場するのは13世紀末でした。

現在、イタリアにおいては「パスタ・アリメンターレ」などと称され、年間319万トンもの生産が行われ、1人あたり年間30キログラムの消費がなされる国民食とも呼べる加工食品です。

ウィリアム・バード(1543 – 1623年)は、イングランドで活躍したルネサンス音楽の作曲家です。

「ブリタニア音楽の父」 (Brittanicae Musicas Parens) として現代イギリスにおいて敬愛されています。

エドワード6世


とメアリー1世


のテューダー朝の時代に王室礼拝堂の音楽家であったトマス・バードの息子として生まれ、王室礼拝堂少年聖歌隊の一員としてトマス・タリスから音楽を学んびました。

バードの名前が公式記録として現れるのは、1563年にロンドン北部にあるリンカン主教座聖堂オルガニスト兼聖歌隊長

として赴任したという記述からです。

1572年には王室礼拝堂オルガニストとなり、トマス・タリス
と同僚となりました。2人はエリザベス1世の手厚い保護を受けました。

ところがイギリス国教会とカトリックが混在する時代で、カトリック教徒だったバードは弾圧から逃れるため1570年代にロンドンからハーリントンに移住しました。

国教を拒否したカトリック教徒に対する弾圧は1580年から更に強化され、1585年には国教忌避者リストにバードが記載されました。

その後、カトリック教徒であったジョン・ピーター卿(1549年 - 1613年)の保護を受け、エセックスのスタンドン・マッシーで晩年を過ごしました。

しかし、バードは、王立礼拝堂のメンバーではあり続け、1619年のアン王女
の葬送式に参加した記録があります。

バードは、カトリック教徒であると同時に王立礼拝堂楽員


であったため、その音楽は国教会のために作曲され、「グレート・サーヴィス」 (Great Service) は、最も優れたイギリス国教会音楽のひとつであるといわれています。

また、バードの声楽曲の最高傑作は、国教会のイギリスにおいてカトリックの信仰を貫いたバードの信念が感じられるラテン語ミサ曲やモテットである。特に、3声、4声、5声の3曲のラテン語ミサ曲は、ルネサンス音楽全体の中でも傑出した作品です。

器楽曲では、ヴァイオル

ヴァイオル(ヴィオラ ダ ガンバ族による合奏)
による小規模な合奏のためのファンタジアやヴァイオルを伴奏に持つ歌曲が名高く、オルガン曲やヴァージナル(チェンバロ族)曲等の鍵盤音楽も多数残しています。

ウィリアム バード作曲
入祭唱「主は彼らをよい小麦で養われ」『グラドゥアリア』より