音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ユースオーケストラ

2024-02-21 21:00:00 | 国民楽派
日曜日の午後は、大阪四つ橋線花園町駅近くの瀬楽スタディオでプロージット室内管弦楽団のお楽しみ会でした。
まあ、初顔合わせです。
花園町商店街。
安い八百屋さんやベトナムの人のお店やおもしろそうなお店がいっぱい。
見たことのない野菜が並んでいました。

今日はベートーヴェン「献堂式」、「命名祝日」「交響曲第5番運命」から第4楽章。
お隣のフルートFさんは、声掛け人の1人で私とはコロナ前からのお付き合いですが、お久しぶりでした。
合わない間に結婚して可愛い子どもさんを連れての参加です、

左隣はオーボエ女子。クリアファイルが可愛い。

和気あいあいのクラリネット群。
献堂式は遅れて参加だったのであまり吹けませんでしたが、命名祝日からはガッツリ。
あまり演奏されない作品ですが、ベートーヴェンの特徴がよく出ていて面白い曲でした。

運命の4番はみんなよく知っている曲なので1番音が出ていました。

Fさん2歳児さん、長い間1人で静かに遊んでパパの指揮者横で指揮したり、おもちゃで遊んでいたりしたかと思うと指揮台を枕に寝てしまったり、本当に可愛かった。
それにしても長い時間、静かにしていたのは驚きました。

初顔合わせ、楽しかったです。
体調がよろしくないので、例によって打上げは失礼しました。
4月から、本格始動、10月本番です。

できたばかりの若いオーケストラですが、意気軒昂です。
このオケはメンバーは大人ですが、
若い人たちを応援するユースオーケストラが世界中にあります。
日本では大阪、東京、京都、横浜などが有名ですが、他にもたくさんあります。

小中学生から20歳までだったり、大学出るまでの22歳までだったり29歳までだったりいろいろです。
会場代や、指導の先生などを会費割って運営していたり、支援を受けていたりいろいろです。

ヴァイオリンをやっている姪は、アメリカの大学に経営学で留学していた頃、ボストンユースオーケストラにオーディションに合格して入っていました。

運営は指揮者のバッハさんが豊富な人脈を持っておられて寄付を募り運営されていたので会費はありませんでした。

ニューヨーク、カーネギーホールでのコンサートに私も妹と母と一緒に聞きに行きましたが、あちこちに募金箱を持ったメンバーがたっていました。

演奏は楽しそうでレベルも高かったです。この中から世界的に活躍する人が出てくるかも。と楽しみでした。

ミハイル・イヴァーノヴィチ・グリンカ(1804〜1857年)ロシア帝国スモレンスク近郊ノヴォスパスコイェ生まれ 、プロイセン王国ベルリン没

は、ロシア国外で広い名声を勝ち得た作曲家の一人で、「近代ロシア音楽の父」と呼ばれました。

1842年作曲のオペラ「リュスランとリュドミラ」初演は演奏がまずく評価は散々でした。
しかし、このオペラは徐々に人気が上がり後世のロシアの作曲家に大きな影響を与えました。

あらすじ
キエフ大公国のスヴェトザール大公の娘・リュドミラ姫と騎士・ルスランの婚礼の宴席の途中、魔術師・チェルノモールが現われ、リュドミラをさらっていきます。

大公は、リュスラン、およびその場にいた若者らに、娘を無事に取り戻した者に娘を与えると宣言します。

そのため4人の若者が助けに行きます。

大頭に立ち向かうリュドミラ ビリービン画1918年
魔術や誘惑、他の若者の妨害などを切りぬけ、リュスランがリュドミラを連れて帰り、2人は無事に結ばれます。


オペラ「リュスランとリュドミラ」序曲 ボストンユースオーケストラの演奏で




出版社と決裂。ピアノ五重奏曲

2023-06-25 21:00:00 | 国民楽派
金曜日は長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生のレッスン室で、合奏練習でした。
ヴィオラ金重美代さんのお誘いです。

8月6日(日)の発表会のための練習です。
曲はモーツァルトのフルート四重奏K285 Ddur。
牧野からピアノの坂田さんも一緒に行って、モーツァルトピアノカルテットト短調の第一楽章も練習。私は譜めくり。
先生方の音に包まれて本当に幸せな時間です。

マンゴーケーキ

アールグレイケーキなどなど持参したケーキでお茶して帰るのもお楽しみ。

この発表会が終わったらドボルザークのピアノ五重奏曲を第一ヴァイオリンパートをフルートで演奏して見ていただくつもりです。

5人で合奏てきるものね。
1stヴァイオリンをフルートで。

アントニン ドボルザーク(1841-1904年)オーストリア帝国ネラフォゼヴェス生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国プラハ没

1870年ドボルザーク
宿屋と肉屋を営んでいた両親の元に生まれます。

父はツィターの名人で評判でした。伯父もトランペットの名手として知られていました。

6歳で小学校の校長ヨゼフ スピッツにバイオリンの手ほどきを受けると上達し8歳で村の教会の聖歌隊員。9歳でアマチュア楽団のバイオリン奏者となりました。

父は肉屋を継がせるつもりだったため、小学校を中退させ30km も離れた母方の伯父が住む街に修行に行かせました。ところが、職業専門学校の校長は肉屋の技術と共にドイツ語、指揮者も務めていて、ドヴォルザークにバイオリン、ビオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学を始めとする音楽理論の基礎も教えました。

1855年ゼロチェに移って飲食店を始めた一家ですが、経済状況が悪化してアントニンに勉強を辞めさせようという時になって伯父が反対し、両親を説得。この伯父が経済的負担をするからと1857年にプラハのオルガン学校へ入学しました。

卒業後はゴムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団。ホテルやレストランで演奏を行っていました。

プラハ国民劇場
1862年国民劇場建設が始まり、そこの仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となりました。

1866年指揮者にベトルジハ スメタナ

が迎えられ、その教えを直接受ける機会も出ます。

1865年金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となります。

チェルマーク姉妹立っているのがヨゼファ
女優でもあった姉ヨゼファに恋心を抱くも失恋します。

この頃から多くの作曲を行います。

1871年作曲に大きくの時間を当てるために、オーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにしました。
結局チェルマーク家の妹、アンナ チェルマーコヴァと再会し、1873年秋に結婚しました。

アンナ チェルマーコヴァ
プラハの聖ボイジェフ協会のオルガニストに就任します。楽団員よりも地位が向上し、年俸も保証され、新婚生活の経済状態を安定させることができました。

1874年交響曲第3番第4番他数曲をオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出し認められました。その額は年収の2倍以上400グルテンでした。5年間受け取っています。

翌年には弦楽五重奏曲ト長調で芸術家協会賞を獲得しています。

審査員を務めていたブラームス

1866年ブラームス
はこの曲に目を留め、懇意にしていた出版社ジムロックに紹介します。

1877年次女ルジェナが、翌年9月に長女オタカルが相次いでこの世を去りました。彼女らの冥福を祈り、作曲されたのが「スターバトマーテル」でした。

一方、ジムロック社はブラームスの「ハンガリー舞曲集」に匹敵するような「スラブ舞曲集」の作曲をドボルザークに依頼します。
この曲集は大成功し、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に知れ渡りました。

1878年にはドレスデンで「いたずら農夫」というオペラを上演しますが、不評でした。
1884年ロンドンフィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問し、ロイヤルアルバートホール

で「スターバトマーテル」などの演奏を行いました。これは大成功でした。

イギリスとの関係は厚く生涯続き、9回も訪れています。

しかし、ジムロック社との関係は良くなく、交響曲7番には愛国的な感情を伺わせる作品でしたので、ドイツ語の「Anton」ではなく、チェコ語「Antonin」を想わせることができるように「Ant.」するようよう要求しています。しかし、ジムロック社はこれを取り上げませんでした。

1871年フリッツ ジムロック
1887年には「今は新作の構想はない」と言いながら、室内楽曲「ピアノ五重奏曲 第2番」を携えてベルリンのジムロックを訪れ、この作品を購入すること。そのスコアの表紙の作者の名前は「Ant.」とすることを要求し、承諾させました。

その後、ジムロック社には何曲か作品を購入させましたが、1890年交響曲第8番をジムロック社が買いたたこうとしたことで、ついに決裂。
ロンドンの出版社ノヴェロ社にこの新作交響曲を渡しました。

調度、国際的名声が高まりつつありながら、国内での扱いはまだそれには追いついていない時期の作品が「ピアノ五重奏曲 第2番」でした。

ドイツ風の構成にボヘミアの民族色を取り入れた作品です。

第1楽章 Allegro ma non tant
第2楽章 Dumka Andante con moto
第3楽章 Scherzo furiant.Molto vivace
第4楽章 Finale Allegro




動物が出てくるオペラ

2023-01-20 09:20:00 | 国民楽派
先週の鴨川には犬を散歩?させている人がいました。
寒いのに川の中で気持ち良さそうな犬でした。
とんびもたくさん。

出町柳駅の前でした。

レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928年)オーストリア帝国モルヴィア生まれ、チェコスロバキア オストラヴォ没


教師の父イルジーとアマリアの間に14人兄弟の10番目の子どもとして生まれました。

ブルノのアウグスティノ会修道院に入学、聖歌隊に入ります。
1869年王立師範学校に入り、教師を目指します。

1872年卒業し、2年間の無給の教育実習に入り、同時に聖歌隊の副指揮者になります。
ヤナーチェクは生徒の一人によると「気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた」
73年ストァヴァルク聖歌隊の指揮者になり、レベルアップに貢献します。
無伴奏の男性のための合唱曲を何曲か書いています。

1874年オルガンの才能が認められ、1年間プラハのオルガン学校で学ぶことになります。

ここでドボルザークに会い、親交を深め民族音楽に目覚めます。
1875年ブルノに戻ると師範学校の臨時教員になり、合唱団指揮者に戻りますがブルノクラブ合唱団の指揮者も引き受け、多忙になりスヴァトブルク合唱団を辞任します。

1879年ライプツィヒ音楽院に入学。
シュルツの薦めでした。
1881年帰国するとシュルツの娘ズデンカと結婚します。

翌年オルガが生まれます。

オルガ
長男ウラディミールもうまれますが、
1890年2歳で猩紅熱で亡くなります。
このことで結婚生活は離婚はなかったですが破綻します。(ズデンカの「ヤナーチェクとの生活」)

1882年ブルノにオルガン学校を設立音楽理論を教え、シュルツが心理学を教えます。

民話や音楽を採取し、それに基づいた曲を作曲し、成功していきます。

1917年、二人の子どもと夫を持つ38歳年下のカミラ シュテシュロバーに出会います。

ヤナーチェクは11年間で600通を超える手紙を送り、晩年の活動の刺激になりましたが、肉体関係はなかったと言われています。

1918年、チェコスロバキアが独立しオルガン学校は国立音楽院になりますが、学長は弟子がなりヤナーチェクは衝撃を受けました。
この頃4つのオペラをてがけますが、全て自分で台本を書いています。
そのうちの1つが「利口な女狐の物語」です。

この歌劇はカミラを見て女性の持つ3つの顔

「カーチャ カヴァノヴァー」苦悩に満ちた情熱

「利口な女狐の物語」自然な天真爛漫さ

「マクロブロス事件」冷たい不自然な美

を表現しています。

1928年ヤナーチェクはカミラの家族とフクヴァルディに出かけ、肺炎になり亡くなります。
カミラの11歳の息子が森で迷ったと思い、探しに出かけたのが原因とされています。

スデンカは死に目に会えず、ヤナーチェクは遺言書をカミラに有利に書いていて、死後二人は対立しました。


「利口な女狐の物語」
ルドルフ・ティエスノフリーデの物語が下敷きになっています。
ヤナーチェク家の家政婦マリーの勧めで作品化しました。

生命の森、動物たちの生き生きした姿、生と死を主題としています。

第一幕 森番が女狐を捕まえる
森番が疲れて一休みしているとコオロギ、バッタ、蚊、蛙が現れ、最後に女狐ビストロウシュカが現れます。

女狐が蛙を捕まえようとすると蛙は森番の鼻の上に落ち、目覚めた森番は女狐を捕まえます。

女狐は助けを呼びますが、誰も応えず。
森番は「子どもたちが喜ぶ」とビストロウシュカを家に連れ帰ります。

第2場 子どもに噛みついた女狐は森番に紐で縛られます。
捕まった女狐ビストロウシュカが泣いていると、犬のラパークが慰め、言い寄ります。
相手をせずにいると、森番の息子ペピークがやってきて棒でつついてきます。怒ったビストロウシュカはペピークの足に噛みつきます。

森番はビストロウシュカを紐で縛ります。

女狐が脱走
犬のラパークは「俺のように逃げないのが1番だ」と言います。
鶏は「お前は卵も産めないし、手伝いもできない、なんの役にも立たない」と罵ります。
ビストロウシュカは「おまえたちは利用されているだけだ」と雄鶏を捕まえ、雛鳥を殺してしまいます。

ビストロウシュカは紐を切って森へ逃げ去ります。

第2幕 
第1場 女狐が穴熊の広い家を奪い取る
穴熊の家を覗いたビストロウシュカは森の動物たちに「穴熊のおじさんがゴロゴロしてるよ。広い家なのに一人で。」と呼びかけ、みんなで攻めたてます。
穴熊は怒りながら逃げていき、ビストロウシュカは広い家を手に入れます。

第2場 森番が女狐のはなしをされると機嫌が悪くなる
森番が居酒屋で校長、牧師とトランプをしながらみんなが愛するテリンカの話しをしています。

「女狐の話しをしてください。」というと森番は機嫌を悪くして店を出ます。

第3場 森番が女狐を銃で撃つが取り逃す
校長が酔っ払いながら歩いていると、ビストロウシュカがひまわりの花を揺らし、校長は恋する女性テリンカと間違え抱きつきます。


そこへ森番が現れ、ビストロウシュカに銃を撃ちますが、外れます。

第4場 女狐が結婚をする
雄狐ズラトフシュピテークが通りかかります。
「この家は私のもので私は自立しています。」というビストロウシュカ。
ズラトフシュピテークはプレゼントのうさぎを渡し求婚。
2匹は結婚し、森の仲間が祝福します。

第3幕
第1場 森番が罠を仕掛けるが、女狐に見破られる
行商人がテリンカと結婚することになったと報告します。女狐が殺したうさぎが落ちていてそこに罠をかけます。
夫と子どもを連れてきたビストロウシュカは罠に気づき逃げます。

行商人が女狐を銃で撃ち殺す
行商人が「狐をマフにしてテリンカにプレゼントしよう。」と考えます。
逃げ回るビストロウシュカ。
その間に小狐は行商人の鶏を食べあらし、ビストロウシュカは必死で撹乱しますがとうとう行商人の銃弾に倒れます。

第2場 テリンカが狐のマフをしている
テリンカの結婚の日、居酒屋で森番が「女狐を追いかけていったけど穴は空っぽだったよ。」というと
「そういえばテリンカが狐のマフをしていたよ。」と聞きます。


森番は「年を取って足が痛いよ。」「人はいろいろ求めないのが一番なのかなぁ」と店から去っていきます。

第3場数年後、森番が狐の夢を見る
年老いた森番が居眠りをしているとビストロウシュカそっくりの小狐が現れます。
捕まえようとするとそれは蛙でした。
森番は昔会った蛙だと思い「今までどうしたんだ?」というと「それは僕のおじいちゃんだよ。何度もその話しを聞かされたよ」と言います。

銃が忘れられたかのように森番の体から地上に落ちたところで幕がおります。

奇妙な物語はカミラに当てた寓話とも言われています。
家庭に捕らわれて振り回されて終わりますよ。と言うことのようですが、どうでしょうか?
私がカミラならちょっと引いてしまいます。
カミラは実際には夫と仲睦まじく暮らし、添い遂げました。


霧の中で

2022-08-18 21:15:00 | 国民楽派
和歌山に行った帰りに雑賀崎灯台に寄りました。
昭和35年に建てられた小さな灯台です。






レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928年)は、オーストリア帝国モラヴィア生まれ、チェコスロバキア オラトゥヴア没

モラヴィアの民族音楽を研究し、民族音楽学者が作曲しているという捉え方をされていました。

モラヴィア プルノ
モラヴィアはチェコスロバキアの東側、西側はボヘミアで、
ボヘミアはスメタナやドボルザークに代表され、西ヨーロッパの一部で都会風であるのに比べ、モラヴィアはスラブ系特有の東洋との同一性を持ち、本質的に農村と言われています。


チェコスロバキア、緑がモラヴィア
ヤナーチェクはモラヴィアの言語、規則性の少ないリズム、自由な旋律にこだわりました。

言語による自然に現れる旋律を発話旋律を「魂を覗き見るための窓」といい、追求し続けました。

ヤナーチェク最後のピアノ曲集の中の一曲「霧の中で」

ズデンカとヤナーチェク
ズデンカとの間に生まれたオルガが
オルガ
1912年に亡くなり、妻ズデンカとも不仲で、オペラも上演されず、苦境にいた頃の作曲です。


春の雨

2022-06-06 21:09:50 | 国民楽派
京都のF先生のレッスンに行ってきました。


町家を改装したレッスン室の前にはドクダミ、フトイが、石畳によく合います。

8.7モーツァルトのフルート四重奏Cdurを木村直子先生と政雄先生と金重さん、私で発表会ですることになったので責任重大。
しっかり見てもらいます。


今日は雨なので、出町のふたばには寄らず、さっさと帰りました。
夜にはフルートアンサンブルの練習もあります。
帰って夕飯の用意をしてでかけます。


エドヴァルド・グリーグ(1843-1907年)スウェーデン=ノルウェー べルゲン生まれ、ノルウェー ベルゲン没

6つの詩op49第6番は
春の雨Foraarsregn)」という曲です。

作詞者はデンマーク出身のホルガー・ドラックマン(Holger Drachman)(1846-1908年)で、この曲はデンマーク語で歌われています。
彼は当時人気の詩人で、ニールセン、ディーリアスもいくつかの詩を使って作曲しています。

あまりにもマイナーなのか、作品目録にも載っていません。
変わりに日本のグリーグ協会

日本グリーグ協会 公式サイト

日本グリーグ協会の公式ウェブサイトです。ノルウェーが誇る作曲家エドヴァルド・グリーグの音楽の魅力を発信していきます。

日本グリーグ協会 The Grieg Society of Japan


にグリーグの言葉が載っていたので揚げておきます。

「誰でもまず人間であらねばなりません。すべての芸術は、まず人間的なるものから生まれ出るのです。」




キエフの大門

2022-02-27 21:15:22 | 国民楽派
JR二条城駅までSuicaのチャージに行ったついでに、嵐山まで行きました。
渡月橋の側を散策。
温かい日でカルガモが仲良く日向ぼっこ。




嵐電嵐山駅、足湯ができていました。

「キエフの大門」は、モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)


が、1874年に作曲したピアノ組曲「展覧会の絵」10曲のうちの10番目、最終曲です。

1870年頃、ヴィクトル ハルトマンとう建築家と出会います。

親交を結ぶも3年後、ハルトマンは、39歳で動脈瘤により急死します。

ムソルグスキーは衝撃を受け、ハルトマンの健康に気を配るなど「もっとなにか出来たのではないか?」と落ち込みます。

未亡人のために、友人たちがハルトマンの展覧会をサンクトペテルブルク美術アカデミーで開催します。

そこを訪れたムソルグスキーは、半年後「展覧会の絵」を完成させます。

「キエフの大門」はウクライナの首都キエフに1037年ヤロスラウ賢公が町の境界線に土塁を盛り、その上に城壁を作らせ、西に向かう入口に大門を建築しました。

キリスト教の町であることを見せるために受胎告知の教会が門の上に作られていたそうで「黄金の門」と呼ばれていたそうです。

1240年、モンゴル帝国の軍勢によって破壊されます。

再建されることなく放置されていたこの門に注目が集まったのは1832年ロフヴィーツィクィイが発掘調査を行い、史跡として保存しました。

その後、
1869年キエフ市が門を再建しようとコンペティションを開きます。
ハルトマンは絵を描き、そのコンペに応募しましたが、途中でコンペは中止されました。

1982年になって黄金の門は復元。
遺跡を覆うように建設されました。
「キエフの大門」は、ハルトマンの絵を見たムソルグスキーによって作曲されました。
私は展覧会の絵の最後はキエフの大門をくぐって新しい世界に臨む友への祝福の曲のような気がしています。

ハルトマン作キエフの大







マジョルカ

2022-01-15 22:42:03 | 国民楽派
今日は今津公民館で西宮ギター練習会でした。

本庄定雄さんのギターでヴァイスのソナタ14番のアダージョ、ブーレ、シャコンヌを演奏しました。

明日、名古屋ドルチェ楽器のホールで演奏するので前哨戦。

これだけでOKと思っていたら、一昨日、横浜の高木裕治さんが来るとメッセージを頂き、「何かやりますか?」と聞いたら、「イベールの間奏曲を」とのリクエスト。

二年ほど前にやったような…?
レッスンの合間に必死で思い出して。

当日朝、20分ほど合わせ、
なんとか演奏出来ました。
終演後、飲み会の変わりにケーキで打ち上げ。

おもしろい!
作り込むのもいいですが、冒険もいいです。

高木さんは、田郷さんとバッハの2声のインベンション1番と8番。
古橋さんと佐藤弘和さんのシンプルソング、ソロでアルベニスのマジョルカを演奏。

「せっかく、関西に来るので、いろいろな人と出会って合奏したい。」そうです。

私もいろいろな人と合奏してみたい。

イサーク アルベニス(1860-1909年)

スペイン王国カンプロドン生まれ、フランス共和国カンポ レ バン没
4歳でピアノを演奏する天才。ライプツィヒ音楽院で短期学んだ後、1876年ブリュッセル王立音楽院で学びます。

1883年、教師で作曲家のフェリペ ベドレルにスペイン音楽の作曲を勧められます。
同じ頃、弟子のロジーナ ホルダーと結婚。
その後、1男2女をもうけます。

ロンドンとパリに住み、劇場作品を多く作曲しました。

1905-1907年最も知られる12のピアノ曲集「イベリア」を書きました。
1900年頃から腎臓病ブライト病を煩い1909年、ピレネーの山中で亡くなり、バロセロナに埋葬されました。

「マジョルカ島(舟歌)op202」は1883年以前に作曲されたピアノ曲です。
6/8拍子、マジョルカ島はショパンとジョルジュ サンドと過ごした島です。

ピアノで作曲されましたがギターに編曲され、こちらの方が圧倒的に演奏されています。
聞き比べてみましょう。
アリシア デ ラローチャのピアノとタチアナ リズコヴァのギターです。




ハチャトリアン統制された作曲家

2021-12-16 22:18:47 | 国民楽派
火曜日は子どもの送迎をしました。
いつもの川、いつもの土手。
学校から塾までの道、今日は冬休みに子どもキャンプに参加できることになったことを嬉しそうに話してくれました。
イベントが全部中止になりせめてとお母さんが企画したそうです。
楽しみにしています。行けますように。強く思いました。

アラム イリイチ ハチャトリアン(1903-1973年)

ロシア帝国グルジア ティフリス(現ジョージア トリビシ)生まれ、ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ没。
アルメニア人で製本工の息子として生まれます。

1922年チェロ科で音楽専門学校に入学。

グネーシン音楽専門学校
モスクワ音楽大学に進学。

在学中にニーナ マカロワと結婚。
1936年ピアノ協奏曲で名声を博すも、1948年にはスターリンの政策によりジダーノフ

アンドレイ ジダーノフ
により、「形式主義的退廃音楽家」と決めつけられ、

プロコフィエフ、ショスタコーヴィチとともに統制の対象とされました。
1953年スターリンが

死ぬまで続きました。
1965年には来日、京都交響楽団、読売交響楽団と共演しています。
日本ではハチャトリアンの曲と言えばガイーヌの「剣の舞」でしたが、フィギュアスケートのお陰で「仮面舞踏会」の「ワルツ」が有名になりました。

フルートでは、1938年作曲された「ヴァイオリン協奏曲」です。
1968年、ランパルがフルートの作曲を依頼したらヴァイオリン協奏曲のフルートへの編曲をハチャトリアンから提案され、大成功。
ゴールウェイ、パユなど、多くのフルーティストによって現在も演奏されています。
大好きな石橋尚子さんの伴奏、ブリアコフのフルート協奏曲1楽章です。