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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

朝顔とバラ

2025-08-27 08:52:00 | ルネッサンス
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→音楽の喜び フルートとともに
火曜日の朝は家でレッスン。
庭の朝顔が咲いています。
暑すぎるのか、10:00過ぎるともうしおれて来ます。

慣用句
朝顔の花一時(あさがおのはないっとき)
朝顔の花は早朝に咲いたと思うと昼にはしぼんでしまうことから、物事の衰えやすいことのたとえとしていいますが…これはいくらなんでも早いだろうと思います。

アサガオ(朝顔、牽牛花、学名: Ipomoea nil)は、ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物。

「三十六花撰」「東都入谷朝顔」 「廿八」1866年。歌川広重画

原産地はヒマラヤ地方、熱帯アジア、あるいは熱帯アメリカなど諸説あります。

日本で最も発達した園芸植物で、古典園芸植物のひとつです。

別名でコアサガオともよばれます。中国語で牽牛(別名:牽牛花)と書きます。

「朝顔」と呼ばれるようになったのは平安時代からで、日本への伝来は、奈良時代末期(平安時代とする説もあります。万葉集で「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指している説もあります。)に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされています。


『和名抄』(929 - 930年)にアサガオ、『古今和歌集』(913年)にケニゴシ(牽牛子)の名があります。

世界的に見ても、これほど形態が多種多様に変化した園芸植物は他にないそうです

変異の著しいものには種子を作ることができないものもある。

この変異が著しいために、種子ができない、または非常に結実しにくいものは「出物(でもの)」と呼ばれています。

江戸時代、不稔である出物の系統を維持するために、変化が発現しなかった株(「親木(おやぎ)」と呼ばれる)により遺伝的に伝えるしかないので、たくさんの種をまき、小苗の内に葉の特徴から変化を有している株は出物として鑑賞用に育成し、残りの株の中から出物の変異を隠し持っている親木を鑑別し、こちらは出物の採種用として育成しました。

尾形光琳(1658-1716年)
そのため江戸時代の人々は経験的にメンデルの法則を知っていたとも言われています。

江戸時代の2度の朝顔ブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版されました。

この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた。これらの朝顔を現代では「変化朝顔」と呼ばれています。

変化朝顔は江戸、上方を問わず大きく流行し、特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、非常に高値で取り引きされました。


「大輪朝顔」も「正木(まさき)」と呼ばれる結実する変化朝顔の一種です。

江戸時代の変化朝顔ブームは、文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)にあり、幕末には約1200系統が作られました。

ブームの発端は、文化3年(1806年)の江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人だった成田屋留次郎が、いろいろな珍しい朝顔を咲かせたことによります。

岳亭春信(生没年不詳) 1818年

留次郎は、江戸・京都・大阪の変化朝顔をまとめた『三都一朝』


『三都一朝』収載「青南天變紫柿咲分牡丹度咲」成田屋留次郎1854年
を出版し、品評会である「花合わせ会」を各地で催すなど、朝顔ブームの仕掛人でした。 


『三都一朝』収載朝顔2種』成田屋留次郎1854年

1828年葛飾北斎(1760-1849年)

変化朝顔の栽培方法を記した『牽牛花水鏡』や、変化朝顔の図諧『あさがお叢』『朝顔三十六花撰』なども出版されました。


葛飾北斎。1830年

その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用して朝顔栽培をするようにもなりました

上記とは別に、熊本藩では武士たちによる園芸が盛んで、朝顔も花菖蒲や菊、芍薬、椿、山茶花などと共に愛好されており、盛んに育種されて独自の系統が生まれました。


この花は変化朝顔とは違い、本来の朝顔の花型を保ち、大輪であり、「肥後朝顔」と呼ばれています。

これが後世の大輪朝顔の祖先の一つになった。これら熊本の六種類の園芸植物は現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられています。

戦後は大輪朝顔が主流を占めるようになり、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れました。

高度な栽培技術が確立されたことによります。

月岡芳年「当勢勇の朝顔」1860年

朝顔は別名「牽牛」といい、これは中華文化圏での名称でもあるが、朝顔の種が薬として非常に高価で珍重された事から、贈答された者は牛を引いて御礼をしたという謂れである。平安時代初期につくられらたわが国最初の漢和辞典に「牽牛子」と記載されていることから、朝顔が渡来したのはこの頃であったと推定されています。


朝顔の鉢を摘む美人歌川国保(1794-1832)

その後、江戸時代には七夕の頃に咲く事と、牽牛にちなみ朝顔の花を「牽牛花」と以前から呼んでいたことから、織姫を指し、転じて朝顔の花を「朝顔姫」と呼ぶようになり、花が咲いた朝顔は「彦星」と「織姫星」が年に一度出会えた事の具現化として縁起の良いものとされました。


これらの事により、夏の風物詩としてそのさわやかな花色が広く好まれ、鉢植えの朝顔が牛が牽く荷車に積載されて売り歩かれるようになりました。

また珍奇な品種は愛好家たちが門外不出として秘蔵していましたが、普通の品種は植木市や天秤棒を担いだ朝顔売りから購入することができました。 

朝顔はさすがにクラッシック音楽の中にはなかったので、

「新たにバラの花が」 

nuper rosarum flores

ギヨーム・デュ・フェイ(1397 - 1474年)


1451年以前のミニチュア画で、オルガンの横に立つデュ・フェイ(左)と小さなハープを持ったジル・バンショワ(右)
Nuper rosarum flores(「最近バラが咲いた」)は、フィリッポ・ブルネレスキの指示で建設されたドーム屋根の完成を記念して、1436年3月25日のフィレンツェ大聖堂の奉献式のためにギヨーム・デュファイが作曲したモテットです。


厳密に言えば、ドーム屋根自体は5ヶ月後まで完成せず、その時、フィレンツェの新任大司教ヴィテッレスキ枢機卿に代わって、フィエーゾレ司教ベノッツォ・フェデリギによって別途奉献式が行われました。

曲の題名は、大聖堂の名前であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖マリア)に由来しています。

1447年のルスティキ写本に描かれた大聖堂

冒頭の行は、教皇エウゲニウス4世

ジャン・フーケのオリジナルを基に、クリストファーノ・デル・アルティッシモが描いた肖像画
が(奉献の1週間前に)主祭壇を飾るために金のバラを贈ったことから来ています。

この作品は「西洋音楽文化史における象徴として扱われるようになりました」。

Nuper rosarum flores(「最近バラが咲いた」)

先日、厳しい冬にもかかわらず、教皇からバラが贈られました。

それは、壮大なデザインの神殿が、聖なる儀式を通して忠実に奉納された

天上の聖母マリア様への贈り物です。

このバラが永遠の装飾となりますように。

今日、イエス・キリストの代理聖職者であり、ペトロの後継者であるエウゲニウスが、 この同じ広大な聖なる神殿を 自らの手と聖水によって

奉献する栄誉に浴しています。

それゆえ、あなたの御子、

聖母マリア、処女の飾りである慈悲深い母と娘 よ、

あなたの町フィレンツェの人々は 、清らかな心と体であなたに懇願する者が、 あなたの祈り、あなたの苦悩、そして功績を通して、 すべての肉であるあなたから生まれた 主から、 恵みの恩恵と罪の赦しを受けるにふさわしい者とされますようにと、心から祈ります。

アーメン。

この場所は畏敬の念を抱かせる





モーツァルト最後の言葉に出てくる

2025-08-26 21:00:00 | 古典
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月曜日、フルートコンベンションの余韻に…ちょっと疲れた。
浸りつつも今朝はうちで坂田恭子さんとのピアノ合わせ。
コンベンションで使った楽譜を整理していたら待ち合わせの時間。坂田さん来てしまいました。

うちは狭いのでピアノを弾こうと思ったら2台のハープをよけなければなりません。
「ごめんなさい。」と言いながら片付けていたら、「ゆっくりしていいよ。」とハープ移動を手伝ってくれました。
なが〜い付き合いなので、甘えてしまいました。

8月29日の聴き合い会で頼まれた曲の伴奏9月26日の聴き合い会の分もまとめて一度練習しておきます。
それが結構太曲!
チェロのHさんからはシューベルトの「アルペジォーネソナタ」。rit.になってin tempoで入るところなど打合せました。
一度Hさんと合わせるそうなので大丈夫。

9月はクラリネットのKYさんからモーツァルトの「ケーゲルシュタット」これは私はヴィオラパートを吹きます。
やっと楽譜できてチェックも兼ねていますが…第3校訂。
次決定版ができそうです。
とりあえず8月は第1楽章なのですが、次々仕上げたいみたいなので、全楽章やっておきました。これは二楽章のメヌエット、三楽章も結構難しい。
それからSさんの浜辺の歌。これは大丈夫。

9月はフルートのUさんが選んだのはフランクの「ソナタ」第4楽章。これはピアノが本当に難しい。「四楽章はまだマシなんだけどね…二楽章はめちゃくちゃ難しい。」と坂田さん。
一緒に吹いてみましたが、なかなか仕上がってました。
さすがです。

最後にライネッケの協奏曲の第1楽章を久しぶりに合わせました。
忘れてるところも少々…「譜面見たときは簡単かなぁ?と思ったけれどやっぱり難しいね。」と坂田さん。
ロマン派から少し近代入っているような気がします。
清水先生の演奏を思い出し…足元にも及ばない…けれど何か自分の中では変わった気がします。
久しぶりに坂田さんと樟葉モールでランチして終わりました。

帰って1人コンベンションで聞いた曲のおさらい。
モーツァルトのGdurの協奏曲、シューベルトの「しぼめる花」などなど、先生方が言っておられたことをかみしめながら…と言ってもすぐできることとできないことがありますが。
その後、ボザの3つの小品 「魔笛の夜の女王のアリア」などオーボエとの曲、ヴァイオリンとするテレマンの二重奏など練習しました。
まだまだ精進します。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト ( Wolfgang Amadeus Mozart 1756- 1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

WA モーツァルト、ヨハン・ネポムク・デッラ・クローチェ作とされる家族の肖像画の編集された部分(1781年頃)

『夜の女王のアリア』は、エマヌエル・シカネーダー(Emanuel Schikaneder 1751- 1812年)

の台本、モーツァルト作曲のオペラ『魔笛』の中で、「夜の女王」(ソプラノ)によって歌われる2曲のアリアです。

『「夜の女王」は劇中で2つのアリアを歌いますが、2幕で歌われる2番目のアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」が有名で、単に「夜の女王のアリア」と言えば、普通この曲を指します。

高い音を技巧的に駆使するため、ヒロインの母親役にもかかわらず、若手コロラトゥーラ・ソプラノの登竜門となることが多いです。

「ああ、恐れおののかなくてもよいのです、わが子よ!」(O zittre nicht, mein lieber Sohn)は、第1幕で歌われる。レチタティーヴォの後、ラルゴが続き、その後極めて技巧的なコロラトゥーラが出現します。

コロラトゥーラ・ソプラノのための曲で、2番目のアリアと同様に極めて高い歌唱技術を要します。

《復讐の炎は地獄のように我が心に燃え》
(Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen)は、夜の女王が娘のパミーナにザラストロを殺すように迫る第2幕の場面で歌われます。

『魔笛』でもっとも有名なアリアです。ザラストロへの激しい復讐の思いが、超絶技巧を要するコロラトゥーラで歌われます。

「地獄の復讐は私の心の中で沸き立つ」は、通常「地獄の復讐」と略され、「復讐のアリア」または「夜の女王のアリア」と呼ばれることが多いですが、夜の女王は第 1 幕で「遠ざかるな、私の愛しい息子よ」というアリアで登場し、その最終セクションには多数のコロラトゥーラ(ラテン語のcolor=「色、色合い」に由来)に由来し、短い音符を素早く連続して演奏します。)が含まれています。

このアリアは『魔笛』第2幕の一部です。復讐心に駆られた夜の女王は、娘パミーナに短剣を与え、宿敵ザラストロを殺すよう命じます。さもなければ、パミーナを勘当し、捨てると誓います。(「もしザラストロがあなたを通して死の苦しみを感じなければ、あなたは二度と私の娘にはなれない」)

このアリアを舞台で最初に歌ったのは、モーツァルトの義姉(コンスタンツェの1番上の姉)で当時33歳だったヨーゼファ・ホーファー

シカネーダーの歌劇「Die Zween Anton」(曲目「O Anton du bist mein」)でテノール歌手のベネディクト・シャックやヴィードナー劇場の他の主役たちと手を繋ぐジョセファ・ホーファー(前列左)
でした。ホーファーは、特に機敏な声と際立った高音域の持ち主だったと言われています。この才能を際立たせるために、モーツァルトは彼女のために「夜の女王」のアリアを2曲作曲しました。

作曲家イグナツ・リッター・フォン・ザイフリート( 1776ー 1841年)

は、1840年の手紙の中で、1791年12月5日に亡くなったヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの最後の日々についてこう書いています。

12月4日の夜、モーツァルトはすでに空想にふけっており、ヴィードナー劇場で『魔笛』を観ているのだと思っていた。妻にささやいた最後の言葉はこうだった。

「静かに!静かに!ホーファーがハイ・ファを歌っている。
そして義姉が2番目のアリア『地獄の復讐』を歌っている。なんと力強くシをうたい、それをキープするのだろう。

『聞け!聞け!聞け!母の誓い!』」

地獄の復讐が私の心の中で沸き立ち、
死と絶望が私を取り囲む!
もしザラストロがあなたを通して死の苦しみを感じないなら、
あなたは二度と私の娘にはなれない。
永遠に追放され、
永遠に見捨てられ、
永遠に打ち砕かれ、
あらゆる自然の絆も、
あなたを通してでなければ、ザラストロは青ざめるだろう!
聞け、復讐の神々よ、母の誓いを! 


最終日フルートコンベンションin神戸2025

2025-08-25 21:04:00 | 古典
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最終日
フルートコンベンションin神戸2025
朝1番は古田土楽器のショーケースに行きました。
もう部屋からエレベーターホールまで列ができていました。
なんとか入ったら遠慮されたのか前から5列目が空いていてそこに座りました。

古田土楽器は特殊管で有名なメーカー。

アルトフルート、バスフルート、Fバスフルート、コントラバスフルート、ダブルコントラバスフルートなど低音の楽器たちが並んでいました。

製作者の古田土さんのお話しでは、昔有名なフルーティストから32miriのバスフルートを作ってと頼まれて、その時太い方がいい音がすると思って開発していたので32miri管の他に34miri、35mmを用意したら結局34mmを持っていかれたそうです。
太い管は倍音が多く、低音が鳴らしやすい、そのかわりに1オクターブ半位がいい音の上限だそうです。

細い管は倍音は少ないけれどやはり高音まで鳴らせるバランスがいいそうです。
モーツァルトのディベルトメントを特殊管勢揃いで演奏した後、Fバスフルートで富久田治彦先生がフェルーの「Toan-yan」古田土さんが、「吹けないから吹いて」と連絡があったそうです。
高音まで使う難しい曲をバスフルートで吹くなんてさすがです。
吹奏後、「息の表現が広がる気がします。」と富久田先生。

中村淳さんのコントラバスフルートで「牝山羊の踊り」
34mm管のコンサートフルートでテレマンのファンタジーとジョリべのAscess古田土明歌さん、
八木澤教司の「ラーメン ヌードルズ」元々チャーバとユーフォニウムのための曲。
などおもしろかった!

次のショーケースは
工藤重典ヘインズトーク&ライブ2025
これがランパルの18Kのルイ・ロットとヘインズフルートの関係などフルートの世界の生きた歴史を語られました。

ルイロットが生涯に一本だけ作った18金の楽器。
あるフルート奏者に頼まれて金の延べ板を自ら加工して作ったそうです。
その後、金のフルートは生涯作らなかったそうです。
このフルートは長く行方不明になっていました。

ある日ジャン・ピエール・ランパルの父ヨーゼフ ランパルにパリの骨董屋さんから電話がかかってきたそうです。
「バラバラなんだけどフルートがあるから見てくれないか?もし、大したこと無かったら、金の延べ板にしようと思って」と。
ヨーゼフがパリに見に行くと「これはルイロットのあの一本ではないか?」と思い、売るのを待ってもらい、お金をかき集めて買ったそうです。
そして自ら組立てて楽器にしたそうです。
それが息子のランパルに渡すとみごとな音。

この楽器を11年吹いたそうです。
「本当に不思議です。吹くべき人のところに、吹くタイミングで現れた。」工藤先生の言葉です。

11年後、そろそろこの楽器、もヤバいなぁ、ということでこの楽器をモデルに同じ楽器をヘインズに注文したのが、世界中のフルート奏者が金の楽器を使うことになった始まりでヘインズか大きくなったきっかけだそうです。
ヘインズのラインナップを同じ曲で吹き比べてくださいました。

最後のショーケースはパウエルフルート。
シルヴィア カレドゥリサイタル。

レンスキーのアリア、ボルヌのカルメンファンタジー、ヴィドールの組曲op34、ブリッチャルディとクラカンプ編曲の「椿姫」によるファンタジーop18
パウエルの艷やかな高音、太い低音を余すことなく響かせた名演でした。

アンコールは「日本を愛する。」と日本語で言われて、何が始まるのかと思ったら宮城道雄の「春の海」でした。素晴らしかった!
裏ではフルート、アルト、ピッコロ、アンサンブル部門のコンクールと「現代奏法」セミナー、「お悩み解決講座」などなどされていましたが、参加できませんでした。
これで講座はすべて終わって神戸文化ホールに移動。
コンクールの受賞者表彰と、ガラ・コンサート。

コンベンションオーケストラをバックに招聘ゲストの演奏です。
サラ・ジャクソンさんのヴィヴァルディのピッコロ協奏曲 RV443

カール ハインツ シュッツさんのロドリーゴのパストラル協奏曲

マリーナ ピッチーニさんのニールセンのフルート協奏曲FS119

清水信貴さんのライネッケのフルート協奏曲op283

大曲ばかりのプログラムですが、火花が散るような共演に、観客も奏者もオーケストラも一体となって盛り上がり、ソリストと指揮者全員出てきてご挨拶しても拍手が鳴り止みませんでした。
私もフルートコンベンション堪能しました。
頂いた知識や奏法、音楽への向き合い方などなどこれから生かそうと燃えています。

それに
たくさんの音とセミナーは盛りだくさんで、まだまだ書ききれていません。そのうち書くかも…。

モーツァルトのフルート協奏曲Gdur、マスタークラスでも指導されましたカール ハインツ シュッツさんです。


フルートコンベンションin神戸2日目

2025-08-24 21:35:00 | 音楽
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コンベンションin神戸2日目
ブログ訪問もう少し待ってくださいね。

朝1番はサラ・ジャクソンさんのピッコロマスタークラスを聴講しました。

最初の、受講生はなんと藤原友紀さんでした。
セミナー仲間で素晴らしいピッコロ奏者です。
この上まだ勉強なんて本当に素晴らしいですよね。
オーケストラスタディでベートーヴェンの第九などなど、やはり素晴らしい音でサラ・ジャクソンさんも絶賛でした。

もう一人はヴィヴァルディのハ長調のピッコロ協奏曲RV443
歯切れのよいタンギングの練習方法、フレーズの骨格を見つけて練習するなど教えていただきました。

その後は富久田治彦先生のマスタークラス。

体調を壊された伊藤公一先生のピンチヒッターです。
ピアニストはいつもの水野久美先生。
テュルーのグランソロ第13番とタファネルの「魔弾の射手」幻想曲。曲の背景、源調からアナリーゼして適切なキャラクターを浮かび上がらせるなどさすがのマスタークラスでした。

次の講座は「脳とフルートの関係」をチェックしていましたが、行ってみるとすでに満席で入れませんでした。

仕方ないのでコンベンションセンターの前にあるファミマで卵やブロッコリーを買って来て食べました。

昨日の講習でコンビニでも健康のために買えるものと教えて頂いたので、すぐに取り入れてます。

さて、時間ができたので少し売店をひやかし…つい買ってしましいました。だってすごい先生が売り子をされているんだもん。

でもかわいいでしょ。
工夫を凝らしたフルートバックも素敵でしたが、今回は断念。


ショーケースと言って各メーカーさんが出しているコンサート。
行ったらもう並んでいました。最後尾についてまずはパールフルートのショーケース。


大フィル奏者によるフルート演奏…井上登記さん無伴奏でイベールのピースを吹いたら、次にオーボエが加わってマドリガル、クラリネットが入ってトリオ、ファゴットが入ってカルテット、最後は、ホルンが入ってダンツィのクインテットを演奏するものでした。

同じ部屋で三響プリマでしたがカール ハインツ シュッツさんのマスタークラスがあるのでそちらに移動。身体が2つほしい。


モーツァルトのGdurのコンチェルトとシューベルトのしぼめる花。
シュッツさん、実に丁寧で、曲のことだけではなく、吹くときの口の中、タンギングの舌の位置なと詳しく教えて頂きました。
また詳しくは後日。

その後はサクライフルートのショーケース。半分以上終わってましたが、2曲聴くことができました。

このメーカーは金属だけでなく、木製の頭部管や樹脂など様々な素材を試しておられて、バロックボワモルティエの5重奏を木製頭部管で揃えて演奏されていました。

イベールのコンチェルトの二楽章をフルートアンサンブルで吹き、なおかつフレーズで区切って楽器の素材を変えて音質がわかるようにされていたのがおもしろかったです。

その後は、ムラマツのショーケース。

大フィルと関西フィルの首席フルート奏者によるムラマツオリジナルの楽譜を使っての演奏でした。
すべてオペラモチーフだったのが私のツボでした。

さて、走ってホールに行ったのにすでにすごい列。
後からも続々と人がやってきます。
ドア前でスタッフが整理してくれています。このスタッフ山本純子先生でした。

他にも売店にも偉い人が店番に…。これがこのコンベンションのすごいところ。
先生方気さくで民主的です。

さてホールでの最後のお目当て。
「マリーナ ピッチーニさんのリサイタル」

骨太の濃い音で、シュルホフのソナタ、フランクのソナタのあと、
チャイコフスキーの「エフゲニー オネーギン」よりレンスキーのアリアをしっとりと歌いあげました。

続いて
「カールハインツシュッツのリサイタル」

ブーランジェの「春の朝に」
バッハのトリオ・ソナタBWV526
クーラウの「オイリアンテ」の主題による序奏と変奏op63
ブーレーズのソナタ

近代、バロック、ロマン派、現代とみごとに吹き分け、素晴らしい演奏でした。 
バッハ
オイリアンテこれはピアニストも凄かった!
現代は特殊奏法全開でしたが
帰りの時間があるのにアンコールが止まず困りました。

結局最後まで聞いて帰った。
今日も家に着くのは11:00過ぎ〜!

でもこのアンコール、フランスの作曲家ヴィドールワルツ。
この上なくおしゃれな演奏でした。
旧友にもあって楽しかったけれど夕飯も食べられなかった。
けれど、胸いっぱい、脳もいっぱい!
後1日最後まで楽しもう!
体力勝負か…。

サラ・ジャクソン ヴィヴァルディ協奏曲



フルートコンベンションin神戸1日目

2025-08-24 08:05:00 | 近代
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フルートコンベンション初日。
12:30メインホールでのオープニングセレモニーを目指して行きました。
震災の時に被災された人もたくさんいて神戸でやっていいものだろうか?と悩んでいる時被災された先生から「何言ってるんですか、こんな時だからやってください!」と言われてやってみたら、「我々もエネルギーをもらってすごい盛り上がりでした。」と言われていたのが刺さりました。

幕開けはデュカスのファンファーレ「ペリ」ユニバーサルフルートオーケストラジャパン。

フルートカルテット。「リュスランとリュドミラ」序曲を4人で…すごい超絶技巧でした!
全く乱れもなく、さすがでした。

ユニバーサルフルートオーケストラジャパンにソリスト清水信貴さんを迎えてジェイコブのフルート協奏曲。

関西のフルートを学ぶ学生さんたちのオーケストラ。
「こひすみつやま」酒井格作曲
指揮は関谷弘志さん。
よく練習されていて音程、ハーモニーも合っていて端正な演奏でした。
セレモニーの最後は関西のプロの演奏家によるオーケストラ演奏。
曲は多久潤一朗さんの委嘱作品で兵庫にちなんで5moment
それぞれヒョウと読む漢字一文字の5楽章

二楽章は雹でオーケストラ全員がホイッスルトーンで雹をみごとに表していました。
驚いたのは四楽章。
ベートーヴェンの交響曲第5番運命、ショスタコーヴィチの交響曲第5番、ゴジラやテイクファイブなど5のゴのつく曲のメドレー、なんと12曲入っていたそうです。
その後マリア ピッチーニさんのマスタークラスでプロコフィエフの「フルートソナタ」全四楽章を2人の受講生で分けて受講されました。

時間があったので展示ブースで試奏。

パウエル、YAMAHA、パール、コタト、アキヤマ、などのメーカー。野中、グローバルなど代理店などで私はバスフルートとアルトフルートなど特殊管を主に吹かせてもらいました。


その後、YAMAHAのショーケースではザビエル ラックと上野博昭と、のYAMAHAの楽器を使ったリサイタル。

ラックさんのブレッド ディーン「ソロフルートのための悪魔」現代の特殊奏法が満載のおもしろい楽曲でした。

ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」

上野博昭さんのカール フリューリンク「幻想曲」op55
お二人でドップラーの「アンダンテとロンド」

ここで今田聡美さんと合流。
金井直子さんの「演奏家のための栄養学」

いい演奏をするには身体が大切。身体作りは食事から、ということで最新の栄養学、サプリの取り方、料理の仕方などとてもためになるお話しでした。

最後は、瀧本実里さんのリサイタル。
栄養学と少しかぶってしまって途中から、サンカンのソナチネ、プーランクの「ソナタ」などなど
美しい音色、音程、素晴らしい演奏でした。
あまりにも盛りだくさんの1日。
明日も行きます。
詳細はまた今度。

家から2時間位かかるので、お昼も夕ご飯も食べれなかったので帰って早く食べて寝なくちゃ。投稿文は移動しながら電車の中で書いています。

明日は7:00出発!
みなさんのブログへの訪問は後日させて頂きますね。
瀧本実里さんのフォーレの動画見つけました。


失われた楽器のためのソナタ

2025-08-22 21:46:00 | ロマン派
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明日からフルートコンベンションin Kobe 2025に参加するので今日は大人しく家で、洗濯。

洗濯しないと着ていく服が無い。

日本フルート協会 1966年に設立されたプロ、アマチュア問わず入れる交流団体です。

各地でフルートフェスティバルなどを後援、主催していますが、2年に一度、コンベンションを開催されています。
実はこの中のコンクールは水曜日から始まっています。
今年は、コンサートフルートの他、ピッコロ、アルトフルートのコンクールもあり、アマチュア部門、音大卒部門それぞれ受賞者が選考されます。

他にも神戸国際会議場と神戸文化ホールでコンサート、マスタークラス、レクチャー、ワークショップ、それからフルートのメーカーから楽器の展示、デモコンサートも。

今夏はマリーナ・ピッチーニさんと、カール・ハインツ・シュッツさん、サラ・ジャクソンさんも来られます。
古楽器の演奏もあります。

詳しくは下記ホームページから

昨日ご紹介した奥野由紀子さんは前回コンベンションコンクール アルトフルート部門の優勝者でした。

明日から3日間の開催。少し遠いけれど牧野から通います。
とっても楽しみ!

洗濯していると、8月29日の聴き合い会でチェロの方から「アルペジォーネソナタ」を演奏したいとメッセージが来ました。
ピアノのSさんに繋げました。
こちらも楽しみです。

フランツ・ペーター・シューベルト( Franz Peter Schubert、1797– 1828年)
神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンシュタイン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


「アルペジョーネとピアノのためのソナタ イ短調 D821」
は、フランツ・シューベルトが1824年11月にウィーンで作曲した室内楽曲です。

このソナタは、アルペジョーネarpeggione

アルペジョーネ、Henning Aschauer が1968年に製作、Alfred Lessing の仕様に基づきます。
のための作品の中では唯一広く知られている作品です。

弦楽四重奏曲「死と乙女」と同時期の作品で、当時シューベルトは梅毒が進行し、度々の抑鬱症の発作に見舞われてもいました。

本作はアルペジョーネが発明された翌年に作曲されました。
おそらくは、アルペジョーネの演奏に通じていた知人ヴィンツェンツ・シュースターから、委嘱を受けてのことと考えられています。

作品がシューベルトの死後1871年に出版されるまでに、アルペジョーネ自体が愛好されなくなり姿を消していました。

そのためこの作品はもっぱらチェロ・ソナタないしはヴィオラ・ソナタに編曲して演奏されています。

また時折コントラバスやギターがアルペジョーネの代役を果たすこともあります。

「アルペジォーネソナタ」
第1楽章:Allegro moderato
第2楽章:Adagio
第3楽章:Allegretto

現代では
アルペジョーネは復元されていますが、奏者が乏しくほとんど実演は行われていません。

そのため、チェロやヴィオラなどを始めとして他の楽器への編曲が多く行われています。

編曲に際し苦慮される点は、チェロやヴィオラがアルペジョーネに比べて音域が狭いことです。
6弦のアルペジョーネに対して上記の楽器のほとんどは4弦で、そのためアーティキュレーションを手直ししなければなりません。

提示部末尾には6弦全部をピッチカートする指示があり、4弦しかないチェロやヴィオラではこの部分の忠実な再現はできません。

また、アルペジョーネはフレットがつけられているため、高音域の演奏が容易であり、これも現代の奏者を悩ませています。

5弦のピッコロチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ「肩のチェロ」)


ならば音域は同一になりますが、フレットはありません。

ヴィオラを5弦にし、その5弦目をEに調弦することで、原作に近づける試みもあるそうです。

フルートにも編曲されていて、私も何度か吹いたこともあります。
フルートに比べてアルペジォーネは音域が広いので、どうしても何箇所か上行形の音符を途中で折返してオクターブを下げなくてはなりませんでした。

アルペジォーネを復刻し、シューベルトの時代のピアノフォルテで演奏している動画を見つけました。

アルペジォーネは2001年にブリュッセル復刻されたもの、ピアノフォルテは1827年コンラッド グラーフ ウィーンで製作されたものだそうです。

演奏場所はコロイ ル シヤトー
 
プラバント公国1220-1230年に建てられました。現ベルギー ブリュッセル)



アルトフルート吹いてみた!

2025-08-21 21:00:00 | 楽器
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20日は、朝レッスンした後、午後から梅田ドルチェ楽器へ。
Sさんの楽器選び。

予算の範囲、同じ価格帯のいろいろなメーカーの楽器ばかりを出しておいて頂きました。

初めての楽器、ということで、
YAMAHA.Miyazawa.Azumino.パウエル、ヘインズ。
クロウズドキーとリングキー。
H足管のものも用意してくれていました。


吹き比べてみると、どの楽器もバランスがよく、レスポンスもいいです。
高い音も低い音も遜色なく良く出ます。

音程はここ10年でどの楽器も本当に良くなりました。

「管体銀だとやはりたかいですか?」と聞いてみましたら、「予算内のものがありますよ。」と持ってきてくれました。
YAMAHAの頭部管 管体銀。
しかも素材の高さのものに比較して10万円くらいに安いです。

期待して吹いてみたら、「あれ?思ったほどパワーが無いですね。」
「なぜかしら?」と言うとと国外で作っているそうです。
これなら洋銀のラインナップの方が良く鳴ります。

音程、バランス、鳴りやすさ、レスポンスはどれも素晴らしいので、後は響き。

倍音を含んだ艷やかな音と言うことでヘインズとパウエル。
リングキーC管。
鳴りだけ取るとMiyazawaのH管も捨て難い。

結局、艷やかなうえに明るい音色がSさんに合うような気がしてヘインズにしました。
ヘインズ、パウエルと言うと以前は高くて手が出ませんでしたが、ありがたいことに安い価格帯のものが出ています。
個体差はありますがこのヘインズはとてもいい感じでした。

さて、購入手続きをされている間に私はアルトフルートを試させて頂きました。

パールとサンキョー。
図ったわけではありませんが、サンキョーは心持ち管体が太い気がします。

パールもサンキョーも良くなります。
パールは安定した響き、サンキョーは倍音が多く深い響きがします。
「U字管は無いのですか?」と聞くと「最近、ストレート管の方が多いです。U字管はあまり回ってきませんね。」
「ストレートの方が音が出やすいのかなぁ?」と聞くと
「身体の大きさもあるからU字管もいいですよね。」
本当に縦バスやU字管は身体に優しいのですが、最近なかなか見かけません。
作って欲しいなぁ!

アルトフルート

コンサート・フルートの低音用の拡張として、フルート・ダモーレの次に位置します。

低音域の目立ってやわらかい音色が特徴です。

ト調の移調楽器で、ピッコロやバスフルートと同様に、ハ調のフルートと指使いは同じです。

アルトフルートの管はコンサート・フルートよりもかなり太く、演奏者はより多くの息を必要とします。

このため、低音域の1オクターブ半でデュナーミクの変化をつけやすいです。

音域はG3(中央ハの下のト音)からG6(実音でト音譜表の上第4線、三点ト)までで、さらに最高音域としてD♭7まで出すことができます。

頭部管の形

U字形の頭部管をもつアルトフルート

まっすぐな頭部管をもつアルトフルート
アルトフルートの頭部管にはU字形のものとまっすぐなものの2種類の形状があります。

U字形の頭部管は腕を伸ばす必要が少なくなるため、比較的身体の小さな演奏者に好まれ、重心が演奏者に近づくために、より軽く感じられます。

アルトフルートのアンブシュア(楽器を吹くときの口の形およびその機能のこと)はコンサート・フルートのものに近いですが、楽器の大きさに比例して大きくなります。 

アルトフルートの最大の革新は、1850年代にテオバルト・ベームTheobald Böhm, 1794 - 1881年]

によって開発されました。
彼はアルトフルートを特に好みました。
これは1850年代半ば、1854年から1855年頃、彼が60歳のときに起こったことを示す研究があります。

このアルトフルートの製作は、他の低音フルートが抱えていた当時の問題を解決するために行われました。ベームによる新しいフルートの設計は、指を伸ばすのに必要な長さを短くするために設計された合理的なキーシステムとレバーを備えていました。

また、低音域のGに対応するために、フルートのボアサイズにも新たな変更が加えられました。ボアサイズの変更に加え、キーの配置とサイズも、新しく大きくなったボアに合わせて変更されました。

最初の広く生産されたアルト・フルートは、1891年にロンドンのルーダル・カルテ社
(1820年代から続いている工房
「Rudall, Carte & co. 」)によって製作されました。
彼らはベームのアイデアと改良を多く取り入れ、アルト・フルートを製作しました。

アルトフルートは他の低音フルートと同様に、コンサートフルートよりも長く作られています。フルートが大きいほど、音程が低くなります。

アルトフルートの直径は約1インチ(2.54cm)、長さは34インチ( 86.36cm)です。

これはコンサートフルートと比較すると、直径が1/4インチ(0.635cm)広く、長さが約8インチ(20.32cm)長くなります。
アルトフルートの音孔は、そのサイズに比べて、現代のコンサートフルートの音孔よりもわずかに小さいです。

Davis (1997)によると、p。26

「平均化・換算したアルトフルートは、Cフルートに比べて音孔が比較的小さいことがわかる」

と言っても、フルートの製作者によって穴の配置は異なります。

特殊管の中では製作年が早いためオーケストラではアルトフルートは多く使われています。

ニコライ・リムスキー=コルサコフ
オペラ『ムラダ』

ラヴェルの『ダフニスとクロエ』
ストラヴィンスキーの『春の祭典』
フランコ・アルファーノのオペラ『シラノ・ド・ベルジュラック』
セルゲイ・プロコフィエフの『スキタイ組曲』
ドミートリイ・ショスタコーヴィチはオペラ『賭博師』(未完)
『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、『交響曲第7番』
グスターヴ・ホルスト『惑星』などの曲で使われています。

アルトフルートだけの曲はアレンジものが多いです。

奥野由紀子さんはアルトフルート奏者として活躍されています。


兄弟で華麗な演奏

2025-08-20 21:01:00 | ロマン派
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8月19日(火)
ピフレホール
大邱市と神戸市の友好コンサートが行われました。



榎田先生とピアノ河内仁志さんの「ファンタジーメランコリック」
イ・スンホさんの「ヴェニスの謝肉祭」

トリオでドップラーの「アンダンテとロンド」
フルートオーケストラで「アルルの女 第2組曲」

先生方の演奏は大邱市の時は聴けませんでしたが、今回は袖でゆっくり聴きました。

超絶技巧「ファンタジーメランコリック」は、榎田先生がブラジルの友だちに言って発見された新発見バージョンで、現在日本で発行されているモイーズ編曲版とは違うものです。
そのままで充分超絶技巧なのですが、もっと音符の数が増えて演奏するのは大変なのですが、朝から準備も大変なのにほぼノーミスで演奏され、また、河内さんのピアノも素晴らしく、お客様も歓声を上げておられました。
イ・スンホ先生の「ヴェニスの謝肉祭」はまた榎田先生とは違ったスタイルで明るく楽しい演奏でした。こちらも超絶技巧!

そしてお二人とピアノでドップラーの「アンダンテとロンド」
合わせの回数が少ない中、よく合わされたと思います。
美しい音色の共演で素晴らしかったです。

最後が榎田先生指揮の「アルルの女」第2組曲
韓国のメンバーの隣で吹くという得難い経験でした。
音の作り方、ビブラートの取り方、それぞれ違うのに、心を一つにして音楽で繋がる。
やっぱり音楽って良いですね!

演奏の後は串焼き田中で打上げ。
韓国の人たちは明るくて楽しい人ばかりでした。

また、会えるといいなぁ!

アルベルト・フランツ・ドップラー(1821年10月16日 - 1883年7月27日)

は、フルートの 名手で、作曲家としても知られ、フルート作品で最もよく知られています。

彼はまた、ブダペストのためにドイツオペラ1曲とハンガリーオペラ数曲を作曲し、いずれも大成功を収めました。

彼のバレエ音楽は生前、高い人気を誇っていました。
ドップラーはオーストリア帝国のレンベルク(現在のウクライナのリヴィウ)で生まれました。

1828年から1831年にかけて、オーボエ奏者であった父ジョセフ・ドップラーからフルートの手ほどきを受け、13歳でフルート奏者としてデビューしました。

4歳年下の弟カールとフルートの二重奏をし、カールは主に歌曲や付随音楽を作曲し、ヨーロッパ中で大きなセンセーションを巻き起こしました。 

二人は演奏旅行をし、
1838年にブダペストのドイツ劇場のオーケストラのメンバーとなり、1841年にハンガリー国立劇場に移りました。

そこでフランツのオペラ5作が上演され、成功を収めました。

フランツとカールはヨーロッパを定期的にツアーし続け、1853年にハンガリー・フィルハーモニー管弦楽団の設立に協力しました。

フランツは18歳でブダペストのオペラで第一フルート奏者となり、その後ウィーン宮廷オペラ

で第一フルート奏者、代役指揮者、最終的には首席指揮者となり、1864年から1867年までウィーン音楽院


でフルート教授の地位も獲得しました。

彼はオーストリアのバーデン・バイ・ウィーンで亡くなりました。

ドップラーは主にフルートのために作曲しましたが、オペラも作曲し、協奏曲、ショーピース、そして自身と弟カールが演奏する多くのフルート二重奏曲など、多くの作品を作曲しました。

彼の音楽にはロシア音楽とハンガリー音楽の要素が見られます。

オペラには『ユディト』 (彼の唯一のドイツオペラ)と『ベニョフスキー』というロシア作品があります。

彼は合計7つのオペラと15のバレエ(当時かなりの人気を博した)を作曲し、優れたオーケストラ奏者でもありました。

彼はまた、フランツ・リストのハンガリー狂詩曲6曲の管弦楽編曲を出版したことでも知られています。

「リゴレット幻想曲」op25
1851年フランツとカールがハンガリー管弦楽団に所属しながら定期的に演奏旅行をしていた頃の作品です。
ヴェルディの歌劇 『リゴレット (全3幕) 1851』 の主題を基にドップラー兄弟により超技巧的な 『協奏的二重奏曲 (Duo Concertant) 』 に仕立て上げられた作品です。

前奏曲に続き、第2幕の道化師リゴレットが侯爵邸内に 「娘のジルダを探しに入った場面」 から曲が始まり、第3幕の名曲 「女心の歌」、第1幕 「慕わしい人の名は」、第3幕 「四重唱」 を主題に美しく巧みに展開、華麗に変奏されたポプリ (接続曲) です。

榎田先生の動画はなかったので伊藤公一先生と富久田治彦先生、ピアノ水野久美先生の「リゴレット幻想曲」

喜歌劇ヴェニスの謝肉祭

2025-08-19 21:17:00 | バロック
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六甲アイランド ラサーラ ディ オルフェオでフルートオーケストラの最後の合わせでした。

六甲ライナー

韓国のメンバーも混じえて「アルルの女」第2組曲を合奏しました。

私は昨夜遅くに何かに当たったみたいでトイレと寝室を往復。正露丸を飲んで、2:00過ぎまで苦しみました。
朝起きたら収まっていましたが、お味噌汁と納豆くらいにして、お昼ご飯は抜き、合奏まで我慢。

2:00オルフェオ集合。
六甲アイランドで
熱中症になってはいけないので、直前にコンビニで塩タブレットを買って、口に入れて、お茶を飲み飲み練習しました。

着いたら韓国の先生が明日するフルートとピアノでドゥメルスマンの「ヴェニスの謝肉祭」の合わせの真っ最中。
超絶技巧…さすがです。
「アルルの女第2組曲」の
合奏も3rdの私は韓国の2ndさんと4thのトップの美音に挟まれて、とても勉強になりました。

練習の後はフルートデュオ
ドップラーの「リゴレット」を韓国の先生2人で演奏されていて、めちゃくちゃよかったです。

リゴレットの1stは私の隣の2ndさんでした。2人はご夫婦だそうです。
息の合ったデュオ。
リハーサルは聴けませんでしたが、榎田先生と韓国のチェリストイ・スンホさん、ピアノの河内仁志さんのトリオも聴けます。

19日2:00ピフレホールにぜひおいでください!

「ヴェニスの謝肉祭」は12世紀頃から始まったお祭りで毎年復活祭(イースター)の前の約2週間開催されています。
中世やルネサンス時代の華やかな衣装を身につけた人々が様々なデザインの仮面をつけ、身分を隠して自由に街を歩き回ります。
ナポリ民謡「ヴェニスの謝肉祭」はパガニーニが変奏曲を作るなど、17世紀各地で流行ります。

それとは別にカンプラの書いた喜歌劇「ヴェニスの謝肉祭」は
フランス語を用いたオペラの先駆けになっています。

アンドレ・カンプラ(1660- 1744年)
フランス王国エクス・アン・プロヴァンス生まれ、フランス王国イヴリーヌ県ヴェルサイユ没

1725年の肖像画
『ヴェニスの謝肉祭』(The Carnival of Venice)は、プロローグと3幕からなる叙情喜劇です。
台本はジャン=フランソワ・ルニャール。ジャン=フランソワ・ルニャール(1655年- 1709年)


初演は1699年1月20日、パリのパレ・ロワイヤル・ホールにおいて、王立音楽アカデミーによって行われました。
カンプラはこの作品をフランス王位継承者ルイ1世(大王太子)(1661 - 1711年)

に献呈しました。

ルイはこの作品を気に入り、死去直前の1711年2月に再演しました。

最初の二幕は、三角関係、愚かな老人、駆け落ちといった古典的なコンメディア・デラルテ( 仮面を使用する即興演劇)の筋書きを小道具として用いています。

そしてどういうわけか最後の幕は、オルフェウスがエウリュディケーを取り戻すために冥府へと旅する物語です。最後の幕はイタリア語で、最初の二幕はイタリア語のスラングが面白く織り交ぜられたフランス語で書かれています。

『ヴェニスの謝肉祭』(The Carnival of Venice)

舞台はカーニバルシーズン中のヴェネツィア。

プロローグ
舞台係たちは、舞台監督に促され、芝居の上演に向けて準備を整えます。辺りは乱雑で、木材の破片や未完成の舞台装飾が散乱しています。ミネルヴァは祝賀会に参加するために降り立ちますが、その状況に愕然とします。

彼女は自ら指揮を執ることを決意し、芸術の神々に助けを求めました。

音楽、舞踏、絵画、建築といった神々が護衛と共に現れ、壮麗な劇場を建設します。ミネルヴァは栄光の君主を祝う聖歌隊を招きヴェネツィアのカーニバルを舞台で披露します。

第1幕
ヴェネツィア、サン・マルコ広場。レオノーレは、レアンドレに愛していると告げたことを、それ以来彼の熱意が薄れていることに気づき、自分を責めます。

また、ライバルのイザベルを恐れます。二人の女性は、互いに若い男に愛されていると告白し、すぐにどちらもレアンドレのことだと気づきます。

お互いに相手が間違っていると思います。二人はレアンドレと対峙するが、レアンドレは最初はどちらかを選べない。最終的に彼はイザベルを選び、レオノーレは侮辱に対する復讐を誓います。

その時、ボヘミア人、アルメニア人、スラブ人の一団がギターを持って現れます。
彼らはイタリア語で歌い、踊ります。レアンドレはイザベルに、彼女がどれほど魅力的であるかを告げます。イザベルはレオノーレに対する不安を口にするが、レアンドレは自分に忠実であると彼女を安心させます。
第2幕
カーニバル期間中、賭博が行われます「サル・デ・レデュイ(割引)」。

イザベルに恋するヴェネチアの貴族ロドルフは、愛と嫉妬の間で揺れ動いていました。
場面は夜に移り、バルコニーのある豪華な宮殿が広がります。

ロドルフはライバルを偵察しようと陣取ります。レアンドレが楽団を引き連れてイザベルにセレナーデを歌いにやって来ます。

レアンドレと二人はイタリアの三重奏を歌います。
イザベルはバルコニーから歌いながら彼らに応え、この光景を目にしたロドルフは怒りと悪意を募らせます。
イザベルはレアンドレと話していると思い込み、嫉妬深い元恋人への憎しみを露わにします。ロドルフは正体を明かし、イザベルは彼の誘いを拒絶します。一人残されたロドルフは復讐を企てます。

レオノールが彼女の疑惑を確かめるために現れ、イザベルはレアンドレに騙されたことを告げます。二人は復讐を企てる。幸運の女神が現れ、世界中の国々を代表する賭博師たちが列をなして現れます。
第三幕ヴェネツィアの広場。

壮麗な宮殿に囲まれ、ゴンドラが行き交う運河が流れ込む。レオノールは愛と復讐心の間で揺れ動いていました。ロドルフがやって来て、ライバルを殺したと告げる。レオノールは嫉妬に屈したことを後悔し、恐怖に駆られてロドルフを拒絶します。ロドルフはイザベルにレアンドレの死を自ら告げようと決意する。

街の敵対勢力であるカステラ派とニコロ派が、横笛とタンバリンで[楽しませています。

カステラ派はニコロ派を打ち負かし、踊りの喜びを表現しています。

イザベルはレアンドレの死を知り、嘆き悲しみます。
彼女は自らの命を絶とうと決意するが、そこにレアンドレが現れ、それを阻止します。レアンドレは、彼を殺そうとした雇われた暗殺者が標的を外したと説明します。
二人は互いへの愛を告白します。

劇場でオルフェウスの寓話が上演され、それに続く盛大な舞踏会が開かれる中、レアンドレは船で逃げることを提案します。

冥界のオルフェウス(イタリア語)。劇場が現れ、プルートンの宮殿が姿を現します。
人間がやって来ることを知ったプルートンは、冥界の神々に警告します。
オルフェウスの歌に心を奪われたプルートンは、エウリディーチェを引き渡すよう懇願します。
プルートンは、オルフェウスが冥界から出るまでエウリディーチェを見ないことを条件に、引き渡すことに同意します。

エウリディーチェが現れ、彼女の再三の呼びかけに応えてオルフェウスは彼女を見ようとします。冥界の悪魔たちは、二人を永遠に引き離します。

壮麗な広間。カーニバルの姿が、各国から集まった仮面をつけた参加者たちのパレードを率いて登場します。
仮面をつけた人々は真剣な面持ちで踊り始めます。
カーニバルは、もっと軽薄なものが見たいと告げます。豪華な山車が現れ、喜劇的な仮面をつけた人々も踊りに加わります。

メロンの頃

2025-08-18 21:00:00 | ルネッサンス
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富良野メロン。
次男がふるさと納税で頂いたもの。
実家に持って行って、お墓参りの後夕食後、母と長男も混じえてみんなで食べました。
やっぱりスペシャルにおいしかった!

メロンなんて贅沢なもの滅多に買いません。買ってもマクワウリとかアンデスメロン。
前回食べたのは従兄弟の結婚式
以来かも。



メロン(甜瓜、和名:メロン、英: melon、学名:Cucumis melo)は、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物です。  

インドのインダス渓谷で紀元前2300年 - 同1600年ごろのメロンが発見されました。
その後インド中西部で紀元前1600年ごろのものが発見されています。

古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいました。

これがウリ科植物やメロンの仲間を表すラテン語のククルビット(cucurbit)の語源となりました。

粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン2世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられています。

紀元前2000年ごろの古代エジプトでは、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれています。

古代ギリシアで、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、紀元前4世紀のヒポクラテス


によるものです。

古代ローマでも、同様にメロンが食べられていましたが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられています。

メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明ですが、中国浙江省では紀元前3000年ごろのメロン種子が発掘されています。
中国産メロンについて
「蜂蜜のように甘く、麝香のような芳香を持つ」と評しています。

6世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説され、『西遊記』の三蔵法師で知られる7世紀唐代の仏僧・玄奘


は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残しています。

13世紀モンゴル帝国のシルクロードを旅したマルコ・ポーロ
は、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書いています。

14世紀後半に中央アジアを支配したティムールを訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評しました。

大航海時代に入ると、16世紀イギリスの探検家アンソニー・ジェンキンソンのほか、19世紀ヴィクトリア朝の探検家フィレッ
ド・バービーナや、ジャーナリストのエドモンド・オドノヴァンらが中央アジアに訪れた際に食べた甘くて新鮮なメロンの美味しさに言及しています。

16世紀以降、カンタロープメロンと他の甘いメロンがヨーロッパで非常に人気があり、南フランスのカヴィヨン地方はカンタロープメロンの産地として有名になりました。

新世界には元々メロンは存在しませんでしたが、クリストファー・コロンブス(1451-1506年)

が1494年のカリブ海域をめざす2度目の航海で初めて持ち込みました。

メロンは旧世界から新世界でも急速に広がり、16世紀前半には中米で栽培され、16世紀後半から17世紀前半にかけて北米のフロリダやハドソン川流域でも栽培されるようになりました。

さらに1683年、スペイン人はメロンの種をカリフォルニアに持ち込み、北米のスペイン人入植地におけるメロン栽培は成功をとげています。

スペイン植民地時代初期のパナマとペルーや、イギリス・オランダ植民地でも、メロンはごくふつうに食べられていました。

南米北東部にあるオランダ植民地のスリナムで、奴隷反乱の鎮圧に加わったオランダ人のジョン・ステッドマンは、18世紀末に黒人奴隷がメロン栽培をしている様子を伝えています。

一方でメロンについての記述で初期のものは、何も知らない人がメロンを食べて命を落としたという根拠のない警告が多数あり、中世ヨーロッパ人のあいだでは、メロンは甘いのでつい食べ過ぎると病気にかかり命を落としたり、中毒性があると危険視する考え方もまかり通っていました。

19世紀末にアメリカ・カリフォルニアに移住してきたアルメニア人は、祖国から甘いカサバメロンやペルシャメロンを持ち込み、栽培しました。

その100年後、カリフォルニアへ移住したアフガニスタンと中央アジア移民も同様に、祖国から持ち込んだ甘いメロンの栽培に取り組んでいます。

北米産で緑果肉で刺激の強い香りを持つモントリオールメロンは、17世紀末にイエズス会がフランスからカナダに持ち込んだメロンを、19世紀に品種改良したものだと言われています。

収穫後は日持ちしないため一時絶滅しかかかりましが、1995年に種子がアイオワ州のシードバンクで再発見され、このメロンの生産を再開する努力と更なる改良が続けられています。

1970年代のイスラエルでは、ハネデュースメロンとマスクメロンを交配して甘く芳香のあるガリアメロンが作られ、これがブラジル、スペイン、アメリカ、パナマ、エジプト、コスタリカで商業生産されています。

フランスでは、南フランスのカヴァイヨン地方で産するカンタロープメロンが国の誇りとなっています。

1494年コロンブスが新大陸にメロンを持ち込んだ頃の音楽と言えば、

フアン・デル・エンシーナ(Juan del EncinaまたはEnzina, 1469年 - 1533年)はスペイン・ルネサンスの作曲家・詩人・劇作家。


カトリック両王時代(アラゴン王フェルナンド2世(Fernando el Católico)とカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel la Católica)。彼らは1469年に結婚し、後に彼らの子孫の下で王朝連合国家としてのスペイン王国が成立します。)


を象徴する文芸人で、しばしばスペイン演劇(スペイン黄金世紀演劇)の創立者と呼ばれています。

サラマンカ近郊の、おそらくエンシーナ・デ・サンシルベストレの出身。サラマンカ大学を卒業してすぐアルバ公(ガルシア・アルバレス・デ・トレド)に執事として仕えます。

1492年に、グラナダ陥落を記念して執筆した戯曲『名誉の勝利 Triunfo de la fama 』
イザベラ女王が購入したタペストリー「名誉の勝利」
によってアルバ公を楽しませます。

1496年に、叙事的な戯曲や抒情詩を集めた『カンショネーロ Cancionero 』を上梓すると、この戯曲はそれから20年間にたびたび版を重ねました。

数年後にローマを訪れ、音楽的力量によってローマ教皇アレクサンデル6世(1431-1503年)

を魅了し、ローマ教皇庁の聖歌隊長に任命されます。

1518年頃に上級聖職者に叙階されると聖地エルサレムに巡礼して、初めてミサ曲の作曲を着想。

1509年にはマラガ(スペイン・アンダルシア州マラガ県のムニシピオ(基礎自治体))司教座で参事会員に就任し、1519年になるとレオン地方の小修道院長に任命されます。

1533年に地元サラマンカで亡くなったと伝えられています。

フアン・デル・エンシーナの歌「Desidme, pues sospirastes 」を収録したカンチョネロ・デ・パラシオ所蔵のフォリオ

エンシーナの『カンショネーロ』(詩歌集)は、韻律論の序文があり、スペインにおける詩作の状況が論じられています。

14の戯曲は、中世ヨーロッパの神聖劇からルネサンスの世俗劇への変遷が特徴的です。
世俗的な作品はスペイン文化に新たな出発点を創り出し、宗教的な牧歌劇は、17世紀のスペイン演劇に至る道のりをつけました。

カンショネーロ・デ・パラシオ(王宮詩歌集) Cancionero de Palacio (1496年)より
「甘く愛しい炎」
甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす
愛しいあなたへ
それは少しずつ私を焼き尽くす
甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

この情熱的な女性へ
人々の先頭に立つ
私はいつまでも仕える
彼女に祝宴と遊びを与えるために

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

私は心に
固く決意しました
あなたのしもべとなり
彼女に祝宴と遊びを与えるために

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

私は心に
固く決意しました
あなたのしもべとなるために
どんな時も
あなたのために燃えているのは良いことです

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす