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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

フルートコンベンションin神戸1日目

2025-08-24 08:05:00 | 近代
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→音楽の喜び フルートとともに

フルートコンベンション初日。
12:30メインホールでのオープニングセレモニーを目指して行きました。
震災の時に被災された人もたくさんいて神戸でやっていいものだろうか?と悩んでいる時被災された先生から「何言ってるんですか、こんな時だからやってください!」と言われてやってみたら、「我々もエネルギーをもらってすごい盛り上がりでした。」と言われていたのが刺さりました。

幕開けはデュカスのファンファーレ「ペリ」ユニバーサルフルートオーケストラジャパン。

フルートカルテット。「リュスランとリュドミラ」序曲を4人で…すごい超絶技巧でした!
全く乱れもなく、さすがでした。

ユニバーサルフルートオーケストラジャパンにソリスト清水信貴さんを迎えてジェイコブのフルート協奏曲。

関西のフルートを学ぶ学生さんたちのオーケストラ。
「こひすみつやま」酒井格作曲
指揮は関谷弘史さん。
よく練習されていて音程、ハーモニーも合っていて端正な演奏でした。
セレモニーの最後は関西のプロの演奏家によるオーケストラ演奏。
曲は多久潤一朗さんの委嘱作品で兵庫にちなんで5moment
それぞれヒョウと読む漢字一文字の5楽章

二楽章は雹でオーケストラ全員がホイッスルトーンで雹をみごとに表していました。
驚いたのは四楽章。
ベートーヴェンの交響曲第5番運命、ショスタコーヴィチの交響曲第5番、ゴジラやテイクファイブなど5のゴのつく曲のメドレー、なんと12曲入っていたそうです。
その後マリア ピッチーニさんのマスタークラスでプロコフィエフの「フルートソナタ」全四楽章を2人の受講生で分けて受講されました。

時間があったので展示ブースで試奏。

パウエル、YAMAHA、パール、コタト、アキヤマ、などのメーカー。野中、グローバルなど代理店などで私はバスフルートとアルトフルートなど特殊管を主に吹かせてもらいました。


その後、YAMAHAのショーケースではザビエル ラックと上野博昭と、のYAMAHAの楽器を使ったリサイタル。

ラックさんのブレッド ディーン「ソロフルートのための悪魔」現代の特殊奏法が満載のおもしろい楽曲でした。

ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」

上野博昭さんのカール フリューリンク「幻想曲」op55
お二人でドップラーの「アンダンテとロンド」

ここで今田聡美さんと合流。
金井直子さんの「演奏家のための栄養学」

いい演奏をするには身体が大切。身体作りは食事から、ということで最新の栄養学、サプリの取り方、料理の仕方などとてもためになるお話しでした。

最後は、瀧本実里さんのリサイタル。
栄養学と少しかぶってしまって途中から、サンカンのソナチネ、プーランクの「ソナタ」などなど
美しい音色、音程、素晴らしい演奏でした。
あまりにも盛りだくさんの1日。
明日も行きます。
詳細はまた今度。

家から2時間位かかるので、お昼も夕ご飯も食べれなかったので帰って早く食べて寝なくちゃ。投稿文は移動しながら電車の中で書いています。

明日は7:00出発!
みなさんのブログへの訪問は後日させて頂きますね。
瀧本実里さんのフォーレの動画見つけました。


失われた楽器のためのソナタ

2025-08-22 21:46:00 | ロマン派
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明日からフルートコンベンションin Kobe 2025に参加するので今日は大人しく家で、洗濯。

洗濯しないと着ていく服が無い。

日本フルート協会 1966年に設立されたプロ、アマチュア問わず入れる交流団体です。

各地でフルートフェスティバルなどを後援、主催していますが、2年に一度、コンベンションを開催されています。
実はこの中のコンクールは水曜日から始まっています。
今年は、コンサートフルートの他、ピッコロ、アルトフルートのコンクールもあり、アマチュア部門、音大卒部門それぞれ受賞者が選考されます。

他にも神戸国際会議場と神戸文化ホールでコンサート、マスタークラス、レクチャー、ワークショップ、それからフルートのメーカーから楽器の展示、デモコンサートも。

今夏はマリーナ・ピッチーニさんと、カール・ハインツ・シュッツさん、サラ・ジャクソンさんも来られます。
古楽器の演奏もあります。

詳しくは下記ホームページから

昨日ご紹介した奥野由紀子さんは前回コンベンションコンクール アルトフルート部門の優勝者でした。

明日から3日間の開催。少し遠いけれど牧野から通います。
とっても楽しみ!

洗濯していると、8月29日の聴き合い会でチェロの方から「アルペジォーネソナタ」を演奏したいとメッセージが来ました。
ピアノのSさんに繋げました。
こちらも楽しみです。

フランツ・ペーター・シューベルト( Franz Peter Schubert、1797– 1828年)
神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンシュタイン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


「アルペジョーネとピアノのためのソナタ イ短調 D821」
は、フランツ・シューベルトが1824年11月にウィーンで作曲した室内楽曲です。

このソナタは、アルペジョーネarpeggione

アルペジョーネ、Henning Aschauer が1968年に製作、Alfred Lessing の仕様に基づきます。
のための作品の中では唯一広く知られている作品です。

弦楽四重奏曲「死と乙女」と同時期の作品で、当時シューベルトは梅毒が進行し、度々の抑鬱症の発作に見舞われてもいました。

本作はアルペジョーネが発明された翌年に作曲されました。
おそらくは、アルペジョーネの演奏に通じていた知人ヴィンツェンツ・シュースターから、委嘱を受けてのことと考えられています。

作品がシューベルトの死後1871年に出版されるまでに、アルペジョーネ自体が愛好されなくなり姿を消していました。

そのためこの作品はもっぱらチェロ・ソナタないしはヴィオラ・ソナタに編曲して演奏されています。

また時折コントラバスやギターがアルペジョーネの代役を果たすこともあります。

「アルペジォーネソナタ」
第1楽章:Allegro moderato
第2楽章:Adagio
第3楽章:Allegretto

現代では
アルペジョーネは復元されていますが、奏者が乏しくほとんど実演は行われていません。

そのため、チェロやヴィオラなどを始めとして他の楽器への編曲が多く行われています。

編曲に際し苦慮される点は、チェロやヴィオラがアルペジョーネに比べて音域が狭いことです。
6弦のアルペジョーネに対して上記の楽器のほとんどは4弦で、そのためアーティキュレーションを手直ししなければなりません。

提示部末尾には6弦全部をピッチカートする指示があり、4弦しかないチェロやヴィオラではこの部分の忠実な再現はできません。

また、アルペジョーネはフレットがつけられているため、高音域の演奏が容易であり、これも現代の奏者を悩ませています。

5弦のピッコロチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ「肩のチェロ」)


ならば音域は同一になりますが、フレットはありません。

ヴィオラを5弦にし、その5弦目をEに調弦することで、原作に近づける試みもあるそうです。

フルートにも編曲されていて、私も何度か吹いたこともあります。
フルートに比べてアルペジォーネは音域が広いので、どうしても何箇所か上行形の音符を途中で折返してオクターブを下げなくてはなりませんでした。

アルペジォーネを復刻し、シューベルトの時代のピアノフォルテで演奏している動画を見つけました。

アルペジォーネは2001年にブリュッセル復刻されたもの、ピアノフォルテは1827年コンラッド グラーフ ウィーンで製作されたものだそうです。

演奏場所はコロイ ル シヤトー
 
プラバント公国1220-1230年に建てられました。現ベルギー ブリュッセル)



アルトフルート吹いてみた!

2025-08-21 21:00:00 | 楽器
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20日は、朝レッスンした後、午後から梅田ドルチェ楽器へ。
Sさんの楽器選び。

予算の範囲、同じ価格帯のいろいろなメーカーの楽器ばかりを出しておいて頂きました。

初めての楽器、ということで、
YAMAHA.Miyazawa.Azumino.パウエル、ヘインズ。
クロウズドキーとリングキー。
H足管のものも用意してくれていました。


吹き比べてみると、どの楽器もバランスがよく、レスポンスもいいです。
高い音も低い音も遜色なく良く出ます。

音程はここ10年でどの楽器も本当に良くなりました。

「管体銀だとやはりたかいですか?」と聞いてみましたら、「予算内のものがありますよ。」と持ってきてくれました。
YAMAHAの頭部管 管体銀。
しかも素材の高さのものに比較して10万円くらいに安いです。

期待して吹いてみたら、「あれ?思ったほどパワーが無いですね。」
「なぜかしら?」と言うとと国外で作っているそうです。
これなら洋銀のラインナップの方が良く鳴ります。

音程、バランス、鳴りやすさ、レスポンスはどれも素晴らしいので、後は響き。

倍音を含んだ艷やかな音と言うことでヘインズとパウエル。
リングキーC管。
鳴りだけ取るとMiyazawaのH管も捨て難い。

結局、艷やかなうえに明るい音色がSさんに合うような気がしてヘインズにしました。
ヘインズ、パウエルと言うと以前は高くて手が出ませんでしたが、ありがたいことに安い価格帯のものが出ています。
個体差はありますがこのヘインズはとてもいい感じでした。

さて、購入手続きをされている間に私はアルトフルートを試させて頂きました。

パールとサンキョー。
図ったわけではありませんが、サンキョーは心持ち管体が太い気がします。

パールもサンキョーも良くなります。
パールは安定した響き、サンキョーは倍音が多く深い響きがします。
「U字管は無いのですか?」と聞くと「最近、ストレート管の方が多いです。U字管はあまり回ってきませんね。」
「ストレートの方が音が出やすいのかなぁ?」と聞くと
「身体の大きさもあるからU字管もいいですよね。」
本当に縦バスやU字管は身体に優しいのですが、最近なかなか見かけません。
作って欲しいなぁ!

アルトフルート

コンサート・フルートの低音用の拡張として、フルート・ダモーレの次に位置します。

低音域の目立ってやわらかい音色が特徴です。

ト調の移調楽器で、ピッコロやバスフルートと同様に、ハ調のフルートと指使いは同じです。

アルトフルートの管はコンサート・フルートよりもかなり太く、演奏者はより多くの息を必要とします。

このため、低音域の1オクターブ半でデュナーミクの変化をつけやすいです。

音域はG3(中央ハの下のト音)からG6(実音でト音譜表の上第4線、三点ト)までで、さらに最高音域としてD♭7まで出すことができます。

頭部管の形

U字形の頭部管をもつアルトフルート

まっすぐな頭部管をもつアルトフルート
アルトフルートの頭部管にはU字形のものとまっすぐなものの2種類の形状があります。

U字形の頭部管は腕を伸ばす必要が少なくなるため、比較的身体の小さな演奏者に好まれ、重心が演奏者に近づくために、より軽く感じられます。

アルトフルートのアンブシュア(楽器を吹くときの口の形およびその機能のこと)はコンサート・フルートのものに近いですが、楽器の大きさに比例して大きくなります。 

アルトフルートの最大の革新は、1850年代にテオバルト・ベームTheobald Böhm, 1794 - 1881年]

によって開発されました。
彼はアルトフルートを特に好みました。
これは1850年代半ば、1854年から1855年頃、彼が60歳のときに起こったことを示す研究があります。

このアルトフルートの製作は、他の低音フルートが抱えていた当時の問題を解決するために行われました。ベームによる新しいフルートの設計は、指を伸ばすのに必要な長さを短くするために設計された合理的なキーシステムとレバーを備えていました。

また、低音域のGに対応するために、フルートのボアサイズにも新たな変更が加えられました。ボアサイズの変更に加え、キーの配置とサイズも、新しく大きくなったボアに合わせて変更されました。

最初の広く生産されたアルト・フルートは、1891年にロンドンのルーダル・カルテ社
(1820年代から続いている工房
「Rudall, Carte & co. 」)によって製作されました。
彼らはベームのアイデアと改良を多く取り入れ、アルト・フルートを製作しました。

アルトフルートは他の低音フルートと同様に、コンサートフルートよりも長く作られています。フルートが大きいほど、音程が低くなります。

アルトフルートの直径は約1インチ(2.54cm)、長さは34インチ( 86.36cm)です。

これはコンサートフルートと比較すると、直径が1/4インチ(0.635cm)広く、長さが約8インチ(20.32cm)長くなります。
アルトフルートの音孔は、そのサイズに比べて、現代のコンサートフルートの音孔よりもわずかに小さいです。

Davis (1997)によると、p。26

「平均化・換算したアルトフルートは、Cフルートに比べて音孔が比較的小さいことがわかる」

と言っても、フルートの製作者によって穴の配置は異なります。

特殊管の中では製作年が早いためオーケストラではアルトフルートは多く使われています。

ニコライ・リムスキー=コルサコフ
オペラ『ムラダ』

ラヴェルの『ダフニスとクロエ』
ストラヴィンスキーの『春の祭典』
フランコ・アルファーノのオペラ『シラノ・ド・ベルジュラック』
セルゲイ・プロコフィエフの『スキタイ組曲』
ドミートリイ・ショスタコーヴィチはオペラ『賭博師』(未完)
『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、『交響曲第7番』
グスターヴ・ホルスト『惑星』などの曲で使われています。

アルトフルートだけの曲はアレンジものが多いです。

奥野由紀子さんはアルトフルート奏者として活躍されています。


兄弟で華麗な演奏

2025-08-20 21:01:00 | ロマン派
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8月19日(火)
ピフレホール
大邱市と神戸市の友好コンサートが行われました。



榎田先生とピアノ河内仁志さんの「ファンタジーメランコリック」
イ・スンホさんの「ヴェニスの謝肉祭」

トリオでドップラーの「アンダンテとロンド」
フルートオーケストラで「アルルの女 第2組曲」

先生方の演奏は大邱市の時は聴けませんでしたが、今回は袖でゆっくり聴きました。

超絶技巧「ファンタジーメランコリック」は、榎田先生がブラジルの友だちに言って発見された新発見バージョンで、現在日本で発行されているモイーズ編曲版とは違うものです。
そのままで充分超絶技巧なのですが、もっと音符の数が増えて演奏するのは大変なのですが、朝から準備も大変なのにほぼノーミスで演奏され、また、河内さんのピアノも素晴らしく、お客様も歓声を上げておられました。
イ・スンホ先生の「ヴェニスの謝肉祭」はまた榎田先生とは違ったスタイルで明るく楽しい演奏でした。こちらも超絶技巧!

そしてお二人とピアノでドップラーの「アンダンテとロンド」
合わせの回数が少ない中、よく合わされたと思います。
美しい音色の共演で素晴らしかったです。

最後が榎田先生指揮の「アルルの女」第2組曲
韓国のメンバーの隣で吹くという得難い経験でした。
音の作り方、ビブラートの取り方、それぞれ違うのに、心を一つにして音楽で繋がる。
やっぱり音楽って良いですね!

演奏の後は串焼き田中で打上げ。
韓国の人たちは明るくて楽しい人ばかりでした。

また、会えるといいなぁ!

アルベルト・フランツ・ドップラー(1821年10月16日 - 1883年7月27日)

は、フルートの 名手で、作曲家としても知られ、フルート作品で最もよく知られています。

彼はまた、ブダペストのためにドイツオペラ1曲とハンガリーオペラ数曲を作曲し、いずれも大成功を収めました。

彼のバレエ音楽は生前、高い人気を誇っていました。
ドップラーはオーストリア帝国のレンベルク(現在のウクライナのリヴィウ)で生まれました。

1828年から1831年にかけて、オーボエ奏者であった父ジョセフ・ドップラーからフルートの手ほどきを受け、13歳でフルート奏者としてデビューしました。

4歳年下の弟カールとフルートの二重奏をし、カールは主に歌曲や付随音楽を作曲し、ヨーロッパ中で大きなセンセーションを巻き起こしました。 

二人は演奏旅行をし、
1838年にブダペストのドイツ劇場のオーケストラのメンバーとなり、1841年にハンガリー国立劇場に移りました。

そこでフランツのオペラ5作が上演され、成功を収めました。

フランツとカールはヨーロッパを定期的にツアーし続け、1853年にハンガリー・フィルハーモニー管弦楽団の設立に協力しました。

フランツは18歳でブダペストのオペラで第一フルート奏者となり、その後ウィーン宮廷オペラ

で第一フルート奏者、代役指揮者、最終的には首席指揮者となり、1864年から1867年までウィーン音楽院


でフルート教授の地位も獲得しました。

彼はオーストリアのバーデン・バイ・ウィーンで亡くなりました。

ドップラーは主にフルートのために作曲しましたが、オペラも作曲し、協奏曲、ショーピース、そして自身と弟カールが演奏する多くのフルート二重奏曲など、多くの作品を作曲しました。

彼の音楽にはロシア音楽とハンガリー音楽の要素が見られます。

オペラには『ユディト』 (彼の唯一のドイツオペラ)と『ベニョフスキー』というロシア作品があります。

彼は合計7つのオペラと15のバレエ(当時かなりの人気を博した)を作曲し、優れたオーケストラ奏者でもありました。

彼はまた、フランツ・リストのハンガリー狂詩曲6曲の管弦楽編曲を出版したことでも知られています。

「リゴレット幻想曲」op25
1851年フランツとカールがハンガリー管弦楽団に所属しながら定期的に演奏旅行をしていた頃の作品です。
ヴェルディの歌劇 『リゴレット (全3幕) 1851』 の主題を基にドップラー兄弟により超技巧的な 『協奏的二重奏曲 (Duo Concertant) 』 に仕立て上げられた作品です。

前奏曲に続き、第2幕の道化師リゴレットが侯爵邸内に 「娘のジルダを探しに入った場面」 から曲が始まり、第3幕の名曲 「女心の歌」、第1幕 「慕わしい人の名は」、第3幕 「四重唱」 を主題に美しく巧みに展開、華麗に変奏されたポプリ (接続曲) です。

榎田先生の動画はなかったので伊藤公一先生と富久田治彦先生、ピアノ水野久美先生の「リゴレット幻想曲」

喜歌劇ヴェニスの謝肉祭

2025-08-19 21:17:00 | バロック
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六甲アイランド ラサーラ ディ オルフェオでフルートオーケストラの最後の合わせでした。

六甲ライナー

韓国のメンバーも混じえて「アルルの女」第2組曲を合奏しました。

私は昨夜遅くに何かに当たったみたいでトイレと寝室を往復。正露丸を飲んで、2:00過ぎまで苦しみました。
朝起きたら収まっていましたが、お味噌汁と納豆くらいにして、お昼ご飯は抜き、合奏まで我慢。

2:00オルフェオ集合。
六甲アイランドで
熱中症になってはいけないので、直前にコンビニで塩タブレットを買って、口に入れて、お茶を飲み飲み練習しました。

着いたら韓国の先生が明日するフルートとピアノでドゥメルスマンの「ヴェニスの謝肉祭」の合わせの真っ最中。
超絶技巧…さすがです。
「アルルの女第2組曲」の
合奏も3rdの私は韓国の2ndさんと4thのトップの美音に挟まれて、とても勉強になりました。

練習の後はフルートデュオ
ドップラーの「リゴレット」を韓国の先生2人で演奏されていて、めちゃくちゃよかったです。

リゴレットの1stは私の隣の2ndさんでした。2人はご夫婦だそうです。
息の合ったデュオ。
リハーサルは聴けませんでしたが、榎田先生と韓国のチェリストイ・スンホさん、ピアノの河内仁志さんのトリオも聴けます。

19日2:00ピフレホールにぜひおいでください!

「ヴェニスの謝肉祭」は12世紀頃から始まったお祭りで毎年復活祭(イースター)の前の約2週間開催されています。
中世やルネサンス時代の華やかな衣装を身につけた人々が様々なデザインの仮面をつけ、身分を隠して自由に街を歩き回ります。
ナポリ民謡「ヴェニスの謝肉祭」はパガニーニが変奏曲を作るなど、17世紀各地で流行ります。

それとは別にカンプラの書いた喜歌劇「ヴェニスの謝肉祭」は
フランス語を用いたオペラの先駆けになっています。

アンドレ・カンプラ(1660- 1744年)
フランス王国エクス・アン・プロヴァンス生まれ、フランス王国イヴリーヌ県ヴェルサイユ没

1725年の肖像画
『ヴェニスの謝肉祭』(The Carnival of Venice)は、プロローグと3幕からなる叙情喜劇です。
台本はジャン=フランソワ・ルニャール。ジャン=フランソワ・ルニャール(1655年- 1709年)


初演は1699年1月20日、パリのパレ・ロワイヤル・ホールにおいて、王立音楽アカデミーによって行われました。
カンプラはこの作品をフランス王位継承者ルイ1世(大王太子)(1661 - 1711年)

に献呈しました。

ルイはこの作品を気に入り、死去直前の1711年2月に再演しました。

最初の二幕は、三角関係、愚かな老人、駆け落ちといった古典的なコンメディア・デラルテ( 仮面を使用する即興演劇)の筋書きを小道具として用いています。

そしてどういうわけか最後の幕は、オルフェウスがエウリュディケーを取り戻すために冥府へと旅する物語です。最後の幕はイタリア語で、最初の二幕はイタリア語のスラングが面白く織り交ぜられたフランス語で書かれています。

『ヴェニスの謝肉祭』(The Carnival of Venice)

舞台はカーニバルシーズン中のヴェネツィア。

プロローグ
舞台係たちは、舞台監督に促され、芝居の上演に向けて準備を整えます。辺りは乱雑で、木材の破片や未完成の舞台装飾が散乱しています。ミネルヴァは祝賀会に参加するために降り立ちますが、その状況に愕然とします。

彼女は自ら指揮を執ることを決意し、芸術の神々に助けを求めました。

音楽、舞踏、絵画、建築といった神々が護衛と共に現れ、壮麗な劇場を建設します。ミネルヴァは栄光の君主を祝う聖歌隊を招きヴェネツィアのカーニバルを舞台で披露します。

第1幕
ヴェネツィア、サン・マルコ広場。レオノーレは、レアンドレに愛していると告げたことを、それ以来彼の熱意が薄れていることに気づき、自分を責めます。

また、ライバルのイザベルを恐れます。二人の女性は、互いに若い男に愛されていると告白し、すぐにどちらもレアンドレのことだと気づきます。

お互いに相手が間違っていると思います。二人はレアンドレと対峙するが、レアンドレは最初はどちらかを選べない。最終的に彼はイザベルを選び、レオノーレは侮辱に対する復讐を誓います。

その時、ボヘミア人、アルメニア人、スラブ人の一団がギターを持って現れます。
彼らはイタリア語で歌い、踊ります。レアンドレはイザベルに、彼女がどれほど魅力的であるかを告げます。イザベルはレオノーレに対する不安を口にするが、レアンドレは自分に忠実であると彼女を安心させます。
第2幕
カーニバル期間中、賭博が行われます「サル・デ・レデュイ(割引)」。

イザベルに恋するヴェネチアの貴族ロドルフは、愛と嫉妬の間で揺れ動いていました。
場面は夜に移り、バルコニーのある豪華な宮殿が広がります。

ロドルフはライバルを偵察しようと陣取ります。レアンドレが楽団を引き連れてイザベルにセレナーデを歌いにやって来ます。

レアンドレと二人はイタリアの三重奏を歌います。
イザベルはバルコニーから歌いながら彼らに応え、この光景を目にしたロドルフは怒りと悪意を募らせます。
イザベルはレアンドレと話していると思い込み、嫉妬深い元恋人への憎しみを露わにします。ロドルフは正体を明かし、イザベルは彼の誘いを拒絶します。一人残されたロドルフは復讐を企てます。

レオノールが彼女の疑惑を確かめるために現れ、イザベルはレアンドレに騙されたことを告げます。二人は復讐を企てる。幸運の女神が現れ、世界中の国々を代表する賭博師たちが列をなして現れます。
第三幕ヴェネツィアの広場。

壮麗な宮殿に囲まれ、ゴンドラが行き交う運河が流れ込む。レオノールは愛と復讐心の間で揺れ動いていました。ロドルフがやって来て、ライバルを殺したと告げる。レオノールは嫉妬に屈したことを後悔し、恐怖に駆られてロドルフを拒絶します。ロドルフはイザベルにレアンドレの死を自ら告げようと決意する。

街の敵対勢力であるカステラ派とニコロ派が、横笛とタンバリンで[楽しませています。

カステラ派はニコロ派を打ち負かし、踊りの喜びを表現しています。

イザベルはレアンドレの死を知り、嘆き悲しみます。
彼女は自らの命を絶とうと決意するが、そこにレアンドレが現れ、それを阻止します。レアンドレは、彼を殺そうとした雇われた暗殺者が標的を外したと説明します。
二人は互いへの愛を告白します。

劇場でオルフェウスの寓話が上演され、それに続く盛大な舞踏会が開かれる中、レアンドレは船で逃げることを提案します。

冥界のオルフェウス(イタリア語)。劇場が現れ、プルートンの宮殿が姿を現します。
人間がやって来ることを知ったプルートンは、冥界の神々に警告します。
オルフェウスの歌に心を奪われたプルートンは、エウリディーチェを引き渡すよう懇願します。
プルートンは、オルフェウスが冥界から出るまでエウリディーチェを見ないことを条件に、引き渡すことに同意します。

エウリディーチェが現れ、彼女の再三の呼びかけに応えてオルフェウスは彼女を見ようとします。冥界の悪魔たちは、二人を永遠に引き離します。

壮麗な広間。カーニバルの姿が、各国から集まった仮面をつけた参加者たちのパレードを率いて登場します。
仮面をつけた人々は真剣な面持ちで踊り始めます。
カーニバルは、もっと軽薄なものが見たいと告げます。豪華な山車が現れ、喜劇的な仮面をつけた人々も踊りに加わります。

メロンの頃

2025-08-18 21:00:00 | ルネッサンス
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富良野メロン。
次男がふるさと納税で頂いたもの。
実家に持って行って、お墓参りの後夕食後、母と長男も混じえてみんなで食べました。
やっぱりスペシャルにおいしかった!

メロンなんて贅沢なもの滅多に買いません。買ってもマクワウリとかアンデスメロン。
前回食べたのは従兄弟の結婚式
以来かも。



メロン(甜瓜、和名:メロン、英: melon、学名:Cucumis melo)は、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物です。  

インドのインダス渓谷で紀元前2300年 - 同1600年ごろのメロンが発見されました。
その後インド中西部で紀元前1600年ごろのものが発見されています。

古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいました。

これがウリ科植物やメロンの仲間を表すラテン語のククルビット(cucurbit)の語源となりました。

粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン2世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられています。

紀元前2000年ごろの古代エジプトでは、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれています。

古代ギリシアで、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、紀元前4世紀のヒポクラテス


によるものです。

古代ローマでも、同様にメロンが食べられていましたが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられています。

メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明ですが、中国浙江省では紀元前3000年ごろのメロン種子が発掘されています。
中国産メロンについて
「蜂蜜のように甘く、麝香のような芳香を持つ」と評しています。

6世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説され、『西遊記』の三蔵法師で知られる7世紀唐代の仏僧・玄奘


は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残しています。

13世紀モンゴル帝国のシルクロードを旅したマルコ・ポーロ
は、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書いています。

14世紀後半に中央アジアを支配したティムールを訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評しました。

大航海時代に入ると、16世紀イギリスの探検家アンソニー・ジェンキンソンのほか、19世紀ヴィクトリア朝の探検家フィレッ
ド・バービーナや、ジャーナリストのエドモンド・オドノヴァンらが中央アジアに訪れた際に食べた甘くて新鮮なメロンの美味しさに言及しています。

16世紀以降、カンタロープメロンと他の甘いメロンがヨーロッパで非常に人気があり、南フランスのカヴィヨン地方はカンタロープメロンの産地として有名になりました。

新世界には元々メロンは存在しませんでしたが、クリストファー・コロンブス(1451-1506年)

が1494年のカリブ海域をめざす2度目の航海で初めて持ち込みました。

メロンは旧世界から新世界でも急速に広がり、16世紀前半には中米で栽培され、16世紀後半から17世紀前半にかけて北米のフロリダやハドソン川流域でも栽培されるようになりました。

さらに1683年、スペイン人はメロンの種をカリフォルニアに持ち込み、北米のスペイン人入植地におけるメロン栽培は成功をとげています。

スペイン植民地時代初期のパナマとペルーや、イギリス・オランダ植民地でも、メロンはごくふつうに食べられていました。

南米北東部にあるオランダ植民地のスリナムで、奴隷反乱の鎮圧に加わったオランダ人のジョン・ステッドマンは、18世紀末に黒人奴隷がメロン栽培をしている様子を伝えています。

一方でメロンについての記述で初期のものは、何も知らない人がメロンを食べて命を落としたという根拠のない警告が多数あり、中世ヨーロッパ人のあいだでは、メロンは甘いのでつい食べ過ぎると病気にかかり命を落としたり、中毒性があると危険視する考え方もまかり通っていました。

19世紀末にアメリカ・カリフォルニアに移住してきたアルメニア人は、祖国から甘いカサバメロンやペルシャメロンを持ち込み、栽培しました。

その100年後、カリフォルニアへ移住したアフガニスタンと中央アジア移民も同様に、祖国から持ち込んだ甘いメロンの栽培に取り組んでいます。

北米産で緑果肉で刺激の強い香りを持つモントリオールメロンは、17世紀末にイエズス会がフランスからカナダに持ち込んだメロンを、19世紀に品種改良したものだと言われています。

収穫後は日持ちしないため一時絶滅しかかかりましが、1995年に種子がアイオワ州のシードバンクで再発見され、このメロンの生産を再開する努力と更なる改良が続けられています。

1970年代のイスラエルでは、ハネデュースメロンとマスクメロンを交配して甘く芳香のあるガリアメロンが作られ、これがブラジル、スペイン、アメリカ、パナマ、エジプト、コスタリカで商業生産されています。

フランスでは、南フランスのカヴァイヨン地方で産するカンタロープメロンが国の誇りとなっています。

1494年コロンブスが新大陸にメロンを持ち込んだ頃の音楽と言えば、

フアン・デル・エンシーナ(Juan del EncinaまたはEnzina, 1469年 - 1533年)はスペイン・ルネサンスの作曲家・詩人・劇作家。


カトリック両王時代(アラゴン王フェルナンド2世(Fernando el Católico)とカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel la Católica)。彼らは1469年に結婚し、後に彼らの子孫の下で王朝連合国家としてのスペイン王国が成立します。)


を象徴する文芸人で、しばしばスペイン演劇(スペイン黄金世紀演劇)の創立者と呼ばれています。

サラマンカ近郊の、おそらくエンシーナ・デ・サンシルベストレの出身。サラマンカ大学を卒業してすぐアルバ公(ガルシア・アルバレス・デ・トレド)に執事として仕えます。

1492年に、グラナダ陥落を記念して執筆した戯曲『名誉の勝利 Triunfo de la fama 』
イザベラ女王が購入したタペストリー「名誉の勝利」
によってアルバ公を楽しませます。

1496年に、叙事的な戯曲や抒情詩を集めた『カンショネーロ Cancionero 』を上梓すると、この戯曲はそれから20年間にたびたび版を重ねました。

数年後にローマを訪れ、音楽的力量によってローマ教皇アレクサンデル6世(1431-1503年)

を魅了し、ローマ教皇庁の聖歌隊長に任命されます。

1518年頃に上級聖職者に叙階されると聖地エルサレムに巡礼して、初めてミサ曲の作曲を着想。

1509年にはマラガ(スペイン・アンダルシア州マラガ県のムニシピオ(基礎自治体))司教座で参事会員に就任し、1519年になるとレオン地方の小修道院長に任命されます。

1533年に地元サラマンカで亡くなったと伝えられています。

フアン・デル・エンシーナの歌「Desidme, pues sospirastes 」を収録したカンチョネロ・デ・パラシオ所蔵のフォリオ

エンシーナの『カンショネーロ』(詩歌集)は、韻律論の序文があり、スペインにおける詩作の状況が論じられています。

14の戯曲は、中世ヨーロッパの神聖劇からルネサンスの世俗劇への変遷が特徴的です。
世俗的な作品はスペイン文化に新たな出発点を創り出し、宗教的な牧歌劇は、17世紀のスペイン演劇に至る道のりをつけました。

カンショネーロ・デ・パラシオ(王宮詩歌集) Cancionero de Palacio (1496年)より
「甘く愛しい炎」
甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす
愛しいあなたへ
それは少しずつ私を焼き尽くす
甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

この情熱的な女性へ
人々の先頭に立つ
私はいつまでも仕える
彼女に祝宴と遊びを与えるために

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

私は心に
固く決意しました
あなたのしもべとなり
彼女に祝宴と遊びを与えるために

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

私は心に
固く決意しました
あなたのしもべとなるために
どんな時も
あなたのために燃えているのは良いことです

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす


滅ぼし得ぬもの

2025-08-17 21:03:00 | 近代
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男たちを混じえて父のお墓参り。
私と母は2回目。
長男も次男もお盆休みが無いので土曜日になりました。
お酒好き、阪神好きな父のお供えはミックスナッツとワンカップ酒。
このところの阪神の好調には気分良く呑んでいるでしょう。
ちなみに私は野球音痴。 
長男だけが阪神ファン。昔父と観戦に行ってファンになったらしいです。
次男は中日、夫はひいきチームは「無い。」と言っていますが、巨人のような気がします。
まあ、どのチームでもみんな仲良くテレビ観戦しています。

私はケーゲルシュタットも吹いてみたら間違いがあちこち見つかってまだ完成しないし、他にも譜読みが忙しい。

ギターとフルートの二重奏
デュボワの組曲、
ボザの3つの小品、ヒナステラのソナタ、モーツァルトの魔笛、オーボエとの二重奏。ヴァイオリンとの二重奏でテレマンのソナタ。
クラリネットとケーゲルシュタット。フルート二重奏でテレマン。
一回りするだけで練習時間終わってしまいます。
プラス昨日富久田先生の発表会があると聞いたので曲を決めなくては!

それに来週8月19日大邱市と神戸市の交流コンサートがあります。フルートオーケストラで「アルルの女」第2組曲を演奏します。18日リハーサルと。

8月22-24日神戸でフルートコンベンションに参加ということで時間がありません。(これは演奏しませんが、)

とりあえず、
8月29日「聴き合い会」のボザとテレマン
8月30日「西宮ギター練習会」のデュボワ
を完成させなくては!

というわけでお盆は家族サービスで気になりますがあまり吹けません。

カール・ニールセン( Carl August Nielsen 1865- 1931年)
デンマークノーレ・リョンデルセ生まれ、デンマーク コペンハーゲン没



交響曲第4番 作品29, FS 76 は、カール・ニールセンが1914年から1916年にかけ作曲した交響曲です。

作曲者自身によって『不滅』(または滅ぼし得ざるもの、デンマーク語: Det Uudslukkelige、英語:The Inextinguishable)という副題が与えられています。

4つの楽章の要素が移行していくという構成になっており、しばしば4楽章や2楽章の曲と誤解されるが、単一楽章の作品です。

ヨーロッパで激化していた第一次世界大戦を背景にしたこの交響曲は、ニールセンが書いた最も劇的な作品の一つで、とりわけ2つのティンパニの「戦い」で知られています。

2群のティンパニによる競演を特徴とし、ニールセンが手がけた交響曲の中でも特に劇的な作品です。

ニールセンは1914年に新しい交響曲の構想を練り始め、5月にツェレにいる妻に手紙を書きました。

「新しい作品のアイデアがあります。プログラムはありませんが、私たちが生命の精神、あるいは生命の顕現として理解しているもの、つまり

「動くもの、生きようとするものすべて…生命と動きだけ。
多様で――実に多様で――それでいて繋がり、まるで一つの大きな動き、あるいは流れの中で絶えず動いているかのように」を表現したいと思っています。
このことを表現できる言葉か短い名前が必要です。それで十分です。私が望むことを完全に表現することはできませんが、私が望むのは良いものです。」

1916年までこの作曲に没頭し
作曲者自身はデンマーク語"Det Uudslukkelige" という副題を与えました。

これは日本語
「消し去り難いもの」や
「滅ぼし得ぬもの」
といった意味であり、日本では簡潔に『不滅』の副題で親しまれています。また、ドイツ語により "Das Unauslöschliche" と表記されることがままあり、ニールセンは
交響曲の注釈の中で、 

「生きるという根源的な意志」
について言及しています。
ニールセンの交響曲は、この第4番以降の作品において多調性を採用し、『交響曲第6番』までの3つの交響曲については基本となる調が記されていません。
これは古典的な交響曲のような、基本となる調を設定し、他の調との対比により構成する、という概念を排す意図からです。
この第4番はニ短調の前奏部(Allegro)で始まり、
第2部(Poco allegretto、ト長調)
クラリネットによるイ長調、間奏となる気楽な田舎風の曲想です。
第3部(Poco adagio quasi andante)伝統的な緩徐楽章の役割は悲劇的な曲想。
第4部(Allegro)では2群のティンパニが活躍し、結末においてホ長調となって締め括られます。
ニールセンの作品では最も演奏・録音の機会に恵まれています。
1916年2月1日、コペンハーゲンで作曲者ニールセンの指揮により行われました。
交響曲第4番「不滅」より

京都でボザの牧歌

2025-08-16 22:02:00 | 現代
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金曜日、次男はお盆休みは無く通常通りで、みんなが休まない時に休むので、お弁当を作りも休み無し。

夫は休みですが、私は午後から京都今出川大宮近くの富久田治彦先生のレッスンです。
留守番の夫は「夕飯食べて来る?」「食べない。」
「せっかく行くのに…。ふたばの豆餅買って来て」
「それは無理。コロナ以降、いつ行っても4重になって待ってるから無理〜。」
「なんだつまらない奴だなあ!」といつもの冗談。
大阪人のレベルにしたらツメもツッコミも甘いですが、浅草生まれの夫にしては頑張っています。

お盆休みも京都は混んでいます。
レッスンの後出町商店街に行ってみましたが、やっぱりふたばは4重で無理。

わかりにくいですが、通路を開けて反対側も並んでいます。暑いのに…。

もう少し足を伸ばして「阿闍梨餅」を買いました。
「2個でもいいですか?」
「はい!ありがとうございます。」と元気なお返事です。

大阪ならここで「2個でも1個でも大丈夫ですよ〜!」てなことを言って「どっから来たん?」と会話がはずむところです。

それから、お豆腐屋さんで、豆腐ではなくて、京都らしいものをと思ってよもぎ生麩を買いました。

カチコチに凍った生麩を持たせてくれました。
暑くてもこれなら牧野まで持ちそう。
とにかく熱い。
枚方より熱くて湿度の多いところは日本では京都しかない…と思います。
沖縄も日陰は涼しかったのに。

レッスンはライヒャルトのスケールとアルペジオの練習7番。
最後の曲でおしまいかと思いきや、「来月から第1番に戻ってやりますね。」
おおっ!
かんばりま〜す!

曲はボザのフルートとクラリネットのための3つのピースをやりました。
正直、ライネッケに夢中でまだほとんど見ていない。
なのに一曲目終わったら次もという感じで3曲全て見て頂きました。

曲想があまり掴めていませんでしたが、アーティキュレーションを楽譜通りにとり、棒吹きにならないように方向性を考えながら吹くと結構いい感じ。

なるほど!
と今更ながら納得しました。
遅い!

ウジェーヌ・ジョゼフ・ボザ(Eugène Joseph Bozza, 1905- 1991年)フランス ニース生まれ、フランス ヴァランシエンヌ没

父ウンベルト・ボザはバイオリニストで、地中海沿岸のフランスのカジノで演奏して生計を立てていました。母はオノレ・モリーナ。

5歳の頃から父についてバイオリンを学び始めました。
ボッザは優秀な若手バイオリニストとなり、時折父と一緒に演奏会に出かけ、オーケストラと演奏するようになりました。

1915年、ボザが10歳の時、第一次世界大戦の混乱を避けるため父とイタリアへ移住しました。

イタリアでは、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミーでヴァイオリン、ピアノ、ソルフェージュを学びました。

1919年にヴァイオリン教授の資格を得て卒業しました。

その後フランスに戻り、 1922年にパリ音楽院に入学し、エドゥアール・ナドーにヴァイオリンを師事しました。

2年間の勉強の後、音楽院のヴァイオリン部門で最高賞を獲得し、1925年にパドゥルー管弦楽団のコンサートマスターに就任しました。

1924年に最初の妻ジュリエット・アルノーと結婚し、1925年に息子ピエールをもうけました。

オーケストラとともに5年間ヨーロッパをツアーした後、ボザは辞職し、音楽院に戻ってアンリ・ラボーに指揮法を師事しました。

妻はかつて「実際、彼は舞台恐怖症に悩まされていた」と打ち明けています。

ボザはその後も優れた才能を発揮し、 1931年に指揮法の勉強を終え、今度は指揮でプルミエ・プリを受賞しました。 

ボッザはモンテカルロ・リュスの指揮者に就任しましたが、1年間しか在籍せず、1932年にパリ音楽院に3度目かつ最後の入学で戻り、作曲を学びました。

その後、アンリ・ビュッセルに2年間師事し、再び指揮法の分野でプルミエ・プリを受賞しました。

ボザは1934年、一幕カンタータ『ルークマニの伝説』でローマ賞を受賞しました。

受賞に伴い、彼はその後4年5ヶ月間ローマのヴィラ・デ・メディチ


に滞在し、作曲家としての成長、表現力の向上、そして芸術の研鑽に専念しました。

ローマでボザは、オペラ『レオニダス』、『詩篇』、ピアノと管弦楽のための『序奏』と『トッカータ』など、いくつかの大規模な作品を作曲しました。

その後、 1938年から1948年まで オペラ=コミック座

指揮者に任命され、パリに戻りました。

1950年、彼はヴァランシエンヌの音楽学校の校長に任命され、1975年に退職するまでその職を務めました。
ここで過ごした年月はボザにとって非常に生産的でした。

彼はこの間に学校の生徒と職員のために多くの練習曲集と独奏曲を作曲しました。

さらに、1956年にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを授与されました。

彼は1950年代初頭にジュリエット・アルノーと離婚しました。

その後、ピアニストのネリー・ボードという2番目の妻と出会い、セシルという娘をもうけました。

セシルはその後パリ音楽院に進み、ドナンでハープ教師になりました。

1975年に退職した後もボザはヴァランシエンヌに留まり作曲を続けました。

彼は晩年に病に倒れ、86歳でヴァランシエンヌで亡くなりました。

TROIS PIECES
3つの小品
この各楽章には具体的標題が付けられていませんが、3つの小品からなる牧歌 (田園歌)、つまり≪3つのパストラール≫と考えられています。

オーボエとフルートの不思議な響きの「牧神の笛」です。

第1曲 Moderato 4/4拍子

第2曲 Allegretto 9/8は中世風の古い民謡のような旋律です。

第3曲 Allegro 6/8は快活に踊る楽しいジーグ風舞曲です。

E.ボザは、管楽器室内楽作品のジャンルを多種多様な楽器編成により手がけ、芸術的な領域から教育教材の分野まで幅広く独創的に生み出しました。

ちなみに、この小品は“ (ou flûte) ”の指示があるように「フルート二重奏」としても演奏されます。

同タイトルの四重奏の名曲「TROIS PIÈCES [4Fl.]」や、同編成の二重奏曲の「TROIS ÉVOCATIONS [2Fl.]」かあります。 


人生「謝肉祭」

2025-08-15 21:00:00 | 国民楽派
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お盆休み初日、「長浜と関市とどっちがいい?」と夫が、聞くので「長浜。」と涼しい琵琶湖の水辺を思い浮かべながら言ったら、
「長浜はやっぱりだめだ。関市にしよう。」ですって!

名神の交通情緒をみたら
朝9:00で渋滞20キロ。
「こんなのに付き合ってられない。」と迂回路を通るらしい。
京滋バイパスも8キロ渋滞。
下道を通っても渋滞。
「じゃあ」って、あれあれ?
と思っているうちに
井手町からすごい山道。
対向車1台も見ません。
後続車もなし。
あちこちがけ崩れの後片付けをしています。
「対向車来たらどうする?」というほど、欝蒼と茂った狭くて暗い山道のヘアピンカーブをぐるぐる、
「どこ?」と不安になった頃、

茶源郷和束町に着きました。

人がいないと思いきや、ここは最近お茶人気で世界中から人が来ています。ただし別ルート。
今回は通過するだけ、
本当に関市につけるのか?
と思っていると見慣れた風景。

信楽。

少し混みましたが、ここもスイスイと通過。

甲賀市土山。
新しくできた道の駅。

駅に入るために300メートルほど渋滞してたので、入れないのではないかと思いましたが、めちゃくちゃ広い駐車場で信号3回で入れました。
その後も続々と車。

なかのレストランは一軒だけでした。
なので12:00前だと言うのに食券売り場には長蛇の列。
しかし、思ったより席数か多く、手際よいのか早く入れ、料理もすぐ出てきました。

夫の近江牛蕎麦、

私は唐揚げ定食。
おこわが売りみたいで定食のごはんは全ておこわ。
このおこわとても美味しかったです。

この道の駅でお野菜を買って関市へ

関市は関宿と言って東海道53次の宿場町。
足湯にはいって、

宿場を見せて頂きました。
古民家
山車も!

関市ホームページより

盛りだくさんだったので宿場町の様子はまた後日。

関宿は東海道五十三次の47番目の宿場です。三重県の北西端、鈴鹿山脈の山裾に位置し、2005年1月11日の亀山市との合併以前は関町でした。

古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれました。

江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町でした。

東の追分から西の追分までの約1.8キロメートルにわたり、伝統的な町家が200棟以上現存します。
重要伝統的建造物群保存地区(昭和59年)と日本の道100選(昭和61年)に選定されています。
「関の山」はここのお祭りが発祥でした。

関市ホームページより

関の山

毎年7月下旬に行われる関宿の夏祭り(関宿祇園夏まつり)に出る山(山車だしとは言わず関宿の方たちは「やま」と呼んでおられます。)が立派だったことから、「これ以上のものはない」という意味で使われるようになりました。



中町三番町山車がこの中からお祭りになると出てきます。

また、山車が街道筋の建物の屋根ぎりぎりを通過する様子から、これが目一杯という意味で語源とする説もあります。


倉庫もでかい中町四番町と木崎町の2台の山車が保存展示されています。
13あった山車も、今では4つになっているそうです。火事で焼失したものもありますが、多くは少子高齢化のせいだそうです。
山車も曳けば、お神輿も担ぐお祭りは7月。
このお神輿は笛吹大明神に長く保管されていたそう、「笛吹大明神」と聞いたら行かねば!
読んだら関神社に合祀されたと書いてあり、関神社に行ってみたら、合祀されたその後1459年新所町のみになった。と看板が…。
関神社には何の痕跡もありませんでしたが、前を通った地蔵院の隣に痕跡があり、お祭りまでされているそう。残念見たかった。


アントニン・ドヴォルザーク(1841年9月8日 - 1904年5月1日)オーストリア帝国ネラホゼヴェス生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国プラハ没

演奏会用序曲 『謝肉祭』(Karneval, koncertní ouvertura)作品 92、B.169は、1891年に作曲されました。



「自然、人生、愛」序曲三部作の一つで、第二部「人生」を構成している一曲です。

人生
『自然の領域にて』(作品91「自然」)
『謝肉祭』(作品92)
『オセロ』(作品93「愛」)です。

1891年、ドボルザークは「自然と人生と愛」というテーマのもとで序曲3部作を書くことを計画し、スケッチを書き始めます。

序曲3部作《自然と人生と愛》1891~92年作曲。

1892年4月28日プラハで作曲者自身の指揮で初演。

渡米直前の1891~92年に作曲されました。ニューヨークでの生活から産まれた〈新世界より〉、チェロ協奏曲と並ぶ傑作として高く評価されています。


ミスでは無い酔っ払いのわめき声

2025-08-14 21:01:00 | バロック
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なんとか昨夜「ケーゲルシュタット」ヴィオラパートをフルートパートに移調終わりました。
…と言っても、吹いてみて間違いが無いか確かめなくてはいけませんが…ノーミスだったことありません。
#や♭、♮の読み違い。
全休符はことごとく違います。
スラーやテヌートはよく間違っています。
装飾音符やトリルはほぼ誤読です。
全部修正したかと思いますが…必ず漏れがあります。
それはまた午後から。

ハインリヒ・イグナツ・フランツ・フォン・ビーバー(Heinrich Ignaz Franz von Biber、1644 - 1704年)ボヘミア ヴァルテンベルク(現チェコ領ストラーシュ・ポド・ラルスケム)生まれ、オーストリア大公国ザルツブルク没

彼の初期の教育については、ボヘミアのトロッパウにあるイエズス会のギムナジウムで学んだことと、地元のオルガニストから音楽教育を受けた可能性があること以外、ほとんどわかっていません。

1668年以前、ビーバーはグラーツのヨハン・ザイフリート・フォン・エッゲンベルク公の宮廷で働き、その後、クロムニェジーシュのオロモウツ司教、リヒテンシュタイン=カステルコルン伯カール2世


に雇われていました。

1660年代初頭からのビーバーの仲間であるパベル・ヨゼフ・ヴェイヴァノフスキーは、そこでカペレの指揮者として働いていました。ビーバーは明らかに評判が良く、バイオリンの演奏技術は非常に高く評価されていました。

ビーバーの故郷ヴァルテンベルクにある記念碑
1670年の夏、カール2世はビーバーをインスブルック近郊のアプザムに派遣し、高名な楽器製作者ヤコブ・シュタイナーと、カペレ用の新しい楽器の購入について交渉させました。

しかし、ビーバーはシュタイナーのもとにたどり着くことはなく、代わりにザルツブルク大司教マクシミリアン・ガンドルフ・フォン・キューンブルクに雇われることになりました。

カールとマクシミリアンは友だったため、ビーバーの元雇い主は何も行動を起こしませんでしたが、作曲家の決定に非常に傷つき、1676年まで正式に釈放書類を発行しませんでした。

ビーバーがクレムシエールに送った自筆作品のほとんどが1670年代初頭のものであることは偶然ではありません。ビーバーは生涯ザルツブルクに留まりました。

彼の音楽活動と社交活動は華々しく、1676年には自身の作品の出版を開始し、 1677年にはレオポルト1世皇帝


の前で演奏(褒賞も授与)、1679年にはザルツブルクの副楽長、1684年には楽長となりました。

1690年、ビーバーは皇帝によって貴族に列せられ、「ビーバー・フォン・ビーベルン」の称号を授けられました。そして、ザルツブルクの新大司教、トゥーン伯ヨハン・エルンストによって、ビーバーは最高位の貴族家令に任命されました。

作曲家は1672年5月30日、ザルツブルク郊外にある司教の夏の離宮ヘルブルン宮殿


で結婚しました。
妻マリア・ヴァイスは、ザルツブルクの商人、市民、貿易商ペーター・ヴァイスの娘でした。二人は11人の子供をもうけ、そのうち4人が成人しました。

全員が音楽の才能に恵まれていました。

アントン・ハインリヒ(1679年 - 1742年)とカール・ハインリヒ(1681年 - 1749年)はともにザルツブルク宮廷でヴァイオリニストを務め、後者は1743年に楽長に昇進した。
娘のマリア・カシリア(1674年生まれ)とアンナ・マグダレーナ(1677年 - 1742年)はそれぞれサンタ・クララ、メラーノ、ノンベルク修道院


で修道女になりました。
アンナ・マグダレーナはアルト歌手でありヴァイオリニストでもあり、1727年に修道院の聖歌隊とカペレの指揮者に就任しました。
彼女は修道院での仕事に、父親が書いた歌唱の基礎教本「ジングファンダメント」を活用しました。

1692年11月3日、ビーバーはヨハン・エルンスト大司教によって執事に任命されました。
その後、彼は紋章を受け取
った。聖ヘンリーのミサは、2る。
ビーバーは1704年にザルツブルクで亡くなりました。

ペータース墓地にあるビーバーの墓の横にある記念碑
彼の墓はペータース墓地にあります。


10人の戦闘Battalia10(バッターリャ10) ニ長調 C 61(1673年)
第2曲「マスケット銃兵達の羽目を外した大騒ぎ」は多調で書かれており、モーツァルトの『音楽の冗談』(1787年)などと並んで、多調音楽の最初期の例として知られています。

この作品は、初期の多調性と非伝統的な技法の使用で知られています。1673年に作曲されました。
『バッターリャ』は、3つのヴァイオリン、4つのヴィオラ、2つのヴィオローネ、そして通奏低音で演奏されます。

ビーバーがバッターリャを作曲した理由は定かではありませんが、三十年戦争での多くの死傷者(ドイツ人口の約50%とチェコ人の3分の1)によるものだと言う学者もいます。  

ヨハン・ヴィルヘルム・カール・ウォールボム『リュッツェンの戦い』 Death of King Gustav II Adolf of Sweden at the Battle of Lutzen,(1855)

The rowdy pub
騒々しいパブ

Sonata
ソナタは AB 形式です。B セクションではコール アンド レスポンスのモチーフが使用され、その応答としてスタッカティッシモ マークを使用して、col legno を指示するか、弓の裏側で弦を叩きます。

最も有名な第2楽章には、調性と拍子が異なる8つのメロディーが含まれています。

メロディーの一つは民謡「キャベツとカブが私を追い払った」(Kraut und Rüben haben mich vertrieben)で、J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲第30番、あるいはクォドリベットにも同様に用いられています。

また、一部の小節は12/8拍子、他の小節は4/4拍子です。

ラテン語の脚注には

「ここはどこも不協和音だ。酔っぱらいはこのように、様々な歌をわめき立てるのに慣れているからだ」

と記されています。

Presto
形式はAABBで、左手のピチカートが用いられ、スタッカートの付点で示されます。この動きは不規則で、戦争を想起させ、「兵士たちが内心では戦いを待ちわびる不安を抱えながら、外見上は軽薄な雰囲気を漂わせている」ことを象徴しています。

Mars (the march)
デル・マルス(行進曲)
「デル・マルス」は、ヴィオローネとソロヴァイオリンの組み合わせが特徴的です。ヴァイオリンがトリルや装飾音を演奏している間、ヴィオローネは弦と指板の間に紙を挟んでスネアドラムの音を模倣するよう指示されます。

「マスケティル・マルス」(銃士の行進曲)は、「ソナタ・レペレマニタティヴァ イ長調」にも使用されています。 

ラメント・アダージョ
Aria
Cello Battle
Lament for the wounded.
負傷者をいたむ