音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

アレンジがいっぱい!

2024-10-16 09:01:00 | ロマン派
火曜日午後は長居公園近くのヴァイオリンの木村直子先生、チェロの木村政雄先生のお宅でヴィオラ金重さんとアンサンブルレッスン。



曲はホフマイスターのフルートカルテットop19を練習。
しかし、古い楽譜しか入手できなく、先月しようとすると、なんと!第1楽章フルートが10小節ほど落丁していました。

小節番号を書くことから初めましたが、これが難題。
段替わりで小節を2つに切っていたり、全音符のような記号が全音符かと思ったら小節を飛ばして先にいけ!という記号だったり、それぞれのパート譜に番号を振って最後に何小節あったか?確認すると、全員違ったり…大変です。

印刷譜が欲しい。
ホフマイスター自身が楽譜出版を手掛けていて彼自身が出版した譜面ですが、ダメダメやん!

小節番号は諦めてリハーサルマークABC
とリピート記号で振ってみたら、今度はヴィオラと数が違います。
どうもリピート記号がパートによって違うみたい。

困ったものです。
それでも合わせてみたら結構いい曲です。
「スケールやアルペジオが多くて勉強になります。」と金重さん。

フルートは…結構難しい。フルート協奏曲のように華やかに活躍しますが超絶技巧。
必死で練習しなくては!

その後、ドボルザークのピアノ五重奏op81第1楽章を練習。

やっぱり素晴らしい!けど、難しい。
第1ヴァイオリンをフルートで吹くので低音Aまで出てくるので、オクターブ上げたりしながら演奏します。

来月は病気療養中だったピアノの坂田さんが回復してレッスン復活の予定!

金重さん、ドボルザークとホフマイスター、モーツァルトピアノソナタを再開することにしました。

精進、精進。 
それと、
オペラ「カルメン」のフルート、バスーン、ピアノトリオ版をメルカリで手に入れました。

金重さんと帰りにコンビニでコピー。
バスーンの楽譜をヴィオラに編曲して演奏しようと言うのです。
「行けるかな?」と心配な私に「大丈夫、大丈夫!」と金重さん。
ヴィオラの音域とこのバスーンの音域がバッチリ被っているみたい、2、3ヶ所変更したら行けると言うことでした。
こちらも練習開始です。

オペラ「カルメン」はジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国プージヴァル没

が1075年3月3日パリオペラ座で初演されました。
初演は不評でしたが、客の入りは悪くなくビゼーのもとには『カルメン』のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォに改めたグランド・オペラ版への改作が依頼されました。

この契約を受けたビゼーでしたが、持病の慢性扁桃炎による体調不良から静養中の6月4日、心臓発作を起こして急死してしまいます。

そこで友人である作曲家エルネスト・ギローが改作を担当してウィーン上演にこぎつけ、それ以降フランス・オペラの代表作として世界的な人気作品となりました。

以来、様々なアレンジのものが存在しています。
これはサックス四重奏。

こちらは弦楽四重奏

ギター二重奏。

こちらは弦楽にピアノが入ったアレンジ。



85歳現役の作曲家

2024-10-15 20:54:00 | 現代
月曜祝日は西宮ギター練習会。
今津公民館。
阪神電車に乗ろうとしたらアニメ「タッチ」のラッピング。
甲子園100周年記念列車でした。
今日は試合が無いので甲子園辺りは静かでした。

ギター川原久美子さんとフルート久米素子でヴィヴァルディの「冬」の第2楽章、モーツァルトのフルートソナタop14第2楽章、イベールの「間奏曲」、ピアソラの「リベルタンゴ」を変奏しました。

「冬」にしては暑かった。
最高気温27度。半袖のカーディガンを着て、ちょっと動いて脱ぎました。

西神中央で来週コンサートをされる高橋政一さん、バリオスのワルツ熱演でした。ブローウェル好きの鈴木さんは魅惑の瞳を演奏。
シューベルト歌曲特集の渡邊さん。
アルカスの「椿姫の主題による幻想曲」の河口さんの演奏も素晴らしかったです。
川原さんはソロでジュリアーニの「ヘンデルの主題による変奏曲」を見事に演奏されました。他のみなさんも熱演が続きました。

11月9日(土)13:30〜神戸市垂水区のカフェ ティンカーベルでお義姉さまと姉妹コンサートをされます。
そちらもぜひおいで下さい。

レオ・ブローウェル(Leo Brouwer、1939年3月1日 - )は、キューバ ハバナ生まれ、

作曲家、ギタリストで指揮者。本名はフアン・レオビヒルド・ブローウェル・メスキーダ(Juan Leovigildo Brouwer Mezquida)。

彼の祖母は作曲家のエルネスティーナ・レクオーナ・イ・カサド(1882-1951年)。

アメリカ合衆国に留学し、ハートフォード大学、さらにジュリアード音楽学校で学びます。
ジュリアード音楽学校ではステファン・ウォルペ(1962-1972年)
に師事。初期の作品はキューバの民俗音楽の影響を示しています。

しかし1960年代から1970年代にかけてルイージ・ノーノやヤニス・クセナキスのような現代音楽の作曲家に興味を持ち、「ソノグラマ1」のような作品では不確定要素を取り入れています。

この時期の他の作品には「雅歌」(1968年)、「永遠の螺旋」(1971年)、「パラボラ」(1973年)、「狂おしい思い」(1974年)などがあります。

近年では調性と形式美に傾き、
ギター独奏曲の「黒いデカメロン」(1981年)、「鐘のなるキューバの風景」(1987年)、「ソナタ」(1990年、ジュリアン・ブリームに献呈)などでその傾向を示しています。

ギタリストとしては1980年代まで活動していましたが、右手中指の腱を痛めたのがもとで以降は指揮活動を中心に活動しています。
  
ブローウェルはキューバで映画音楽協会の理事など多くの公職についています。彼の作品の大部分はギター独奏曲です。

ギター協奏曲を初め40本以上の映画音楽も手がけています。
ハバナ国際ギターコンクールにも関わっています。




そうしなければならないのか?最後の弦楽四重奏

2024-10-14 21:01:00 | 古典
日曜は鶴見区民ホールでプロージット室内管弦楽団の練習でした。

2度目の地下鉄鶴見緑地線横堤。

いよいよ本振りの木許裕介先生の登壇です。

献堂式、ミサ・ソレムニスを見ていただき、第九。
第1楽章の最後の513小節目から木許先生「ここから地獄の門が開くのです。この低音が苦難の音階です。ベートーヴェンは地獄に降りる覚悟はあるか?と言っているような感じがするのです。」
「バタフライエフェクト…小さな羽ばたきがやがて巨大な山を動かす。耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、小さな、小さな羽ばたきを少しずつ繊細に重ねて行き、やがて大きな動きになる。そんなフォルテの境地に到達しました。」
ベートーヴェンの深みにどんどんハマっていきます。

いよいよ来週末本番です。

フリードリヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)
神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 作品135は、ベートーヴェンが1826年に作曲した弦楽四重奏曲です。

死の5か月前に完成しました。
ベートーヴェンが完成させた最後の弦楽四重奏曲で、ベートーヴェンのまとまった作品としても生涯最後の作品です。自身のパトロンであり崇拝者でもあったヨハン・ネポムク・ヴォルフマイヤーに捧げられました。

シュパンツィヒ四重奏団は、ベートーヴェンの死から1年後の1828年3月23日にこの作品を初演しました。

最後に完成された弦楽四重奏曲の楽章は、『大フーガ』の代わりに作曲された、第13番の終楽章でした。

『大フーガ』を除いた後期の四重奏曲の中では最も小規模で、ハイドン以来の古典的な4楽章形式に戻っています。

自筆譜においてベートーヴェンは、最後の楽章「難しい決断」の導入部のゆっくりとした和音の下に、

「"Muss es sein?"そうしなければならないのか」と自筆譜に記しています。
それに対して
「"Es muss sein!"そうしなければならないのだ」と応答しています。

この謎めいた文については深遠な哲理を示すものとの見方もあれば、軽いやり取り(友人から借りた金を返さねばならないか否かなど)に過ぎないという説もあります。

印刷版は1827年9月に出版されましたが、ベートーヴェンはその年の3月にすでに亡くなっていました。

1827 年 4 月 12 日の死後数週間後、アントン シンドラー (ベートーヴェンの秘書)

は、弦楽四重奏曲の出版を担当していたベルリンの出版社シュレジンガーに、次のように書き送っています。

「亡き友人ベートーヴェンが、死の数日前に私に、あなたに手紙を書いて次のことを尋ねるように頼んできました。すなわち、あなたが彼から受け取った最後の四重奏曲の作品番号は何番か、そしてベートーヴェンがすでにこの四重奏曲に献辞を贈っていたかどうかを知ることです。作品番号については、彼は 130 か 131 であると考えていました。献辞については、あなたに送ったかどうか覚えていないので、友人のヨハン ヴォルフマイヤーに捧げてほしいと頼んでいました。」

ヨハン ヴォルフマイヤーは裕福なウィーンの織物商、音楽愛好家、ベートーヴェンの (秘密の) パトロン、友人でした。
ヴォルフマイヤーがベートーヴェンの音楽を大いに賞賛していたことは明らかで、1826 年 8 月の会話帳に、ヴァイオリニストのカール・ホルツがベートーヴェンに宛てて「ヴォルフマイヤーは 25 年前にあなたを擁護し、今や人々がそれに気付いていることをとても喜んでいます」と記しています。

ベートーヴェンは弦楽四重奏曲作品 131 をヴォルフマイヤーに献呈することをすでに検討していましたが、最終的には恩義を感じていたシュトゥッターハイム男爵に決めました。

ヴォルフマイヤーは、死後に作品 135 を献呈することでその埋め合わせをしたが、これはおそらくカール・ホルツの発案によるものであろう。シンドラーが書いているように、重病の作曲家が本当にこの献呈を自ら手配したのだろうか? 疑問が残ります。





赤ずきんちゃん

2024-10-13 21:00:00 | ロマン派
枚方市の光明寺で「極楽往生お寺ライブ」に出演してきました。

羽田雅峰住職は子どもの元PTA仲間で、毎年声をかけていただいています。

ギター川原久美子さんとフルート久米素子でイベールの「間奏曲」、モーツァルトの「ソナタop14」、ピアソラの「アヴェ・マリア」「リベルタンゴ」を演奏させていただきました。

境内では彼岸花が満開でした。

今回はたくさんの出演があり、ジャズの人や、ネパールの笛の参加。
タイの楽器などバラエティ豊かで楽しかった〜!
楽屋では情報交換、お友だち申請花盛り。
手作り販売や、

蓮の花製作ワークなどもありました。

浄財箱はユニセフにすべて寄付するということで、たくさん集まってると良いなぁ!

光明寺 枚方市
浄土宗 知恩院末医王山(いおうざん)薬師院開基は不詳、もと通称寺屋敷にあったが元禄年間の火災で焼け薬師地と言う現在の地に移り、薬師堂と合併したので薬師院と呼んでいます。

本尊は阿弥陀如来像で僧恵心(えしん)の作薬師堂の本尊薬師如来は運慶(うんけい)の作と言われていますが確証はありません。

本堂は安政六年(1859)の再建。
脇壇の聖観音は定朝の作で明治三年廃寺となった観音寺の本尊です。
観音寺は慶応二年三月現在、河内西国の廿八番札所でした。

光明寺ホームページより

ツェーザリ・アントーノヴィチ・キュイ(1835 - 1918年)ロシア帝国ヴィリニュス生まれ、ソビエト連邦社会主義共和国ペトログラード没

は、ロシアの作曲家、音楽評論家・軍人で、ロシア五人組
(ミリイ・バラキレフ(1837 - 1910年)モデスト・ムソルグスキー(1839 - 1881年)アレクサンドル・ボロディン(1833年- 1887年)ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844 - 1908年))の一人です。

作曲者自身の用いたフランス語表記に従って、セザール・キュイ(César Cui)と呼ばれます。
(リトアニア語では「ツェーザリウス=ベニヤミヌス・キュイ(Cesarius-Benjaminus Cui」 )。

10曲のオペラを残したほか、ピアノ曲『25の前奏曲』。五人組の中では長寿に恵まれ、厖大な作品数を残しました。
『赤ずきん』は、ツェーザリ・キュイが1911年に作曲した2幕3場からなる子供のための童話オペラです。
シャルル・ペローの同名の童話を基にMarina Stanislavona Pol'が台本を作成しました。

総譜は1912年に出版され、ロシア皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチ
1904-1918年ロシア10月革命により14歳で殺害されました。
に献呈されています。なお初演の日時は明らかとなっていませんが、1921年には白ロシア・ソビエト社会主義共和国(現ベラルーシ)のホメリで上演されています。

「赤ずきん」
第1幕第1場
合唱によって物語が説明されます。
舞台はとある森の近く。赤ずきんは病気の祖母のもとへケーキを届けに出掛けます。
出かける前に、母親は森の中で遊んだり、見知らぬ人と話したりしないよう 
言います。

第1幕第2場
不気味な森。木こりたちが木を切る音が聞こえています。
茂みの中から赤ずきんが現れ、花を摘もうと立ち止まります。その姿が狼の目に留まり、狼は赤ずきんの行く手を塞ぎます。
赤ずきんちゃんはオオカミに出会います。イラストはウォルター・クレーン。
そして、祖母の家までの近道を思いつき、どちらが最初に祖母の家までたどり着くか勝負を持ちかけます。
赤ずきんは話に乗り、狼とそれぞれ別の方向へと駆けています。

第2幕
祖母の家と林。
狼が3日間何も食べていないこと、そして最初に祖母の家に着いたと合唱がはいります。

赤い頭巾を被った狼は何とか家へと押し入り、祖母を飲み込んでしまいます。
狼はベッドの中に潜り込み、赤ずきんが現れます。

アーサー・ラッカム
疑問に思った赤ずきんが祖母の見た目の変わりように驚いていると言うと、狼は正体を現し、赤ずきんも飲み込みます。

ギュスターヴ ドレ 赤ずきんと狼
そこへ猟師と木こりたちが現れ、家の中へと入ってきます。
彼らは狼の跡を追ってきたのです。
狼が眠っているのを見て、彼らは腹の中から赤ずきんと祖母を救い出します。

オーレル ルコエ
そして、狼の腹を再び縫い合わせ、狼を悔い改めさせます。
狼は善良になることを約束し、約束を守り続ける限り森の中で生きていくことを許され、幕は閉じます。

なんで「赤ずきん」かって?彼岸花の赤色にちなみました…くるし💦







鳥よ年ごとに

2024-10-12 20:42:00 | 古典
藤の森駅前の疎水。
金曜日は目の検査で藤の森駅近くの病院に行ってきました。

水鳥のようなものが泳いで来るのが見えたので撮ってみました。
目が悪いので何か見えませんでしたが、帰って写真を見たら川鵜でした。

『鳥よ、年ごとに』(とりよ、としごとに、フランス語:Oiseaux, si tous les ans )K.307(248d) は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、オーストリア大公国ウィーン没

1777年21歳のモーツァルト
が作曲したフランス語の歌曲です。

1777年9月、モーツァルトはかねてから犬猿の仲となっていたザルツブルク大司教ヒエロニュムス・フォン・コロレド(1732 - 1812年) に辞表を提出し、新天地を求めるために母アンナ

とパリへ旅行に向かいました。
ミュンヘンを経てマンハイムに着いたモーツァルトは、就職はそっちのけで10月末から翌1778年の3月の半ばまで長く滞在しました。

それはマンハイム楽派のすぐれた音楽家たちと知り合ったことと、16歳のソプラノ歌手アロイジア・ウェーバー(1760-1839年)

に恋したためでした。

そのマンハイム滞在中、この「鳥よ年ごとに」と次の歌曲『寂しく暗い森で』の2曲は、特に親しくなったフルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングという人物の娘エリーザベト・アウグステ・ヴェンドリングの依頼で作曲されました。

エリーザベトは後にミュンヘンでオペラ歌手として活躍し、ハイドンなども美しさと歌唱を絶賛したといわれています。

「鳥よ年ごとに」
鳥たちよ、あなたが毎年
私たちの気候を離れるなら、
悲しい冬が
私たちの木立を剥ぐとすぐに。
それは単に 葉を変えたり、
霜を避けるためだけではありません。

でも、あなたの運命が あなたを愛することを許すのは、 花の季節だけです。
そして彼女が亡くなったとき、あなたは 一年中愛するために 、別の場所で彼女を探します。




復興

2024-10-11 21:02:00 | ルネッサンス
裏庭のマンデビラ・スプレンデンス/ディプラデニア・スプレンデンス
長っ!
和名はあまり使われないそうです。

メキシコ〜アルゼンチン原産
夾竹桃も仲間にいます。
昨年植えた時に少し咲いただけで枯れて枝?蔓?だけになってしまったので死んでしまったかと思いました。
夏の間もほぼ葉もなく、、いよいよだめかと思いました。
しかし、秋雨が降り出すと復活!
きれいです。

ルネサンス(仏: Renaissance)は、Re再び + naissance 誕生。
「再生」「復活」などを意味するフランス語です。

古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。
14世紀にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各国に広まりました。

19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用しました。

その後、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象(古典古代の文化の復興)の多くが、中世にも存在していたことが明らかになります。

また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかになりました。

14世紀から15世紀のイタリア半島でイタリアの諸都市で大きな文化の変革運動が起こり、ヨーロッパ各国に大きな影響力を及ぼしたこと自体を否定する論者はいないことから、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、やがてヨーロッパ各国に波及したと捉えられます。

イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、宗教改革後のトリエント公会議(1545年-1563年)までが想定されています。

音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期です。

16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがされました。

主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ(1545年/1551年頃 - 1618年)は、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年)、ピエトロ・ストロッツィです。

彼らは従来のポリフォニー音楽(複数の独立した声部からなる多声音楽)では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がりました。

また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッッペーアの戴冠』といった傑作が生まれました。

ヴィンチェンツォ ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父1520年頃 - 1591年) フィレンツェ生没


は、イタリアのリュート奏者、作曲家、音楽理論家であり、有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイの父で、リュート奏者で作曲家のミケランジェロ・ガリレイの父。

後期ルネサンス音楽の重要人物であり、バロック期を開く音楽的革新にも深く関わっています。

振動弦と気柱における振動の物理の数的研究。

モノディ(レチタティーヴォにきわめて近い音楽的形式)の創始者の一人であり、オペラにおいてレチタティーヴォが使われることになったのは一般にヴィンチェンツォの功績だと評価されています。

ヴィンチェンツォはマドリガーレ2巻やリュートのための楽曲、そして相当数の声楽とリュートのための楽曲を作曲しました。
後者は多くの点でバロック初期の様式を先取りしたもので、ヴィンチェンツォの最も重要な作品であると考えられています。

なお、オットリーノ・レスピーギ『リュートのための古風な舞曲とアリア』第1組曲の第2曲「ガリアルダ」は、ヴィンチェンツォの作品を元にしています。






平和コンサートin枚方

2024-10-10 20:59:00 | コンサート
水曜日午後、
第5回平和コンサート2024in枚方
ウクライナに平和を

に行ってきました。
アンサンブルレッスンでいつもお世話になっているヴァイオリンの木村直子先生、チェロの政雄先生が私の地元枚方で演奏される、これは、いかねばなりません。

ピアノの坂田さんと聴きに行きました。
声楽の前田なつみさんとピアノの堀井みどりさんで
いのちの歌、Everything、夜来光(イェイライシャン)
マイクを通して歌われるボイストレーナーの方で、楽しいトークも交えて親しみのある曲を歌われました。

中国琵琶のエンキさん中国少数民族のイ族舞曲、アニメタッチの主題歌、枯葉、エンキさんの自作の月光の祈り、そよ風、祭りの広場。
中国琵琶は、北魏時代の敦煌莫高窟壁画に5弦の琵琶が描かれているそうで、指で弾く琵琶。
トレモロ奏法、早弾きもあり大きな音量でパワフルな演奏でした。

そしていよいよ直子先生と政雄先生の音登夢と南木優子先生のピアノの演奏。

アメイジンググレイス、チェロとピアノだけでカザルス編曲の鳥の歌。再びトリオでマンシーニの「ひまわり」
平和へのメッセージ届きました。

能登半島への支援募金も兼ねていると言うことで石川さゆりさんの持ち歌、三木たかしさん作曲の「能登半島」、
山口百恵さんも歌った「コスモス」をお二人で、
直子先生のお好きなピアソラの「リベルタンゴ」「オブリビオン」
そして「光る君へ」のテーマを3人で
「大河の曲ですが、誰推しですか?」と直子先生、政雄先生にマイクを向けると「定子。」
南木先生は「公任さま。」
直子先生は「道長❣️」だそうです。
私も道長さま!
この壮大な曲を、トリオで演奏して全くスケール感が落ちません。

ブラボー!でした。
アンコールには「情熱大陸」
楽しかった〜!

次はフェニックスホール11月30日アルゼンチンタンゴを演奏されます。
これは人気ですぐ完売だそうです。
行かれる方はお早めに!

そしてなんと!「秋桜」の動画ありました。ほとんどの曲を政雄先生が編曲されています。これも!素敵です。
アットエリーゼで楽譜購入できます。



オリンピック賛歌

2024-10-09 21:01:00 | 近代
火曜日午前中は子育てサロンの運動会!ぽっぼリンビックでした。

聖火のリレー。

動物に変身リレー。

ボウリングなどなど。
みんながんばりました。
子どもたち、お母さんたち、お父さんたち、スタッフも、みんなで楽しみました。

1896年第一回オリンピックはアテネで開かれました。

アテネオリンピック開会式

参加14か国241人 

予算の関係で金メダルは無く、優勝者には銀メダル、2位で銅メダル、3位以降は賞状だったそうです。

音楽にはオリンピック賛歌(Olympic Anthem)、詞コスティス・パラマス(Kostis Palamas)、曲スピロ・サマラス(Spyros Samaras)によって作られ、この第1回アテネオリンピックにおいて演奏されました。

スピリドン=フィリスコス・サマラス(別名スピロス、スピロ・サマラ、ギリシア語:Σπυρίδων Σαμάρας)(1861 - 1917年)ギリシャ王国コルフ島生まれ、ギリシャ王国アテネ没

は、ジャコモ・プッチーニの作品の先駆けとなった世代の作曲家で、特にオペラで高く評価されているギリシャの 作曲家です。 

彼の作品は生前、世界中で賞賛されていて、イオニア楽派で最も重要な作曲家です。

母親はコンスタンティノープル出身、父親は​​シアティスタ出身の外交官スカルラトス・サマラス。

1875年から1882年までアテネ音楽院でまなびます。
最初のオペラ 『トルピッラエ』(現在は紛失)は1879年にアテネで初演されました。

1882年にパリ音楽院で学ぶためパリに行き、ジュール・マスネ(1842-1912年)

のお気に入りになりました。
パリで3年間作曲家として成功を収め、1885年にイタリアに移住しました。

サマラスはすぐにイタリアのオペラ界で重要な人物となりました。

彼のオペラ「奇跡の花」
 

は 1886 年にミラノで初演され、1888 年にはローマのコスタンツィ劇場で上演されました。
同年オペラ「メジェ」が上演され成功を収めました。

彼はミラノの出版業者エドアルド・ソンゾーニョ(1836-1920年)

と親しくなり、1894年9月22日のソンゾーニョの劇場開館にサマラスの『殉教者』を上演します。

彼のオペラはパリ、モンテカルロ、ケルン、ベルリン、ウィーン、マルタ、ブカレスト、コンスタンティノープル、スミルナ、アレクサンドリア、カイロ、ギリシャ、イタリアで上演されました。

彼は15の舞台作品を書きました。
中でも1908年オペラ「Rhea」の序曲では、オリンピック賛歌の冒頭のファンファーレが使用されました。

彼は1911年にギリシャに戻り、アテネ音楽院 の院長に任命されるだろうと信じていました。

「国民楽派」の作曲家たちは、サマラスのようなイオニア楽派の作曲家はイタリアの影響を強く受けすぎていると考えていて、論争に巻き込まれ職を与えられませんでした。

彼は、いつもの創作活動を続けるよりも、さまざまな聴衆を満足させることを目的としたオペレッタを作曲して生計を立てた。彼の最後のオペラ『ティグラ』は、この頃に着手され、彼の最高の音楽のいくつかを含んでいましたが、完成することはありませんでした。

サマラスは、デミトリウス・ヴィケラス(ギリシャの実業家、作家。 1894年から1896年まで国際オリンピック委員会(IOC)の共同創設者であり初代会長)


によってオリンピック国歌の作曲者に選ばれました。

オリンピック賛歌の初めのページ
歌詞はコスティス・パラマス(1859-1943年ギリシャの詩人)

が書きました。
国歌は、最初の近代オリンピックである1896年夏季オリンピックの開会式で初めて演奏されました。
しかし、その後50年間ほとんど忘れ去られていました。

1958年、東京で開催された国際オリンピック委員会総会で、この歌は再び演奏されました。

デンマークのアクセル王子の要請により、 1958年に国際オリンピック委員会によってオリンピック運動の公式国歌と宣言され、 1960年の冬季オリンピック以降、すべての開会式で演奏されています。

サマラスは55歳でアテネで亡くなり、1896年のオリンピックが開催されたスタジアム近くの国立墓地に埋葬されています。

日本語訳の歌詞があるのですが、古色蒼然としていて意味が、よくわからない(おそらく1859年から変えていない。)のでGoogle翻訳を載せてみました。

オリンピック賛歌
オリンピックの聖火は不滅
誰の灯台が私たちの道を照らすのか
希望の炎で私たちの心を照らしてください
この記念すべき日に
今、私たちは世界を渡っています
昔のゲームを共有する
あらゆる国の旗を
兄弟愛が広がる
それぞれの国の声を力強く歌おう
調和して立ち上がる
勇敢なオリンピック選手たちに栄光あれ
勝利の響きとともに
オリンピックの光は永遠に燃え続ける
海と山と平原を越えて
団結し、刺激し、名誉をもたらす
オリンピックを




とりとめのない話しをしてラジオに出ました

2024-10-08 21:17:00 | ロマン派
先週の月曜日の朝、Radiotalk「トクトクトまたとーク!つなげるラジオ」紙本桜士さんの番組の収録をしました。
と言っても家にいてスマホの前に、座っているだけ。

LINEで紙本さんから送られてきたURLをクリックするとトークルームに入室。
収録が始まります。

最近は視聴者1万人超えの人気だそうです。
「そんな番組に私が出てもいいの?」と言うと、「応援したいから。」と紙本さん。感謝です。

今回は2本一度に取りました。
一本はメンデルスゾーンの「ヴェネツィアのゴンドラの唄」をギター本庄定雄さんと

サン=サーンスの「見えない笛」をギター川原久美子さんとそれぞれ久米素子のフルートで流しました。

あちこちお話しが飛ぶと記憶が怪しくいい加減なことを言ってしまうので、「テーマを絞ってお願いします。」
「とりあえずメンデルスゾーンとサン=サーンスで」と言って了解してもらったのに…。

ベートーヴェンの話になったり、春日大社の若宮御祭の話しになったり、四天王寺さんの聖徳太子の笛の話しになったり…。

テーマを絞ると決めてこれ!
本当にやばいです。
無駄におしゃべりな自分に呆れます。

昨日オープンになりました。

また、聞いてくださいね。というのは恐ろしい気がしますが〜。
せっかくなので紙本さんに悪いし…。
ご紹介します。

Radiotalkのアプリとチャンネル登録をすると紙本さん、元気が出ると思います。
12分番組ー2倍速6分でも聴けます。

サン=サーンスの「見えない笛」
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる Radio https://radiotalk.jp/talk/1229795
メンデルスゾーンの「ゴンドラの唄」

#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる Radio https://radiotalk.jp/talk/1230206
『おしゃべり女』(独: Die Schwätzerin)作品144は、
ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

が作曲したポルカ・マズルカ(4分の3拍子を基本とする特徴的なリズムを持つ、ポーランドの民族舞踊、舞曲、リズム)です。
『おしゃべりや』『ゴシップ』と訳されることもあります。

ヨーゼフのポルカ・シュネル『おしゃべりなかわいい口』、兄ヨハン・シュトラウス2世の『トリッチ・トラッチ・ポルカ』などと同様に、女性のおしゃべりをテーマとした作品です。

真偽は不明ですが、当時シュトラウス楽団に「おしゃべり女」とあだ名されたメンバーがいたそうです。

1863年6月7日、フォルクスガルテン

において初演されました。
6月17日にシュペルル舞踏場

で演奏された際に観客の拍手喝采を浴び、その6日後、再びフォルクスガルテンで演奏された際にも好評を博しました。





ベートーヴェンの戦略?!

2024-10-07 20:59:00 | 古典
日曜日、朝レッスンした後、プロージットオーケストラの練習で東成区民ホールへ。
摂南大学ラッピング京阪電車
今回は、合唱団の他に、4人の声楽ソリスト、ゲストコンマスの友永健二さんも入っての練習でした。
ミサ・ソレムニスはすべて合唱が入っていすが、第九は4楽章のみ。

私はミサ・ソレムニスは降り番なので、後半参加。

合唱、ソリストが入るとまた壮大な感じで熱気が高まってきました。
ソリストかっこいい!

代振りの槙野先生「ベートーヴェンは平和を祈って書いています。戦争なんかやめて花を咲かそうや!って知らんけど。ここでは花を咲かせてください。」

第九 四楽章の後は歌の人を帰して、残りの楽章をやりました。

あれこれ課題満載…私も大変💦
いよいよ追い込み!頑張ります。

プロージット室内管弦楽団10月20日フェニーチェ堺


ピアノ、ヴァイオリン、チェロと管弦楽のための協奏曲 ハ長調(Konzert für Klavier, Violine, Violoncello und Orchester C-dur )作品56は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1803年のベートーヴェン
が1803年から1804年にかけて作曲した楽曲。通常は三重協奏曲と略して呼ばれています。

ヴァイオリンソナタ第9番『クロイツェル』、ピアノソナタ第21番『ワルトシュタイン』、ピアノソナタ第23番『熱情』、交響曲第3番『英雄』などが書かれた時期の作品です。

当時チェロを伴った協奏曲はほとんどなく、ベートーヴェンの師匠であるハイドンが残した第1番、第2番のチェロ協奏曲などが見られるくらいでした。ベートーヴェン自身もチェロ単独で独奏楽器とした協奏曲を残していません。
ベートーヴェンが残した唯一の、チェロを伴った協奏曲です。 

このような特異な協奏曲を作曲した経緯については不明ですが、ピアノのパートが演出面では効果的でありながら技術面では比較的易しく書かれています。

一方で、チェロにとっては重音奏法や急速な分散和音や音階などを要求される難曲です。

ピアノのパートが易しく書かれている理由は、弟子のアントン・シンドラー 
が、ベートーヴェンのパトロンであったルドルフ大公

による演奏を想定してのことでした。
ベートーヴェンの指導の下で熟練したピアニスト兼作曲家となった大公は、当時10代半ばだったため、ベートーヴェンの戦略により成熟した熟練したソリスト2人がバックアップし、派手で比較的簡単なピアノパートを作ったと言うのです。

しかし、シンドラーは多くの捏造で知られており、この主張の信憑性も低いです。  

出版は1807年。
1808年、初演は復活祭前にライプツィヒで行われ、同年5月にはウィーン初演、夏のアウガルテン宮殿での

演奏会で初演されました。

初演のヴァイオリニストはカール・アウグスト・サイドラー、チェロ奏者はニコラウス・クラフト

で、彼は「卓越した技術」と「澄んだ豊かな音色」で知られていました。 

独奏楽器群がピアノ三重奏的な役割を果たしているので、通常の協奏曲のようなカデンツァはありません