アサガオ(朝顔、牽牛花、学名: Ipomoea nil)は、ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物。
「三十六花撰」「東都入谷朝顔」 「廿八」1866年。歌川広重画
原産地はヒマラヤ地方、熱帯アジア、あるいは熱帯アメリカなど諸説あります。
日本で最も発達した園芸植物で、古典園芸植物のひとつです。
別名でコアサガオともよばれます。中国語で牽牛(別名:牽牛花)と書きます。
「朝顔」と呼ばれるようになったのは平安時代からで、日本への伝来は、奈良時代末期(平安時代とする説もあります。万葉集で「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指している説もあります。)に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされています。
『和名抄』(929 - 930年)にアサガオ、『古今和歌集』(913年)にケニゴシ(牽牛子)の名があります。
世界的に見ても、これほど形態が多種多様に変化した園芸植物は他にないそうです。
変異の著しいものには種子を作ることができないものもある。
この変異が著しいために、種子ができない、または非常に結実しにくいものは「出物(でもの)」と呼ばれています。
江戸時代、不稔である出物の系統を維持するために、変化が発現しなかった株(「親木(おやぎ)」と呼ばれる)により遺伝的に伝えるしかないので、たくさんの種をまき、小苗の内に葉の特徴から変化を有している株は出物として鑑賞用に育成し、残りの株の中から出物の変異を隠し持っている親木を鑑別し、こちらは出物の採種用として育成しました。
尾形光琳(1658-1716年)
そのため江戸時代の人々は経験的にメンデルの法則を知っていたとも言われています。
江戸時代の2度の朝顔ブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版されました。
この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた。これらの朝顔を現代では「変化朝顔」と呼ばれています。
変化朝顔は江戸、上方を問わず大きく流行し、特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、非常に高値で取り引きされました。
「大輪朝顔」も「正木(まさき)」と呼ばれる結実する変化朝顔の一種です。
江戸時代の変化朝顔ブームは、文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)にあり、幕末には約1200系統が作られました。
ブームの発端は、文化3年(1806年)の江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人だった成田屋留次郎が、いろいろな珍しい朝顔を咲かせたことによります。
岳亭春信(生没年不詳) 1818年
留次郎は、江戸・京都・大阪の変化朝顔をまとめた『三都一朝』
『三都一朝』収載「青南天變紫柿咲分牡丹度咲」成田屋留次郎1854年
を出版し、品評会である「花合わせ会」を各地で催すなど、朝顔ブームの仕掛人でした。
『三都一朝』収載朝顔2種』成田屋留次郎1854年
1828年葛飾北斎(1760-1849年)
変化朝顔の栽培方法を記した『牽牛花水鏡』や、変化朝顔の図諧『あさがお叢』『朝顔三十六花撰』なども出版されました。
葛飾北斎。1830年
その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用して朝顔栽培をするようにもなりました
上記とは別に、熊本藩では武士たちによる園芸が盛んで、朝顔も花菖蒲や菊、芍薬、椿、山茶花などと共に愛好されており、盛んに育種されて独自の系統が生まれました。
この花は変化朝顔とは違い、本来の朝顔の花型を保ち、大輪であり、「肥後朝顔」と呼ばれています。
これが後世の大輪朝顔の祖先の一つになった。これら熊本の六種類の園芸植物は現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられています。
戦後は大輪朝顔が主流を占めるようになり、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れました。
高度な栽培技術が確立されたことによります。
月岡芳年「当勢勇の朝顔」1860年
朝顔は別名「牽牛」といい、これは中華文化圏での名称でもあるが、朝顔の種が薬として非常に高価で珍重された事から、贈答された者は牛を引いて御礼をしたという謂れである。平安時代初期につくられらたわが国最初の漢和辞典に「牽牛子」と記載されていることから、朝顔が渡来したのはこの頃であったと推定されています。
朝顔の鉢を摘む美人歌川国保(1794-1832)
その後、江戸時代には七夕の頃に咲く事と、牽牛にちなみ朝顔の花を「牽牛花」と以前から呼んでいたことから、織姫を指し、転じて朝顔の花を「朝顔姫」と呼ぶようになり、花が咲いた朝顔は「彦星」と「織姫星」が年に一度出会えた事の具現化として縁起の良いものとされました。
これらの事により、夏の風物詩としてそのさわやかな花色が広く好まれ、鉢植えの朝顔が牛が牽く荷車に積載されて売り歩かれるようになりました。
また珍奇な品種は愛好家たちが門外不出として秘蔵していましたが、普通の品種は植木市や天秤棒を担いだ朝顔売りから購入することができました。
朝顔はさすがにクラッシック音楽の中にはなかったので、
「新たにバラの花が」
nuper rosarum flores
ギヨーム・デュ・フェイ(1397 - 1474年)
1451年以前のミニチュア画で、オルガンの横に立つデュ・フェイ(左)と小さなハープを持ったジル・バンショワ(右)
Nuper rosarum flores(「最近バラが咲いた」)は、フィリッポ・ブルネレスキの指示で建設されたドーム屋根の完成を記念して、1436年3月25日のフィレンツェ大聖堂の奉献式のためにギヨーム・デュファイが作曲したモテットです。
厳密に言えば、ドーム屋根自体は5ヶ月後まで完成せず、その時、フィレンツェの新任大司教ヴィテッレスキ枢機卿に代わって、フィエーゾレ司教ベノッツォ・フェデリギによって別途奉献式が行われました。
曲の題名は、大聖堂の名前であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖マリア)に由来しています。
1447年のルスティキ写本に描かれた大聖堂
冒頭の行は、教皇エウゲニウス4世
ジャン・フーケのオリジナルを基に、クリストファーノ・デル・アルティッシモが描いた肖像画
が(奉献の1週間前に)主祭壇を飾るために金のバラを贈ったことから来ています。
この作品は「西洋音楽文化史における象徴として扱われるようになりました」。
Nuper rosarum flores(「最近バラが咲いた」)
先日、厳しい冬にもかかわらず、教皇からバラが贈られました。
それは、壮大なデザインの神殿が、聖なる儀式を通して忠実に奉納された
天上の聖母マリア様への贈り物です。
このバラが永遠の装飾となりますように。
今日、イエス・キリストの代理聖職者であり、ペトロの後継者であるエウゲニウスが、 この同じ広大な聖なる神殿を 自らの手と聖水によって
奉献する栄誉に浴しています。
それゆえ、あなたの御子、
聖母マリア、処女の飾りである慈悲深い母と娘 よ、
あなたの町フィレンツェの人々は 、清らかな心と体であなたに懇願する者が、 あなたの祈り、あなたの苦悩、そして功績を通して、 すべての肉であるあなたから生まれた 主から、 恵みの恩恵と罪の赦しを受けるにふさわしい者とされますようにと、心から祈ります。
アーメン。
この場所は畏敬の念を抱かせる